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と思うのですが、いかがですか?

三浦つとむによると、「は」は普遍性、または特殊性の認識を表わし、「が」が表すのは個別性の認識だと言う。

  [ 1-アーc. (海に住んではいるが)鯨は哺乳類だ。](単純な主題提示)
これは三浦つとむの「普遍性」の認識に該当するだろう。

  [ 1-アーa.(新幹線の車窓から眺めて)富士山はいつ見ても美しい。](単純な主題提示)
  [ 1ーイーa.(鳥海山は国定公園だが、)富士山は国立公園だ。](対比)
  [ 1-ウーa. 富士山は日本一の山だ。](同定文)
などは「特殊性」の認識である。

  [ 2-ウーa. 富士山が日本一の山だ。]
これについては「個別性」の認識だと言う。

たしかに、客体はすべて普遍性の側面と特殊性の側面を持っている。シチュエーション次第で変化するのであり、客体それのみを取り上げてどちらと言うことはできない。
  [ 1ーイーa.(鳥海山は国定公園だが、)富士山は国立公園だ。]
の場合も、特殊性であるが普遍性の側面が消滅しているわけではない。
対比して主題提示したいので [ 結果的に ] 特殊性について述べる形になっている。特殊性がクローズアップされているだけである。
「富士山」という客体は、常に普遍性と特殊性を内包しているということだが、そうした普遍性と特殊性の両者を含む「富士山」として立ち上がっているのが、
  [ 2-ウーa. 富士山が日本一の山だ。]
という場合で、これが個別性の認識だ。
なぜ後者の場合だけ《普遍性と特殊性の両者を秘めている「富士山」として立ち上がる》ことができるのかというと、主題提示と主格指定という両者の意義の違いが大きく関係している。
後者の場合、単に主題を提示する、つまり話題を振るのではなく、「日本一の山だ」という述部の主格として「富士山」を明確に指定しなければならない。
普遍性なのか特殊性なのかという詮索が入り込むゆとりは無いのである。
判断文ではなく現象文と言われるのも、このためだ。

たしかに、個別性は普遍性と特殊性の両側面を秘めた状態で認識される。
ただ、これは、あくまで、

[ 2-イーe. 友人が遊びに来た。]
のような中立叙述の場合であり、《A 以外を意識せずに A を主格指定したい場合》だろう。

[ 2ーアーd. (僕ではなく)友人がこのケーキを作った。]
といった総記の場合は、
《A 以外を意識しながら A を主格指定したい場合》である。
この友人に対して、《普遍性と特殊性の両側面》を秘めているという認識が果たして妥当と言えるであろうか。
[ 1ーイーg. (みんなは賛成したが、)僕は反対した。]
と比べてみるとよい。
これは特殊性の認識だ。
《A 以外を意識しながら A を主題提示したい場合》である。

三浦は、
[ 1ーイーg. (みんなは賛成したが、)僕は反対した。]
は普遍性ではなく特殊性の認識だが、
[ 2ーアーd. (僕ではなく、)友人がこのケーキを作った。]
は《普遍性と特殊性の両側面》を秘めている個別性の認識だ、と三浦は言っていることになるが、これはさすがに無理筋だろう。

普遍性の認識は
《A 以外を意識せずに A を主題提示したい場合》
であり単純な主題提示で表現することができる。
  [ 1-アーc. (海に住んではいるが)鯨は哺乳類だ。]
下記のように、普遍性と言うと誤解を招きやすく一般性と呼ぶ方が妥当な場合もある。
  [ 1-アーb. (自己紹介などで)私は社長だ。]

特殊性の認識は、
《A 以外を意識しながら A を主題提示したい場合》
であり、対比(限定)のための主題提示で表現することができる。
  [ 1ーイーc.(鮫は魚類だが)鯨は哺乳類だ。]

個別性の認識は、
《A 以外を意識しながら A を主格指定したい場合》
であり排他の主格指定。
  [ 2-ア-b. (鳥海山ではなく)富士山が世界文化遺産だ。]
及び、
《A 以外を意識せずに A を主格指定したい場合》
であり単純な述懐のための主格指定、いわゆる中立叙述である。
  [ 2-イ-a. 富士山が噴火した。 ]
と捉えればよい。

しかし、肝心なのは、
  [ 1ーイーc.(鮫は魚類だが)鯨は哺乳類だ。]を個別性と呼んで何ら差支えはないのであり、
  [ 2-ア-b. (鳥海山ではなく)富士山が世界文化遺産だ。](総記・排他)
  [ 2-イ-a. 富士山が噴火した。 ](中立叙述)
を特殊性と呼んでも論理的に何の矛盾も生じない、ということだ。
三浦はこの点を見落としている。

