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と思うのですが、いかがですか?

三浦つとむによると、「は」は普遍性、または特殊性の認識を表わし、「が」が表すのは個別性の認識だと言う。

  [ 1-アーc. (海に住んではいるが)鯨は哺乳類だ。](単純な主題提示)
これは三浦つとむの「普遍性」の認識に該当するだろう。

  [ 1-アーa.(新幹線の車窓から眺めて)富士山はいつ見ても美しい。](単純な主題提示)
  [ 1ーイーa.(鳥海山は国定公園だが、)富士山は国立公園だ。](対比)
  [ 1-ウーa. 富士山は日本一の山だ。](同定文)
などは「特殊性」の認識である。

  [ 2-ウーa. 富士山が日本一の山だ。]
これについては「個別性」の認識だと言う。

たしかに、客体はすべて普遍性の側面と特殊性の側面を持っている。シチュエーション次第で変化するのであり、客体それのみを取り上げてどちらと言うことはできない。
  [ 1ーイーa.(鳥海山は国定公園だが、)富士山は国立公園だ。]
の場合も、特殊性であるが普遍性の側面が消滅しているわけではない。
対比して主題提示したいので [ 結果的に ] 特殊性について述べる形になっている。特殊性がクローズアップされているだけである。
「富士山」という客体は、常に普遍性と特殊性を内包しているということだが、そうした普遍性と特殊性の両者を含む「富士山」として立ち上がっているのが、
  [ 2-ウーa. 富士山が日本一の山だ。]
という場合で、これが個別性の認識だ。
なぜ後者の場合だけ《普遍性と特殊性の両者を秘めている「富士山」として立ち上がる》ことができるのかというと、主題提示と主格指定という両者の意義の違いが大きく関係している。
後者の場合、単に主題を提示する、つまり話題を振るのではなく、「日本一の山だ」という述部の主格として「富士山」を明確に指定しなければならない。
普遍性なのか特殊性なのかという詮索が入り込むゆとりは無いのである。
判断文ではなく現象文と言われるのも、このためだ。

たしかに、個別性は普遍性と特殊性の両側面を秘めた状態で認識される。
ただ、これは、あくまで、

[ 2-イーe. 友人が遊びに来た。]
のような中立叙述の場合であり、《A 以外を意識せずに A を主格指定したい場合》だろう。

[ 2ーアーd. (僕ではなく)友人がこのケーキを作った。]
といった総記の場合は、
《A 以外を意識しながら A を主格指定したい場合》である。
この友人に対して、《普遍性と特殊性の両側面》を秘めているという認識が果たして妥当と言えるであろうか。
[ 1ーイーg. (みんなは賛成したが、)僕は反対した。]
と比べてみるとよい。
これは特殊性の認識だ。
《A 以外を意識しながら A を主題提示したい場合》である。

三浦は、
[ 1ーイーg. (みんなは賛成したが、)僕は反対した。]
は普遍性ではなく特殊性の認識だが、
[ 2ーアーd. (僕ではなく、)友人がこのケーキを作った。]
は《普遍性と特殊性の両側面》を秘めている個別性の認識だ、と三浦は言っていることになるが、これはさすがに無理筋だろう。

普遍性の認識は
《A 以外を意識せずに A を主題提示したい場合》
であり単純な主題提示で表現することができる。
  [ 1-アーc. (海に住んではいるが)鯨は哺乳類だ。]
下記のように、普遍性と言うと誤解を招きやすく一般性と呼ぶ方が妥当な場合もある。
  [ 1-アーb. (自己紹介などで)私は社長だ。]

特殊性の認識は、
《A 以外を意識しながら A を主題提示したい場合》
であり、対比(限定)のための主題提示で表現することができる。
  [ 1ーイーc.(鮫は魚類だが)鯨は哺乳類だ。]

