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私は大学三年生のものですが今後の人生に全く希望が持てないんです。
本当です。

就職活動中で、それが上手く行かないと言うのもあるんですがそれだけじゃないんです。
正直ある程度の大学・外見ではあるので選り好みしなければまあ就職は出来ると思います。
でも就職しても絶対に周囲から浮いてしまうのは分かりきっています。

就活するにあたり自分がいかに空っぽな人間かということに気づいたのがきっかけです。

大学時代何もしてきませんでした。
友達も増えなければ、勉強もしていません。
出来る限り授業をサボり、アルバイトをしてお金を稼ぐことだけに精を出していました。アルバイト先でも浮いてしまいます。

相手から定期的に連絡をくれるような友達は一人もいません。

いい感じになる男の人は格好良くて人間できている感じの人が多いのですが、いつも最初は相手が積極的でも、結局何にもなく終わってしまいます。
私に中身のなさに呆れ(実際に言われたことあります)、そのような人たちには私なんかよりずっときれいで人間力のある人がいるのに気づいたからだと思います。

大抵の人(いい感じになる男性や、短気な関係でしかないであろう人、自分以上に可笑しい人以外)に対し、すごく壁を作ってしまう傾向がありつれない印象を与えてしまうようなんですがと思いますが、大抵のひとが本当は怖くてしょうがないから壁を作ってしまうのでどうしようもありません。

結婚は出来ないだろうし、職場でも辛い立場になりそうだし、今後全く幸せになれる気がしません。

現在は若いからまだ良くても、今後年をとったら全く誰も相手にして切れなくなりそうで怖いです。

本当に好きなのはペットの犬だけです。
それしか私にはいません
もうどうすればいいか分かりません。
本当なんです。
お願いします、励ましなど入らないので具体的な
アドバイスを下さい。

A 回答 (230件中131~140件)

NO.91とNo.92のお返事を見させてもらいました。



 この段階に来て、あなたの伏せている一面が表出されて来たと思います。ここからどうすれば良いか、どうするべきなのかということに関して、私はストラテジーを構築できていません。

 再確認が出来たということでは、成立を見ている感じがします。

 言葉というものは便利過ぎるということが、あなたのような形の人と話す時に浮かび上がることなのです。

 あなたは今、私を否定する論理を構築せんとし、強引とも言える手法を用いてます。それが断言形式に結びつけるという主張の行い方なのですが、先にも述べたように、断言している割には内容が深まらないということが常にあるのです。
 ですが、断言に結びつける形の論理形成は人の意識形成にある程度の強い力を持ち得ます。断言には気持ちが強く乗ることによるのかもしれませんが、その構造を詳細には表現できない私がいます。

 私はこの段階に来て話を続けることが出来るのか、よくわからないで書いています。ですが、ひとつ言えるのは、今回のあなたの伏せていたもの(とは言え、今回において形を変えて表出されている可能性も高いのですが。つまり、伏せていた心理として構築してそれらしく見せているというのを無意識的に行っている可能性がある。)
が表出されたわけですが、このような展開をあなたはいつも持ち過ぎる事がいつもあなたのコミュニケーションにおいて不成立や不和をもたらす要因となるものだと指摘することは可能です。そして、これをロムして見ている人たちもあなたに普段に持つ問題性がどのような形であるのかを知ったことだと思います。

 あなたの話法は攻撃的な色合いが常にあるのです。その攻撃的姿勢が社会、つまり他者との関係においていつも問題化してしまう部分であり、そして、あなた自身によりそれを再考していく、内省して深めていくというプロセスを持てていないというところが現状であると思います。

 あなたは中身が無いというのを主観的に自分への印象として構築したのではなく、両親の期待や想いを無意識に汲み取っていくのと同じで、相手のそういった感情を自分に写し取って感じたのだと思うのです。
 それは深刻な否定のメッセージであると思います。でも、そのような深刻なメッセージを受け取った後にどのように自分と周りと向き合って行くかという部分にその人の生き方、有り方が問われてしまうのがこの世の非情さだと思います。本当に厳しく構築されているこの世界の一面だと感じていつも辛くなります。

 私がここでずっと語りかけてきたものは、そのような局面における内省のプロセスをどう経れば良いかということの、数多ある中の一方法論の提示なのです。
 
 あなたは今、私のメッセージの中の自分への否定的ワードを自己選択的に取得して、その感情に揺れているのだと感じます。その中にはその深刻な否定のメッセージと被らせて受け取っているものもあるでしょう。

