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「いい子を演じる」よく使う言葉ですよね。いい子になりたいから努力するのではなく、親・先生・友人などに認められたい・誉められたという理由でついつい「いい子」を演じてしまう。でも誉められると「わたしは本当はいい子なんかじゃない!誰かわかってよ!」という気持ちになる。
結婚生活でも「妻を演じる」ことがある。相手を愛しているからつくす。偽りのないまごごろなのに、いつしか「相手に認められたい!もっと愛されたい!」と思っている自分がいる。「そんな自分に気づいて!」と思う。
優等生が急に非行に走るとか、良妻が熟年離婚するのもその例でしょう。
夫をたてて苦労を分かち合っていた当時は、それが幸せだと信じていたはず。その瞬間瞬間は納得していたはずなのに、あとから違った思いに駆られてその感情を止めることが出来なくなってしまう。どちらが本当の自分なのでしょうか?
どちらも本当だといってしまえばそれまでですが、どちらの自分を生きたらいいのかわかりません。藤島部屋のおかみさんだった花田憲子さんもずっと不幸だったとは思えませんし。自分で納得していたはずの我慢も我慢できなくなるとしたら自己中心的に生きるほうが、、、と思ってもこういう性格だと出来ない(笑)
この性格の欠点は「ずーっと我慢させられてきたんだ!今やっと気づいた!」って全てを覆そうとしてしまうところ。
どちらも自分だけれど、全く正反対で、だから葛藤がおこって、とても苦しくなります。正反対だけに両方を認めるのがとても苦しいのです。

A 回答 (8件)

心の中に子供の自分がいますよね。


こんな風に心が賢い人は悩んでしまいますよね。

対誰誰ではなく対自分だから、手ごわい。
そんな自分を救えるのは、子供の頃の何かを我慢した自分
だけなんじゃないかな?

せっかく葛藤してるチャンスを逃さないで、
自分を助けてあげてくださいね。
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この世の中は最低でも2なければ作り上げていく事は出来ません


何かこの話を聞いていると意識的に混乱しているように見えます。
「不意に…」という言葉がありますが、これの意味は「意図しない」
という意味です。これは無意識のコントロールで起こるものです。
さて、wedwedさんの話を聞いてみると意識のコントロールで行動
するので、無意識が嫌がっているのですね。
無意識の考えと意識の考えがバラバラになっているのです。
まず意識の考えを停止させ、無意識の求めているものを
無意識のやりかたでやらしてみたらどうでしょうか。
そうすればおのずと意識の考えと意見が合ってくると思います。
まさに「不意に…」という行動です。
無意識のコントロールにまかせてみてはどうでしょうか。
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 わたしもいい子でしたよ。

特に大人に嫌われるのが恐かったんです。いじめられっ子だったので、先生という権威を防御壁にするために、先生に嫌われるわけにいかなかったんです。
 いじめがおさまってからも、いじめが再発したらこまるので、同年代の子からも嫌われないように、それこそ強い言葉も、真実の意見も言えませんでした。
 この生き方はね。たしかに決定的には嫌われない生き方でした。でも、わたし自身、だれも好きになれない生き方でもありました。
 言いたいことがあるのに嫌われるのがこわくて言えない。ようするに、常に不満があるわけです。無意識的にもね。
 その不満は、本当は自分が意見を言えなかったからこそある不満なんですけど、自己嫌悪となるだけではありません、意見をいえなかった相手にも向けられます。
 さらに言いたいことが言えないということは、心を閉じてることですから、相手と真実心でわかりあえないわけです。
 「我慢させられてきた」、と考えてしまうのがその証拠ですね。すべての行動は自分が選んでしてきたことですから、我慢「させられてきた」のではない、じぶんが選んで「してきた」ことです。たとえそれが自分の性格でどうしようもなかったと感じていても。
 だから人を本当には好きになれないんです。自分は好きだと感じていても、ふとさめてしまったり、一人よがりの思いだったり。
 ですから、本音をいえるように越したことはありません。でも、生き方を全部かえる必要はありません。
 どちらが本当の自分かといえば、というのはその質問自体に問題がありますね。自分を二つにわけて「このどちらかで生きる」なんて考えることがすでに間違ってます。その二つのの生き方しかないわけではないんですから。
 どちらを生きる、自分に正直に生きるって決めたからといって、すべての人に本音をぶつける必要はありませんし、今までのように、すべてを我慢して生きることだってありません。
 すこしづつ、あたりさわりのないところから意見をいってみればいいんですよ。もちろん家族などの身近な人に。きゅうに変わることなんてだれにもできません。
 それに、すべての人に本音で接する必要だってないんです。本音が人を傷つけることだってあります。あまり親しくない人などに傷つくような本音をいうべきではありません。それが親しい人であり、意見をいうことがその人のためであるのなら、本音の意見を言えばよいのです。あえてどちらか両極端に生きることはありません。
 自分の理想とする人をイメージしてみてください。なるべく具体的に。その人は決してすべてが人に合わせる人でも、すべての人に本音をぶつけてしまう人でもないんじゃないかな。
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(No.2のコメントありがとうございます。


 要求されたり、非難されたり、わがままに甘えられたり。
 相手側にしてみれば、けっこう、されてみて、うれしいってこともありますよ?
 自分が信頼されている、自分の心が必要とされているって実感できて。wedwedさんもそんなことありませんか?

