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私は大学三年生のものですが今後の人生に全く希望が持てないんです。
本当です。

就職活動中で、それが上手く行かないと言うのもあるんですがそれだけじゃないんです。
正直ある程度の大学・外見ではあるので選り好みしなければまあ就職は出来ると思います。
でも就職しても絶対に周囲から浮いてしまうのは分かりきっています。

就活するにあたり自分がいかに空っぽな人間かということに気づいたのがきっかけです。

大学時代何もしてきませんでした。
友達も増えなければ、勉強もしていません。
出来る限り授業をサボり、アルバイトをしてお金を稼ぐことだけに精を出していました。アルバイト先でも浮いてしまいます。

相手から定期的に連絡をくれるような友達は一人もいません。

いい感じになる男の人は格好良くて人間できている感じの人が多いのですが、いつも最初は相手が積極的でも、結局何にもなく終わってしまいます。
私に中身のなさに呆れ(実際に言われたことあります)、そのような人たちには私なんかよりずっときれいで人間力のある人がいるのに気づいたからだと思います。

大抵の人(いい感じになる男性や、短気な関係でしかないであろう人、自分以上に可笑しい人以外)に対し、すごく壁を作ってしまう傾向がありつれない印象を与えてしまうようなんですがと思いますが、大抵のひとが本当は怖くてしょうがないから壁を作ってしまうのでどうしようもありません。

結婚は出来ないだろうし、職場でも辛い立場になりそうだし、今後全く幸せになれる気がしません。

現在は若いからまだ良くても、今後年をとったら全く誰も相手にして切れなくなりそうで怖いです。

本当に好きなのはペットの犬だけです。
それしか私にはいません
もうどうすればいいか分かりません。
本当なんです。
お願いします、励ましなど入らないので具体的な
アドバイスを下さい。

A 回答 (230件中141~150件)

また、”コントロール”の話になるのですが、私は会社でもその環境が良くなるコントロールであると知って、それを行っている面があります。

そして、変わらずに、強烈な嫌悪感と罪悪感は深層で抜けず、良い変化と効果をもたらしていると知りながらも、申し訳ないと思いながらやっています。
 もうひとつは、最近身に付けた相手を傷つけずに、しかし相手の深部と本質を批判するというやり方で、相手の過ちと誤り、間違いなどを指摘するというのを、行っているようです。他にも色々行っているのですが、割とそのままの感情を表面に出しながらも、ポジティブに収束するという形が多く出ています。でも、それも結果はコントロール性があるものなので、嫌悪感と罪悪感は拭えません。でも、よりポジティブな形で有ります。

 内田樹氏の記事で似たようなのがあったのでURLを張っておきます。
http://blog.tatsuru.com/2008/07/01_0912.php

 井上雄彦作品の海賊版への見解がそれですね。

 参考になりますでしょうか。


 引用させてもらいますね。
>私は人格障害であれなんであれこの捻れ歪んだ性格を直さなければうまく世の中に対応出来ないとは思うんですが、それをするのはかなり苦しそうなので尻込みしています。
しかしこのままでは苦しいという腰抜けのジレンマです。

なんか最近全てがいやになってきました。

 この”全てがいやになる”というベクトルの高まりが、ひとつのターニングポイントへの収束点に向かっているということなのだと思うのです。このベクトルの行く先に、あなたの次の展開が待っているのだろうと思うのです。

 今、帰ってきたばかりなので、これはここで止めておきますね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

正直、あなたの自身について言うことが信じられません。
あなたがご自身について言及しているような行動を出来る人の存在について信じられないというよりは、あなたがそのような人間であるとは思えないからです。

このようなことを述べて私についてどう評価しようがどうでも良いですが、意見が偏りすぎていてご自身やそれに類するものにしか肯定的でないと思えてなりません。

お礼日時:2008/07/05 08:06

”自分の心を犠牲にして行うことを止めることは出来なかったのです。



”犠牲にしても”の誤りでした。


 というコミュニケーションの几帳面さ?とか、あなたと似ているでしょう?私たちのような人間独自のこだわりですよね。
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 あなたより私の方が人をコントロールするのに長けているという話をしたのを覚えているでしょうか。



