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自分の死が怖い人と怖くない人の違いとはなんですか?

私は怖くてたまりません。死んだらどうなるのかわからない、「無」かもしれないからです。もしそうだとしたら、寝てる時みたいなのが何十年も何百年も何億年も続き、その間にも世界はまわり、私たちみたいに生活してる人がたくさんいるという事になります。怖すぎませんか?自分がなくなり、家族とも会えなくなるのがとても怖いです。

ですが、死ぬのが怖くない人もいますよね?
私の友達2人に聞いたところ、どちらにも、「無」だとしても怖くないと言われました。ちなみに、片方は老いは恐れていて、もう片方は、親の死は怖いと言っていました。
私も、自分の死だけでも怖くなくなりたいです。

この違いはなんですか?そして、怖くなくなる方法はありますか?
ちなみに来月から大学3年生の20歳です。

A 回答 (12件中1~10件)

怖くない人と、只怖い人も、もっと怖がる人も居ます。

もっと怖がる場合では恐怖症と云う様です。

この恐怖症クラスになると、死を意識する間中怖さが続くようです。この場合をノイローゼと云う様です。

脳の仕組みとか、構造が同じなのに人間の苦しみは千差万別な様相となっています。この違いが何に拠っているのかと、怖くなくなるという意味を訊ねているようですので、答えたいと思います。

人間の苦しみの原因は何かと、仏教では答えがある様です。その出典が何なのかは知らないのですが、その理由を『無明の故』となっているようです。

苦しみの原因は『自分自身の中に在るのですが、その原因が分からない事を無明の故』と表現しているようです。

自分の中に恐怖する原因が存在していますが、分かる人と分からない人が存在しています。分かる人を無明の闇が晴れたと云っても良いようです。

分かる人を自分自身の分かる人つまり自性を徹見出来た=自性を見性した、つまり悟りを開いたと云います。

人間の苦しみは、自分の心同士が矛盾していたり、対立していたり、分裂しているからです。或いは人間の苦しみを悩みと云ったり、疑問と云っても同じようです。その理由は自身の心同士の関係性が同じように関係しているからです。

死を恐怖する事と、自分は何者かとか?、人生とは何ぞや?と疑問に思う事も同じ自身の心の関係性が存在しているからです。

人間の心が二つある事が関係しています。一つは自我意識と云うものです。もう一つは無意識の中に潜んでいる(隠れている)意識です。

そのもう一つの意識とは、人間の命を働かせている意識の事です。云い方を替えるなら『命の働き=仏性=キリスト教では神と云っているものです。』

人間が苦しみとか、悩みとかの無い世界に入る事を天国とか極楽と形容していますが、その理由を書いてみます。天国に一番近い存在を幼子と形容しています。仏教では嬰児です。どちらも人間が成長していない段階を云っています。

その成長という意味は『脳の機能』という意味ですが身体の成長も関係しているのかも知れません。この意味は『心を司っている脳の機能』を意味します。

子供時代では、自分の心はたった一つしかありません。処が思春期頃人生とは何ぞや?と考え始める頃、心が二つに分かれます。一つは自我意識と云う自分の考えをめぐらし始めると云う具合です。

聖書で云う処の、知恵が付くという意味は、脳の機能分化が完成に近くなってくるという意味です。幼子の頭の中は自分が一人しかいない事を意味します。

知恵が付くという意味は、心が二つになって見ている自分と、見られている自分がいる様になると云う意味です。

思春期頃から、自分は何者か?とか、人生とは何ぞや?とか優越感とか劣等感とか、恥ずかしいと云った感情が湧き上がるようになります。

それは、二つになった心が相争うようになった証です。心に矛盾を抱え始めたり、心が仲違いや分裂を始めるようになります。心に危機を感じたりする事もある様です。

思春期頃から、心を病むとか神経症になって悩むようになる事が多くなるようです。

神経症の中で一番の苦しみは。恐怖症になる事かも知れません。高所とか閉所とは違う恐怖症です。それは死に対しての恐怖症と云うものです。

『意識する時には絶えず苦しさとか、恐怖感に包まれるものです。』貴方の言っている恐怖感が最高潮に達した症状と云っても良いものです。

毎日、意識する時には絶えず『死の恐怖感』を感じる症状に悩まされると云ったものです。処がこう云った苦しみの中で過ごす事が、仏教に於いては『悟りに入る一番の近道』と云われているようです。