 私のメッセージはあなたの望むような展開への導きの成功を得るためでは常に無く、あなたの心が生き場所を見つけるための材料を与えるぐらいのものでしかないと自認して行っています。

 と、こんな感じになります。これぐらいが私からの精一杯のあなたと私の実距離を勘案しての愛情であるのです。

 ご迷惑をかけた方々には申し訳ないと思います。いつも私はこのような形を取ってしまい、またこの点に関してはなかなか変えられなく、どうしようもなくこう表出してしまいます。苦悶して、何とかもっとなじむ形にならないかと試行錯誤しておりますが、これぐらいに今は止まっています。
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さらに続けさせてください。



 今回のあなたの話し方に、あることを思わされました。

 それは、その話し方が小学生の高学年とか、中学生とかに、子供が親の支配から逃れようとして反抗の狼煙を上げる時の話し方によく似ているなということでした。

 これは憶測になりますが、あなたはそれらの時期にきちんとそれらを行えてこなかった経緯があるのかもしれないと思いました。そして、それを行う必要性を抱えているのではないのかと。

 文章構成的にレトリック的な構造があり、非情に強引な形であり、また、そこに散りばめられた断言的ニュアンスほどに内容は深まらないというあたりが非常に近いと思います。

 という見解を述べておきます。

 私が今回のコメントで傷付くということはなくて、それよりも何だかあなたの中に痛みを見出したような気持ちで、重苦しくなったのです。
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もうひとつ、正直に言わせて下さい。



 私は私のやり方と言うか、あなたのような形の人への私の話し方というやり方では、あなたの望むような結果をもたらさない可能性が高いだろうというのを経験的な認識で以って持っています。もちろん、私が望むような形もあなたからは得られない可能性が高いだろうという認識で以って行っています。

 これが私にあるジレンマです。

 ですが、ネットにおいてあなたのような文章の構成をされる方を見ると、こうやって書いて話したくなるのです。そして、それをなかなか抑えられないでいるのです。

 ですから、最近私はこう思うのです。ネットでなくて、現実であなたのような形の人たちとあった場合、私はどういう印象を持つのだろうかと。

 こういうジレンマを強く感じながらも話しかけるというのが、本質的に間違っているのではないかと、いつも悩んでいるのですね。

 こういう感じなのですが、伝えておいた方が良いのかもと思って伝えておきます。

 でも、センテンスの選び方や用い方などを見ても、”見下す”(一応この言葉を用いて今回の文を組みますが)と言う感覚を躊躇いなく用いているのは、やはりあなたの方ではないのかとは思うのですよね。これはたぶん当たっていると思うのです。

 たぶんと、たぶん続きですが、あなたと私にある大きな差異はいつもそこら辺であるのではないかと思うのです。

 私はあなたとの会話を用いて、あなたのような人の形をより知ると同時に、私を知ろうとしているのだと思います。これを身勝手と表現することは可能だと思います。
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すいません、一度にまとめられれば良いのですが、また、追加で書くことになります。



 こういう言い方だと誤解を招くと思うのですが、どうも良い言い方が思い浮かばないので、そのままに書いてしまいますが、私が大学生だった頃、部活で出来た友人としばしば”見下す”という自分たちの心性に有る有り方について議論したものでした。残念ながら、その友人もこの手の会話に耐えられなくなるようで、途中でお茶を濁されてしまうのですが、ですが私がある意味おかしいからこそ、その話題を続けようとしていたのやもしれませんが。

 あなたの言いたい、指摘したい形においては、”見下す”という表現になるのだと思いますが、私においては見下すという感覚ではなくなっているのだとしか上手く言いようがないです。すいません。

 結局、友人はその見下す心性の闇に堕ちてしまいました。以後、連絡を取っていません。

 私はそれを知るからこそ、”見下す”という感覚ではないのだと表すに止まります。今は。

 でも、見下すと表すのも、正しいとは言えないものの、決して遠い表現ではないのかとも思います。

 ”驕り”ともなり、正道を追うという自分の有り方の足を引っ張るものとなるものとは、ちょっと違う形になっているのではないかと、今は言えると思います。

 ただ、常に未熟ではあると思い抱いております。
 
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私はあなたに対しても、他の方々に対しても、”和して同ぜず”が良いと思っているのです。