用語自体に固執しすぎて日本語理解を妨げるなら本末転倒である。
これ(普遍・特殊・個別という概念)を「は」と「が」の使い分けに持ち込んだのは三浦の勇み足と捉えざるを得ない。


ヘーゲルの「普遍―特殊―個別」論理 ――『法の哲学』の自由論 
山内 清
https://www.tsuruoka-nct.ac.jp/wp-content/upload …
からご参考までに関連個所を引用しておきます。

②普遍 「普遍」はまず始元性、直接性であり、ついで反省 性として規定性=特殊性をもって現れる。しかし普遍 が普遍として現象することはない。
上記のようにかな らず特殊や個別で現象する。
普遍は自己同一性を保つように 同時に否定的に規定され、現象し、段階化するのであ る。

③特殊 「特殊」は普遍の自己否定性であり、普遍の対立概 念である。しかし、普遍の否定で特殊にいたっても、 特殊は普遍の要素をまったくもたないということでは ない。
だから特殊ではむし ろ「普遍が濁りなく自己同一性を保っている」のであ り、特殊として存在する普遍である。「普遍は特殊にお いて他者のもとにあるのではなく、まったく自分自身 のもとにある」(大論理、下、45 頁)。特
特殊が普遍と区 別される点は、特殊は一つとは限らず多数存在するこ とである。そうした特殊の多面な可能性が現実に一つ に絞り込まれたものが個別である。
特殊は普遍と個別 を結合する環である。

④個別 「個別」は普遍と特殊という対立物の統一であるが、 それ自体自立した具体的なものである。
「個別の契機に なってはじめて、概念の諸契機が区別として定立され る」(165 節)。
すなわち個別に至ってはじめて普遍や 特殊が意味をもつのであり、逆に言えば個別のものを 分析することで普遍や特殊がわかる。
概念の三契機は もともと不可分なものだが、普遍や特殊をみた際に、 すでに個別が見通されている。
普遍の自己否定的な産 出が種々の特殊であり、諸特殊の一つの特殊への固定 化、諸可能性を一つの現実に絞り込むこと、すなわち 否定すること、
総括的には普遍の否定の否定的産出が 個別である。

質問者からの補足コメント

  • ちょっと追加で。

    >三浦が「が」は排他だとは述べている箇所は見つけられませんでしたが。

    そもそもですが、みんなが嫌がっている仕事について、

    私がやります。

    と言う場合に排他の意図が働いているのは、いくら三浦でも否定はしないと思う。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/11/18 16:29
  • 大事な点なので再掲

    これは個人的な感覚としてですが、たとえば富士山は最初から富士山として存在したわけではないと思います。
    何回かの火山活動によって地面から盛り上がった形状が生まれたのだと思いますが、そのようなものとして形作られた形状として普遍性を持つと言えるんじゃないですかね、たぶんですが。

    後に富士山という名称がつくわけですが、これを他の山々と対比的に捉える認識が特殊性の認識でしょう。
    しかし、この場合でも《火山活動によって地面から盛り上がった形状》という属性が失われているわけじゃない。

    No.44の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/11/18 18:39
  • 狭い範囲を示すのが個別で、広い範囲を示すのが普遍。
    他と違うものとして示すのが特殊。
    だいたい、このような捉え方をなさっているということですかね?

    しかし、

    ・象が鼻は長い

    の場合は適用できないですよね?

    No.49の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/11/18 23:11
  • 2.
    事物をこのように認識するのは、それなりの価値があり、その点で三浦は間違っていたわけではない。
    しかし、落としたカバンが車にひかれ、
    「(ボールペンはセーフだったが)万年筆は壊れた」
    「(ボールペンはセーフだったが)万年筆が壊れた」
    という文において、前者は特殊性、後者は個別性としたことが勇み足だった。
    「前者は個別性、後者は特殊性」と言って何がおかしいんじゃい!
    という極めて当然、且つ論理的な疑念を払しょくすることはできないからです。

    No.56の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/11/18 23:59
  • ⤴の表現が気に入らないので以下のように訂正します。


    「前者は個別性、後者は特殊性」と言って何がおかしいんじゃい!
    という極めて当然、且つ論理的な疑念を払しょくすることはできないからです。


    前者が特殊性の認識で、後者が個別性の認識であること自体に何ら問題はない。
    しかし、
    《「は」を使うと個別性の認識であり、「が」を使うと特殊性の認識である。》
    と言ったとしても、車にひかれた万年筆の状況に何ら変わりはないのであるから、ハ・ガの使い分けとして特殊性や個別性を持ち出すのは筋が違う、ということです。

      補足日時:2022/11/19 00:21
  • ・これは最新型です。(あれは最新型ではない。)特殊
    ・これが最新型です。(あれは最新型ではない。)排他

