と思うのですが、いかがですか?
三浦つとむによると、「は」は普遍性、または特殊性の認識を表わし、「が」が表すのは個別性の認識だと言う。
[ 1-アーc. (海に住んではいるが)鯨は哺乳類だ。](単純な主題提示)
これは三浦つとむの「普遍性」の認識に該当するだろう。
[ 1-アーa.(新幹線の車窓から眺めて)富士山はいつ見ても美しい。](単純な主題提示)
[ 1ーイーa.(鳥海山は国定公園だが、)富士山は国立公園だ。](対比)
[ 1-ウーa. 富士山は日本一の山だ。](同定文)
などは「特殊性」の認識である。
[ 2-ウーa. 富士山が日本一の山だ。]
これについては「個別性」の認識だと言う。
たしかに、客体はすべて普遍性の側面と特殊性の側面を持っている。シチュエーション次第で変化するのであり、客体それのみを取り上げてどちらと言うことはできない。
[ 1ーイーa.(鳥海山は国定公園だが、)富士山は国立公園だ。]
の場合も、特殊性であるが普遍性の側面が消滅しているわけではない。
対比して主題提示したいので [ 結果的に ] 特殊性について述べる形になっている。特殊性がクローズアップされているだけである。
「富士山」という客体は、常に普遍性と特殊性を内包しているということだが、そうした普遍性と特殊性の両者を含む「富士山」として立ち上がっているのが、
[ 2-ウーa. 富士山が日本一の山だ。]
という場合で、これが個別性の認識だ。
なぜ後者の場合だけ《普遍性と特殊性の両者を秘めている「富士山」として立ち上がる》ことができるのかというと、主題提示と主格指定という両者の意義の違いが大きく関係している。
後者の場合、単に主題を提示する、つまり話題を振るのではなく、「日本一の山だ」という述部の主格として「富士山」を明確に指定しなければならない。
普遍性なのか特殊性なのかという詮索が入り込むゆとりは無いのである。
判断文ではなく現象文と言われるのも、このためだ。
たしかに、個別性は普遍性と特殊性の両側面を秘めた状態で認識される。
ただ、これは、あくまで、
[ 2-イーe. 友人が遊びに来た。]
のような中立叙述の場合であり、《A 以外を意識せずに A を主格指定したい場合》だろう。
[ 2ーアーd. (僕ではなく)友人がこのケーキを作った。]
といった総記の場合は、
《A 以外を意識しながら A を主格指定したい場合》である。
この友人に対して、《普遍性と特殊性の両側面》を秘めているという認識が果たして妥当と言えるであろうか。
[ 1ーイーg. (みんなは賛成したが、)僕は反対した。]
と比べてみるとよい。
これは特殊性の認識だ。
《A 以外を意識しながら A を主題提示したい場合》である。
三浦は、
[ 1ーイーg. (みんなは賛成したが、)僕は反対した。]
は普遍性ではなく特殊性の認識だが、
[ 2ーアーd. (僕ではなく、)友人がこのケーキを作った。]
は《普遍性と特殊性の両側面》を秘めている個別性の認識だ、と三浦は言っていることになるが、これはさすがに無理筋だろう。
普遍性の認識は
《A 以外を意識せずに A を主題提示したい場合》
であり単純な主題提示で表現することができる。
[ 1-アーc. (海に住んではいるが)鯨は哺乳類だ。]
下記のように、普遍性と言うと誤解を招きやすく一般性と呼ぶ方が妥当な場合もある。
[ 1-アーb. (自己紹介などで)私は社長だ。]
特殊性の認識は、
《A 以外を意識しながら A を主題提示したい場合》
であり、対比(限定)のための主題提示で表現することができる。
[ 1ーイーc.(鮫は魚類だが)鯨は哺乳類だ。]
個別性の認識は、
《A 以外を意識しながら A を主格指定したい場合》
であり排他の主格指定。
[ 2-ア-b. (鳥海山ではなく)富士山が世界文化遺産だ。]
及び、
《A 以外を意識せずに A を主格指定したい場合》
であり単純な述懐のための主格指定、いわゆる中立叙述である。
[ 2-イ-a. 富士山が噴火した。 ]
と捉えればよい。
しかし、肝心なのは、