 そりゃ、時と場合によることもありますが、ふだんはそういうところを見せない人(でも見せてほしい人)からされた時の感激ときたら。
 たまにはいいのでは? といっても、ためこんだ時は一度爆発的にしたほうがやりやすいのかもしれませんが。(受け止める方はビックリ!でしょうけれど)

 て、これで元気になっていただけたらと思ってまた書いてみたのですけど、もしもダメならうるさいだけかも、、
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いい子をやってきた私としても、考えさせられる問題ですが、私は、我慢することがこれまでの生きる術だったように思います。

私がいい子をやっていれば、今の環境は壊れなくてすむ、みたいな危うい関係の人間関係の中で人生を出発すると我慢する癖がつきます。私がその役割をその環境の中で引き受けたのです。そうすると、自分が我慢していることさえわからないんです。人の気持ちを優先して行動する癖がありますし、自分の気持ちを知ろうとしたことがありませんでしたから。知ったところで、自分の気持ちどおりに行動するという基準をもっていませんでしたから、私は私の気持ちを無視し続けてきたのです。私の場合、我慢させられてきたんだ、というより、自分が自分の気持ちを知ろうとしてこなかったことに気がつきました。もっと自分の気持ちに耳を傾けてあげてもよい、自分が自分の気持ちに耳を傾けてあげなくて、どうするんだろう。そう思うようになりました。本当の自分というのは、「私の気持ち」です。自分の気持ちを知ったうえで、相手に合わせてあげるのか、自分の気持ちをどこまで通すのか、それは、折り合い(交渉)の問題だと思います。ただ、我慢する癖を身につけてきた人は、自分の気持ちを通す方法(交渉)をあまり知らないので、どうしてもはじめて自分の気持ちどおりにことを進めようと思った時衝撃的になるのでしょうね。周りの人も、その人の気持ちを勘定に入れるのは忘れていますからね、無意識に。また我慢してくれる、とたかをくくっているのです。
 「がまんする」のも「自己中心」も自分の気持ちに対する極端な方法の問題のように思います。私は自分の気持ちに耳を傾け、どこまで譲れるか、その時その時感じることをしようと思っております。自分の気持ちに気づかず、とりあえず、相手の意向に合わせてしまうことはやめようと思っております。だからといって100パーセント自分を通すばかりではだめですよね。どこまで通すか、自分の気持ちを上手に通している人もいます。上手に周りの気持ちと折り合いをつけている人もいるようです。見習いたいと思います。
 でもね、ずっと我慢してきた人が始めて自分の気持ちにきづいた時は、自分の為にも1回だけ自己中心しないとだめなんじゃないかな。小出しにしてるとだめなの。だって、私の我慢の上に自分の人生設計を組み立てているような人がそばにいるような場合、やっぱり、思い切って離れなくちゃだめでしょう。折り合いのつけようがないのですね。相手も変わってくれない以上は。
 我慢というのは自分の心の中だけで、折り合いをつけている状態です。でも自分の心の中で折り合いがつかなくなると、爆発して自己中心になるのですね。でも、自分の中だけで一生折り合いをつけていかれるほど、人生は甘くないようですね。ですから、人との健全な関係は、お互いがお互いの心に折り合いをつける方法を探れる関係ということになろうかと思います。人の我慢を当てにしている人もいけません。
 wedwedさんは自分の気持ちには少なくても気づいておられるようで、葛藤というのは、その気持ちを全く我慢するか、全部押し通すかと、いうことでしょうか。この折り合いが難しいですよね。とにかく自分の気持ちを表明することが始まりですよね。いい子の場合。自分の気持ちを表明することに罪悪感さえ持っているいい子が私でしたが、自分の気持ちを言うことは絶対悪いことではありません。自分の気持ちを表明することから、周囲との折り合い(交渉)が始まると思います。
 そのときは納得したはずなのに、あとで爆発するってことは、本当の自分の気持ちを感じ切れなかったということでは。我慢し続けてきたいい子は交渉するのが怖くてつい、我慢に我慢を重ねますからね。
そういうわけで、まとまらずに長くなりましたが、自戒を込めて。
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この回答へのお礼

HappyHeartさん、アドバイスありがとうございます。
すごく参考になりました。なんかもやもやしてたものがすこしクリアーになった気がしています。

私は今まで「相手を優先すること」が美徳だと教えられてきて、無条件に相手を優先してしまうクセがついています。「自分が前にでることは恥ずかしいこと」という感覚もあります。いい例が、誰かが間違ったことをいっても訂正してあげられないんです。ちょっとした会話のなかで相手が間違ったことを何の疑いももたずに話しているとき訂正できない。知らないふりをしてしまいます。あと、「わたしが知らないだろうと思って話してくれているとき」実は知っていますと告白できない。
相手を喜ばせようと大げさに感心したようなフリをしてしまいます。
全部悪い習慣なんです。まさに『自分の中だけで折り合いをつけようとしている』状態だと思います。
長年の習慣なので、このパターンを変えるのはすごくすごく大変なのだと思います。人一倍臆病で傷つくのが怖いから、自分の殻に閉じこもってしまうんですよね。頭ではわかっているつもりなのに・・・。ふー。