個別性の認識は、
《A 以外を意識しながら A を主格指定したい場合》
であり排他の主格指定。
  [ 2-ア-b. (鳥海山ではなく)富士山が世界文化遺産だ。]
及び、
《A 以外を意識せずに A を主格指定したい場合》
であり単純な述懐のための主格指定、いわゆる中立叙述である。
  [ 2-イ-a. 富士山が噴火した。 ]
と捉えればよい。

しかし、肝心なのは、
  [ 1ーイーc.(鮫は魚類だが)鯨は哺乳類だ。]を個別性と呼んで何ら差支えはないのであり、
  [ 2-ア-b. (鳥海山ではなく)富士山が世界文化遺産だ。](総記・排他)
  [ 2-イ-a. 富士山が噴火した。 ](中立叙述)
を特殊性と呼んでも論理的に何の矛盾も生じない、ということだ。
三浦はこの点を見落としている。

用語自体に固執しすぎて日本語理解を妨げるなら本末転倒である。
これ(普遍・特殊・個別という概念)を「は」と「が」の使い分けに持ち込んだのは三浦の勇み足と捉えざるを得ない。


ヘーゲルの「普遍―特殊―個別」論理 ――『法の哲学』の自由論 
山内 清
https://www.tsuruoka-nct.ac.jp/wp-content/upload …
からご参考までに関連個所を引用しておきます。

②普遍 「普遍」はまず始元性、直接性であり、ついで反省 性として規定性=特殊性をもって現れる。しかし普遍 が普遍として現象することはない。
上記のようにかな らず特殊や個別で現象する。
普遍は自己同一性を保つように 同時に否定的に規定され、現象し、段階化するのであ る。

③特殊 「特殊」は普遍の自己否定性であり、普遍の対立概 念である。しかし、普遍の否定で特殊にいたっても、 特殊は普遍の要素をまったくもたないということでは ない。
だから特殊ではむし ろ「普遍が濁りなく自己同一性を保っている」のであ り、特殊として存在する普遍である。「普遍は特殊にお いて他者のもとにあるのではなく、まったく自分自身 のもとにある」(大論理、下、45 頁)。特
特殊が普遍と区 別される点は、特殊は一つとは限らず多数存在するこ とである。そうした特殊の多面な可能性が現実に一つ に絞り込まれたものが個別である。
特殊は普遍と個別 を結合する環である。

④個別 「個別」は普遍と特殊という対立物の統一であるが、 それ自体自立した具体的なものである。
「個別の契機に なってはじめて、概念の諸契機が区別として定立され る」(165 節)。
すなわち個別に至ってはじめて普遍や 特殊が意味をもつのであり、逆に言えば個別のものを 分析することで普遍や特殊がわかる。
概念の三契機は もともと不可分なものだが、普遍や特殊をみた際に、 すでに個別が見通されている。
普遍の自己否定的な産 出が種々の特殊であり、諸特殊の一つの特殊への固定 化、諸可能性を一つの現実に絞り込むこと、すなわち 否定すること、
総括的には普遍の否定の否定的産出が 個別である。

質問者からの補足コメント

  • ちょっと追加で。

    >三浦が「が」は排他だとは述べている箇所は見つけられませんでしたが。

    そもそもですが、みんなが嫌がっている仕事について、

    私がやります。

    と言う場合に排他の意図が働いているのは、いくら三浦でも否定はしないと思う。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/11/18 16:29
  • 大事な点なので再掲

    これは個人的な感覚としてですが、たとえば富士山は最初から富士山として存在したわけではないと思います。
    何回かの火山活動によって地面から盛り上がった形状が生まれたのだと思いますが、そのようなものとして形作られた形状として普遍性を持つと言えるんじゃないですかね、たぶんですが。

    後に富士山という名称がつくわけですが、これを他の山々と対比的に捉える認識が特殊性の認識でしょう。
    しかし、この場合でも《火山活動によって地面から盛り上がった形状》という属性が失われているわけじゃない。

    No.44の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/11/18 18:39
  • 狭い範囲を示すのが個別で、広い範囲を示すのが普遍。
    他と違うものとして示すのが特殊。
    だいたい、このような捉え方をなさっているということですかね?