 この話はしましたか?高校時代に剣道部員と体育の時間に剣道で相対し、相手を金縛り状態にしてしまったことを。心理戦に引き込んでしまったのですね。相手に不用意に打ち込んでは逆に取られるという疑心暗鬼のような状態に追い込んでしまったのですね。痺れを切らした剣道部顧問の体育担任の先生が”打て!”と怒って、二者関係が崩れて三者関係となったために、初めて彼は面を打つことが出来、そして容易にそれが出来たのですが、でも、そうなるまでの数十秒に渡って、素人の私相手に微動だに出来なかったのです。

 その時分はもうそういうことばかりだったのです。この話はしたと思いますが、話している相手に無意識的というか、反射的に、相手の喜ぶようなロジックの言葉を返し続けてしまい、相手に私への好感を大きく持たせてしまい、ですが私の方ではまったくそれを望んでも意図してもいなかったために、その両者の気持ち温度のずれゆえにカタストロフを招いてしまうということを連続的に毎日のように行っていたのです。

 自分がそういうことを意図せずとも反射的に行ってしまっているという自覚はあり過ぎるほどにあったので、そこへの大変大きな嫌悪感に苦しみ、それから意図的にコントロールワードやら、コントロール所作などを私の中から排して行ったのです。幼少から対人恐怖症であり、当時はさらに強まっている時期でしたから、それをさらに行うことで私のコミュニケーション能力=人と繋がる能力、人に伝える能力は、さらにさらに弱体化し、私の中の自己不全感はさらにさらに大きくなり、私の中の苦しみや辛さはさらにさらに強まったのです。ですが、それよりもさらに人を無用にコントロールしてしまう自分への嫌悪感が強く、その流れを意図的に強く止めにかかることを、自分の心を犠牲にして行うことを止めることは出来なかったのです。
 それでも、特定の人を強く欲すると、その人の心をコントロールしようとする流れがあふれ出てしまい、また強烈な自己嫌悪と罪の意識に苛まれたものでした。

 つまり、高校生ぐらいまでの経緯で、私はそれぐらいのことまで、意図的ではなくても出来るぐらいのものを身に付けていたのですね。それをさらに意図適にまで成せるように推し進めていたら、結構な事が出来るようになったと思いますよ。いや、今もそれを成熟させ続けているのかもしれませんが。でも、人と幸福な形で繋がるとかはまったく進展を見なかったと思いますね。

 私の”許して下さい”という感覚は、幼少の頃よりあった”自分が咎人”という感覚、つまり十字架を背負って生まれて来ているのだという感覚からのものでしたが、それ以外にも多々ありますが、いつしかそれら意図せず人をコントロール出来る自分、してしまう自分というものも大きく加わっていったのです。


 うちでは今年3歳になるメスの柴犬がいます。彼女は幼い、小さい頃から人に対する恐怖が強くありました。人との柔らかい接触が出来ず、牙をむいてしまう面が強くあったのです。だから、抱擁すらまともに出来ない子であったのです。私は耳に入るあらゆるしつけ法を行ってみましたが、かえって彼女を傷つけるばかりでした。それで、ある日から方法をまったく変えました。アーネスト・シートンが行っていたと言うドッグ・ウィスパラーという方法の概要を目にしたので、それを概要から知る限りの要諦で以ってとなりますが取り入れ、さらに私が幼少の頃から無意識的に培ってきたコントロール法をポジティブに反映させてみようと意図的にそれを行う形に向かっていったのです。意図的に行えるようにするというのは随分と難しいものなのですよね。なぜなら、それらは意図的な形でないほどに効果を発揮するからなのです。そこで結びついてくるのが、内田樹氏が言うところの”共身体性”とか”複素的身体”とか”ミラーニューロンの働き”とかでしたね。それらを、初めて飼う犬という面での犬への理解という壁もありましたので、難事業となりましたが、畑正憲氏の最新の犬に関する著書などから入る知識も取り入れながら、徐々に理解を深め、形と成していったのです。
 ですから、今はとてもポジティブなもので愛犬と繋がって来ていますよ。”信頼”とか”愛”でです。

 強烈なまでの罪悪感とか嫌悪感が抜けることはありませんが、それら私にある悪性の一部をポジティブな形で表面化させていくことは、結果が出るほどに私と私の周囲を癒して行くように思えます。