お礼日時:2001/09/13 11:00

たぶん、新しい気持ちのほうが、本当(になってゆくの)だと思います。



>ずーっと我慢
 と言うのは、ウソ。
その時それしか知らなかったんだから、ガマンもなにもないです。
今までと違う世界を知ったから、そっちのほうがいいかな?と思って、そっちのほうへ行く。

変化するのは、苦しみを伴うことが多いです。それを乗り越えるために、「我慢させられ」たと思う(過去を憎む)ほうが、踏ん切りつけやすいということではなかろうか?

ただ、ちょっと心配なのは・・・・
動物園のオリの中で生まれたライオンが、アフリカのサバンナのような野生の世界を知って、出て行きたいと思ったとき、出ていったら飢えて死んでしまう事を知っているとき、「行きなさい」と言うべきか、「行かないほうがいいよ」と言うべきか。

”外”を知ってしまったら、”外”に出ない限り、”外”を思いつづけるでしょう。
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この回答へのお礼

ykkw_2001さん、アドバイスありがとうございます。
なんか「チーズはどこへいった?」を思い出しました。
変化を恐れない!って大切ですよね。

お礼日時:2001/09/13 11:12

「どちらが」というより「どれも」本当の気持ちなのではないでしょうか。


 ただ、どの気持ちがいちばん強いとか、あるいは同じぐらいでせめぎあってるとか、その時々で強弱はあるでしょうけれど。
 相手によく見られたい、でもそうではない自分もいる。でも、けっこう多くの人がそういうジレンマを抱えているのでは? もちろん、wedwedさんが「わかってほしい」「気付いてよ」と思っている相手も含めて。

 誰でも最初はとても難しいのかもしれませんが、、
 わたしは相手が、自分を本当にわかっていて欲しい人の時は、なるべく全てを話すことにしています。
 こちらがきちんと説明もしていないうちに「わかってくれない」と責めても、相手は「自分は何も悪くない」としか思ってくれないでしょうし。それに、わかってくれている人がいれば、自分でもけっこう落ち着けます。
 最初から話していれば……と悔やむより、それなら今どう話したら伝わるだろうかと考えてみてはいかがでしょうか。
 家族だから、友達だから、わかってくれてあたりまえ---だったらいいのですが、実際のところお互いに話していないと伝わっていないってことはよくあるものですよね? といっても、慣れてる相手に聞かせるのがこれまた大変だったりするのですが(苦笑)

 恋愛で「好き」って言葉にするのがとても難しくて大事であるように、大切な人に本当の心を伝えることは日常でも難しく、でもやはり大事なのではないかと思います。
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この回答へのお礼

jensia5さん、アドバイスありがとうございます。

相手に自分の気持ちを伝えることが「わがまま」「相手を非難する」「相手に要求しすぎる」というように感じられて、自分の中だけででつじつまを合わせるほうを選んでしまうのです。
でも、このままではいけないなと思っています。

お礼日時:2001/09/13 11:23

私も、どちらの自分が本当なのかと、いつか、白黒つけてやりたいと思っている者です。

しかし、その葛藤に苦しむのが、しんどくて、つい、楽なほうに逃げてしまいます。そうですね。人生いろいろあるから、このへんで妥協しようと。ところが、身近なものに、白黒の決着をつけるように迫られることが多々あります。その者から逃げるように、つい、してしまい、心の中では、ご免なさいと謝るのですが、なんか後味が悪く思えていました。本当の自分よ、でてこい!って叫ぶと、偉そうな人が、みんな仮面を被って生きているのだよ、ペルソナは仮面、ひとパーソンの語源だよ、だから気にしない、気にしないと言います。しかし、本当の自分って、出てきたら、困りませんか?あなたの言うように、きっと、わがままで、自己中心的なものではないかしら。ホントはこうしたいのにって奴が暴れまわりそうで。絶対的自己中心と相対的自己中心って、ありますよね。子供は前者で、大人が後者。大人でも、こどもっぽいところを当然持っておく必要があると思いませんか
。少し自制しながら、ちょっと、わがままやってみるという高等テクニックを発揮したりして。
 で、どちらが、本当の気持ちかは、私はあなたではないので、正直言ってわかりません。すみません。
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この回答へのお礼

kinyuureihanakoさん、アドバイスありがとうございます。

わたしの場合、仮面を被っているのは、クールで大人でいい人の自分。
もうひとり赤ちゃんのような人格がいて、その子は感じやすく、傷つきやすく、淋しがりやですね。誰でもそうなのでしょうが、この赤ちゃんをだましだまし生きていくのが大変なんだよね。

お礼日時:2001/09/13 11:38

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