    しかし、

    ・象が鼻は長い

    の場合は適用できないですよね?

    No.49の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/11/18 23:11
  • 2.
    事物をこのように認識するのは、それなりの価値があり、その点で三浦は間違っていたわけではない。
    しかし、落としたカバンが車にひかれ、
    「(ボールペンはセーフだったが)万年筆は壊れた」
    「(ボールペンはセーフだったが)万年筆が壊れた」
    という文において、前者は特殊性、後者は個別性としたことが勇み足だった。
    「前者は個別性、後者は特殊性」と言って何がおかしいんじゃい!
    という極めて当然、且つ論理的な疑念を払しょくすることはできないからです。

    No.56の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/11/18 23:59
  • ⤴の表現が気に入らないので以下のように訂正します。


    「前者は個別性、後者は特殊性」と言って何がおかしいんじゃい!
    という極めて当然、且つ論理的な疑念を払しょくすることはできないからです。


    前者が特殊性の認識で、後者が個別性の認識であること自体に何ら問題はない。
    しかし、
    《「は」を使うと個別性の認識であり、「が」を使うと特殊性の認識である。》
    と言ったとしても、車にひかれた万年筆の状況に何ら変わりはないのであるから、ハ・ガの使い分けとして特殊性や個別性を持ち出すのは筋が違う、ということです。

      補足日時:2022/11/19 00:21
  • ・これは最新型です。(あれは最新型ではない。)特殊
    ・これが最新型です。(あれは最新型ではない。)排他

    どちらも正しいのであって【この点で】三浦が間違っているわけではない。
    当方は、そこを突いているわけじゃない。

    しかし、どちらも(あれは最新型ではない)という観念的な前提が存在するシチュエーションである点では何ら変わらないのだから、それをハ・ガの使い分けに活用しようとしたのは勇み足だった、と申し上げている次第。

    伝わりませんかねえ・・・。(笑)

      補足日時:2022/11/19 16:00
  • > さて本題に関しては雑音と関わりたくないのでリンクにします。

    お気持ちはよくわかります。(笑)

    No.127の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/11/20 23:30

A 回答 (139件中11~20件)

No.127 に応えて



>> あれを解読しなければ理解できないような説が、一般に受け入れられるんですかね。引用者は「読み手の理解力の問題」と主張しますが、誰も理解できないのなら、それは「書き手の表現力の問題」でしょう。

「誰も理解できない」のではなく、学問を志し、対象の真理を明らかにし、工学的な応用を志す人には正しく理解され、外国語の言語事実の解明にも適用されています。

回答者には学問とは何かということが根本的に理解できていないということです。下記を参照下さい。

自然言語処理の基本問題への挑戦
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsai/16/3/ …

言語における話者の認識と多段翻訳方式
池原悟, 宮崎正弘, 白井諭, 林良彦 - 情報処理学会論文誌, 1987 - ipsj.ixsq.nii.ac.jp
… 言語過程説の立場から,「対象」,「認識」,「表現」の関係に着目して,○主体と答体に対する話者の
認識の 分析と,@統語構造と意味の統一的扱い,の2点が自然言語処理の重要な課題であることを示し,
他参照。

奴素人のお遊びではなく言語学、自然言語処理他という学問の問題です。

あるブロガ―の言葉を引用しておきましょう。

ことばの不思議さにはずっと興味を持っていた。二十代半ば頃に池袋の東口にある古本屋で見つけた『日本語はどういう言語か』が三浦つとむとのはじめての出会いであった。目から鱗が落ちる思いがした。長い間抱いていたことばについての不思議が解明されていた。難しい概念もたくさんあってちゃんと理解できたという自信はなかったが、観念的自己分裂の理論には魅了されたといってもいい。なぜならそこに書いてあることは私自身の頭の中で常に継起している頭脳活動の妙なる働きだったからである。