 どうですか、あなたにとって0と1とを行ったり来たりする男の話は。たぶん、私は現実ではその0と1の間の様々な様相も見せていると思いますよ。

 人を知ることによって己を知るということも、往々にしてあるものじゃないですか。


 あなたとこうやってやり取りするのは愉しいと感じるものであるんですよ。物事を突き詰めて考えられる人、そしてそれを豊かな分析力に基づいて行っている人、そういう人と話すのはかなり愉快な気持ちにさせられるんですよ。それは非情に大きな私の孤独ゆえですよね。

 でも、そういう突き詰めて考えられる人には、その人の形特有の落とし穴もありますよね。

 あなたがどう返事をくれるのか、楽しみにして待ちたいと思います。
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この回答へのお礼

お久しぶりです。
失礼にあたる形でkumosukeさんからの回答に対し否定するような形で終わらせてしまいましたが、今日厚顔無恥にもここに書き込ませていただいたのは、kumosukeさんに謝らなければいけないと思ったからです。
ご指摘いただいてる通り私は今の自分というものに固執しすぎる傾向があります。
そして、自分を否定したり、今の自分のあり方を私が不当と思われるような形で諭されるととても頭にきて相手をなんとかやりこめてしまおうと思い、実際にそれをやってしまう傾向があるみたいです。
先日バイト先のほとんど話した事のない新しい店長から我が強いと言われました。
その店長には頭にきていますし、いつものように絶対にやり返してやると思ってしまっていますが、そのときにkumosukeさんのことを思い出しました。
私は確かに自己主張が激しすぎ、受け入れられないとその相手を全力で拒む傾向があるからです。
そんなのにも関わらず長く付き合っていただきありがとうございました。
そして、本当にごめんなさい。
私は他人を必要以上に傷つけてしまう傾向があり、kumosukeさんにもそうしてしまったんだと思いました。

お礼日時:2008/09/21 21:42

私の生きている感覚は、”許して下さい”という感覚だと思います。



 誰かにというわけではなく、全体に。


 あなたはどのような感覚で生きていますか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私は死ねないから生きているだけです。
惰性です。
それ以上はなにも感じません。
ただ何年も途中短い期間そうでない時間もありましたが、生きているのが苦痛だ死にたいと思いつつも生きているということは生に対してなんらかの執着があるのかということをよく考えます。
本気で地球が内側から爆発して私も含め皆一瞬で消えれば良いと思います。

お礼日時:2008/07/04 11:40

 何度も書いて申し訳ありません。

これらが私から逃げてしまうのを恐れて、書いてしまいます。私の無能がそれであるからです。

 いずれにしてもあなたは、あなたがなんと言おうと、今後の人生において大きくその才を開く人なのです。

 あなたのような形の人は大きな葛藤をしないことにはいられないのです。大きな葛藤をしないことなどあり得ない形と言えるのです。それが他の人の形とは生まれつきにして違う形であり、あなたにある運命の流れだと知る必要があります。

 あなたの言う、それ以外のものを信じられない、実感出来ないというそのタームから、次にあるステージのタームへの移行がこの先あなたに控えているのです。

 普通の人が容易になせていると思えるそれが容易に成せないのは、あなたが安易を許さないからなのです。あなたにおいては、一元論的意味でのとても深い身体的理解が必要なのです。女性は女性であるがゆえに一元論的な意味での身体的な感性と思考を持ち易いのですよね。

 つまり、優れてものを考えられ、優れてものを見ることが適うからこそ、圧倒的にインプットされる情報量に翻弄されてしまい、また、ご自分の形ゆえにそれらをきちっと整理しないと許せないのです。そして本質に迫らないことにはそれをそれとして受け入れられないのです。

 私がアクセする際にその人の書き方を見ます。短い文章と言えども、それによって、その人の人となりは知れます。あなたは本質的な求道者であると見たからアクセスし、それで、あぁやっぱりなと思ったのです。でも、その時、私にはかなり酷く余裕がありませんでした。いい加減な気持ちでアクセスしてしまい悔やんでいたのです。

 という事なのですが、如何お思いになるでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私にも自分が今信じられないもの、今は受け入れられないものを感じ、実感しそれらを信じたり受け入れたりしなければ進めないことは理解はできます。

私は失礼だとは思いますがkumosukeさんは私に対しても、そしてご自身についても過大評価しすぎなのではないかと思います。
ご自身では過小評価してるつもりなのかもしれませんが、言葉の端々からご自身やそれに類する人を高みに据え、それと相容れない他のものを見下しているように感じます。
当て付けとかではなく前々から感じていたことを今はっきり言語化出来たという感じです。
私はkumosukeさんを傷つけたいのではなく、これを解決しなければ私が納得出来ない、というよりは苦痛でしょうがないからです。