[ 1ーイーc.(鮫は魚類だが)鯨は哺乳類だ。]を個別性と呼んで何ら差支えはないのであり、
[ 2-ア-b. (鳥海山ではなく)富士山が世界文化遺産だ。](総記・排他)
[ 2-イ-a. 富士山が噴火した。 ](中立叙述)
を特殊性と呼んでも論理的に何の矛盾も生じない、ということだ。
三浦はこの点を見落としている。
用語自体に固執しすぎて日本語理解を妨げるなら本末転倒である。
これ(普遍・特殊・個別という概念)を「は」と「が」の使い分けに持ち込んだのは三浦の勇み足と捉えざるを得ない。
※
ヘーゲルの「普遍―特殊―個別」論理 ――『法の哲学』の自由論
山内 清
https://www.tsuruoka-nct.ac.jp/wp-content/upload …
からご参考までに関連個所を引用しておきます。
②普遍 「普遍」はまず始元性、直接性であり、ついで反省 性として規定性=特殊性をもって現れる。しかし普遍 が普遍として現象することはない。
上記のようにかな らず特殊や個別で現象する。
普遍は自己同一性を保つように 同時に否定的に規定され、現象し、段階化するのであ る。
③特殊 「特殊」は普遍の自己否定性であり、普遍の対立概 念である。しかし、普遍の否定で特殊にいたっても、 特殊は普遍の要素をまったくもたないということでは ない。
だから特殊ではむし ろ「普遍が濁りなく自己同一性を保っている」のであ り、特殊として存在する普遍である。「普遍は特殊にお いて他者のもとにあるのではなく、まったく自分自身 のもとにある」(大論理、下、45 頁)。特
特殊が普遍と区 別される点は、特殊は一つとは限らず多数存在するこ とである。そうした特殊の多面な可能性が現実に一つ に絞り込まれたものが個別である。
特殊は普遍と個別 を結合する環である。
④個別 「個別」は普遍と特殊という対立物の統一であるが、 それ自体自立した具体的なものである。
「個別の契機に なってはじめて、概念の諸契機が区別として定立され る」(165 節)。
すなわち個別に至ってはじめて普遍や 特殊が意味をもつのであり、逆に言えば個別のものを 分析することで普遍や特殊がわかる。
概念の三契機は もともと不可分なものだが、普遍や特殊をみた際に、 すでに個別が見通されている。
普遍の自己否定的な産 出が種々の特殊であり、諸特殊の一つの特殊への固定 化、諸可能性を一つの現実に絞り込むこと、すなわち 否定すること、
総括的には普遍の否定の否定的産出が 個別である。
A 回答 (139件中81~90件)
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No.81
- 回答日時:
No.80 の補足です。
質問者には3年以上前から、その理解の誤りを再三に亘り指摘を繰り返しています。
取り敢えず、手にした著作を最初から、最後まで徹底的に理解するよう指摘してきましたが、全く理解でいないまま今日に至り、その誤りを繰り返し公言しています。
そして関連著作も必要に応じ参照するよう指導、指摘して来ましたが
>>彼の著作についてはほとんど知りません。
という体たらくです。一体何をどう考えているのですか!!!
■
No.82
- 回答日時:
No.76 のお礼に応えて
>>今日は遅刻した。
は特殊な場合だから特殊だと三浦が説明していることもしらないうっかりツチノコ
「今日」の特殊性ということが理解できない 八丁堀の粗忽長屋の旦那!
勝手な妄想を押し付けて歪曲し赤っ恥を晒しなさんな!!!
■
No.83
- 回答日時:
No.78 のお礼に応えて
>>言語学について語りたいなら最低でもソシュール読もうな。
ははは!
君は中学生向けの辞典の解説を読むことがソシュール読むことだと全く勘違いしているよな!
一度でもソシュールを引用もせず、中学生向けの辞典から涌いた君の妄想ばかり並べ立てて恥ずかしくないのかね!
当方はソシュールも直接引用したが気付かなかったというか!
中学生向けの辞典の解説にはそこは出ていなかったので全く理解できなかったということだよな!
馬鹿々しい!!
