
次の2つの文の「には」の働きは別なのでしょうか。
理由はハッキリしませんが、2)には少しだけ異和感があります。
1)庭には二羽鶏がいる
2)私には弟がいる
ハを削除すると、かなり違いが出てきます。
3)庭に二羽鶏がいる
4)私に弟がいる
3)は1)とほぼ同義に感じます。4)は2)と相当違うような。
ちなみに、「私に弟がいることを友人には隠していた」だとなぜか不自然ではなくなります。
さらに少しかえます。
5)庭は二羽鶏がいる
6)私は弟がいる
5)だとほとんど×ではないかと。6)だとやや不自然さが残りますが「私に弟がいる」よりはマシのような。
A 回答 (47件中11~20件)
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No.37
- 回答日時:
間違えたと思ったのは、単なる思い違いでした。
ちゃんと辞書を引けば良かったようです。「私は弟がいる」で○になったり×になったりするのは、単に前の文章の勢いを引きずっているという可能性もあります。とりあえずは深く考えない方針で。
ルールを書いたのですが、他に例外がないか探している内におかしな事に陥ってしまっています。
きっかけは、「お寺は鐘がある」という文を考えたことです。「シカは角がある」と同じ用例だと思います。これを変形して「庭は石灯籠がある」とするとこれはだいぶOKです。その後で「庭は花壇がある」を読み直してみるとだいぶ違和感がなくなっています。
更に続けて「シカは耳がある」も×と思っていたのが覆っているし、「家は屋根がある」も良さそう。何でもありの状態になっています。
今までは、「は」はないという前提で話が進んできていたようだし、例文が2つとも×だと思っていたので、原則は「は」を×にしてきました。今の頭の回路は、原則は○で「庭は鶏がいる」が例外、それも屋根の猫の影響かだいぶ揺らいでいます。原則はどちらなのでしょう
何があったのかはっきりしません。ルールが覆っている以上、先の話は無しになります。なんとかリセットしたいのですが、どうしたらいいのか。とりあえずはダメな例を探すことにします。
No.36
- 回答日時:
しょうもない間違いを書いてしまっています。
訂正します。新たなルールも見つかったので、全文書き換えたいと思います。新たなルールも見つかるかも知れませんので、追加しやすいようにしています。追加したところの文例もあげておきます。ルール
原則:「は」は×である
例外:「は」は○になる
(1)名前である場合(人名、地名、その他)
「東京タワーは展望室がある」
(2)代名詞である
(3)明らかに比較しているとわかる場合
「シカは角がある」「鉛筆は芯がある」
補足です
「トキ」で不自然さがないのは(1)(3)の条件が重なったからでは
「SP」も(3)の例に入りますが、×にしてしまったのはSPに重点を置きすぎたためか?
いろいろな情景をあげてOKの例が出されていました。これも(3)に該当するのでは。
屋根に猫がいて、木に烏が止まっていて..という情景を想像すると「庭は..」不自然ではなくなります。
(3)の追加にともなって新たな展開を思いついているのですが、ここまでの内容が検証できてからにしたいと思います。ただ、「屋根の猫」が頭の中を走り回っていて、何が○で何が×なのかわからなくなってきています。
「に」等をつける部分をなんと呼んでいいのか困っています。何といえばいいのでしょうか。
>ルール
>原則:「は」は×である
>例外:「は」は○になる
>(1)名前である場合(人名、地名、その他)
>「東京タワーは展望室がある」
>(2)代名詞である
>(3)明らかに比較しているとわかる場合
>「シカは角がある」「鉛筆は芯がある」
えーと。
まず、〈原則:「は」は×である〉の意味が……。
これは
名詞1ハ名詞2ガある
の場合、名詞1が普通名詞の場合は×になることが多い、という意味でしょうか。
