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私は大学三年生のものですが今後の人生に全く希望が持てないんです。
本当です。

就職活動中で、それが上手く行かないと言うのもあるんですがそれだけじゃないんです。
正直ある程度の大学・外見ではあるので選り好みしなければまあ就職は出来ると思います。
でも就職しても絶対に周囲から浮いてしまうのは分かりきっています。

就活するにあたり自分がいかに空っぽな人間かということに気づいたのがきっかけです。

大学時代何もしてきませんでした。
友達も増えなければ、勉強もしていません。
出来る限り授業をサボり、アルバイトをしてお金を稼ぐことだけに精を出していました。アルバイト先でも浮いてしまいます。

相手から定期的に連絡をくれるような友達は一人もいません。

いい感じになる男の人は格好良くて人間できている感じの人が多いのですが、いつも最初は相手が積極的でも、結局何にもなく終わってしまいます。
私に中身のなさに呆れ(実際に言われたことあります)、そのような人たちには私なんかよりずっときれいで人間力のある人がいるのに気づいたからだと思います。

大抵の人(いい感じになる男性や、短気な関係でしかないであろう人、自分以上に可笑しい人以外)に対し、すごく壁を作ってしまう傾向がありつれない印象を与えてしまうようなんですがと思いますが、大抵のひとが本当は怖くてしょうがないから壁を作ってしまうのでどうしようもありません。

結婚は出来ないだろうし、職場でも辛い立場になりそうだし、今後全く幸せになれる気がしません。

現在は若いからまだ良くても、今後年をとったら全く誰も相手にして切れなくなりそうで怖いです。

本当に好きなのはペットの犬だけです。
それしか私にはいません
もうどうすればいいか分かりません。
本当なんです。
お願いします、励ましなど入らないので具体的な
アドバイスを下さい。

A 回答 (230件中161~170件)

私は今、新しい職場に入って3ヶ月目を過ごしていますが、そこにおいて、同僚のこれからを背負い、そして、会社全体を(と言っても、小さな会社ですが)背負おうとしている感じがあります。



 そして、姪と甥の人生を背負い、愛犬の犬生?を背負い、家族一族を背負い、また、近所も背負い、そして、さらに何かを背負おうとしています。

 あなたも愛犬のみならず、周囲の人生を背負ってみれば良いのではないでしょうか。自分の人生だけを考える人は、拙く、貧しいものになるしかありません。

 周りを背負う、その心を抱いてみることにより、自分の世界が開ける事は、往々にして有る事なのです。
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少し厳しい言葉を並べ過ぎたと思いますので、申し訳なく思い、フォローが出来るとと思い、書いてみます。



 あなたは論理展開がしっかりしている分、未来展開においても、自分の今の頭で論理展開が出来ないと、納得を得ず、そこから先に歩みだす事をしないのだと思います。とても脳的な人だと思うのですよ。

 あなたは自分の意識で単純論理で以って扱えるものにおいてのみ、了とする部分が強いのだと思います。しかし、世界はあなたの知らない、認識できないものによって、そのほとんどが構成されているのですが、それを知らないのだと改めた感じるのです。

 割と単純なものでも、抽象概念に弱く、やはり、微妙なフィーリングを自分の感覚に持てていないと感じます。それらは都市生活に埋没した、脳のみで生きてきた人に多く見られる現象です。
 こういう人にあなたのような形を持ち、慢性的な苦を感じてい切る人は多いです。

 ペットのせいではない、愛犬のせいではない、という事で苦しむのならば、そのフィーリングをもっと他の対象にも伸ばすべきかと思います。周りの人間に敬意を抱くことは、自己受容を得ていくためにも、自己肯定を得ていくためにも大きな力となるものですが、あなたはごく自分の関心のみに固定して離れない形を持ちます。

 わからない、関心の持てない部分を、あなたは”迷惑”と安易にフィーリング的な位置づけを許してしまうように、切り捨てる向きが強いです。そこを持続的に保持して、わからないものをわからないままに、関心の持てないものを持てないままに、アプローチし続ける事のよって、自分の枠の外の世界が見えてくるものなのです。

 多くの人を愛せる事が適って初めて、自分も愛されるようになる事を知る必要があるのではないでしょうか。

 そのために、今は、小さな部分受容を得るべき、魂と心を高める事が求められるのです。哲学と思想に触れる必要が有ると思うのです。まずは、儒教から始められると良いと思います。儒教は哲学であり、思想ですから、宗教ではない事を認識して臨まれると良いと、私などは思うのです。