    どちらも正しいのであって【この点で】三浦が間違っているわけではない。
    当方は、そこを突いているわけじゃない。

    しかし、どちらも(あれは最新型ではない)という観念的な前提が存在するシチュエーションである点では何ら変わらないのだから、それをハ・ガの使い分けに活用しようとしたのは勇み足だった、と申し上げている次第。

    伝わりませんかねえ・・・。(笑)

      補足日時:2022/11/19 16:00
  • > さて本題に関しては雑音と関わりたくないのでリンクにします。

    お気持ちはよくわかります。(笑)

    No.127の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/11/20 23:30

A 回答 (139件中81~90件)

No.57~58 で、「なぜそのように考えるようになったのか」はほぼ明らかになったのではないでしょうか。



又、言語は概念による認識、表現なので、「(3) 概念と判断の立体的な構造」も以下に引用しておきます。これは何度も引用していますが、皆さまの応答を見る限り全く理解されていないようなので敢えて引用しておきますので、しっかり理解して下さい。


ここでは言語の問題を一応捨象して概念のありかたを考えてみよう。

 概念は個々の事物の持っている共通した側面すなわち普遍性の反映として成立する。すでに述べて来たように、個々の事物はそれぞれ他の事物と異っていてその意味で特殊性を持っていると同時に、他の事物と共通した側面すなわち普遍性をもそなえているので、この普遍性を抽象してとりあげることができる。

たとえば私の机の上に文字を記すための道具が存在するが、軸は黒いプラスチックでつくられ尖端に金属製のペンがついていて、カートリッジに入っているインクがペン先に流れ出るような構造になっている。このような道具は多くのメーカーでそれぞれ異ったかたちや材質のものを生産していて、私の持っているものにも他のものとは異った個性があるけれども、それらは共通した構造にもとづく共通した機能を持っていて、ここからこれを「万年筆」とよぶわけである。それゆえ、概念にあっては事物の特殊性についての認識はすべて超越され排除されてしまっている。だがこのことは、特殊性についての認識がもはや消滅したことを意味するものでもなければ、無視すべきだということを意味するものでもない。特殊性についての認識は概念をつくり出す過程において存在し、概念をつくり出した後にも依然として保存されている。私が「万年筆」を持っているというときのそれは、私の机の上にあるそれであって、文房具店のケースの中にあるそれではないし、もし必要とあらばその概念の背後に保存されている特殊性についての認識をもさらにそれ自体の他の側面である普遍性においてとらえかえして、「黒い」「万年筆」とか「細い」「万年筆」とか、別の概念をつけ加えてとりあげるのである(2)。

 この場合の「万年筆」は、机の上に個別的な事物として存在している。私はこの事物の普遍性を抽象して概念をつくり出したにはちがいないが、その対象とした普遍性はこの個別的な事物の一面として個別的な規定の中におかれている普遍性にすぎない。普遍性をとりあげてはいるものの、問題にしているのは個別的な事物それ自体なのである。

しかしわれわれは、個別的な事物ではなく、この普遍性をそなえている事物全体を問題にすることも必要になる。このときにも同じように普遍性が抽象され概念がつくり出されるが、その普遍性はもはや個別的な規定を超えた存在としてとらえられるのであり、類としての普遍性が対象とされているのである。「万年筆はますます普及している」というときの「万年筆」は、個別的な存在ではなくて全体を問題にしている。先の私の「万年筆」が個別的概念であるのに対して、この全体をとりあげた「万年筆」は普遍的概念あるいは一般的概念とよぶべきものである。これと同じことは、鉛筆やボールペンについても成立するのであって、「鉛筆」「ボールペン」などの概念にも、個別的な事物をとりあげた個別的概念もあれば、全体をとりあげた普遍的概念もあるわけである。

 つぎに、類としての普遍性を考えてみると、これは個別的な事物のすべてをつらぬいているという面から見て、たしかに普遍性であるにはちがいない。けれども類とよばれる存在はきわめて多種多様であって、その意味で類としての普遍性それ自体はいずれもひとつの個別的な存在としてあつかわれることになる。「万年筆」という類、「鉛筆」という類、「ボールペン」という類など、個別的な存在としての類が多種多様にあって、さらにこれらに共通した普遍性を対象とする「筆記用具」というヨリ高度の普遍的概念も成立している。そしてこの普遍性に対しては「万年筆」「鉛筆」「ボールペン」などの個別的な存在としての類はそれぞれ特殊性をそなえた類としてとらえかえされることになり、これらは特殊的概念の性格を与えられることになる。さらにこの『筆記用具」も、「文房具」という普遍的概念に対しては特殊的概念であるというようにヨリ低い類からヨリ高い類へと対象の立体的な構造をたどって認識が発展し、抽象のレベルが高くなっていく。そしてそれにもかかわらず、これらの概念は超感性的な点で共通しており、言語表現でも同じ語彙が使われるのである(3)。

