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旅行へ行くは、間違った日本語でしょうか?

旅行という言葉自体が、旅に行くを意味しているので、旅に行く行く(重複、二重表現)になってしまうのではないかと思っています。

しかし、世の中にはこれだけに限らず、

着物を着る、煮物を煮る、選手を選ぶ、語学を学ぶといった表現も見聞きするので、これらも全て間違いになるのでしょうか?

A 回答 (28件中1~10件)

「へ」と「を」助詞の相違による・・・・・の意見非常に少ないですね。


それこそが「て・に・を・は」といわれる所以なんです。
着物を着る、煮物を煮る、選手を選ぶ、語学を学ぶ
すべて「を」目的格、ですね、間違いなんて飛んでもありません。
熟語でも熟語の成り立ちまで考える必要があります。
熟語にすれば品詞はすべて名詞になります
着る物→熟語にする以前から「物」名詞です、着るはそれの修飾語。
煮物、選手も同様(主体となる名詞の前に修飾語があります)
語学、これはちょっと異なります、語を学ぶ、語に学ぶ、修飾関係ではないようです?。
言語を研究する学問→言語学、ということで学問=名詞
「学」は学ぶではなく学び(名詞)
(言)語についての学び(学問)
ということで、着物と同様の理解が可能です
「言語」と「語」ではなにが異なるのかまでは存じません、単にあいまい(無責任)な表現しただけなのかも?
旅行、旅に行く→行く(動詞)表現が主体、でも熟語では名詞のため動詞表現は不可能なんです、こんな熟語を使って動詞の表現をするときは、熟語+「する」を付けます、「旅行する」。
※前出では、着物する、煮物する、選手する、語学する、なんて表現はありません(タバコする、お茶する・・類はあり得ますが)
こんな熟語の場合は重言云々を指摘される可能性があります。
そのうえで、「て・に・を・は」助詞の使いかたの問題になります。
借り物の知識だけでは対応不可能なのでは?。
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ごく普通に日本語ですね。

同じ意味の言葉を繰り返して使って冗長に見えますが、それこそが日本語の特長で、あえて冗長にして意味を明確にしてるわけです。冗長で無駄が多いか、というと、そんなことはなく、飛行機など、多くの国の利用者がある場合に、5か国語くらい並列して書かれてますが、日本語は大きな文字で短くて読みやすいですね。中国語はあれでほんとに分かるのか?と思うくらい簡潔ですが。ハングルは その中間かな?
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>「旅」を「行なう」ですね。


「旅」を「行なう」ですね。
したがって、それをしに行くと言うのは全く問題ありません。と言うのは全く問題ありません。

「に」や「を」ではなく「へ」使ってそういう意味になるのか?が問題なんですよ。
行う=日常会話ではそれを「する」という言葉で表現されています・
「旅をするへ行くんですね」
あなた自身が言っています、「それ(旅を行う)をし【に】行く」「に」を使っています
旅行、「行う」でも「行く」でも同じ動詞です、これを修飾?が旅。
主体は動詞表現だが熟語は名詞のため動きの表現は不可。
動詞として表現す時は、「旅行+する」として使います。
あなた流では「旅行する」=「旅するする」になっちゃいかねません
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旅行という言葉は、「旅」を「行なう」ですね。


したがって、それをしに行くと言うのは全く問題ありません。
「行なう」ということと「行く」と言うことでは同じ漢字を使っていますが違うものです。

着物、煮物、選手、語学は何れも名詞です。着る煮る選ぶ学ぶは、動詞。
同じ漢字を使っていても役割は違うものです。

例えば、落馬というのは、馬から落ちることですが、これは馬という名詞と落ちるという動詞を組み合わせたものです。
ですが、着物は「着るための物」というその物の名前ですが、これに着るという行動を示す意味はありません。着物だけでは行動を表現できないのですね。着物と書いて、物を着るという理解はできないわけです。
いくら動詞となる漢字が付いていても、名詞でしか無いのなら、行動は別に用意する必要があるわけですね。
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どれも普通に使われていることですし質問者さんが仰られている『見聞きする』も『ある』で十分伝わりますし『これらも全て』は『これらも』か『全て』どっちかで伝わるような気がします。



僕はどれも間違いとは思いませんが質問者さんはどう思いますか?
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公式の場で、その言葉を扱うのならば誤りで有るのも確かな事。