例外は
(1)固有名詞(人名、地名、その他)
東京タワーは展望室がある。
(2)代名詞
彼は夢ガある。
(3)明らかに比較しているとわかる場合
シカは角がある。(猫はツノがない)
先のSPの例は「ある」ではなく「いる」なので、判定がむずかしくなるような。
少し話を整理しませんか。
No.35
- 回答日時:
補足とか意見とか書きかけていたのですが、水掛け論になりそうなのでやめることにしました。
主題化→主題提示の部分は無視してもらって結構です。流れで書いただけですから。
私の頭の中の回路がどうなっているか、だいたい整理できたみたいなので書いてみます。私の回路ですから、ちまたの文法論は通用しません。了解ください。
最初の言葉に注目します。「に」「には」「は」が続けてあるときにどうかというのを○×で示します。原則です。何%かのずれはあります。
(1)固有名詞の場合
3つとも○です
(2)代名詞の場合
基本的に3つとも○です。
「私は弟がいる」の組み合わせ場合のみ、「私」が実体(うまく表現できない)から離れる度合いによって×または△になる。
「浅田真央は弟がいる」といった後に「私は..」というと○かなと思うけれど、
「家族は弟がいる」といった後に「私は..」というとほとんどないかな、になります。(3)に近づくのか
(3)その他の名詞の場合
「は」のみ×です。全ての場合を検証できているわけではありません。
以上です。
庭先生のリンクありがとうございました。たぶんこの中だと思います。ゆっくり勉強もさせてもらいます。
No.34
- 回答日時:
補足コメントについて。
>>「庭に鶏がいる」(②存在の場所 物理的・抽象的)が原形で、それに主題化(「取り立て」でも「強調」でもいい)の「ハ」がついたものと考えるのが妥当では。
言語は話者の認識の表現で、勝手に<「ハ」がついた>りはしません。この発想が根本的な誤りです。
>>考え方をかえるために、「ある」に持ち込む。
これも同じで、形式的、機械的に「持ち込む。 」のはペンキ屋のやることで、文ではなく、単なる絵になってしまいます。
>>「3.庭に花壇がある」が原形で、「ハ」がついて「庭には花壇がある」。
これも同じで、<「3.庭に花壇がある」が原形で、「ハ」がついて「庭には花壇がある」。>は、単なる形式の比較で、原型に「ハ」がついたのではなく、話者による対象の捉え方が異なるため表現が異なるものです。
>>「ある」がついて所有を表わす。
「ある」は存在、または肯定判断を表わすもので、所有を表わすのは、格助詞「の」や動詞「持つ」です。
こうした、形式主義、機械論的な言語実体観の発想を克服しないと進歩はありません。■
>勝手に<「ハ」がついた>りはしません
どうしてもそう考えたいのなら、<「ハ」をつけた>でいっこうに構いません。
異次元のSF文法に基づくコメントは、お控えください。迷惑です。
下記で存分の披瀝してください。
【「次の2つの文の「には」の働きは別なのでしょうか。/1)庭には二羽鶏がいる 2)私には弟がいる」:Ⅱ】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11456532.html
No.33
- 回答日時:
No.32 の回答が素朴な疑問を提示されているので少し説明させていただきます。
>>主題提示の意味が完全に理解できていません。
「浅田真央に夢がある」「浅田真央には夢がある」「浅田真央は夢がある」を並べてみて思ったことです。「に」に「ハ」がついて「には」、更に「ハ」で強調すると「ニ」がきえて「は」だけになったという考えはなしですか。主題化→主題提示
同じようなことが「で」でも。
主題提示などという機能は言葉の本質ではありません。
「ニ」が消えて「は」だけになったというのは単に形式を捉えただけです。