(2) 「黒い」「細い」という概念が、それ自体として普遍性の認識であると同時に「万年筆」については特殊性の認識でもあるというのは、やはり一つの矛盾である。われわれは自覚することなしにこのような矛盾をつぎつぎと創造しながら、表現を行っているわけである。
(3) これは言語学者に対する警告でもある。語彙論にしがみついて認識の構造を科学的に把握しようとしなければ、言語学は言語表現の理論へと発展することはできないのである。

このように、概念は現実の立体的な構造に対して、やはり立体的な構造をとることが要求されているのであるが、これを平面化したり切りはなして扱ったりするあやまりも起りうる。机の上に万年筆しか存在しないならば、「机の上の書くものをとってくれ」と抽象のレベルの高い普遍性でとらえても、万年筆をとってくれるであろうが、机の上に鉛筆もボールペンもあるときにはこのレベルではそのいづれにもあてはまるから、手当り次第にとってくれるであろう。「机の上の万年筆をとってくれ」といわなければならない。いわれた側では、「万年筆」の類としての特殊性を認識しているから、それに相当する存在をいろいろな存在の中からえらび出してとってくれるはずである。鉛筆がほしいときにも、同じように「机の上の鉛筆をとってくれ」といって、「鉛筆」の類としての特殊性の認識に訴えるわけである。

このときの「万年筆」「鉛筆」は個別的概念として個別的な事物をとりあげているのであるから、この二つの異った概念にはそれぞれ異った二つの個別的事物ではなく、一つの個別的な事物の一面である個別的な立体的な異った普遍性が対応している。それゆえ「万年筆」と「鉛筆」とはそれぞれ別に存在すると考えて「万年筆」のほかに「鉛筆」をさがそうとするのは正しいが、もし「万年筆」と「筆記用具」との場合にも同じように考えて「万年筆」のほかに「筆記用具」をさがそうとするならばそれはあやまりである。この二つの概念は、抽象のレベルの差異によって生れたのであるから、抽象として頭の中で切りはなして別々に扱っていても、現実の事物としては切りはなされて存在しているわけではないからである。

「物質」というのは非常に高度なレベルの抽象である。現実の具体的な事物としての「太陽」とか「地球」とか、あるいはやや高度のレベルの抽象である「元素」とか「原子」とか、あるいはさらに高度なレベルの抽象である「エネルギー」とかいうような、さまざまの概念でとらえている存在のほかに「物質」をさがそうとするならば、これもあやまりといわなければならない。けれども「万年筆」のほかに「鉛筆」を探そうとする習慣はこの場合にも持ちこまれる可能性がある。

事実昔からさまざまな個別的事物のほかに、どこかに「物質」そのものがあるはずだと考えて、さがし求めた学者もすくなくないのである。もちろんどこをさがしても、そのようなものをとらえることはできない。「物質」は抽象として頭の中で切りはなして扱っているが現実に切りはなされて存在しているわけではないのに、頭の中で切りはなされているからには当然現実にも切りはなされてあるにちがいないと、抽象の産物をそのまま現実の世界に持ちこむ人たちは、結局のところ、たしかに「物質」はあるはずだがそれはわれわれがとらえることができないのだと考えることになる。このようにして、「とらえることができない物自体が存在する」とか、「実存は不可知である」とか、カント主義ないしは不可知論への転落が始まるわけである

普遍的概念をわれわれは範疇(はんちゅう)ともよんでいるのだが、哲学者たちの範疇とかカテゴリーとかよぶものはそうではなくて、ギリシャ以来哲学に使われるもっとも基本的な普遍的概念をさしている。したがって、哲学者によって範疇とかカテゴリーとよぶものはくいちがってくることになるが、論理学に使われるいくつかの基本的な普遍的概念をさすのがふつうである。自称マルクス主義者もこれを真似て、社会経済的構成、生産力、生産関係、土台、上部構造、階級、革命、などが唯物史観の範疇だなどと論じている。

 概念はこのように事物のさまざまな普遍性を反映するものとして、多くの場合バラバラに切りはなされたかたちでつくり出される。それゆえわれわれはそれぞれの場合に、対象とする事物の平面的な立体的な構造に対応させて、認識の側からバラバラの概念を相互にむすびつけ構造づけていかなければならない。これは概念を使うことであり、概念をつくり出すこととは相対的に区別される異った精神活動であって、この能動的な構造づけを判断とよんでいる。与えられる事物のさまざまな構造に対応して、判断もさまざまなかたちをとることとなり、事物についての認識が深化するのに伴って、判断もまた高度なものに発展していくのである。■
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No.57 の補足です。