日本国語として、他者にその言葉を述べるのは間違いで有り失礼。

ですが、公式だろうと相手が日本国語を十分に学び修めた人間では
無い為らば、ある程度許容するのも人付き合いの礼儀作法です。

国語が、変だと不味い人間と構わない人間とが矛盾して
存在する事に関して、現実的なのですよ。

それを、容認する人間に権力権限が有り力を行使出来るならば
この問に関する物事は是なのです。

許さない人間が、力を行使すると否なのです。

多数決によって、是非するのです。
群れの中の派閥によって、是非するものなのです。

群れに、属して是非のどちらかを公式に認めた者が
プライベートでは、真逆な立場として動く事もある。

それが、人間なのです。

着物を着る。煮物を煮る。選手を選ぶ。旅行へ行く。頭痛で痛い。

何でも構わんよ。

大事なことでも大事じゃない事でも2度も述べれば
良く理解できるからね。

詩でも歌でもその手法・効果は絶大である。

モノには、限度有るので3度4度も意味の重複は宜しく無い。

重複を、じゅうふく・ちょうふくのどちらとして述べるのか。

現在現代の人にとって、公で使うならば「ちょうふく」こそが
そもそもの言葉遣い。実践として、世間一般庶民同士らの語らい
「じゅうふく」と、述べられる方が意味の理解は容易い。

字で見ても発音でも意味の理解が容易い。

現代の人の「重」と、過去の人らの「重」に関する認識の程。

そもそもは、人+袋+土である。

江戸の世の京都の人々が、考えた場合の東と言うのが江戸である。
その時代に、日ノ本へ訪れた渡来人(西洋人)の所有する物入れが
カバンであって、手拭いやら風呂敷なんぞを和製カバンとしての
アレンジしたものが、東袋・東カバンってなものだ。

江戸からの流行りなので、京都の人からすれば東から齎されて
流行ってる物入れだなーと。

袋=東物入れ

人+東+土=重

重なる語は、人にとってのオモミである。どの程度かは
広義的に、モノとしての様々を一つの袋に放り込む
保管する意味持たせつつ人が、袋を持って居て
大地の上に立っている様。

後は、重複とするが「複」そのものとは
当時の着物・衣類を、着用する手順としての有り様。
ネの部分に、衣の意味が込められている。

着物とは、「あわせたり」「かさねたり」する人々の装着衣。
これに、装着具って具にすると武具としての防具な意味合い。

こうした衣類に関しての複とは、現代だと服として扱うのが
一般的な言葉として、適当だろう。

また、複とは季語としては夏に関する物事として扱える。
これこそが、その時代の衣類に関する物事。

夏服は、綿を抜いて作るものであり
冬とも為れば、綿有りの衣類こそ適当。

時期に合わせ時期に重ね
わたぬく・わたぬきするものである。

私にとって、旅行へ行くと述べられたからって
どうこう思わんよ。

道中気を付けて、楽しんでとか十分に骨休め云々。
その人が、滝巡り趣味としてれば阿吽でもって
良い滝見れると良いね。

等々述べるだけのこと。

受け止め・受け返す人間次第なんだよ。

つまらん人間は、言語の深淵すらも覗こうとせずに
学校なり辞書やら流行り廃りの書物こそに頼っての是非。

現実のやり取りで、その白黒の裁定方法をきっちりと
組み込んで、受け答えする人間とはあんまり関わりたく無いな。

一々面倒だし何も言いたくない。

身内の誰かが、旅行行ってくるとでも述べれば
それで、問題なく理解するってことさ。

何処ぞの家で、一々言葉の誤り指摘したり説教したり
雰囲気悪くする御人を、度々見掛けるものだがね。

場に、合わせて雰囲気も良い感じに教え諭すようなのは
当事者等も見聞きする周囲等も穏やかな気持ちになる。

質問者さんが、どう言う所までを知りたくて
どんなのが、人としての立ち回りで適当なのかを知りたいのだろうか。

畏まった文章だと、とっても変ですね。

ですが、とあるキャラクターの「色」「形」のこれぞを
決める時の言葉使いが、そうで有ればAとBなる登場人物の
どちらが、述べているのか或いはどちらが代弁してるのか
解釈を、容易くする事もミステリーのように誰がそれを
行ったのか、迷走させる方向の仕掛けも施せる。

そう言う書物では、問題ないのです。

人とは、虚実の扱いで有るとか言葉遊び
戯言を、相応に使えてこそ言語及び人々の世界を
充実させる事に成功出来る。

現在の数扱う学問から虚数奪い取って、数理を扱えと言われたら
そらもう暴動発生する。
それ無いと、数の世界の秩序が無秩序になるからね。
オイラーが、重み有る美しさに繋がる理由かな。

