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受験勉強で評論文を読んでいたのですが、「異文化としての子供」という文章の中で、「文化の外なる存在」として子供の挑発に大人が身体的に反応したとき、大人自身の身体の奥深くに潜んでいる「内なる異文化」を呼び起こされ、それによって大人もまた既存の文化体系に対する挑戦者のまなざしを持つ。とあるのですが、「内なる異文化」というのがどうしても抽象的で理解できませんでした。 入試の現代文は論文の断片的なものですからこの作者の本を読めばたぶんわかるのでしょうが、時間がないために質問してみました。どなたか異文化としての子供をよんだことがある人がいましたら教えてください!よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

ご質問の引用文だけからの推測になりますが、作者の意図するところは以下のようになるのではないかと思われます。


『人が成長するに従い、社会という枠組みの中である程度の制約を受け入れながら築かれていくのが文化というものである。
それに対して、子供というものは社会的観点に基づいた認識をまだ持ちづらいものだし、そういう意味で「文化の外なる存在」と言える。
他の見方をすれば新鮮な視点で物事を見る機会に恵まれた存在でもある。
そのような子供から何らかの問いかけがあった場合、それに反応するということは(賛否は別にして)子供と同じ目線に立つことになり、
彼らに内在しているのと同様の、普段は気付かなかった自らの新鮮な視点が心の奥深くから浮上する結果になる。』

まとめてみると、個人的な感覚としてですが、
『社会的制約を受けて成立している表向きの文化とは異なった、普段は抑圧されて自らの内面に奥深く沈んでいる、本来の人間としての感覚に根ざした意識』
といったような意味ではないかと思います。
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 「異文化としての子供」の文章を読んでないので、はっきりしたことはいえませんが……。



 たとえば、食事の文化として、箸を使う、ナイフとフォークを使う、あるいは手づかみで食べるというそれぞれの文化があります。
 箸やナイフ・フォークを用いる文化の中では、それらをうまく使いこなせない(から使わない)子供は「文化の外なる存在」ということになります。
 その子供の姿を見て、大人が身体的に反応した(自分も手づかみで食べてみた)とき、自らの内にある異文化が呼び起こされ、なぜ箸を使って食べなくてはならないのか、使わなくても他の方法があるのではないかという既存の文化への疑念をいだくことが、「挑戦者のまなざし」を持つことになるのではないでしょうか。
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