先の前段を引用しておきます。

われわれは「犬」と「猫」とのちがいを意識して使っているが、「が」と「は」とのちがいは特別に意識しているわけではない。ただ経験的に、なんとなく「それに対して一定の陳述をなさずしてはこれらの結末がつかぬ」ような気もちになって、使っているわけである。マルクスの言葉にあるように、「彼らはそれを意識していないが、しかし彼らはかく行うのである。」

何がそういう気もちにさせるのか、それにはやはりそれだけの根拠がなければならぬはずである。それは主体的表現に関する選択であるだけに、その根拠は認識の特殊な範囲にあるであろうことも、大体見当がつくのである。時枝もいうように、陳述の本質は肯定判断であるとするならば、「が」と「は」とのちがいも判断のありかたのちがいに根拠があるのではあるまいか、そして係助詞といわれるものは判断のありかたと関係があるからこそ陳述すなわち判断にむすびつくのではあるまいか、と推理することは、むしろ当然のなりゆきであろう。

 この係助詞の問題は、山田にあっては上の係助詞が下の陳述に関与し陳述を支配するものとして、助詞の機能が上から下に及ぶものとして説明されて来たけれども、時枝の辞の機能の説明はこれと逆になっていて、助詞はその上にある主体的表現を「包む」ものだというのであるから、下へのむすびつきは存在しないことになり、そもそも機能論的に相いれないわけである。言語はすべて空気の振動あるいは紙の上の描線のような物質的なかたちに表現されている。表現そのものが陳述の「力を持つ」とか、他の表現がこれを「支配する」とか説明するのは、一種のフェティシズムにほかならない、それは、認識の構造として説明すべきことを、表現相互の関係に変えて説明することであり、その間に相対的な独立を認めながら正しく区別すべき認識のありかたと表現のありかたとを、いっしょくたにしてしまうことである。時枝は山田のこの考えかたを「構成主義的考方」とよんで批判したけれども、自分の「包む」という解釈をも反省し克服することなしには、山田の係助詞の説明を批判して正しい解決を与えることは不可能だったのである。

 ところで、判断論は古くから論理学の一部として論じられて来ているのであるから、言語学あるいは文法学と論理学とのかかわり合いについて考えてみることも必要である。多くの言語学者はそれぞれ意見を持っているが、行きがかり上まず山田の意見を聞いてみよう。

 論理学がその判定又は推論の言語にあらはるゝ形式を論ずる点は句論に論ずる所と頗(すこぶ)る似たる点を以て往々混同せられ易(やす)きなり。然(しか)れども論理学はもと人間の思想の運用の方法を研究する学問にして、その思想の作用の研究に関係する点に於いては句論は著しくそれに接近するといへども、論理学の直接の対象とする所は言語にあらずして思想にあり、文法学の直接の対象とする所は思想にあらずして、言語にあり。

この故にその直接の対象とする所を異にするを見る。加之(しかのみならず)文法学の関する思想はただに論理作用のみに止まらず、感情にもあれ、欲求にもあれ、想像にもあれ、すべて言語にあらはされたるものは皆言語学の対象となりうべし。……然れども言語はもと思想に基づきてあらはるゝものなれば、思想を無視して言語の事は論じうべきにあらず。特にこの句論にありては言語その者を直接の対象としつつも常に間接に着眼して、それらの言語が如何に思想感情の発表を担任するかを記述し説明するを任とす。これ論理学と句論と触接する点を有する所以なり。
 論理学における命題や判断の構造は、われわれの日常の言語表現と似たところがある。ヨーロッパの言語の表現構造はスーツケース的であるから、この近似性が日本語より大きい。そこでヨーロッパの言語学者には、論理学での構造をそのまま機械的に文法学へ持ちこもうとする傾向が強い。ここから日本の言語学者にも、日本語は「非論理的」だと思いこむ人びとが出て来た。しかし構造の一致は特定の場合だけであるし、表現の語順にしても習慣で定まっているとしか思われないところがあるし、また一応規範で規定されているとはいえ話し手の意志である程度変えることができる。「駄目だよ私じゃ」のようないいかたは会話の中でめずらしくない。そこから、論理学での構造を押しつけることに対する批判の声も出てくるわけである。風呂敷的な日本語を相手にしている山田として、この混同を批判しているのはうなづけるが、ヘーゲル論理学を学んだ人びとは彼の論理学の説明にヘーゲルと同じような皮肉を投げるかも知れない。