すぐに同じ古本屋で『認識と言語の理論』の第一部と第二部とを手に入れた。

【これはそう簡単に理解できるような生易しい本ではなかった。】

その後今日に至るまでこの二冊は何度も何度も読み返しているが、その度にあたらしい認識が深まる思いがする、そんな本である。

三浦とのつきあいはそこでしばらく途絶えたが、『日本語はどういう言語か』を読んで身につけた言語論と観念的自己分裂の理論は私の無意識のうちに定着してその後ずっと私の思考の武器となった。
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/?q=%E7%84%A1%E6 …
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No.127 のお礼に関して



微妙な誤読があるので補足させていただきます。
この辺を正しく理解しないと議論が混乱します。
若干、頭が痛くなるかも知れませんが、ここは根気よく理解しないと恣意的な解釈に陥り混乱の元になります。

>>こうした助詞・助動詞は「辞」と呼び話者の認識を主体的に表わすものとして捉える。

ここは重要なところですので、詳しい説明を引用しておきます。

いま、一切の語を、語形や機能ではなく、対象→認識→表現という過程においてしらべてみると、次のように二つの種類に分けられることがわかります。

  一、 客体的表現
  二、 主体的表現

 一は、話し手が対象を概念としてとらえ表現した語です。「山」「川」「犬」「走る」などがそれであり、また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。これに対して、二は話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語です。悲しみの「ああ」、よろこびの「まあ」、要求の「おい」、懇願の「ねえ」など<感動詞>といわれるものをはじめ、「……だ」「……ろう」「……らしい」などの<助動詞>、「……ね」「……なあ」などの<助詞>、そのほかこの種の語をいろいろあげることができます。ここに表現されているのは、古い認識論でいわれている意味での概念ではありませんが、言語表現によって感情や意志が普遍的・抽象的なものとしてとらえられるという意味で、新しい認識論ではこれを特殊な概念と認めるのが適当でしょう。
(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』77p)

この、「一、 主体的表現」の語が辞で、「二、 客体的表現」の語が詞です。

又、 山田孝雄(やまだ よしお)の<助動詞>「複語尾」説については下記の通りです。

まず、山田の言う「陳述の力」について考えてみましょう。これを正しく理解出来るか否かが、言語本質論の分かれ目となります。
 山田は「用言の用言たる特徴は実にその陳述の作用をあらはす点にあり。」としているように、<用言>という語(言葉)が「陳述の作用をあらはす」つまり、「表わして」いるのであり、「陳述の作用」を語(言葉)が生み出すとは言っていません。「この作用は人間の思想の統一作用」というのですから、人間の生み出すものと、この点は正しくとらえています。この点こそ、国学という和歌の解釈および創作という実践に裏打ちされた学問の伝統を引く山田の文法論の強み、健全性があるのですが、言語実体論をとる現在の記述文法では語自体が表すかの山田説との相性がよく引っ張りだされることとなります。これまで見て来たように、「言語を表現の一種」と看破した時枝の立場からは当然、人間の生み出したものとなり<助動詞>一品詞説となります。

 次に「凡そ人の思想を発表する機関として個々の概念の必要なることはいふを俟たざるところ」というのは、<体言>が概念であり、<用言>もまた概念であるということになります。この概念とは実体の概念<名詞>であり、その作用を表す属性の概念<動詞><形容詞>です。

 しかし「個々の概念のみ存してもこれらを統一判定する作用なくば、思想の完全なる結成となることなし。」と言う通り「個々の概念」とは認識の対象の概念ですが、「陳述の力」とは人間の認識のあり方であり、「かく統一判定する作用を言語にあらはしたるもの即ち用言なり。」と言うように、これを表したものが<用言>であると主張しているわけです。

 つまり、<用言>の本質は「陳述の力」を表現したものというわけですが、概念も又表しているわけで、「人間の対象の概念」と「人間自身の、かく統一判定する作用」という二つの全く異質なものの表現を<用言>が担うことになります。このため、「国語の動詞はその活用形にて種々の陳述をなすものなるが」と「活用形」が「種々の陳述をなす」ことにならざるを得なくなります。