 私が大学生の頃にまとめ始めた仕事の哲学は、”和を以って尊しとす”でした。そして、今もこれを深めています。

 が、時に、”同じくす”という言い方でいいのかわかりませんが、そのような傾向を持ってしまいがちになるので、そこでブレーキを踏んでは迷うということを繰り返します。

 ひとつ思うのは、あなたは学ぶと言うよりは対抗するという面に向かってしまう人なのではないかと思うのです。

 私にもその癖がありますので、そこに強い嫌悪感を感じていまして、いつもそれによって縁を台無しにし、落ち込むということを繰り返しています。

 ですが、あなたよりも私の方が、たぶん、自分よりスケールの大きい人や、自分より心の使い方が大きい人や、自分より知が優れている人とかに倣って学ぶということは上手く行えているのだと思います。

 私は私に有る拙き傲慢を知るつもりではいますが、かと言って、それにきちんと対処出来ているとも思ってはいないのです。

 私が過小評価していると見える部分は、私は自分より上位にある人たちの凄さをよく肌で感じているという部分があるからではないかと思います。ただ、過小評価はあまりしていないのではないかとも思います。

 ただ、主観は常に自分を裏切るものですから、あなたの指摘通りの部分もあるのかもしれないですね。そういう怖れは常に抱いています。
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NO.88のお返事に対して。



 引用させてもらいますね。
>本気で地球が内側から爆発して私も含め皆一瞬で消えれば良いと思います。

 これは自分にある不幸を常に”自分以外の何かのせい”としている人によく見られる思考だと思いました。

 
No.87に関しては、私は私への評価を下せずにいるという事を述べたいと思います。過小評価しているとも思ってはいないんですよ。変化した自分をどう評価したら良いのかわからないと苦悶しているのです。時には高い評価を与え、時には低い評価を与え、そして、周りもそれを行き来しているような状態だと言えると思います。
 自分に与しない人たちを見下しているという表現も、その”見下している”というワードの用い方も、あなたのような時期の人にはよく見られる用い方ですが、私の場合は諦念感により、与している人を分けるというよりは、一般大衆というレベルを基準において、その一般大衆という集団は基本的の愚かであるという認識にいるのです。

 という感じですが、どう思われるでしょうか。

 私とあなたで違うのは、たぶん、自己への深刻な批評性を持っているか、いないかなのかもしれないと思い始めています。

 というのは、あなたのような形態を取る自己否定性に苦しむ人は、自己否定に苦しみながらも深層における基本部分では傲慢な形を取り続け、その傲慢への批評性は持たないことが多々あるのですよね。

ひとつ引用しますと、
>回答ありがとうございます。
私にも自分が今信じられないもの、今は受け入れられないものを感じ、実感しそれらを信じたり受け入れたりしなければ進めないことは理解はできます。

 という辺りの理解という言い方に、理解の先走りを感じることが多いのです。そこで以っても突き詰めて考える人特有の傲慢さを感じなくも無いのですよね。

 この”傲慢”の用い方は、否定的なニュアンスというよりも、批評的なニュアンスで受け取ってもらえると嬉しいのですが・・・・。

 また、さらに引用させてもらいますね。
>自分の今や未来を認識するのは他者ということには納得できませんね。
他者が認識する他者の今や未来というのも厳密な「今」にではなく過去に基づいた今に基づいたものだからだと思うからです。

自己認識が他者によってなされるのではなく,他者がいるからせざろ得ないものだと思います。
その中には他者により認識された自己認識も含まれるでしょうが。

 いつも思うのですが、あなたと同じような心境にある他の方にもいつも思うのですが、あなたが今のあなたで何とか出来るのならば、こうやって質問などせずに、ご自分で解決すれば良いことなのではないですか?あなたの主張はいつも”今の自分はこうである”という宣言に止まる感が強いのです。

 今のあなたを主張されるのは、それはそれで良いと思います。それが必要な時、そういうことを言語化して伝える相手が必要という状況はあると思います。でも、いつもあなたは他者から学ぶという姿勢を自ら進んで取るということは、あまり見受けられませんよね。
 
 私は感じたことを申し上げているのですが、あなたは人の言うことよりも、常に自分が感じていること、自分が思っていることのみを追いかけていると感じます。それで、人が言うことに対して反射という形で自分の内にあるものを表出したいという形のみが、あなたにある対他者のコミュニケーションとして有るのではないかと想像してしまいます。

 この形は、ご自分のフィーリングと思惑によってのみ、世界のすべてをコントロール下に置いておきたいという欲求の有り方とも言えるものだとも思うのです。これはエゴイスティックなものだと最近まで思っていたのですが、乳幼児期の赤ちゃんの心理と同じなのではないかと思い始めています。