言語は話者の認識の表現で「に」が消えて「は」だけになるのは、話者による対象の捉え方が異なり、その結果として表現の形式が変化したものです。
格助詞「に」は対象の空間的・時間的な位置付けの認識を表わし、副助詞「は」は特殊性の認識を表します。
主題化の機能というのは、普遍性の認識を表わす係助詞の「は」の機能で、
吾輩【は】猫である。
我【は】海の子。
のように使用します。
「浅田真央に夢がある」
は、「浅田真央」を空間的・時間的に位置付け、「浅田真央に聞いてみよう。」のように、動詞「聞く」の静的な目標としての関係表現としては適切ですが、位置付けられた対象が人の場合、そこに物が存在するというのは意味を為さず、×になります。
「浅田真央には夢がある」
この「は」は、「浅田真央に」という認識の特殊性の認識を表わし、他の人【に】はないが、「浅田真央」という人【に】は夢があるという比較・対照の表現なので適切な意味を表わし、○になります。
「浅田真央は夢がある」
も同じで、他の人との比較・対照としての表現なので適切な意味を表わし、○になります。
このように、「は」は特殊性の認識を表わす副助詞なので、この説明に主題化の機能を持ち出しても解明はできません。
格助詞「で」は手段・方法の認識を表わします。
また、「で」には判断辞「だ」の連用形もあり、形式主義的に形だけではその意義を判断できません。
言語は話者の認識の表現であり、その文は単に単語を並べただけの物ではないので、形式を問題にするだけでは何の解明にもならず、話者の認識との関係を明らかにしなければ意味を捉えることができません。■
No.32
- 回答日時:
前回「私に弟がいる」「庭に弟がいる」の「いる」の意味が違っているのではと書きました。
「私に..」の方が何となく守備範囲が広いような印象を受けての発言です。従って「ある」「いる」とは全く次元の違う内容を言っています。「所有された状態で存在する」ほど限定された使い方ではないような気もしています。遠く離れてなかなかあうことのできない弟だって「弟」に含まれています。これでは「所有」とはいえないのでは。にたようなことが書かれていたような。
「私」も具体的には何なんだろうと考えてみました。たとえば「家族」とか。入れて、読み直してみたのですが、変化なし。別の言葉も思い浮かばないので、こちら方面のアプローチは中断中です。
宿題です。
「鶏」を「花壇」に変えたところで、文の○×には変化なしです。
「夢がある」は、「私は..」でまだ違和感が残るものの、「弟」よりだいぶましです。
ちょっと変えて「浅田真央は夢がある」にすると完全に○になりました。
主題提示の意味が完全に理解できていません。
「浅田真央に夢がある」「浅田真央には夢がある」「浅田真央は夢がある」を並べてみて思ったことです。「に」に「ハ」がついて「には」、更に「ハ」で強調すると「ニ」がきえて「は」だけになったという考えはなしですか。主題化→主題提示
同じようなことが「で」でも。
「新潟で雪が降る」「新潟では雪が降る」「新潟は雪が降る」ちょっと違うか。「雪になる」なら普通。「新潟に..」からの派生か。
少し変えます
「新潟にトキがいる」「新潟にはトキがいる」「新潟はトキがいる」3つとも○です。
それでは「庭」との違いはなにか。?です。
「トキ」の用例は「浅田真央」に近いかも
こんな事をぐだぐだ考えていました。どこかににた用例が書かれていたような。見つけられていません。庭先生の所かな?他にも何か考えていたような..思い出せない。
A
2.私には夢がある
4.私に夢がある
6.私は夢がある
B
「浅田真央に夢がある」
「浅田真央には夢がある」
「浅田真央は夢がある」
C
「新潟にトキがいる」
「新潟にはトキがいる」
「新潟はトキがいる」
当方にはAとBは同様に感じます。
ただ、Cだとずっと自然になる気がするのは否定できません。
理由は……わかりません。
>庭先生の所かな?