私自身には大抵の他者を見下している、そしてそれはある意味正しい考え方(優れた人については認められるので)だとは思いますが、自己正当化に過ぎない面も持ち合わせていると思っています。
そして私は自分自身が大抵の他者をなんらかの形づ見下していることをはっきりと認識しています。

もし気に障ったらごめんなさい。

お礼日時:2008/07/04 11:32

 エリクソンの真似を恥ずかしながらも続けてみます。





 荒野に同じくして生える草ぐさは、突風になびくに任せ、たなびく。

 そしてそれらは人や獣に踏み敷かれる。

 唯一本のみにして有る木は、突風が止めば、天に向かってそびえ立ち、緑茂らせ、たわわに実らせ、遠くから認めて人や獣が集い来るのである。

 突風はいずこに。
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 もうひとつ言い忘れましたので、申し訳ない、書かせて下さい。



 あなたの今からの未来予知は、”今”からに限定されていることにお気付きになられたでしょうか。私たちの未来予知は今有るリスクファクターから未来を予知するの限られます。決して今の先から未来予知することは適わないのです。
 
 そして、人は今に止まる事無く、常に変化し続けるものでありましたよね?では、今を基にした未来予知とはどのようなものと言えるかと言うと、常に過去のものであるのです。常に遅れているものとして有るのです。これが自己による自己認識において、常に有り、取り返すこと適うことが決して無い”遅れ”なのです。

 自分の今と未来を認識するのは常に他者であるのです。

 私は8年前ほどに、書店で働いていた頃、いつも懇意にしてくださっていたあるお客さんから、普通の会話の上から私の未来を予言されました。あの自然な会話から自然に吐かれた言葉に、当時の底辺を這いずり回っていた私は当惑し、混乱し、その言葉の真実な姿に怯えました。

 自己認識とは常に他者によって成されるのです。自己の存在する意味もまた、同じだと私は思っています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

自分の今や未来を認識するのは他者ということには納得できませんね。
他者が認識する他者の今や未来というのも厳密な「今」にではなく過去に基づいた今に基づいたものだからだと思うからです。

自己認識が他者によってなされるのではなく,他者がいるからせざろ得ないものだと思います。
その中には他者により認識された自己認識も含まれるでしょうが。

お礼日時:2008/07/04 11:01

No.79へ返答、ありがとう。

とても素晴らしい返答で息を呑みました。

 ひとつ、思いました。あなたは私と同じ資質をお持ちなのですよね。今有るリスクファクターから未来予測が出来る資質ですよね。才気あふれるお方なのだと感じます。だからこその受難なのでしょうね。

 順不同ですが、私からの見方のひとつを提供させて頂きたく思います。

 引用させてもらいますね。
>他の人たちにも程度の差はあれ人には見せられないような困難があることは分かります。
しかし、その人たちはそれを自分の中にある数個の欠点として認識していて、それを自分全体の問題としては悩んでいるわけではないのではないでしょうか。

 これはあなたの方が認識力が優れているという事実に過ぎないのではないでしょうか。
 彼らにおいても実はその人全体の問題としてあるものなのに、それを数個の欠点としか認識し得ていないだけであるのだと。そこにおいてどちらが人生の道を求め易いと思われるでしょうか。どちらが先を見出す可能性を抱いていると言えるでしょうか。
 それを想った時、私は人間というものに課されたものの非情さに思い至らせられます。彼らは一生かかっても、なぜ自分たちがこれほど苦しんだり、上手くいかないという思いを引きずり続けるのかを理解することが出来ず、ただ出来るのは何かを恨むことだけでしょう。
 私たちは差別化されて生まれて来ているのです。この運命の非情さに、沈黙してしまいます。

 でも、それゆえに、彼らは本当の絶望や地獄を見出す事無く一生を終えることも適う。どちらが幸福であるかなどと言えるでしょうか。たとえ自殺してしまった人たちであっても、本当の地獄と絶望に触れた人は幾人いるでしょうか。