 そして「それらのみにては、その属性の表現の状態、又は陳述の委曲なる点等をあらはし得ざることあるが故にさる時に、その活用形より更に複語尾を分出せしめて種々に説明陳述をなすものなり。」というように、「活用」だけでは表し切れない「その属性の表現の状態、又は陳述の委曲なる点等」を表すのが「複語尾」であり、「その活用形より更に複語尾を分出せしめて種々に説明陳述をなすものなり。」ということになります。しかし「その活用形より更に複語尾を分出せしめ」る主体は何かが問題です。これは「人間の思想の統一作用」と解するしかないでしょうね。なぜ「分出」なのかの論理性はありません。しいて言えば、語尾に独立性がなく、かつ接尾語のように何にでも付くというよな恣意性ではなく動詞の活用との必然的密着性に着目したということになります。■
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No.56でコメントした者です。



 探すのがたいへんでしょうから、まずNo.56を再掲します。
===========引用開始
No.56

回答者: 1311tobi 回答日時:2022/11/18 21:13
 明らかに無理筋でしょう。
 というより、なぜそのように考えるようになったのかナゾです。
「そういう考え方もできる」……という話でもありません。

 この質問の発句?を読んでも、読めば読むほど無理筋と感じます。
 たとえば、下記をご参照ください。
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12769228304.html
「特殊性」と「普遍性」の境界が当方にはまったく不明です。

 そもそも三浦つとむは下記【20221117追記】のように書いていました。 
 文章はヒドいのですが、内容はそのとおりだと思います。
 なぜあんなに無理なコジツケをしたのでしょう。
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12768691626.html
===========引用終了

 当方は、「特殊性」と「普遍性」の境界が不明なことを書きました。
 質問者は「個別性」と「特殊性」の境界に疑問を感じているようですね。
 つまり、客観的には何がなんだかわからないということでは。

「無理筋」でないことを説明するために、長々と引用されている文章がありますが、ほぼ意味不明です。
 あれを解読しなければ理解できないような説が、一般に受け入れられるんですかね。引用者は「読み手の理解力の問題」と主張しますが、誰も理解できないのなら、それは「書き手の表現力の問題」でしょう。
 ただ、仮に「無理筋」であることを明らかにしたところで、何か意味があるのでしょうか。
「無理筋」であってもなくても、一般に認められないことにかわりはないのですから。

【テレビ売り場で店員が「このテレビが最新型です。」と言うのは普通ですか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13236566.html
 の当方のコメント(No.6/No.7)もご確認いただければ幸いです。
 短いですから、これも再掲しておきましょうか。
===========引用開始
No.6

回答者: 1311tobi 回答日時:2022/11/20 13:51
まず確認ですが、雑音はシャットアウトされているのでしょうか。
 でひそのまま継続してください。長いだけで中身のない長文が垂れ流される、読みにくくてしかたがありません。
 しかもコピペばかりなので非常に迷惑です。
 ちなみに。下記でも同じようなことを書いています。どこも雑音がじゃまで、本題に関するやり取りが不明です。自分のコメントも探せなくなるので、コメントをする気がなくなります。
【「象は鼻が長い」「象の鼻が長い」「象の鼻は長い」の違い】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13231178.html

 さて本題に関しては雑音と関わりたくないのでリンクにします。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983752990&owne …


No.7

回答者: 1311tobi 回答日時:2022/11/20 15:30
>この質問に関しては、ご意見を伺うのが目的なので、私から論評することは控えます。
 そうですか。ちょっと残念です。
 揚げ足とりや、罵り合い・マウント取りにしか見えないコメントは論外ですが、まともな意見交換はあってしかるべきでは。
 そのための質問では。
 コメントが一段落したあとにでもご返信いただけると幸いです。

 ただし、雑音がヒドいようなら関わりたくありません。
===========引用終了
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>当方は、「特殊性」と「普遍性」の境界が不明なことを書きました。