 よくお考えになるだけでなく、よく身体で感じることで、新しい世界が見えるよう励まれる必要があると思います。

 前回の連続の厳しい回答で、厳しい心となられていたら、申し訳なく思います。

 自殺を追うのも良いですが、それも脳内でのみ処理されて行くと、余り成果を生みません。追うのは良いと思いますが、もう少し違う形を自分に課してみてはどうでしょうか。

 道を開かれん事を願います。
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あなたに感じましたのは、例に挙げた彼女と同じで、常に自分の主意識を中心として有る(主観によってのみしか世界を見ることが出来ない)という形であり(=他者性の希薄)、私を含めて、周囲の人間全般に対するリスペクト、敬意を持つということを養えていない事を感じました。

それを古来から、人間としての精神的な未成熟と表します。

 あなたは経験的、知的上位者と会っても、本質的にその相手の経験なり、知なりに敬意を抱くことが出来ていない、養えていない、常に自己を中心とした意識に向かう、ある種の傲慢があるのだと感じます。

 それが何ゆえに有るのかと言えば、頭の中にまで、社会における責任主体となる形を持てていない、という事になります。いわゆる、ポーズは示せますが、その姿勢に有る本質的な意味には触れられていないし、その意味に触れるに至っていない。

 私は例の彼女に”浮遊するエゴ”と名付けました。エゴイストはエゴを振りかざす事を自認している面が常にあります。しかし、彼女においてはそれがエゴであることをも感知できずにエゴを振りかざして、振り回して、恥と感じることもなく有るのです。

 恥の意識を持てる、責任主体として常に社会に対し有れる、そうあって初めて、批評性を担保できるブレイクスルーのきっかけを持つ事が適うのです。

 あなたと例の彼女に見られる、常に自己に執着し、常に己の主意識にしか気が向かない人に見られるのは、自分により世界の全てをコントロールするかの如くの振る舞いとなり、実は、それゆえに精神的な慢性的な苦しみを持つのです。なぜなら、人は時間を経るごとに変化し続けるものであるのですが、その変化を受け入れられず、常に固定した自己であろうとするからです。しかし、身体も精神も変化をし続けているのです。乖離でしょう。

 そして、その世界の全てをコントロールする我の如く振る舞いを持ちながらも、当人たちは常にかなりの未熟のままであり続けるのです。精神的な成熟と知的成熟は、また、感性的成熟は、軸を同じくしています。精神的な成熟に向かわない人は、常に知的においても、その未成熟を引きずり続けるのです。しかし、そうでありながらも、常に、出る言葉には”私の考えが、私の気持ちが、私の心が、私の欲求が、一に考えるべき事”というニュアンスがあり、敬意というものを持つ事が困難である形を有するのです。

 二十歳を過ぎた以上は、その振る舞いは全て当人の責任でありますますから、そこへ自戒を持てない人を、幼少期の親の扱いにスポットを当てて保護的に扱うということも、あまりしてはならないことであるのです。その傲慢をさらに大きくさせてしまうだけなのです。ですから、順調に苦労を積み重ね、安心して絶望する必要があるのですね。当人の責任(問題)として、当事者研究をする事に意味を持つのです。その意識に近づけた時に、人は己の持つ大きな問題と、手を取り合って生きていく方向性を持つ事が可能になるのです。自分が主体となって初めて向き合える事によるからです。

 さて、あなたおかれましては、どちらの道を選ぶのでしょうか。
 
 果てしない修羅の道か、それとも一成人としての自立した問題との共生の道か、ですね。
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私からすれば、あなたがわからない感覚の話をするのはごく当たり前となります。

なぜなら、わたしははっきりとあなたの話している事から感じますが、あなたの遥か先を歩いているからです。

 遥か先を歩いている人間の話す感覚の話を理解できないのは、当然と言えば当然な事なのですが、それで憤ってしまうのであれば、それはそれまででしょうし、私の伝える力がないと言われても、それもその通りだと言うことになります。