また引用させてもらいます。
>またけして恵まれているようには見えないのに幸せそうな人をみるととても苦しくなります。
なんで貧乏なのに、なんで醜いのに、なんで馬鹿なのに、明るく幸せそうに生きていけるのか分からないし、そういう人たちを見ると本当に苦しくなるんです。
嫉妬とかもあるのかもしれませんが、それについては良く分かりません。
本当に苦しいって感じなんです。


 これは私も若かりし頃に思い悩み、苦しみました。ただ、今私に有るものがそれの解とも言えないと思いますが、書いてみます。

 あなたは幸せというものを定量化していたり、人にある資質や素質から比例的に得られる取得物と考えていると想像されます。

 また、そして、あなたは御自分に有る人より優れた資質のお気付きであらせられる。ですから、このような感慨に向かわれるのだと想像します。資質高き者でありながら一向に報われぬという想いがどこかにくすぶっていると感じるのですが、如何でしょうか。

 それに関してはこう記します。才多きものは、それ無きものより必然的に不幸となる、と。
 私の言葉で言えば、大きな力を持った者は、その力に対し、力に比例して責任が発生する、です。
 ”幸せを定量化している”と言いながらも混乱させる言い方になりますが、人において与えられる幸というものは一定とも言えるのです。”差し引きゼロ”というイメージとも言えますし、”質量保存の法則”のイメージとも言えるでしょう。

 また、もう一面から語れば、あなたはその才を見つけられる必要性があり、また、見つけてもらいたく欲しているとも言えるのです。

 また、もう一面から語れば、マイナスを大きく背負う人たちが、そのマイナスを気にしていないと言うことに、あなたはあなたのマイナスと感じているものを想い、彼らとのそのマイナスの扱い方の違いに苦しみ、自分がそれを受容し得ていないことに苦しみ、そこに想いを向けること自体によりさらに苦しくなるのでしょう。

 それもあなたの自己認識力の高さと、周辺分析力の高さゆえの、それらを勘案しての先に挙げたリスクファクターからの未来予知力ゆえの苦しみと言えるでしょう。

 それはもう苦しいものでしかないと察せられます。

 またさらに引用させてもらいます。
>また、私はkumosukeさんの仰る生き方や生きることについての御意見も理解は出来ます。
しかし本当に納得、というよりは実感できないのです。
私にはまだやっていないことがいっぱいあるのは分かります。
でも自分なりに自分についてや生き方について考えてもきましたし、そのような分野の本も読んできました。
しかし、やはり理解は出来ますがそれだけなんです。

 素晴らしい自己認識力だと思います。その通りでしょう。それはまさに私が言っているあなたの今を現しています。まったく見事に自分を捉えていると思います。

 そして、言えることは、まさにその実感を得るための作業が、あなたのこれからの人生の道程なのでしょう。

 何かに、”恐れながらも進め”というようなのがありましたが、まさに今のあなたとこれからのあなたに言えることでしょう。あなたのような人こそ、受難を負いつつも道を開く人なのでしょう。確信となりつつあります。

 これは応えづらいのですが、見事な指摘と感じましたので、引用させてください。
>なんで苦しくても他者に優しく(私なんかに必死にアドバイスをくれたり)余裕を持って生きていけるのですか。
死にきれなかったからとかではなくもっと深い意味で伺いたいです。kumosukeさんは「今」を連続して生きているのですか、それとも未来や過去も全て含めその一部としての現在を受け止めてそれでもいきているのですか。

 私は”優しい”のではなく、優しくしたいけども適わない人間であったのであり、今もそれを成したいと切に願う人間に過ぎません。そして、人の心と人の形を本質的に追い過ぎたのです。ただそれだけでしょう。
 今も決して余裕を持って生きてはいません。いつも生きるか死ぬかです。頭の中のサイレンが鳴り止みません。整体協会の尊敬している指導室の先生も、私を診てこう述べてました。”常に大きな不安を抱えている”、”頭に大きくエネルギーが向かい過ぎている”と。流石の見識です。まったくその通りでした。身体もいつもぎりぎりの状態です。心もいつもぎりぎりの状態ですし、精神もいつもぎりぎりの状態です。それは過去のいつかから変わりません。真に心が安らぐ時を得ることはありません。
 私に有るのは、もう今という瞬間を如何に捉えるかのみなのかもしれません。過去にも囚われていますが、過去よりも”今”という瞬間が目の前に迫ればそれしか無く、未来にも囚われますが、未来よりも”今”と言う瞬間が目の前に迫ればそれしか無いとなるのだと、今は書き残します。ただ、これだけでもないのかもしれません。

