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旗印での逸話を教えてください。藤堂高虎の旗印に逸話があったのを知り、もっと他に知っている方がおられましたら教えてください。
ところで、家紋を旗印にする場合と、別物の場合があるのでしょうか?

A 回答 (4件)

旗印の逸話で面白いのは、武田家の落合左平次という武将で、なんと磔にされた男が描かれており、その男は有名な鳥居強右衛門になります。



http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/news/news-2007/100ex …

逸話は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85% …

旗印はそもそもは武将が自分をアピールするもので、源平の頃は紅白だけで済んでいたのが増えてきて

http://www.m-network.com/sengoku/senmark.html

このようになります。
家紋を旗印にする武将もいれば、好きな文字や図柄を描く武将もいます。
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この回答へのお礼

参考URL、興味深く拝見しました。複数存在すること、必ずしも家紋でない場合も結構多いのには驚きました。
北条氏康は何故か国旗風、伴(塙)団右衛門は名前そのまんまの選挙風?榊原康政に至っては何の図から取っているのでしょう?不思議です。
余談ですが石田三成の旗印は誰か他の武将も使っていたような?忘れちゃいました。

逸話では、鳥居強右衛門のお話詳しく載っていました。これは凄いですね。これを背負って戦に行くと相手もちょっと引いちゃうのでは・・・
でもいいお話です。鳥居も凄いですが、落合もこれを旗にして許されるところが凄いです。男が男に惚れたら敵も味方も無いのでしょうね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/08/30 20:36

#2です。

小早川秀秋と宇喜多秀家について調べてみました。
小早川秀秋は

農具の鎌をかたどったこの紋は、諏訪明神の信仰に基づくもの。鎌を諏訪明神の神体として、これを信仰する人々が家紋としました。また、敵をなぎ倒す尚武的な意義をもち、小早川氏は豊臣秀吉より桐紋を授与されていたものの、勝兆を祈願してこの鎌紋を使ったとされます。

http://www.sengoku-expo.net/person/J/047.html
ということらしいです。

また、宇喜多秀家に関しては、

宇喜多氏は、児島高徳(兒嶋髙德)の後喬と言われ(それで、旗印には児を用いた)

http://www.8jyo.jp/towninfo/travel/kankou/notedp …
http://www.sengoku-expo.net/design/J/flag/026-h0 …

ということらしいです。兜みたいな字は児島の児だったようですね。
児島高徳は太平記にでてくる武将のようです。
これは私も初めて知りました。読み方が難しい………てっきり睨むだと思っていました^^;

この回答への補足

伊達家の件調べがつきました。上杉氏(長尾ではないほう)から「竹に雀」の家紋をぶんどったらしいです。たね宗の時代だそうです。また山内家は最多の9個の家紋を使っていたようです。次が伊達家。
ステータスとして家紋を収集?する家もあったようです。

皆様の回答に改めて御礼します。ありがとうございました。

補足日時:2007/09/02 09:44
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この回答へのお礼

私のお礼の中の疑問にまで回答してくださったことにまずお礼申しあげます。
宇喜多秀家と小早川秀秋。この二人が私の今回のテーマである旗印の質問にくしくも揃い踏みしてしまいました。
どちらも秀吉の縁者であること。先に宇喜多、後に小早川が岡山城主になっていること。秀秋の裏切りに対する秀家の怒りなど。因縁を感じる関係ですね。
まず小早川。ドラマで有名な真っ赤な陣羽織に違い鎌紋。秀秋にとってなぎ倒さなければならなかった敵とはいったい?
諏訪明神といえば今、大河ドラマにもなっている諏訪頼重を連想しますが、遠く離れた中国地方でも信仰はあったのでしょうね。
宇喜多。これには私も恐れ入りました。児島と言う地名は今でも岡山にありますが、まさか児だったとは。私は戦国なので、てっきり兜かと思っていました。
明治時代になって赦免された宇喜多一族は八丈島から東京に戻ることを新政府に許されたそうです。子孫の会があるのだそうです。
再度の回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/08/31 21:23

鎌倉幕府の打倒と足利政権の樹立に多大な貢献をした武将、赤松円心にこんな逸話があります。



本拠地の播磨で倒幕の兵を挙げ、破竹の勢いで京の都に突入した円心でしたが六波羅探題の力はまだ強く、激戦の末に敗退してしまいます。主従7騎、一時は自害すらも考えた敗走でした。