悟りは、自分の心の矛盾が解消した事を意味します。西田哲学で云う処の『絶対矛盾の自己同一』と同じです。

長くなってしまいましたので、『怖くなくなる方法はありますか?』に付いて書いてみたいと思います。

死は誰にとっても怖いものですが、侍が死地に赴く時『怖くないと云った、根本的な死に対しての教育を学んでいたようです。』

それは『禅』と云われていたものです、釈迦が開発したものの様です。究極の『心の癒しの心理学』と云っても良いものです。

先程の、西田哲学で云う処の『絶対矛盾の自己同一』と同じです。

西田哲学のこの結論は、人間は誰も死にたくないし、死を受容出来ない事を肯定しながらも、人間の心の中には『既に永遠の命が備わっている事』を知っている事の顕れです。

誰の心にも備わっていながら、学ばないと知る事が出来ないとと云われているものが『仏性』です。

この事が心に引っ掛かってしまって、仏門に入るきっかけになった人に道元と云う人が居ます。

人間には(生きているもの全てには備わっている命の働き)=仏性と云うものがあります。

心が苦しくなった場合での根本原因と云っても良いものです。人間の自意識を恐怖させている存在です。

高い処でも狭い処でも、怖いと云う情報と共に、どの位怖いのかを瞬時に教えて呉れている者が、脳内には存在しています。納期が来た時には得体の知れない情報としてや、好きな人の前では心臓を高鳴る様にさせている者が、同じく脳内には存在しています。

この脳内に存在している者が『仏性』ですが、他の言葉で表現するなら『命を働かせている機能です。』

漠然とした不安感で自意識を脅している者です。何処から押し寄せているのか分からない不安感を、感じさせている機能です。

また死を想う時、『私は怖くてたまりません。』と思わせている機能です。

禅で悟りを開く事を、『生死の問題が解決した。』と表現します。この意味は『生と死を同列に見る事が出来るようになった。』という意味です。

生が良いもので死は厭うもの、と考えている間は『死を怖く感じています。』

『生と死を同列に見る事が出来るようになった。』という意味は死を絶対肯定出来た事によって、生と死を厭うとか好むとかと云った差別をする必要が無くなった事を意味します。

人生のストレスが無くなった事を意味します。死でさえも受容出来た事によって、生に対してもストレスが無くなった事を意味します。

仏性は人間に知恵が付いた頃、無意識の奥深くに隠れてしまいます。処が人間の心を複雑にしているようです。恥ずかしいと云う感情を湧き上がらせることを始めとして、見ている私と見られている私と云う風に『脳内に二人の私が派生したからです。』

そうして人生とは何ぞや?と思わせたり、永遠の命を希求させているからです。脳内でこの二つの意識が出会う事を『悟り』という様です。

その出会いで、自分は死にたくないと思っていた者が、仏性との出会いによって、既に自分自身には『永遠の命が備わっていた事を実感します。』

自分が何者かが分かって、自分は何処から来て、又何処に帰って行くのかが分かるからです。

無意識の自分は『永遠からやって来て、又永遠に帰って行く事』が実感出来たからです。

自分が死ぬ事は事実ですが、自分の中に死ぬ事のない者の存在を認める事によって、自身は永遠の命を持っている事実も実感出来たからです。

絶対に相容れない事柄でさえも、自分と同一であった事が分かる体験です。西田幾太郎博士も、鈴木大拙博士と一緒に同郷であったり禅仲間であった事から、二人とも悟りの経験者です。

この事を『絶対矛盾の自己同一』と説明しています。

貴方が死を怖くないようにしたいと思うなら、禅を学んで『もう一人の自分自身と出会う事を学んで下さい。』

鈴木大拙博士の著作集が参考になります。死に対する恐怖症になったために、苦しみの果てに32歳で自分の。無意識の意識と出会う体験をしました。この体験で恐怖症が完治した経験が在ります。
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鬱病になって生きてるのが辛い人は、毎日、死んだら楽になるのに、と思い、実際、自死してしまう人もいます。