ちょっとした余興で余談
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目的格「を」または「に」を使用する場合、対象となる言葉は名詞であれば、即間違いとは言えません。


したがって、あり得る、例としての引用?そのものが????なんです。
お茶にする(なる)、タバコにする(なる)、煙にする(なる)、廃棄にする(なる)、喧嘩になる・・・・・
時と場合により、表現される意味は異なっても、即間違いではありません。
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間違っていないと思います。



しかしその後に続く話の内容によっては間違っているとなります。文章単体で整合が取れていても、次の話題に興味をつなぐ「予告」としての役割を担っていない場合は「変な文章」となるでしょう。

以下は長いので興味があればお読みください。

他の方も回答していますが「既に知られている行為や概念」に参加するために移動したというニュアンスを短く伝えている場合があります。この場合は「旅行として知られている行為」を「ある目的のために移動した」または「ある目的の為に決めた」「ある目的のために予定通り実施した」と言っているだけです。

本当は「(私が先ほどの例で敢えて加えた)ある目的」が明らかにされていない事がポイントなのです。この後の文章などで解説されるはずです。ご本人が語るか、聞いた方が尋ねる事が前提になっています。その話題に結び付かないのならば「その文章自体」が「次の会話を意図せず発せられている」となります。「語を選んだ行為」すら意味がないのです。

会話を続ける工夫をしない人が、

「意味や語の重複について検討する姿勢自体が見当違い」

なんです。

「次の話題を計画的に用意している場合は不安定な文章を
 作成して違和感を伝える事もある。聞き手は次の文章や
 話題により解消されることを期待するが、これに応えが
 ない場合は『間違った日本語を使ったのだろう』と始め
 て解釈するのだ」

と言う事で文章内で意味が重複していたり「不安定な感覚」を与えられても「まだ分からない」わけです。

しかし明らかに「聞き手の興味を削ぐ」のも不味いですから「て」「に」「を」「は」「が」「では」「には」等、予告を暗示するように(大丈夫だよ。説明するからね)ニュアンスを加える必要があります。

「聞き手が興味を失う様な日本語は魅力的では無いという
 だけである。美しい日本語を使うことで聞き手が普段よ
 り多くの文章を取り込むほうが望ましい」

例えば「に」を使うか「へ」を使うかで(それぞれ)「特に理由は見当たらない」「理由があって行う」の様な微妙なニュアンスも表現しています。

「に」を使う場合は「特に理由を尋ねてくれるな、旅行の目的はともかく、そこであったことを話したいのだ」というニュアンスを含みますので「(先ほど述べた)ある目的」が話題ではないと打ち消す役割があります。

「へ」を使う場合は「何か理由を話したいのだな?」と言うニュアンスを相手が受け取ります。これが過去系か未来形かでもニュアンスが変わりますよね。

重複として良くあげられるのは「部位と状態を現す熟語」を使用した例です。良く面白がられて使われるのが「頭痛が痛い」という表現です。これは他の要素が無ければ冗長な表現とされます。

しかし状態を現す日本語に使用されている語彙であっても「別の意味として使われる」場合があります。「痛い」と言うのは「特に困る」というニュアンスで使われる場合があるからです。

「二日酔いでも仕事をしないと行けない時がある。薬を飲
 んで誤魔化しても、胃が痛いし、体が痛いしで万全でと
 はいかない。特に難しい事を考えないと行けない場合の
 頭痛が痛い」

「頭痛は痛い」と表現する方が誤解はないですが「これは本当に困る」と言いたい時は「が」を使用しても良いわけです。この文章で「頭が痛い」を使って「特に難しい事を考えないと行けない場合の頭が痛い」では意味が分からなくなり「日本語として間違っている」となります。

「法則を覚えて凌ごうとする姿勢に問題がある」

言葉は(やはり)ニュアンスや気持ちを上手に伝えるために使用するべきであり、他人に叱られまいとして覚える物じゃないという事です。

「間違い探しに夢中になって自分と相手を置き去りにする
 ような考え方は日本語を使う者として間違っている」

以上、ご参考になれば。
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日本語は許容範囲が広い。



原則は間違いです。
でもそれで意味が伝たわるならOKとしています。

ほかにも、×お湯を沸かす→◯水を沸かしてお湯にする。
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世の中では【屁理屈】という言葉がありますね。

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