■
No.84
- 回答日時:
>>しかし、どちらも(あれは最新型ではない)という観念的な前提が存在するシチュエーションである点では何ら変わらないのだから、それをハ・ガの使い分けに活用しようとしたのは勇み足だった、と申し上げている次第。
伝わりませんかねえ・・・。(笑)
全くの誤りです。
まず、シチュエーションという発想が誤りです。
「これは」「これが」と表現する時の話者の認識を問題にしているのであり、どちらも(あれは最新型ではない)などという観念的な前提が存在するのではありません。
この辺が矛盾論も認識論も理解できずに、不可知の客体である対象自体を問題にするしかない質問者の理解の限界です。■
No.85
- 回答日時:
No.79 に応えて
>>かなり頑張って汲み取ってあげてるんだけど、さすがにこれは無理だ。
いいえ。
いくら頑張っても現在の理解力ではどの応答も正しい理解はできません。
所詮、無理ゲイです。
■
No.87
- 回答日時:
皆さんの応答を見ていると、やはり下記の矛盾の在り方が根本的に理解できていないことが議論が的外れになり混迷する原因です。
まずは、この点をしっかり理解しましょう!
「第一章 認識論と矛盾論 (1) 認識論と言語学との関係」
から。
認識論をそして言語学を個別科学として確立するために、どのような研究方法が必要かといえば、それは対象の考察に際してつねに矛盾の存在に心をくばり、矛盾の発展を忠実にたぐっていくという態度である。しかしこういわれても、読者特に言語学の書物だけに親しんで来た人びとには納得がいかないかも知れない。かつては言語を、それ自身として成長し変遷する存在と考え有機体と解釈する、言語有機体説がひろく説かれていたこともある。この説はあやまりであるが、それにはそれだけの根拠が存在したのであって、有機体の持つ論理と共通するものが言語にも存在することに気づいたからである。有機体の持つ論理が言語の研究にも役立つと考えるのではなく、同じ論理をもっているから言語も有機体だと結論したところに、あやまりが生まれたのである。それでは有機体の持つ論理とは何かといえば、これがほかならぬ矛盾なのである。それゆえ、まず矛盾についてすこし語ることにしよう。
矛盾は常識的には、変則的な・異常な・存在することののぞましくないものだと思われている。中国の故事にある、矛(ほこ)と盾(たて)との説明のような、不合理な認識のありかたをさすものと考えられている。しかしどんな矛盾にしても、それが生れるだけの合理性があるからこそ存在できるのであるし、またのぞましくない消滅させることが必要な矛盾だけではなく、反対にのぞましいものとして維持したり創造したりすることが必要な矛盾もあることは、すでに古代から哲学者たちによってとりあげられている(1)。マルクス主義の創始者たちは、この矛盾論の遺産を唯物論の立場で受けぎ、科学的な矛盾論を確立したのである。現にわれわれ人間もふくめたあらゆる生物は、どの瞬間においても、同一のものでありかつ同一のものではない。個体として同一でありながらそのありかたは異っている。どの瞬間においても、それは外からもたらされた物質をとりいれ、別の物質を排泄している。これは絶えず自己を定立しかつ解決しつつある一つの矛盾であって、この矛盾がやめば直ちに生命もやみ死がはじまるから、生きていくためにはこの矛盾を維持していく必要があり、とりいれる面と排泄する面との調和に努力する必要がある。この種の矛盾は非敵対的矛盾とよばれている(2)。これは肉体の成長において見られるばかりか、精神の成長すなわち認識の発展においても見られるのであって、認識におけるもろもろの非敵対的矛盾をそのありのままにとらえなければ、認識論を体系化していくことができなくなってしまう。たとえマルクス主義者と名のっていても、非敵対的矛盾についてのあやまった解釈を信じているのでは、認識論を個別科学として確立することはできない。
認識の基礎となっているのは現実の世界であるが、この現実の世界を反映し模写するという認識の本質的なありかたがすでに一つの非敵対的矛盾を形成している。現実の世界は時間的にも空間的にもまたその多様性においても無限であるにもかかわらず、その現実の世界の一部分であるわれわれの頭脳への現実の世界の反映は、われわれの歴史的なありかたと個人の肉体的・精神的なありかたから規定されて、時間的にも空間的にもまたその多様性においても有限でしかありえない、という矛盾である。この矛盾は人間の認識にとって本質的なものであって、人類が消滅しない限り消滅しないのである。それゆえつぎの叙述は、認識論を建設するに際しての出発点を教えるものとして、きわめて重要になる。
「人間の思惟は至上的なものであろうか。そうであるかないかを答える前に、われわれはまず人間の思惟とは何であるかを調べなければならない。それは一個人の思惟であろうか。そうではない。だが、それは過去、現在および未来の幾十億の人間の個々の思惟というかたちでしか存在しないものである。いまもし私が、この私の観念のうちに総括されている、未来の人間をもふくめてのこれら一切の思惟は、人類が十分長く存続しさえするなならば、そしてまた認識器官についても認識対象に関してもこうした認識作用に制限が加えられるようなことがないかぎり、至上的なものであって、現存の世界を認識することができるのだ、といったとしたら、私はかなり平凡な、そしてしかもかなり無益なことをいったことになる。というのは、そこから出て来るもっとも価値ある成果というのは、今日われわれの持つ認識に対してわれわれに極度の不信を起させるぐらいなものであろうからである。」