 あなたにあなたご自身への恥じる気持ちや、罪悪感や、嫌悪感が生じないことには、周りへの感謝の気持ちや、申し訳ないと思う気持ちなどが生じない限りは、あなたの対他者のフィーリングに温かさが生まれることはないのではないかと、誠に勝手な言い方になるとは思いますが、危惧を抱くのですよね。

 私は私のひとつの形を提示しました。

 それをご自身に照らして生かせるか生かせないかはあなた次第であるので、その点に関しては私は今やどうにかしようなどは思わないのですよね。

 冷たい言い方に聞こえるかもしれませんが、これはあなたや、あなたに似た形を取る人たちへの、私からの精一杯の愛情であると今は表現出来ます。
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ごめんなさい、No.94に追加させてください。



 私はあなたが自己認識において”認知の誤り”という方法論を採択するのも構わないとは思います。

 ですが、一般的に”認知の誤り”という方法論を採択すると、その実際の概念にある論理構造よりも重視されるのは”誤り”というセンテンスにあるネガティブなベクトルであり、それは治療者側とか支援側にも見られる傾向であったりします。そして、もう既にあなたの論理展開にはその方向性が生まれていると感じます。

 もうひとつ追加して述べておくと、検索で得られる知見というものは基本的に拙いものであるのです。ごく部分的な知見を得られるにしかないものなのです。インターネットは大変便利ですが、得られるものはごくごく限定的であり、その中から意味のあるものを常が手読み取れる人は大きく限られると感じています。得られる知見は最大公約数的なものと言えるかもしれません。つまり、”平均年齢は女性で80歳”というぐらいのものなのです。

 人生を考えるには、常に拙いものと言えるでしょう。
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No.84のお返事への返事を書こうと思います。



 まず、引用させてもらいますね。
>お言葉なんですが私が他の人に比べ認識が優れているのではなく、私の認知が歪んでいるのだと思います。
それはこのような考え方はバランスを取れた思考方法ではないと思いますし、認知の歪みと検索すればこのような考え方は認知の歪みに当てはまると思います。
極めて非客観的で主観的な考え方だと思います。

 その認識の仕方は、つまり、あなたの思考とか認識の形が”認知の歪み”と表されるものととても近いということですよね。それはあなたの傾向に対してのネーミングであって、私がきちんと認識出来ている言っている部分とは違うのですよね。あなたはあなたの今の状況をよく認識出来ていると言っているのです。

 この後のあなたのお返事の書き方にも言えるのですが(つまり、思考の傾向とも言えるのでしょうが)、あなたはこうした会話の中で自分の見解とか見識に力技で以って収束させてしまうという形を多く取ります。それがあなたの自分の考えに固執してしまいがちになる話法と言うか、人との接し方とも言えるのだと思うのです。そして、その自分の固執している考えというのは常に過去のものであり、今を捉えていないことになるのですよね。だからすれ違いが起こるのですよね。

また、引用させてもらいます。
>またもしかしたら実際には違うかもしれないとは時折思いますが、基本的き人間は生まれたときから持っている素材や育つ環境によって生じる付加価値という自分で努力しても得られないものによりある程度の幸せが定められると思います。
ある程度と言ったのは、自分が恵まれない存在であることに気付き努力しそれを克服することにより幸せを掴む人がいるかもしれないし、また自分が恵まれない存在であることを意識的無意識的には別としてそれを享受することにより分に相応した幸せに満足している人もいると思うからです。

 この思考法は、現在の格差社会と言われている状況においての生環境からして下層に位置づけられる人たちにおいて多く見られ、問題となっている考え方なのですが、ご存知でしょうか。
 あなたは人より優れて突き詰めて考えられるがゆえに、ご自分の考えが突き詰めて考えた産物であり、もうこれ以上の可能性はあり得ないとまでにしてしまいがちなのです。これは突き詰めて考えられる人の似よく見られる傾向であり、落とし穴なのです。
 また、言うならば、生環境や素質(持っている素材)によって将来的に規定されるのは”幸せ”の多寡ではないのです。もう少し言及すれば、生環境や素質(持っている素材)のよって規定されるのはスタート地点からにおける機会の均等性というものであり、機会においての将来性の限定というものが課せられる社会となりつつあるという文脈で格差社会が問題とされますが、そこで用いられている尺度は決して”幸せ”ではないのです。
 またさらに言うならば、その将来的に社会において得られる地位を幸せの尺度とする考え方は、ここ20年とか30年くらいのスパンにおいて発生したごく都市的な思考法の一つでしかないのです。厳しい言い方をすると、世間を知らないとも言えるものですし、世界の仕組みに触れていない、大いなる自然に触れていない人によく見られる思考の形のひとつとも言えます。
 頭脳だけでも生きられる都市的人間においては、こういう考え方を老齢になっても持ち続けることが可能です。実際には適いませんが、限定範囲で以って生きること適う都市的な人間はすべてそれでまかなってしまうのです。