はい、それで当方の理解している範囲を述べさせていただいた次第。

> 質問者は「個別性」と「特殊性」の境界に疑問を感じているようですね。

おっしゃるとおりです。

>つまり、客観的には何がなんだかわからないということでは。

なぜ「つまり」となるのかよくわかりませんが。(笑)
トビさんの疑問に答え、その上で三浦が勘違いしている「個別性」と「特殊性」について述べたまでです。

> 誰も理解できないのなら、それは「書き手の表現力の問題」でしょう。

まったくおっしゃるとおりですね。
そのための参考にさせていただく意味も込めて質問している次第です。

> ただ、仮に「無理筋」であることを明らかにしたところで、何か意味があるのでしょうか。

無理筋でないなら、こちら側(三浦を読む側)の理解力が欠如しているわけですし、無理筋なら三浦がまちがっていることになる。
「無理筋」でないのに一般に認められないであれば、《一般側》が無理筋になる。

>ヨーロッパの言語で考えついた発想を性格のちがう日本語に押しつけたのですから、この山田氏の主張が他の学者の支持を得られなかったのは当然でした。

日本語の場合、
・食べる
の過去形は
・食べた
のように助動詞「た」が膠着する形で変化しますよね。
時枝や三浦などの言語過程説では、こうした助詞・助動詞は「辞」と呼び話者の認識を主体的に表わすものとして捉える。
「食べた」は
「食べ(る)」という客体的表現 +「た」という主体的表現(話者の認識)
と分かれた構造になる。

英語は、write ⇒ wroteと語が屈折するように変化するので分かれない。
wroteという一語にどちらも含まれる形ですが、山田はこれに倣って、日本語の動詞・形容詞についても、
「多くの場合に於いて属性観念をも伴ひてあらはせりといへども、その本体は精神の統一作用をあらはせる点にあり。」と述べたらしい。
《精神の統一作用をあらはせる》というのは主体的表現を意味しますが、これは日本語では助詞・助動詞の意義ですから、それはおかしいと言われたのでしょう。
普遍・特殊・個別は《ヨーロッパの言語で考えついた発想を性格のちがう日本語に押しつけた》わけではないと思います。

お礼日時:2022/11/20 23:28

No.125 に応えて



>>「このテレビが最新型です。」
(そのテレビは最新型ではない。)
が現実に使われている日本語だと確定して三浦文法が破綻した。

なんちゅう、短絡的、単細胞的理解、論理じゃ!

八丁堀の粗忽長屋の旦那、住人の言語理解こそが布団が吹っ飛んだように空中分解したのじゃが????
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「このテレビが最新型です。


(そのテレビは最新型ではない。)

が現実に使われている日本語だと確定して三浦文法が破綻した。そのせいで、ツチノコ君の理性まで破綻してしまったのだろうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

それに気づけるようだとまだ救いようもあるのだが。(笑)
気づいて詭弁を弄しているバージョンなのか、気づけずに駄々をこねているバージョンなのか。
ま、当方は関わらない方針ですので。

お礼日時:2022/11/20 19:24

No.123 に応えて



>>会話が成立しないレベルなんだが、ほんと大丈夫?

曲がりなりにも成立しているようです!!

>>現実に使われている日本語こそ言語だから、それに反する三浦文法には欠陥があると言った。

現実に使われている日本語こそ言語であり、その言語事実に反する旦那方の言語理解に欠陥があると言っっていますが?

事実は小説(ソシュール言語論)より奇なり!
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No.122



会話が成立しないレベルなんだが、ほんと大丈夫?

現実に使われている日本語こそ言語だから、それに反する三浦文法には欠陥があると言った。
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No.121 に応えて



>>まったく逆のことをはっきり明示してるんだが。大丈夫か?

「脳天逆落とし」かな?
(@_@;)

具体的な指摘が待たれます!

妄想ではなく学術文献を提示しましょう!
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No.120



>八丁堀の旦那は「現実に使われている日本語」は言語ではないとお考えですか?

まったく逆のことをはっきり明示してるんだが。大丈夫か?
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No.119 に応えて



>>現実に使われている日本語に反する文法論は欠陥品。
三浦もそう言ってるんだが。

ははは!