あなたは今は生への欲求が強いので死ぬのが怖いでしょうが、将来、鬱病になったら、死にたくなります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そうですよね。人それぞれ違いますよね。

お礼日時:2022/03/12 09:56

死んでからのことは死んでみないと分かりません。


生きてる間は、いつもどう生きるか考えておればいいのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そうですよね。生きる方にもっと目を向けたいと思います。

お礼日時:2022/03/12 10:11

人には、認知症という安全装置が備わっています

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怖いと言う人は「本音」。


怖くないと言う人は「虚勢」。
その違いでしょう。
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死に際、死ぬ寸前は、意識飛ぶから大丈夫。

事件、事故で出血ありなら、失血で意識不明になるし、病気なら、意識混濁する。どちらにしても寸前は意識無いから。
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神経が敏感か鈍感かの


違いだと思うよ
敏感だと人より痛がると思うし
くすぐられると、かなり気持ちわるいと思います
その反面、創造性豊かだと聞きました
感性が強いんだと思います
だから恐怖とか
鈍感な人より感じるんだと思います
それだけ想像力豊かなんですよ
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死ぬのが怖くない人はいません。


死ぬのが怖くないと言っている人は、単なるバカかウソつきです。

多くの人は日常の生活において、死を身近に感じることはほとんどありませんし、普段は深く考えません。
 新型コロナは、多くの人に死を身近なこととして突き付けました。一昨年2020年の4月ごろに若者の自殺者数が低下したのは、普段から死ぬ死ぬと言っていた若者が死ぬことを考える余裕がないほど死を恐れた結果だと思います。
 
また、死は自分の力で防げることもありますが、現実は自分の力ではどうしようもないことが多く、若い時から深くは悩まない方が良いような気がします。

なお、死を恐れないと勘違いしているバカについて、一言。
バカは風邪をひかないのではなく、風邪をひいたことに気づかないのですが、それと同じです。
そういう連中が、現実にその場面に遭遇すると、固まるかパニクって右往左往するかのどちらかです。バカ丸出し。
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若い頃は死について考えるのはいいことです。

死とは生理活動が停止し肉体の各組織が機能しなくなり生命体として終わる。腐っていくだけです。

死がなぜ恐ろしいのか。それは他人の死を見てそれを自分に当てはめ、自分もそうなるのか思うと恐怖が込み上げてきます。

死が恐ろしくない人はいるようです。口に出して言う人もいます。そういう人は少ない。皆恐ろしいと思っています。死を常に恐ろしいと思っている人は少ないでしょう。死を忘れているからです。

我が父親(信心深かった)は死を怖がっていました。子供心になんで怖がるのかと。それは戦争してきて多くの死を見たり、何度も死にそうになったからだと思います。また、死んでも魂があり痛みを感じると思っていたのでしょう。子供みたいと思っていました。

私も死については祖父母の死に遭遇し子供ころから考えてきました。祖父母の死については70年近く経った今もしっかり覚えています。社会に出て多くの死にも遭遇しました。結論は死は誰にでも生きている以上訪れるということです。避けられない逃げられない残酷な宿命が死です。

お釈迦様は言いました。諦めよ。
つまり死は避けられないのだから生を大事にすることです。生きている内が花、一刻一秒を大事に生きましょう。

付け加えれば死を怖がる人は宗教に嵌りやすい。オーム真理教のようなカルトにはくれぐれも騙されないように。そう言えば大学の同学年生にカルトに嵌ってしまったのがいました。カルトはブラックホールみたいなもので抜け出すのは困難です。
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あなた、産まれる前は怖かったですか?


覚えてないでしょう。
死んだ後、無であったらそれもあなたは覚えてないでしょう。

一度お手に取ってみてはどうでしょう?
研究している人もいますし、このテーマは哲学や宗教分野でも当然ながら良く研究されるテーマの一つであります。
「死ぬのが怖い人と怖くない人の違いはなんで」の回答画像3
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