また、引用させてもらいますね。
>kumosukeさんはが仰ることは分かりました。
プラスがあるから埋め合わすとしてマイナスが生じるということですよね。
しかし例えば美人はその気もないのに気持ち悪い人に付きまとわれるとかですよね。
しかし美人の方がブスよりも幸せですよね(美人はブスになりたくないでしょう。)
私は自分が幸せだと、生きるにあたり希望を実感したいんです。
満ち足りた生活を送りたいです。

 すいません、この書き方だと、私の言っていることは”判っていない”となるのです。
 前段のこの文章なのですが、”しかし例えば美人はその気もないのに気持ち悪い人に付きまとわれるとかですよね。
しかし美人の方がブスよりも幸せですよね(美人はブスになりたくないでしょう。)”
 こういうごくごく私的範囲とも言えるところに話が急展開するのが、女性的とも言えるのですが、あなたの話法とか思考法の一傾向だと言えると思います。また、言っておきますと、”美人がブスより幸せである”ということは歴史を振り返っても証明されたことは一度もありません。容姿という一局面的才能において優れているに過ぎませんから。そして、その文章のさらに前段を以って私の書いたものへの理解としている点もちょっと違うと思います。
 女性や、水平的思考が苦手な人に多く見られるのですが、一つの話の中において、スケールがずれることがしばしばあるのです。この見解の流れはごく私的範囲における感情的な展開と言えるものであり、それを人類的規模の運命論と一気に繋げてしまうところに難点があると言えるでしょう。つまり、このようなスケールの推移がしばしば起こると、物事を見誤ることが多くなるのです。でも、それだけあなたの中には感情的になものものが埋もれていて受容されていないとも言えるのかもしれません。
 形を変えて、向きを変えて評価すると、ストラテジックにはものを考えづらい思考法であると言えると思います。

 そして、もうひとつ言うと、人間の一生において、”満ち足りる”という状態が永続することはありません。ですが、希望を感じて幸せと感じることは、それが無くても可能です。

またさらに引用させてもらいますね。
>今を連続して生き続けることに意味はあるのでしょうか。
それ事態も相当苦しいことなのではないでしょうか。
そして今には終わりがくると思います。

 当人の意識的認識範囲においては今が連続していると感じられてしまいがちでありまして、それはごく現代的認識だと言うのは、私は過去の返事でも書いたと思います。

 そして、己を発見するのは常に他者であるというのは、その当人においての意識的認識範囲という限定的な条件が課されないのが他者であるからです。意識と言うものは常に誤っている可能性が大きくあり、その意識による認識範囲もごく狭いものに限られ、常に主観に縛られた自己認識というものはその時点で限定的でありますし、そしてこれも既に触れましたが、常に過去の己しか対象とし得ていないのです。

 ですから、あなたの”今”という認識の連続に終わりが来ることは、むしろ歓迎すべきことかと思います。つまり、あなたの”今”というフレームの終焉を意味し、それは新しいタームへの飛躍という形の”今”の認識が降りてくることを意味しているからです。

 ですから、あなたの今の連続が終わりを迎えることに対しては、私から言えることは、”おめでとう”ということになります。

 簡単に言うと、”新しい自分よ、こんにちは”ですよね。

 明日には明日の風が吹く。 
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No.83のお返事に対して。



引用させてもらいますね。
>私は自分が真摯かそして素直かは分かりませんが、嘘をつくのが本当にすごく上手です。

 嘘が凄く上手だとのことですが、どのような形での嘘をつくのが凄く上手なのでしょうか?宜しければ聞かせて下さい。

 あなたは過去の私と同じで、自らに有るネガティブファクターからの未来予測に長けていますが、ポジティブファクターを勘案しての未来予測、時間軸的な変化からの未来予測という面が欠如しているとは思えないでしょうか。
 たとえば、痩せたことにより綺麗になり、周囲の目を惹き付けたことがあなたの中ではとても大きくありますが、それが初めて起きたことのことをあなたは予測し得たでしょうか。