昔はあったのかもしれません。引っ越しが途中のままなので、わかりません。
【niwa saburooの日本語文法概説】
https://niwasaburoo.amebaownd.com
ところで、No.33で長文の説明が入りましたが、多少なりとも理解できるなら返信をお願いします。当方はまったく理解できないので、スルーしています。
No.31
- 回答日時:
#28です。
>>〈5.庭は花壇がある〉はナシ。
は言いすぎですね。
文脈が限定され、異和感が生じることが多い、くらいですか。
:
そう思います。
>>「ニ」の本質的意義は「着点」と考えます。
それはhakobuluさんの個人的な主張ですよね。
:
杉村泰という方が、
※一般に格助詞「に」には多くの意味役割が付与されている。しかし、これら
は全て〈着点〉という一つのプロトタイプ(基本形:hakobulu注)的意味に還元することができる。※
と言っているようです。
(40ページ)
https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/sosho/1/sug …
(肩書が明記されていないので検索したところ、)たぶん、名古屋大学の教授だと思うのですが、肩書はさておき同感です。
たとえばですが、
・学校に行く。
・学校へ行く。
はどちらも学校が目的地としての場所であることを表わしているわけですが、こうした場合の違いを説明するときに本質的な意義が役立つように思います。
・前者は着点に重点を置いている。
・後者は方向に重点を置いている。
でしっくりくるはずなんですけどね。
「浅田真央<に>トリプル・アクセルが跳べて、君に跳べないはずはない。」
「浅田真央<は>トリプル・アクセルが跳べて、君に跳べないはずはない。」
などの違いも同様。
・前者は、トリプル・アクセルが跳べる可能性が、浅田真央という場所に(着地する形で)存在しているのに~、
・後者は、浅田真央という人間はトリプル・アクセルが跳べる可能性を持っているのに~、
といったニュアンスの違い。
前者について補足するなら、「トリプル・アクセルが跳べる可能性」について、その在り処を探れば、浅田真央という場所に(着地する形で)存在しているのに~
といった解釈です。
むろん、
・君に跳べないはずはない。
・君が跳べないはずはない。
の違いについても同様のことが言えると思います。
・前者⇒「トリプル・アクセルが跳べる可能性」について、その在り処を探れば、君という場所にも(着地する形で)存在しているのに~
というニュアンス。
・後者には【その在り処を探れば~~~(着地する形で)存在している】というニュアンスが無い点で、言われたほうの印象はだいぶ異なってくるはず。
「君」を動作主体ではなく、着点として捉えているとは、たとえば、こういったことです。
大上段に振りかざして、それ以外は間違いであると主張しているわけではありません。
本質的意義を把握することの意義については、こういうことではないかと思う、ということを述べさせていただきました。
> 当方はそうは考えません。
この話は平行線になるので、やめましょう。
:
了解しました。
とりあえず今のところは、見解の相違ということになりそうですが、お互いの言いたい内容が通じ合った上で、その考え方には同意できない、という結論に至るのは誠に理想的な大団円(のひとつ)と言えます。
何を言っているかわからない、というのが一番困る。(笑)
No.30
- 回答日時:
私も所有(持ち主)という意識は必要だと思います。
「に」という助詞にそういう意味がある訳でなく、「私に」「庭に」という形で使われる時、所有の意識が生まれます。「私に」に続くのは「ある」「いる」「できる」「分かる」「言える」(可能動詞)などは、一般に言われる「状態動詞」(それに類似した「状態を表す表現」に限ります。)であり、「動作動詞」ではありません。(「私に走る」は×)そう考えれば「所有」という概念に近いのではありませんか。アスナロウさんに媚びるわけではなく、「に」がいろいろな意味を表すのではなく、「私に」「庭に」の形になって、持ち主だったり、場所だったりするわけです。「生成文法」では「ニ格主語」(「私が」や「庭が」でなく、「私に」「庭に」)と言うのを考えるそうですが、さすがにそれは受け入れ難いのです。
「浅田真央<に>トリプル・アクセルが跳べるか」という過去質問を思い起こします。