 しかし、私はあなたの書くものから感じるに、あなたは相変わらず知らないを知らないと感じます。知らないを知らない傲慢を感じる部分も多いです。それで反感を抱かれるのであれば、それで良いのだと私は思います。それは先にも述べたとおり、それがあなたの聞く力であると思うし、私の伝える力の無さだと思うからです。

 あなたは人を思う感覚の言葉を言いますが、私の感じるにそれはあなたのごく狭い主観に止まるものであると感じます。まだ遥か先の感得力があることを私は知りますし、一般的にも、それより少し先を見ている人は多いです。

 という私の表現に、それは私の傲慢だと指摘する向きも有ると思いますが、まぁ、そう思うに至るならば、私はそれでも良いのではないかと思っています。

 人と人が伝え合うに文字だけを以ってして行うには、それなりの代替物が必要ですから。そこにおいての限界は嫌と言うほど知る私ですし、その限界にぶち当たるもしょうがないと思い書いておりますし、そこでその壁を突破せんとも特に思うことも無い私ですし。

 この対話を生かせるかは、全てあなた次第であり、あなたが役に立たないと断じるのであれば、それは役に立たないものあるのでしょうし、それでしょうがないと思います。

 私はそれほど人そのものに無理に大きな可能性を見ることはありません。ただ、私に知る先にまだ大きな可能性があることを知りますが、それがここに有るとはあまり思っていない私です。

 このような書き方をすると、ますます、あなたにおいては感情においても、知能で以っても整理が付きがたくなると思いますが、わかりやすいものを伝える事で、私やあなたの抱えるものが良き方向に向かう事はありませんので、私はあなたや私のような人たちには常に厳しく抽象的に問う事にしているのです。
 それだけ多くの人と話してきましたし、それでわかり易い事で成せる事などほとんどないことを感じてきましたので。安易な理解ほど、曲解と誤解に満ちたものは無いですから。

 申し訳ないですが、私はこれぐらいのことしかできないのです。
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No.56のお礼に見られる形を見て思いますが、


 
私への反感を持たれたと認識して良いものなのでしょうか。

 それは、私としてはそうであっても構わないと認識しています。

 それで、もう話したくもないという意見が出るもの良いと思うんです。

 それがあなたの主張であるからです。

 そういう事を言えることは大事ではないでしょうか。

 たとえば、例に挙げた彼女も、私に対し恩を仇で返すようなことをして、私と別れました。
 でも、それもそれで良いのではないでしょうか。有り体にまとめられて綺麗にまとめられるよりも、気持ちをぶつけ、あなたの本体を見たと言って、別れる、そういう形を飾らずに持つべきなのが、私たちと言うこの世界に比べ常に小さく有る人間の姿ではないかと思うのです。そこで悪いとか思わないで、変な罪の意識を持たないで、別れられる、それが自己主張であり、自己嫌悪の表明ではないでしょうか。それで、多少の罪悪感を引きずるのが人間ではないでしょうか。それらの無理に飾らぬ”わたし”が、私たちの有り方で良いのではないでしょうか。

 という、私の表明をここに残しておきます。

 感謝の気持ちを忘れなければ、相手を誹謗してまで自己を主張するのも有りなのではないのかと、私たちのような人間にはそれが必要ではないかと、私などの小さき人間は思うのでした。

 失敗を恐れるなかれ。失敗から汲み取り、成長するのが、我々人間である事を忘れず、私に牙を向くもまたよし、なのかもしれません。私の感慨としては、ですね。
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 No.56へのお礼への返事などになりますが。



あの、”水掛け論”などと言う言い方をされるのならば、もう回答は付けませんよ。そのような表現を軽々しくもされる方に時間をかけようとは思いません。

 私が言っている内容と、あなたの言っている内容は、同じ事象を違う視点から言っているだけあって、ただ、あなたはあなたの主張を固定したいと言っているに止まるのですから。それを安直に、自己論の主張のために、水掛け論と言うのであれば、私はあなたと会話する気にはなりません。やはり、他者性が薄いのを感じました。

 また、”疑わしく思えて来ました。”などの表現からも、あなたの傲慢を感じました。

 私は必死に無い人を相手にする事はありません。

 そのような自分の足りないを知らない、自分の知らないを知らない態度を放逸して平然とされる方を、私が相手にする事はありません。

 加藤諦三さんの本は、私は常に役に立たないと述べている立場です。ご自分の”今”で対処できるのであれば、人を頼らずに己のみで対処すれば良いのです。それは例に挙げた彼女にも再三再四述べてきた事です。

 ですが、もう、これぐらいにしておきましょうか?