「各個々の思惟にもとづく認識の至上的な妥当性はどうかといえば、われわれがみな知っているとおり、そんなことはとうてい問題にならないし、またこれまでの一切の経験からいって、そうした認識には、例外なくいつも、これ以上修正の余地のないもの、すなわち正しいものよりも、修正の余地のあるものの方がずっと多くふくまれているのである。」
いいかえれば、思惟の至上性はきわめて非至上的に思惟する人間の系列を通じて実現され、真理性を主張する無条件的な権利をもつところの認識は相対的誤謬の系列を通じて実現されるのであって、前者も後者も人類の生命の無限な存続を通じてでなければ、完全に実現されることは出来ないのである。
ここでもまた、どうしても絶対的なものしか考えられなかった、人間の思惟の性格と、もっぱら制限のうちでしか思惟することのできぬ個々人の現実との間の、上述のような矛盾にぶつかる。それは無限の前進を通じなければ、すなわちわれわれにとっては少くとも実際上限りなく継続してゆく人間世代を通じなければ、解決のできない矛盾である。この意味において人間の思惟は至上的であって、至上的でなく、またその認識能力は無制限であるとともに制限を持っている。素質、使命、可能性、歴史的終局目標から見れば、至上的であり無制限である。個々人の実行とそのつどつどの現実から見れば、至上的でなく制限を持つものである。」(エンゲルス『反デューリング論』)
人間の認識は現実の世界の反映であるから、時間的にも空間的にも有限で
ある個人の肉体的・精神的能力に規定される個人の認識は有限でしかありえない。世界の無限性に対する人間の認識の有限性、これが認識のもつ本質的な矛盾である。しかし人間は社会的な動物であるから諸個人は物質的・精神的な交通を通じて肉体的にも精神的にも互いにつくり合っている。そこに個人が肉体的・精神的な限界を超えていく契機がある。
つまり、個々人は「もっぱら制限のうちでしか思惟することのでき」ない存在ではあるが「実際上限りなく継続してゆく人間世代を通じ」て「思惟の至上性」は実現されるのであり、その意味で「人間の思惟は至上的であって、至上的でなく、またその認識能力は無制限であるとともに制限を持っている」といえるわけである。
エンゲルスはここで人間の認識の歴史性について語っている。これは真理というもののもつ歴史的性格の規定でもあり、科学的真理もまた同じ性格をもつものとして規定される。このことは自然科学の歴史の成果にもとづいて自然科学を実践している者にとってはきわめて自明なことがらである。
人間の認識が変化し発展していくものであることは、誰もが認めている動かしがたい事実である。科学は事実を認めるだけでなく、なぜ・いかにして・この変化と発展が起るのかを説明しなければならない。たとえ観念論者が、人間の生れつき与えられている能力によるものだと解釈しても、われわれは認識の本質的な矛盾をとらえて、それがどのように発展していくのかをたぐって考えてみなければならない。現実の世界が無限であるのに対して、われわれ個人の認識に限界があるとしても、われわれは他の人間の認識を受けついでそれを補う方法を現に実践している。これは実際上限りなく継続していく人間の世代の認識を系列化することであり、個人が他の人間とむすびついてつぎからつぎへと認識を受けついでいく認識それ自体の交通・運動形態を創造することである。この無限の継続が、現実の世界の無限のありかたと正しく照応し調和するように定立させられるのであるから、これは非敵対的矛盾を実現しかつ解決することなのである。この矛盾はさらに個人の認識の構造として具体化されていく。
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/?tag=%E8%AA%8D% …
■
No.88
- 回答日時:
No.61 の誤りについて
そして、「象」や「キリン」は哲学的には普遍ですので、特殊性も普遍と対立するものではなく、
Aは~
Bは~
を暗黙的に前提とした上での特殊なケースということです。これを、物に比べると特殊などと言い出したら、普遍の例とされる
ポチは犬である。
だって、犬という特殊な種と関連付けているのですから。//
>>「象」や「キリン」は哲学的には普遍ですので
哲学的にであれ科学的にであれ普遍性を抽象した概念であることに変わりはありません。現実に「象」や「キリン」という個物がポツンと存在するわけではありません。
この辺が皆さんが根本的に理解できていない点です。
>>犬という特殊な種と関連付けているのですから。
先の引用にもある通り、あるレベルでは特殊であり、他では普遍という立体的、ダイナミックな対象の構造を理解することが必要です。この辺は、
言語はどんな矛盾を含んでいるか :【5】概念は感性的な手がかりを「恋して」いる
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9941 …
を参照下さい。
■
No.90
- 回答日時:
>>これを、物に比べると特殊などと言い出したら、
>:
>そういうことを言ってる人がいますか?