さて、「私は」という、私を主題化したものは何にでつながりますから、「に」などとは無関係に何を言ってもかまいません。ここで同列に扱うべきではありません。「庭は」には「私」という人間とはちがい、ある種の目的があって使われるものですから、それなりに限定があります。鶏の飼い場所ではなく、観賞用が普通ですから、庭の持つ属性に関することが続くはずです。「綺麗だ」「美しい」「寂しい」など。「歌壇がある」は「庭は」でなく、「庭に(は)」に続くはずです。
うーん。
>「に」という助詞にそういう意味がある訳でなく
それは当然でしょう。
「(場所)に」の形で「場所」を表わすのでしょう。
「(具体的な時刻)に」の形で「時刻」を表わすのでしょう。
同様に、
「(○○)に」の形で「△△」を表わすのでしょう。
ただし、「(場所)に」の形で「場所」を表わすことを、辞書も文法書も一般人も〈「に」は「場所」を表わす〉と言っているはずです。同様にいろいろなものを表わします。
それを否定して、「空間的な位置付けの認識を表わし」とか書くから、話が通じなくなっているだけだと思います。
そんなに違うことを主張しているとは思えないのに、それでいつもグルグル回ってバターになってグタグタです。
しかも、それを「拡張」して「時間」も表わすとか言われても、「はぁ、そうですか」としか言えません。
根本的な考え方が異次元なんですから。
>〈「に」がいろいろな意味を表すのではなく、「私に」「庭に」の形になって、持ち主だったり、場所だったりするわけ〉
そのとおりでしょう。すでに書いたように、それを〈「に」は「場所」を表わす〉というのでは。当然のことながら、ほかにもいろいろなものを表わします。「本質的に……」と言ってごく限られた意味だけだけを出したところで、転じて転じて……いろいろな例外が出てきます。
>「浅田真央<に>トリプル・アクセルが跳べるか」
それは、②存在の場所 物理的・抽象的 ※「デ」に近い(ことが多い) の一種で、リンク先の〈2〉にひいた〈c. 姉にバイオリンが弾ける。〈能力の主体〉〉でよいのでは。
当方なりにかなり話がまとまりつつあるのですが、異次元のSF文法が壊れたテープレコーダー状態で念仏を繰り返すので、とにかく邪魔です。あれに関わっていると、まったく話が進みません。
〈ようやく、当方の指摘した「いる」と「ある」にたどり着きましたね。〉
って、さすがSF文法の使い手だけあって、予言もできるんですね。同情します。
まったく的外れだと思います。
>「花壇がある」は「庭は」でなく、「庭に(は)」に続くはずです。
いやまあ。かなり強引な文脈を用意すれば、「庭は花壇がある」も言えなくはないでしょう。
No.29
- 回答日時:
#28です。
中盤あたりに訂正があります。
申しわけありません。
×
6.私は夢がある。
「私について言うならば、夢がある(という状態だ)」
とは、やはり少し異なる。
〇
6.私は夢がある。
「私について言うならば、夢がある(という状態だ)」
というニュアンスであり、
4.私に夢がある。
とは、やはり異なる。
No.28
- 回答日時:
補足拝見。
◆【1】
まず、今回、《所有》という概念に触れておられるのは重要な点だと思います。
> これも述語が「いる」だから「私」は「場所」と考えたいんだけど、そう考えると、1)~6)を並べたときの差異が説明できなくなる。
:
ここが肝だと思うので、初心に戻り、当初のご質問文をなぞる形で再検証してみます。
1)庭には二羽鶏がいる。⇒庭には二羽鶏が [存在する]。
という意味ですが、
2)私には弟がいる。⇒私には弟という続柄の人物が [ 所有された状態で存在する]。
という意味(明鏡国語辞典の語釈参照)であり、「いる」の用法が若干異なると言えそうです。
この場合、弟は一個の人間としてではなく、あくまで弟という続柄を持つ存在として認識されていることになります。
2-1)庭には弟がいる。
という用法とは異なる、ということ。(これは1)と同じ用法)
この1)と2)の「いる」が同じ用法であるという前提で、3)以下を比較すると違和感が生じてしまう、ということではないかと思います。
3)庭に二羽鶏がいる。⇒庭に二羽鶏が存在する。
これはシチュエーションが極めて想定されやすい自然な文ですが、
4)私に弟がいる。⇒私に弟が存在する。
の場合は違和感を生じやすいかもしれません。
4)私に弟がいる。⇒私に弟という続柄の人物が [ 所有された状態で ] 存在する。