 あなたは、例に挙げた彼女と同じで、今の自分に止めたいという意思に満ちている。

 救いを欲しながらも変化を望まぬ姿勢は、何も得る事はありません。


 あなたの困難はあなた自身の意思によって成されている、という事を認識されぬ限り、そこから抜け出せることはないと、私の経験上、私の知識上、述べておきます。

 加えて言えば、私も、今も、あなた同様に、人の言葉から簡単に絶望まで落ちてしまう事多々ありますが、私はその私と距離を置き、眺め続ける事のよって、私の安易な絶望を戒める事をし、新たな気持ちで次に向かえるようになっています。

 しかし、先人の言葉を安易に軽んじてしまう、今のあなたでは、この言葉も幾らの意味を成すのか、わからぬところであります。

 私は自分より知見のある人を見分け、その人の見ている世界が自分より広いものであること、自分とは異なる世界を見ていることを、その言葉の端々から感じ、認識します。そういう人を感じた場合は、その人の視線でものを見ることにより、その人の見ている世界を感じ取ります。それが”学び”に必要なプロセスですが、それもあなたの今に止まろうとするベクトルでは、伝わるのか皆目怪しいと感じられてしまいます。

 他者性のない人、薄い人の欠点と言えるところは、己の問題と正対することができないことです。常に向き合うのに己の都合によりとなり、己の向き合い方で向き合います。それを”正対”とは言わぬのですが、それが伝わるのか、伝わって欲しいと思うに止まります。

 己への客観的、批評的視点を持たない人に語りかけても、言葉は常にその人によって都合良く捻じ曲げられ、歪められ、形を変え、本来の意味としては届きません。

 よくよくお考えになって、これからこの欄をもどうされるのかを思考されては如何でしょうか。

 私が思うに、あなたは中身がないのではなくて、常に自分の主意識にしか気が向かない、そこから離れる事をしない、というこだわり(固執、固着)へのこだわいゆえに、人から遠ざけられるのだと感じます。
 相対する人を見ていない人と同席する事の辛さは、言葉には出来ません。おわかりになりますでしょうか。

 よくよくご自分と正対されることを臨まれるよう、お伝えしたいと思いまいた。そこが私とあなたが語る上でのスタート地点でしょう。
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http://blog.tatsuru.com/2008/05/04_2100.php

勘違いかもしれませんが、なぜか私の思いと重なる内田樹氏のブログの最新記事のご紹介。

 私の伝えんとするところが、これを読んで理解が深まってくれると嬉しく、それを期待して、URLを貼ります。

 あまりお役に立てなくて、いつも申し訳なく思います。
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 私は最近まで働いていた会社で、二重三重に誇りを傷つけられ、その傷が深く、私の心を歪ませています。



 なので、今の私にはあまりあなたの心を配慮できない面があります。

 良い相談場所を探される事を勧めます。
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No.54と、No.55のお礼に向けたものであり、全体に対してまとめとして。




 あなたはご自分の事を”反省しているようで反省していない”という見解は、あなたに有る形を、ある側面から言い当てたものであると思えました。

 あなたは”想像できない”とか、”こうなるとわかっている”とか、”興味のないものには向かわない”とか、自分の”今”を信じきっている面が有ると思います。自分の”今”において、世界と自分を全てわかっているというような感覚を持っておられると感じられます。

 もうひとつ引用しますと、
> 私は他人から評価されて現実との乖離が激しく受け入れられないということはありません。
> 信じられないことも沢山ありますが、大抵はやっぱりって思います。
> 多分kumosuke33さんは私を誤解していて、私の精神性を過大評価していると思います。

の、

> 信じられないことも沢山ありますが、大抵はやっぱりって思います。

と、

> 多分kumosuke33さんは私を誤解していて、私の精神性を過大評価していると思います。

に見られます。

 自分が自分を一番知っているという感覚をお持ちと感じますが、それはあなたが今の自己認識に固着しているからに過ぎないのです。自分の評価とは、人により知る事が大半であるものなのです。