 ここで考えるべきことが二つある。第一に言語学と論理学との混同に反対するなら、表現形式の段階での問題とその内容を形成する実体の段階での問題とを混同してはならぬということになる。山田が形式の段階では「間接に思想に着眼する」のだというのは正しい。だがそう主張する学者ならば、形式に示されていなくても認識としては存在するということも認めなければなるまい。形式と内容を形成する実体、あるいは形式と内容とを、区別するのでなければ自己の論理に忠実であるとはいえなかろう(3)。言語と思想、あるいは形式と内容とを、相対的に独立したものとして扱わなければならないであろう。

第二に言語学が協力を求めるべき論理学は、いったいどんな性格の論理学かである。山田がとりあげている論理学もヨーロッパの言語学者が持ち出してくる論理学も、ヘーゲルのいうところの「古い論理学」つまり形式論理学である。またカント主義ないし新カント主義の立場をとっている人びとが、これ以外の論理学を持ち出してくるはずもない。けれども言語表現は認識のあらゆる分野を扱わねばならぬ運命にある。対象がダイナミックなものはもちろん、スタティックなものでもそれをとらえる認識の方はダイナミックに展開される。立体的なものをとらえても線状に平面的に表現していくことが要求されている。それゆえ、表現はいわば氷山の一角にすぎぬことも多く、その背後の屈折をたどらなければ正しい理解に達しえないし、表面的な連絡の背後にある「内面的な必然的な連結」を見ぬかなければ正しい理解に達しえない。概念と判断とのありかたもダイナミックな展開として追跡できるような、弁証法的な論理学が要求されているわけである。■
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No.56 に応えて



>>なぜそのように考えるようになったのかナゾです。

下記の通りです。
どこが不明なのでしょうか?
疑問な点は質問して下さい。


 まず「が」であるが、この使いかたはいくつかあるにしても、そこには共通点がある。「わが涙」「わしが在所」「梅が枝(え)」「夢が浮き世か浮き世が夢か」など、体言をつなぐかたちのものが文語に多く、また「言わぬが花」「知らぬが仏」「目に見るがごとく」など、用言の下につくこともある。これらは、むすびつきとして意識する以上のものではない。

   風が吹いて、木がゆれる。
   彼が行かなければ、私が行きます。

 これらのかたちをとっても、物ごとのありかたをやはり単純なむすびつきでとらえていることは同じである。風については吹いていることだけをとらえ、木についてはゆれることをとらえている。彼と私は対置させられているが、彼のありかたも私のありかたも単純なむすびつきでとらえている以上のものではない。

   これが父で、これが母です。
   これは父で、これは母です。

 たとえ同じ対象をとりあげても、この対象をとりあげる話し手の意識にはちがいがある。「が」を使うときは個人を一人一人別々にとりあげているにすぎない。ならんでいる動物を、「これが犬で、これが猫です」というのと同じような意識である。しかし「は」を使うときには、父のときはそれ以外の人間ではなく母のときはそれ以外の人間でないことを意識して、集団の中でとりあげている。山田のいいかたを借りれば、「排他的」なとらえかたをしている。

   誰が何といっても、私は平気だ。
   彼が行かなくても、私は行きます。

 ここでは「排他的」なことがさらに明かである。他人のことは単純なむすびつきでとらえるが、それと対置されている自分のほうは、全体の中の自分として異質な存在であることを意識したり、彼と自分とは異質な人間で自分は主体性を持っていることを意識したりして、「は」でその差異を強調する。

   梅は咲いたか、桜はまだかいな。
   梅は春に咲く。

 この二つは、「は」の使いかたがちがっている。前者はこれまた「排他的」で、花全体の中での梅や花全体の中での桜を、それぞれ他を意識してとりあげているのだが、後者は「梅」といわれているものすべてに共通した普遍的なありかたをとりあげている。この二つは正しく区別しなければならない。

   反作用はつねに作用と方向が反対で大きさが等しい。
   全体は部分より大きい。

 科学の法則は、普遍的に存在する関係をとりあげているのだが、このときもわれわれは「は」を使っている。

 以上のように見てくると、われわれは対象を概念としてとらえて言語で表現するとは言うものの、その概念がまず個別的概念か、特殊的概念か、普遍的概念かに区別することができるし、これらの概念の自己自身による規定作用としての判断も、個別的判断か、特殊的判断か、普遍的判断かに区別することができる。そしてこれらの判断は、当然に肯定判断や否定判断と認識構造においてむすびついている(1)ものと見なければならない。宣長は直観的に、てにをはにおける係と結とのつながりをとらえたのだが、用言そのものが「力を持つ」わけでもなければ、係助詞そのものが「支配する」わけでもない。

(『認識と言語の理論 第二部』4章(4) 判断と助詞との関係)

http://okrchicagob.blog4.fc2.com/?tag=%E8%AA%8D% …
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明らかに無理筋でしょう。