 ”あの子”とは、私との会話であなたが水掛け論と表記した話の中の中心にいる子のことですよ。

 お返事、お待ちしております。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

別に私は嘘をつくことによって自分の利を得ることを求めているわけではなく、他人がどういう反応をするかを見るためだけに嘘をついています。
例えば猫が鳩の集団を狙ってて鳩が猫から逃げていたから猫とは逆から私が鳩の集団を追いかけて猫の手伝いをしてあげた位のものです。

ネガティブなものは明らかな形をとって問題となっていますがポジティブなものは自分にとって当たり前なものだから意識化は出来ないのではないでしょうか。

お礼日時:2008/07/05 12:37

No.82へのお返事に対して、返事を書こうと思います。



 あなたの他者への対し方や自分の心の処し方は、一見すると、また、あなた自身も強くそう思っているのだと思いますが、とてもエゴイスティックなものだと見えますよね。

 でも、それは本当にエゴイスティックなものなのでしょうか?

 そうなる理由があなたあり、そうなる経緯があなたにあるとは思いませんか?

 それらの由来に思いを馳せてみては如何でしょうか。

 私のことを放置していたと書いてあるけども、あなたと私の実距離を考えれば、本来あなたのように真摯に応える必要もないとも言え、決して放置とはならないものであるのだと思います。
 ただ、あなたの気持ちから言えば放置となり、それがなぜ放置となるかと言えば、あなたは私との関係性に意味を見出しているからなのだと思うのです。ですから、あなたの主観的距離からの感覚では放置と言える状態であったということになるのでしょう。
 なぜ、放置という感覚になるかと言えば、あなたにとっても、そうはされたくない、そうは扱われたくないという強い感情があるからなのだと思うのですよね。それは愛着とも言えるし、執着とも言える形態となっているあなたの周囲への感情的なもの、関係性への感情の形と言えるのだと思います。
 なぜそう思うのかと言えば、それは私にも強く有ったものであり、有るものだからでしょう。でも、私はそれら愛着や執着と少し距離が取れるようになって来ている。それが私の成長であり、脱皮的な部分なのかもしれませんね。

 と、このような心理的連続性、関係性に思いを至らせれば、あなたにある由来も見えてくるのではないでしょうか。

 あなたは周りの人たちよりもずっと、生きるということや、人と交わるということに辛くなるほどの努力を積み重ねて来ているのだと思うのですよね。でも、それが形にもならないし、認められもしないし、また自分でも認められないでいることも辛いのだと思います。そして、自分よりも明らかに努力してきていない人たちがそれらを得ているように一見すると見える現象に腹立たしさよりも強烈な思いを抱いており、その思いに蝕まれているところがあるのだと思うのです。

 あなたは自己存在の存立に常に強く不安を抱いて生きているし、そうならざるを得ない環境に身を置いているのだと思うのです。

 否定的に自分を見ることしか許せない状況があるからこそ、自己の存立が常に危ぶまれる状況があるからこそ、自己保存のために一見するとエゴイスティックと見られる反応しか示せないでいる状態があり、それで以ってしか今現在は己を維持する方法を見出せないでいるのではないか、という見解に至るのです。

 その心に根ざした生命の危機にも近づいて行く危機感が、何かを得ることによって、それを軸としてその危機感に対峙できるようになる、というプロセスが必要なのかなと、一見識を持つに至ります。

 この見解、見識は、これが解であるというものでもありません。あなたの自己理解を推し進めるためのひとつの方法論として提示するに止まるのです。

 志を養って欲しいものだと、私などには思うのですよね。あなたは志を持って臨める力を持ったタイプの人間であると思うから。

 また、長くなって、多回答な形になってしまってすいません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私はエゴイストだと自分について自覚しています。
その原因についても考えました、またエゴイスティックなかとが問題だとは思いません。
むしろ賢い選択だと思います。
大抵の人は接していて好い人の仮面を被った偽善者で根本は私以上のエゴイストだと感じます。
私は偽善なんてする気はありません。
たまには使いますが、自分の利や面倒にならないように使うまでです。

あと私はエゴイストですが自分にしてくれたことに関しては相手にも返そうと思っています。
仕返しも徹底的にやります。

正直kumosukeさんに返答しようと思ったのは、あなたの回答に挟まれ他の方の投稿があったからです。
kumosukeさんだけだったら回答を止めたいと仰ったのはあなたの方なのでお礼を書いたかはわかりません。

お礼日時:2008/07/05 08:28
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