 これは高度情報化社会の中で、情報の波にさらされ、いつの間にか世界の全てを知っていると思い込む、近年の人に強く見られる形であると言えると思います。

 たとえば、例に挙げた彼女は、自分が現実に、今も、過去にもあった様々なものへ、一度も対処法を持てず、私がそれらを一つ一つ授けてあげたというのに、私よりも”知っている”という傲慢さを、私より知っているという位置に付こうとする傲慢さを、常に放散していました。しかし、彼女が今の位置までに回復するのに、彼女自身によりでは絶対に成せないものであったのです。

 彼女ほどの傲慢をあなたには感じませんが、その構造自体はとても似通っていると思います。


 つまり、あなたは”今後の人生にまったく希望が持てない”とまでに追い詰められながらも、今有るあなたの形に固着しようとし、また、そこへの対策も今有るあなたの方向性と繋がるものしか取ろうとしていないのです。それは、幾ら必死に努力したと言っても、結果が出ないのは当然と言えると思いはしませんでしょうか。
 つまり、あなたの頭の中に有るリソースにより、あなたから出るアウトプットは、常に限定されていて、そして、その中で幾ら試行錯誤してもループするのみなのだ、という事を体認しておられない事を意味します。

 今の自分で何とかならないと追い詰められているのに、今の自分で全てを成そうとしているのです。

 それは無理でしょうと言う他ないのです。

 想像できなくても良いので、模索せねばならないのが、今のあなたの置かれている状況ではないのでしょうか。想像できないと言う、現在表明は大事と思います。ですが、そこで止まるようでは変化は望めないでしょう。

 私とあなたの違いを言えば、私は自分に有るリスクファクターから、それがどのように未来に影響を及ぼすのか、具体的に想像する事が出来たのですね。ですから、危機感が幼少より異様に高くあったのです。逆説的ですが、私の場合、それが今の変化をもたらしたと言えると思います。ちなみに、私は自分以外においても、リスクファクターから、未来を割と具体的に想像できます。
 これがあなたには私ほどにないために、今にこだわって止まる事を許せるのでしょう。また、私の方が実際に追い詰められてしまって長くあったというのが、あるのでしょう。


 つまり、これらの言わんとするのが、”自分という人間と、周りの他の人間というものを捉えなおそうとする”になります。おわかりになりますでしょうか。




 核が揺らいでいると感じるのは、それは核ではなくて、”今のあなた”であるからでしょう。私の言うあなたの核には、あなたおいてはまだ気付いておられないのだと感じました。


 あなたは本当にあなたを知らなく、また、世界を知らない人だと感じました。
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 あなたが本当に幸福に生きたいと思うのなら、自分への執着を捨てる、つまり、自分を捨てて、あらゆる方法を求めねばならないと思います。

相手を信頼すると決めて、その相手が提供する方法にすべて取り組むぐらいでないと道は開けません。相手の方法論は、それらすべてが有って、ひとつの体を成しているからです。

 それと、この形式ではあなたに大きなものを授ける事は適いません。そこをよくよくお考えになって、より良い形を求めるべきと思います。

 それにあなたは、過去の私の必死と比べても、また、抜けた今の私の必死と比べても、至らないと感じます。

 それと、ここでは伝えきれない事は、京セラとKDDIの創業者である稲盛和夫さんの先に紹介した著書が、私の意と同じものでありますから、それを読まれることを強くお薦めします。

 やはり、あなたが私の身近にあれば、色々を伝えられたろうと思います。ただ、私は厳しいので、あなたが自己への戒めを忘れ、心の邪しまなるものをそのままに放出するのを見たら、すぐに距離を取るなり、厳しい言葉を投げかけるでしょうが。

 あなたにはまだ自分への甘い姿勢があると感じますので、それは稲盛和夫さんの著書を読んでも感じられると思います。

 就職活動、お疲れ様です。今の受け入れられぬを何かのせいにするのでなく、冷静に客観視して、自分の至らない点を課題とされるよう臨まれたく思います。被害感情に引きずられて、失敗をそのせいに成されない事が肝心と思います。
 ですが、心理的な負担の大きさには、心痛を覚えます。どうか、休む時にはゆっくりと休まれて、次に備えてもらいたいと思います。多くの人からの部分受容を得られると楽になりますよ。一人の人からの完全受容など無いと思われたほうが良いですよ。それは異性には求められぬものでありますので。それは母の一時期にのみ求められるものだと思います。他の何かで埋める必要があります。
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