ツチノコ氏は言ってました。
三浦の記述を提示した結果、今は違うことを言い出しているようですが。
①「象は鼻が長い」は象という特殊な種の一部である個別の鼻の属性の認識の表現です
②「象の鼻が長い」は個別の象の部位である鼻の属性の認識の表現。
③「象の鼻は長い」は犬や馬の鼻ではなく「象の鼻」という「特殊(種の)な鼻」の属性の認識の表現。
ご回答ありがとうございます。
矛盾に気づかず、気づいても詭弁で誤魔化そうとする、それでもダメなら恫喝、または、あれ読め、これ読めの一点張り。
それがソースとはね、いやはや・・・。(笑)
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ちょっと追加で。
>三浦が「が」は排他だとは述べている箇所は見つけられませんでしたが。
:
そもそもですが、みんなが嫌がっている仕事について、
私がやります。
と言う場合に排他の意図が働いているのは、いくら三浦でも否定はしないと思う。
大事な点なので再掲
これは個人的な感覚としてですが、たとえば富士山は最初から富士山として存在したわけではないと思います。
何回かの火山活動によって地面から盛り上がった形状が生まれたのだと思いますが、そのようなものとして形作られた形状として普遍性を持つと言えるんじゃないですかね、たぶんですが。
後に富士山という名称がつくわけですが、これを他の山々と対比的に捉える認識が特殊性の認識でしょう。
しかし、この場合でも《火山活動によって地面から盛り上がった形状》という属性が失われているわけじゃない。
狭い範囲を示すのが個別で、広い範囲を示すのが普遍。
他と違うものとして示すのが特殊。
だいたい、このような捉え方をなさっているということですかね?
しかし、
・象が鼻は長い
の場合は適用できないですよね?
2.
事物をこのように認識するのは、それなりの価値があり、その点で三浦は間違っていたわけではない。
しかし、落としたカバンが車にひかれ、
「(ボールペンはセーフだったが)万年筆は壊れた」
「(ボールペンはセーフだったが)万年筆が壊れた」
という文において、前者は特殊性、後者は個別性としたことが勇み足だった。
「前者は個別性、後者は特殊性」と言って何がおかしいんじゃい!
という極めて当然、且つ論理的な疑念を払しょくすることはできないからです。
⤴の表現が気に入らないので以下のように訂正します。
✕
「前者は個別性、後者は特殊性」と言って何がおかしいんじゃい!
という極めて当然、且つ論理的な疑念を払しょくすることはできないからです。
〇
前者が特殊性の認識で、後者が個別性の認識であること自体に何ら問題はない。
しかし、
《「は」を使うと個別性の認識であり、「が」を使うと特殊性の認識である。》
と言ったとしても、車にひかれた万年筆の状況に何ら変わりはないのであるから、ハ・ガの使い分けとして特殊性や個別性を持ち出すのは筋が違う、ということです。
・これは最新型です。(あれは最新型ではない。)特殊
・これが最新型です。(あれは最新型ではない。)排他
どちらも正しいのであって【この点で】三浦が間違っているわけではない。
当方は、そこを突いているわけじゃない。
しかし、どちらも(あれは最新型ではない)という観念的な前提が存在するシチュエーションである点では何ら変わらないのだから、それをハ・ガの使い分けに活用しようとしたのは勇み足だった、と申し上げている次第。
伝わりませんかねえ・・・。(笑)
> さて本題に関しては雑音と関わりたくないのでリンクにします。
:
お気持ちはよくわかります。(笑)