八丁堀の旦那は「現実に使われている日本語」は言語ではないとお考えですか?

やはり、個別と普遍の関係が全く理解できていませんね!

この辺を三浦が論じた部分を引用しておきましょう。
中学生レベルの辞典の解説しか読んだことがない八丁堀の旦那にこの学術論文が読めるのか否かが問題ですが?


 およそすべての科学は、事物の持っている普遍的な法則性をとらえて体系化していくところに、確立する。言語学もまたその例外ではありえない。経済学がイギリスの経済を研究することによって確立し、これが日本の経済の研究に役立つというのも、イギリスの経済と日本の経済とがともに普遍的な法則性によってつらぬかれているからである。もちろんイギリスの経済にも日本の経済にもそれぞれ特殊性が存在し、これらはさらにそれぞれ別の法則性としてとらえる必要があるのであるが、これらの特殊性ないし、独自の法則性を持つということは普遍的な法則性の存在を否定するものではない。

同じように、英語にも日本語にもそれぞれ特殊性が存在し、これらをそれぞれ別の法則性としてとらえ、英語学あるいは日本語学として展開する必要があるのであるが、このことは英語にも日本語にも共通した言語としての普遍的な法則性の存在を否定するものではない。それゆえ英語を研究することによっても、あるいは日本語を研究することによっても、言語の普遍的な法則性をとらえた体系的な科学すなわち言語学をつくりあげることが可能である。

 しかしながら、科学の他の分野においては経験的にもまた論理的にも認められている一般理論の確立の過程が、言語学の分野にあっては必ずしも認められていない。小林英夫はそれぞれの民族語は普遍性を「分有」するにすぎないと主張しているが、時枝はそれに反対している。

 一般に言語学の理論及び方法は普遍的であり、国語学のそれは特殊的であるといふ風に考へられてゐるが、それは極めて皮相的にのみいひ得ることであつて、必しも正しい判断ではない。それは今日の言語学が、殆(ほとん)ど印欧語族のみを対象として組織せられたものであるからといふ理由のみでなく、更に深く普遍と特殊との関係から見て、右の様に云ふことができるのである。普遍と特殊とは、両々(りょうりょう)相対立した形に於いて存在してゐるのでなく、一切の特殊的現象は、その中に同時に普遍相を持つといふことは、国語に於いてばかりでなく、一切の事物について云ひ得ることである。国語についての特殊的現象の探究は、同時に言語学に於ける普遍相の闡明(せんめい)ともなり得るのである。ここに国語研究といふことが、単に言語学に於ける特殊な領域の研究に終始することではなくして、同時に言語の一般理論の研究ともなり得る根拠があるのである。……

従つて言語学と国語学との関係は、前者が後者の拠(よ)つて以(もっ)て立つべき指導原理ではなくして、特殊言語の一(ひとつ)の研究の結論として、国語学の細心な批評的対象ともなり、又他山の石ともなるのである。若しこの様な心構へなくして、只(ただ)徒(いたずら)にこれに追随するならば、国語学は永久に高次的理論の確立への希望を放棄しなければならない。

この様に考へることは、徒に唯我独尊にして他を排する底の偏狭な態度を執(と)ることを意味することではなくして、真に国語学の行くべき道を考へることであり、同時に泰西(たいせい)言語学の立脚地である科学的精神を生かさうとするが為(ため)である。(時枝誠記『国語学原論』)
 冷静にこの文章を検討するならば、これはまったく正当な主張であり、科学的精神において書かれたことも明かである。すでにヘーゲル論理学が、対立をその統一においてとらえよと主張し、「単に抽象的でない一般者、特殊者の豊富な内容を自己の内にふくむ一般者」としての認識のありかたを論じて以来、特殊が同時に普遍を伴うことは弁証法を知る者の常識とまでなっている。

(三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から
  第二章 言語表現の二重性 (3) 小林と時枝との論争)
「普遍・特殊・個別をハガの違いに適用しよう」の回答画像120
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