 というより、なぜそのように考えるようになったのかナゾです。
「そういう考え方もできる」……という話でもありません。

 この質問の発句?を読んでも、読めば読むほど無理筋と感じます。
 たとえば、下記をご参照ください。
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12769228304.html
「特殊性」と「普遍性」の境界が当方にはまったく不明です。

 そもそも三浦つとむは下記【20221117追記】のように書いていました。 
 文章はヒドいのですが、内容はそのとおりだと思います。
 なぜあんなに無理なコジツケをしたのでしょう。
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12768691626.html
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.
>「特殊性」と「普遍性」の境界が当方にはまったく不明です。

わかりやすくするために、非常に大雑把に言うと以下のような解釈でよいかと。
まずは、
「普遍」
❶ 広く行きわたること。また、すべてのものにあてはまること。(明鏡)
というところから始めてみます。

万年筆と鉛筆は、どちらも筆記用具です。
「何か書くものをくれ」と言われた場合、どちらを渡してもおかしくはない。
どちらも筆記用具としての普遍性を持っているから。

・万年筆は筆記用具だ。

と言う場合、話者は万年筆を普遍性として認識していることになります。
「万年筆というもの」のように言い換えられるなら普遍性と言ってよいのではないかと(今のところ)考えている。

子供の頃小学校では鉛筆を使いました。
中学校でモンブランだったかパーカーだったか忘れましたが万年筆を買ってもらった。それだけで大人になった気がしましたね。

・万年筆は僕の宝物だ。

これは「万年筆というもの」という意味ではないですよね。
他の人のではない「わたしの万年筆」という意味なので特殊性です。
しかし、この場合も筆記用具という普遍性が失われているわけではない。

つまり、特殊性の認識を持って「わたしの万年筆」と言う場合、この万年筆は「筆記用具という普遍性」の側面も同時に保持していることになる。

しかし、ある日力を入れ過ぎでペン先を折ってしまった。

・僕の万年筆が壊れた。

といって慌てます。
この場合、
「万年筆(というもの)が壊れた。」
という意図ではないので普遍性ではない。
かといって、
「(他の人のではない)僕の万年筆が壊れた」
という意図でもないですよね。

・僕の万年筆が壊れた。

と言う場合の万年筆は、
さきほど申し上げた「特殊性の側面と普遍性の側面を併せ持ったもの」として話者に認識されています。むろん無意識的にですが。

「壊れた」という動作の主格として「万年筆が」と言っているので、普遍性だろうが特殊性だろうが、そんなことに構ってはいられないのです。
あくまで「この万年筆」という一個の物体として認識されている。
これが個別性の認識です。

以下補足欄へ。

お礼日時:2022/11/18 23:58

>>たとえば富士山は最初から富士山として存在したわけではないと思います。


何回かの火山活動によって地面から盛り上がった形状が生まれたのだと思いますが、そのようなものとして形作られた形状として普遍性を持つと言えるんじゃないですかね、たぶんですが。

何を寝言を並べているのですか???
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No.51 に応えて



>>「が」の個別性に個物の意図を含めて解釈すると三浦の記述に反していることを明示しました。

対象と認識の相対的独立、概念と抽象、「矛盾の発展を忠実にたぐっていく」を全く理解できない方がどうやったら、

「が」の個別性に個物の意図を含めて解釈すると三浦の記述に反していることを明示

出来るのですか?

魔法使いですか?

馬鹿馬鹿し!!!
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もう一度明言しますが、



粗忽長屋の八丁堀の旦那の下に、熊さん八っあんなどの奴素人が寄り集まり床屋談義を繰り返しても何の意義も、成果もありません。

先ずは先人の知恵を批判的に継承しなければなりません!

あなた方に批判能力の欠片もありません。■
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No.50 の補足です



「矛盾の発展を忠実にたぐっていくという態度である。」という具体的な内容が下記です。

言語はどんな矛盾を含んでいるか  【1】 言語の二重性
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9939 …

言語はどんな矛盾を含んでいるか :  【2】 認識の矛盾と表現の矛盾との相互規定
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9940 …

言語はどんな矛盾を含んでいるか : 【3】 対象の捉え方における矛盾
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9941 …

言語はどんな矛盾を含んでいるか :  【4】 概念の持つ矛盾
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9941 …

言語はどんな矛盾を含んでいるか : 【5】 概念の持つ矛盾
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9941 …

言語はどんな矛盾を含んでいるか : 【6】言語表現の持つ矛盾
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9941 …

言語はどんな矛盾を含んでいるか   【7】 言語表現の発展とレーニンの記号論の限界
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9942 …

言語はどんな矛盾を含んでいるか : 【8】 言語は社会的な規範を必要とする
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9942 …

言語はどんな矛盾を含んでいるか : 【9】 言語の改革をめぐって
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9943 …

言語はどんな矛盾を含んでいるか   【10】  文字言語と音声言語
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9943 …
「普遍・特殊・個別をハガの違いに適用しよう」の回答画像52
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No.50



>いいえ。
三浦はあくまでも哲学ではなく、科学としての認識論、言語論を展開しています。いい加減に無知に基づく馬鹿話は芳子さんにしましょう!