であれば、若干違和感は薄らぐように思います。むろん、
「私=私という立場=私という場所」という解釈をした上でですが、それにしても、4)が3)より違和感を覚えやすいのはたしかで、それは、
「私に弟が存在する」と発言するようなシチュエーションというものが極めて想定しづらいからにすぎないからでしょう。
これは、「弟が存在すること」を唐突に述べる構文になっているためで、「私には弟が存在する」に違和感がないのは、主題提示によって、何について述べるのかが前提されているからです。
5)庭は二羽鶏がいる。
がほとんど非文のように感じられるのは、
『庭は二羽鶏が [存在する]』
という解釈になりがちだからだと思います。
「いる」には、
A.存在する。
B.所有された状態で存在する。
という両方の意味があるわけですが、無意志の鶏に所有という概念は適用しづらく、自ずと「A.存在する。」が適用されやすくなる。
しかし、
「B.所有された状態で存在する」
という解釈を適用して、
『庭は二羽鶏を所有している』という擬人化表現と捉えれば、不自然さは解消されるはず。
(非文でないシチュエーションで擬人化表現が成立する事例は#10で述べているので、あえて繰り返しませんが)
一方、
6)私は弟がいる。
の場合、
「A.存在する」
という解釈なら不自然ですが、「私」が意志を持つ生物であるため、
「B.所有された状態で存在する」
という解釈が5)よりも容易になる、ということかと。
◆【2】
>「庭は花壇がある」は、ちょっと特殊な文脈が必要な気がする。
:
ですね。むろん、
a:この家の主人は、花が大好きで家中花だらけのようだ。
玄関の内外にも鉢植えを置いているし、居間にもむろん大量に飾っている。
台所はドライフラワーを天井から吊っている。
b:庭はどうなってます?
a:庭は花壇がある。
のように、
「庭に関して言うなら、そこは花壇がある」
というシチュエーションは十分あり得ますから、
>一方、「所有」のイメージに結び付きにくい〈5.庭は花壇がある〉はナシ。
:
と決めつけるのは早計かと。
>一方、「私」のほうは、「私ニ夢がある」が原形で、「ハ」がついて「私には夢がある」。
それとは別に、「私は夢がある」が原形で、それに「ニ」がついたのでは。こうなると「ニ」が不明? ああそうか。別に無理やり「ニ」をつける必要はなく、これで一文。
:
「ニ」の本質的意義は「着点」と考えます。
4.私に夢がある。
「私という場所にピッタリと着く感じで夢がある」
というニュアンス。
「私に策がある」といった表現も合わせて想起していただけば、イメージが湧きやすくなるかもしれません。
6.私は夢がある。
「私について言うならば、夢がある(という状態だ)」
とは、やはり少し異なる。
2.私には夢がある。
「私という場所について言うならば、夢がある(という状態だ)」
という解釈になる、この表現がもっとも自然で受け入れやすいと言えそうです。
>「ハ」は普通の主題で、「ある」がついて所有を表わす。
:
「いる」の場合も所有を表わすことができるわけですが、「ある」という表現は無生物に使うと考えてよいと思います。
「動かないもの」と言うべきだとする見解もあるようですが、それは些細な違いにすぎません。
目くじらを立てるようなことではないです。
植物だって成長して(動いて)いるわけですから、じゃあ、「あそこに松がいる」と言うのか?
ということになってしまう。
厳密に言うなら、「人間の動体視力で判断した場合に動かないもの」とでも規定する必要があるわけですが、そのぐらいの融通は効かせて構わないのでは。
生物であっても無生物と捉えるべきシチュエーションでは「ある」を使う、ということです。
逆に、無生物でも生物と捉えるべきシチュエーションでは「いる」を使う。
ここが要点であり「森」ですから、むやみに「木」を振り回す人に惑わされないようにする必要がありますね。
◆
また横レスになりそうなので軽く触れる程度にとどめておきますが・・。
>「ハ」を付加する場合は、それに対応する認識がまず存在し、これが文法を媒介として「ハ」と表現されるもので、機械的に「ハ」を付加したものは文ではなく、単なる語の羅列に過ぎず、意味を持ちません。
:
こうした意味不明を何度も繰り返すようでは、自分が何を言っているのかご自身でまったくおわかりになっておられないようです。
「私は夢がある」という文はどのようにして生成されたのか?