この時円心は男山八幡宮に向かって「味方がこの戦いに勝つことが出来たならば、一寺を建立して神助に報いよう」と念じた所、
「敵の北条の旗印は三つ鱗=水であり、赤松の旗印は左三つ巴=水である。今は水と水が戦っているのだから勝敗を決することが出来ない。汝の紋に(水を統べる)大龍を描き加えれば必ず勝利を得るだろう」
という神託を得てその通りにしたところ遂に勝利し、足利尊氏の裏切りが決定打となって六波羅探題は陥落しました。

そして円心は室町幕府成立後に誓願どおり故郷・赤松の地に法雲寺を建立したという話が「雪村和尚道行記」に記されているそうです。

赤松氏の家紋は「二つ引きに左三つ巴」ですが、この二つ引きは龍を表しているとされています。
http://www2.harimaya.com/akamatu/html/ak_kamon.h …


同じ南北朝時代に南朝の柱石として活躍した北畠親房・顕家親子は
中央に日の丸(?)、左右両端に「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」の文字が書かれた軍旗を使っており、武田信玄はこれを参考に例の風林火山の旗を作ったんだとか。
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この回答へのお礼

将軍から賜った二両引き。当然上に乗っていますね。でも二両引きに龍の意があるとは、流石将軍家ですね。水対水の逸話興味深く拝見させてもらいました。
武田信玄の風林火山は初めてではないのですね。しかも南北朝時代に北畠氏が使っていたとは。孫子は兵法で人気があったので常々武田氏だけというのには疑問がありました。

石田三成の旗印も同様に誰かが使っていたはずですね。間違っていたらすみませんが、大谷吉次だったような?
また竹に雀の伊達家も謂れが何かありそうですが、こちらも気になります。
面白い逸話ありがとうございます。

お礼日時:2007/08/31 07:28

一概に旗印といってもたくさんありますが……



今はやりの?風林火山は武田氏の旗印です。
中国・春秋戦国時代の孫武・孫ピンという兵法家が著した孫子という兵法書の一節、
「其の疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」
というところから来ています。本当は、この後「知り難いこと陰の如く、動くこと雷霆の如し」と続くのですが。
進軍する時は風のように早く、林のように静かに粛々と、火のように激しく攻め、山のようにどっしりと構えていようという軍の戒めですね。

それから上杉謙信の「毘」は戦いの神様「毘沙門天」から来ています。
彼は仏教への信仰が厚く、自らも毘沙門天の生まれ変わりだと信じていました。
信玄が使った軍配にも、毘沙門天を表した梵字が書いてあります。

豊臣秀吉の旗印には、千成瓢箪(せんなりびょうたん)が使われています。
瓢箪は種が多いので、武功や子孫が繁栄するようにとの意味がこめられていますが、
残念ながら彼は側室が沢山いたのにもかかわらず2人しか子供は出来ませんでした。

家康の旗印「厭離穢土(おんりえど)」は、煩悩に穢れたこの世を嫌い、来世に期待するため離れるということです。
合戦において兵を鼓舞するための文句といってもいいでしょう。

真田家は六紋銭です。
六紋銭は、三途の川の渡し賃なので、決死の覚悟ということを表しています。

石田三成の大一大万大吉は、
万民が一人のため、一人がが万民のために尽くせば、天下泰平になるという意味です。

他には、織田信長が永楽通宝、榊原康政が無という文字だったりして面白いのですが
由来がいまいちわかりません。すみません。
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この回答へのお礼

沢山挙げていただいて感謝しています。徳川家康の旗印は時代劇でも良く見ますが、意味が分かりすっきりしました。秀吉の子孫繁栄は皮肉ですね。別説ですが、功名を立てるたびに瓢箪が増えたというのも聞いたことがあります。
あと宇喜多秀家の兜(?)みたいな字の旗は何なのでしょう?
小早川秀秋の草刈鎌も由来知りたいですね。
信玄の後半部分は知りませんでした。正確には「風林火山陰雷」だった訳ですがやはり語呂が悪いです(笑)
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/08/30 20:45

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