哲学ではないと言ってるのに、わざわざ同じことを言ってくるとはご苦労様です。
そして、ツチノコ式認識論も誤りだと、「が」の個別性に個物の意図を含めて解釈すると三浦の記述に反していることを明示しました。
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No.49 に応えて



>>単純な意図で利用しており、哲学的概念として解釈するのは不適切だと思います。「が」は個別性に個物の意図を含めて解釈すると三浦の記述に反していることを明示しました。

いいえ。
三浦はあくまでも哲学ではなく、科学としての認識論、言語論を展開しています。いい加減に無知に基づく馬鹿話は芳子さんにしましょう!


三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.13~
 認識論をそして言語学を個別科学として確立するために、どのような研究方法が必要かといえば、それは対象の考察に際してつねに矛盾の存在に心をくばり、矛盾の発展を忠実にたぐっていくという態度である。しかしこういわれても、読者特に言語学の書物だけに親しんで来た人びとには納得がいかないかも知れない。かつては言語を、それ自身として成長し変遷する存在と考え有機体と解釈する、言語有機体説がひろく説かれていたこともある。この説はあやまりであるが、それにはそれだけの根拠が存在したのであって、有機体の持つ論理と共通するものが言語にも存在することに気づいたからである。有機体の持つ論理が言語の研究にも役立つと考えるのではなく、同じ論理をもっているから言語も有機体だと結論したところに、あやまりが生まれたのである。それでは有機体の持つ論理とは何かといえば、これがほかならぬ矛盾なのである。それゆえ、まず矛盾についてすこし語ることにしよう。

 矛盾は常識的には、変則的な・異常な・存在することののぞましくないものだと思われている。中国の故事にある、矛(ほこ)と盾(たて)との説明のような、不合理な認識のありかたをさすものと考えられている。しかしどんな矛盾にしても、それが生れるだけの合理性があるからこそ存在できるのであるし、またのぞましくない消滅させることが必要な矛盾だけではなく、反対にのぞましいものとして維持したり創造したりすることが必要な矛盾もあることは、すでに古代から哲学者たちによってとりあげられている(1)。マルクス主義の創始者たちは、この矛盾論の遺産を唯物論の立場で受けぎ、科学的な矛盾論を確立したのである。現にわれわれ人間もふくめたあらゆる生物は、どの瞬間においても、同一のものでありかつ同一のものではない。個体として同一でありながらそのありかたは異っている。どの瞬間においても、それは外からもたらされた物質をとりいれ、別の物質を排泄している。これは絶えず自己を定立しかつ解決しつつある一つの矛盾であって、この矛盾がやめば直ちに生命もやみ死がはじまるから、生きていくためにはこの矛盾を維持していく必要があり、とりいれる面と排泄する面との調和に努力する必要がある。この種の矛盾は非敵対的矛盾とよばれている(2)。これは肉体の成長において見られるばかりか、精神の成長すなわち認識の発展においても見られるのであって、認識におけるもろもろの非敵対的矛盾をそのありのままにとらえなければ、認識論を体系化していくことができなくなってしまう。たとえマルクス主義者と名のっていても、非敵対的矛盾についてのあやまった解釈を信じているのでは、認識論を個別科学として確立することはできない。

(1) 三浦つとむ『矛盾論の歴史と毛沢東の矛盾』(季刊『社会科学』第九号、一九六六年五月)参照。たとえばヘラクレイトスは、「自分自身と分裂しながら自分と一致する」いわゆる「一分為二」の形態をとった矛盾のありかたに、調和するものを認めて、弓をその例の一つにあげている。弓は竹であれ木材や金属であれ、弾性のある材料を必要とするが、一方の弦には非弾性的なものを用いなければならないし、弓の長さ・太さ・強さも調和したものを用いなければならない。それゆえ弓の持つ矛盾は、矢をとばす原動力であり、調和するものとして成立した矛盾であると理解したのである。

(2) マルクス主義者と自称する人びとは、いずれも敵対的および非敵対的の二種類の矛盾を認めるのであるが、その区別のしかたは必ずしも同じではない。二種類の矛盾は本質的に異なるのだ(ソ連)という主張と、どちらも闘争的だという点で異っておらず、「闘争の形態」が異なるだけだ(中国)という主張との対立が、現に中ソ論争の中で火花を散らしている。前者は矛盾の調和を認め、後者は矛盾調和論に「修正主義」のレッテルをはっている。
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