のように考えてみるとよろしいでしょう。
『「私」を「主題提示」する』という(無意識的な)認識がまず存在するからこそ、それに対応するため、主題提示という文法を媒介して「は」という表現が採用されているのですよ。
『機械的に「ハ」を付加したもの』などとは、とんでもない認識違いです。
私の解説した内容をよく吟味し、ご自身の論理を再構築なさるのが賢明でしょう。
>〈5.庭は花壇がある〉はナシ。
は言いすぎですね。
文脈が限定され、異和感が生じることが多い、くらいですか。
>「ニ」の本質的意義は「着点」と考えます。
それはhakobuluさんの個人的な主張ですよね。
当方はそうは考えません。
この話は平行線になるので、やめましょう。
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コメントありがとうございます。
No.6へのお礼は、他のかたへのお礼を間違って投稿したものです。なぜか時々こういう現象が起きます。
申し訳ございません。
「前問」のリストと辞書の記述です。
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12559141996.html
以下は一部の抜粋(重言)。
「ニ」は〈 時・場所・対象、比較の基準など、格助詞「に」で示されるもの〉『大辞林』でいいだろう。問題は「ハ」。
強める『大辞泉』
特にとりたてる気持ちを表す係助詞『大辞林』
強調または取りたてて示す『日国』
こりゃ……さて、どうしよう(笑)。
「取りたて」は「主題」と言いかえることができるだろう。「強調」のこともあるらしい。おそらく「比較」の場合もある。まぁ、大差はないか。
語釈を見ると、『大辞林』が詳しい。ほかの2冊の語釈のほかに、④⑤がある。
個人的には「念仏コメントには本当に困ったもんだ」のような使い方もあると思う。「ニハ」の前には否定的な「対象」が入る。
【1】
いままでとはかなり違うことを考え始めました。
これは新たに質問したほうがいいですかね。
まだ考えが未整理です。
ツッコミややさしくお願いします。
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12568517384.html
以下は一部の抜粋(重言)。
1)庭には鶏がいる
これはやはり「庭に鶏がいる」(②存在の場所 物理的・抽象的)が原形で、それに主題化(「取り立て」でも「強調」でもいい)の「ハ」がついたものと考えるのが妥当では。
問題は下記。
2)私には弟がいる
これも述語が「いる」だから「私」は「場所」と考えたいんだけど、そう考えると、1)~6)を並べたときの差異が説明できなくなる。
〈2〉で紹介したリンク先の〈1存在の場所・時点〉の小分類〈b. 私に子供がある。〈所有者〉 〉でいいのでは。
以下【2】へ。
【2】
考え方をかえるために、「ある」に持ち込む。
1.庭には花壇がある
2.私には夢がある
3.庭に花壇がある
4.私に夢がある
5.庭は花壇がある
6.私は夢がある
こう並べると、「庭」のほうは、「3.庭に花壇がある」が原形で、「ハ」がついて「庭には花壇がある」。「庭は花壇がある」は、ちょっと特殊な文脈が必要な気がする。
一方、「私」のほうは、「私ニ夢がある」が原形で、「ハ」がついて「私には夢がある」。
それとは別に、「私は夢がある」が原形で、それに「ニ」がついたのでは。こうなると「ニ」が不明? ああそうか。別に無理やり「ニ」をつける必要はなく、これで一文。
「ハ」は普通の主題で、「ある」がついて所有を表わす。
一方、「所有」のイメージに結び付きにくい〈5.庭は花壇がある〉はナシ。
元の文もこれと同じことなのでは。
仕切り直すために、下記の質問をしました。以降は下記でお願いします。
【次の2つの文の「には」の働きは別なのでしょうか。1)庭には二羽鶏がいる 2)私には弟がいる その2】
失礼しました。リンク先が抜けてしまいました。
仕切り直すために、下記の質問をしました。以降は下記でお願いします。
【次の2つの文の「には」の働きは別なのでしょうか。1)庭には二羽鶏がいる 2)私には弟がいる その2】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11497505.html