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映画「トラ!トラ!トラ!」を観ました。
この中では、野村・来栖両駐米大使がタイプするのにぐずぐずしていて最後通牒の通達が遅れてしまう様子が描かれていました。
エンディングは、山本五十六がこのことを嘆くシーンで終わっていました。
このあと野村・来栖両大使の運命はどうなったのでしょうか?
左遷でしょうか?
それともよくやったとほめられのでしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

質問者は、知っているのではないんですか。



真珠湾作戦
1894年日清戦争が日本軍の奇襲によって事実上開始さる。
1904年日露戦争が日本軍の奇襲によって事実上開始さる。
1937年日中戦争が日本軍の奇襲によって事実上開始さる。
このように日本は奇襲戦法がお家芸であり、大戦時も頻繁に使っていた。
それはなにも日本軍だけではない。
日米開戦まえはご存知のように勝てる戦争ではなく、ある程度敵を叩いて
弱気にさせ、講和に持ち込むという戦法を採用した。ゆえに必ず緒戦は勝
たなければならず、失敗は許されなかった。
当然、初戦においても失敗は許されず、なんとしても勝たなければならな
い。勝たなければ講和に持ち込めない。敵の虚をつくという戦法「奇襲」
が有望である。だが戦時法において開戦には敵国に戦争をはじめるという
通知をしなければならない。これには時間が規定されていないので自由に
行えるのだが、1秒前では後に卑怯呼ばわりされる恐れがある。時間単位
では真珠湾の敵に防御の時間を与えかねない。それでは奇襲になりえず、
勝てなくなる。そこで一計を案じ、日本本国から開戦通知を日本領事館に
電文し、領事館が不手際を起こしたことにすればすべて一職員の責任に
出来、すなわち国の責任に問われることは無いと。
であるから真珠湾作戦において「宣戦布告」が行われなかったのは、作戦
の一部であり、「宣戦布告」が遅れたのは故意だと私は断言する。あくま
でも妄想だから。
(ジャック・ライアン)


開戦間際に政府は、野村大使の補佐として来栖三郎特使の派遣を決定、当時としては異例の空路によって11月15日ワシントンに到着した。このミスを犯した大使館員たちは、戦後何らのとがめも受けずに栄達を遂げている。


http://www.tamanegiya.com/nonbe15.12.html
「このような犯罪人である井口貞夫参事官と奥村勝蔵書記官、来栖三郎特命全権大使、野村駐米大使はのうのうと生きて、井口、奥村などは戦後も害務省に残り、外務事務次官に上り詰めて、勲一等までもらって円満退職したというのですから狂っているとしかいいようがありません。」

駐米大使館付き
井口貞夫参事官、奥村書記官
両名ともに、吉田内閣時に外務次官に就任。

来栖三郎・・・・・・・・公職追放
奥村勝三一等書記官・・・外務省情報部長に就任後に懲戒免職、後に外務事務次官
井口貞夫参事官・・・・・公職追放後に外務事務次官
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両大使は開戦によりアメリカに拘束されて、バージニア州ホットスプリングスに抑留されたのち、翌年6月に交換船で帰国しました。


処罰があったかどうかはわかりませんが、野村吉三郎大使については生粋の外交官ではなく海軍軍人(海軍大将)であり、左遷されることはありませんでした。
戦後は日本ビクターの社長になっています
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来栖大使は対日外交実力者のグルーと親しいこともあり、急遽ドイツから呼び戻され野村大使の元へ送り込まれたようです。


確かに不手際は有りましたが、情勢の悪化は誰が見ても明らかだったのも事実。
帰国後は特に活動はしてませんが、グルーはポツダム宣言起草にも関わっているが来栖大使との親交の中で日本人の国民性を聞いていたので天皇制と他の君主制の違いを理解していた数少ない欧米人だった。
良い悪いは別にして、戦後間接的に影響を残したと言えるかも。本人は表舞台に立つことは無かったです。

余談ですが、来栖大使の奥様はアメリカ人で元タイピスト。
息子さんは陸軍仕官で首都防空に務めていました。
新機種等の実験審査部隊が福生にあり、実験だけでなく首都空襲があれば邀撃に上がります。来栖良さんはここで仲間の三式戦(飛燕)のプロペラに巻き込まれ殉職しております。

話が逸れましたね。
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