 私はこの平和な日本で、未来予知による自殺ででなく、肌身で死が急激に迫るのを感じたのでしょう。
 死に切れなかった自殺よりも、真実に身の上に迫る死を感じたのだと言えるでしょう。でも、死んでいないがための精神状態と言えるのではないのでしょうか。殺されかけたのかもしれませんね。でも、これは今回限りの表現に止めたいです。

 抽象的ですが、今表せるのは、これぐらいとなります。

 良ければ、感想など、感慨など、お聞かせください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お言葉なんですが私が他の人に比べ認識が優れているのではなく、私の認知が歪んでいるのだと思います。
それはこのような考え方はバランスを取れた思考方法ではないと思いますし、認知の歪みと検索すればこのような考え方は認知の歪みに当てはまると思います。
極めて非客観的で主観的な考え方だと思います。

またもしかしたら実際には違うかもしれないとは時折思いますが、基本的き人間は生まれたときから持っている素材や育つ環境によって生じる付加価値という自分で努力しても得られないものによりある程度の幸せが定められると思います。
ある程度と言ったのは、自分が恵まれない存在であることに気付き努力しそれを克服することにより幸せを掴む人がいるかもしれないし、また自分が恵まれない存在であることを意識的無意識的には別としてそれを享受することにより分に相応した幸せに満足している人もいると思うからです。
kumosukeさんはが仰ることは分かりました。
プラスがあるから埋め合わすとしてマイナスが生じるということですよね。
しかし例えば美人はその気もないのに気持ち悪い人に付きまとわれるとかですよね。
しかし美人の方がブスよりも幸せですよね(美人はブスになりたくないでしょう。)
私は自分が幸せだと、生きるにあたり希望を実感したいんです。
満ち足りた生活を送りたいです。

今を連続して生き続けることに意味はあるのでしょうか。
それ事態も相当苦しいことなのではないでしょうか。
そして今には終わりがくると思います。

お礼日時:2008/07/03 17:26

 ごめんなさい、言い忘れてしまいました。

また、少し時間をください。

 ”直す”とありましたが、それは直すものなのでしょうか?

 
 あなたは真摯で、素直な人だと感じました。

 だから、真摯でなく、素直でない自分を内に見出し、もっと表に現し、もっともっと受け止めてもらう必要があるとは思いませんか?
 
 それが、たまたま、あの子に向かっているのではないでしょうか。

 あの子も、それをわかっているのではないでしょうか。

 また、踏み込んでしまって、ごめんなさいね。こんな私をゆるして欲しい。責めてもいいけれども。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私は自分が真摯かそして素直かは分かりませんが、嘘をつくのが本当にすごく上手です。

ところであの子って誰ですか?

お礼日時:2008/07/03 08:30

久しぶりですね。

つつがなくお過ごしでしょうか。

 引用させてもらいますね。
>しかし、私のそのような態度に問題があるのは分かりますが、相手に問題が全く無ければ相手を急に否定すると言うことも無いと思うのですが。

 あなたの態度に問題があったでしょうか?そうは思いません。状況的に必然であったと思うから、ミルトン・エリクソンを引用してみたのです。もちろん、私にもそれを起こすだけの必然的な話しかけがあったのですよね。私にあった必然を誤りと言っても、あなたの立場からは許されることだと私は思いますよ。あなたが全て悪いなんてことは思っていませんよ。問題があったとも。

 ただ、あなたと私の双方にすれ違いがあったという事実のみが残るのではないでしょうか。

 また引用させてもらいますね。
>生きとし生けるものである限り、どんな聖人であれ欠点が無いと言うことはありえないとは思いますが、それにしても私には耐えられないような物であるとその場では強く感じてしまいます。
そのような自分を後悔することはよくありますが直りません。

 その時、その場で耐えられないと表明することは大事だと思います。ですが、その際に相手の文脈を否定する形を取らないほうが丸く収まりますよね。表現として違う形の気持ちの表明の仕方を探ってみると、意外にあるものなのですよ。その形の表現でも十分に今の気持ちの表明が出来たと思えるものがあるのですよね。そういう形を追ってみると、意外に今までうまくいかなかった局面とか、関係を破綻させていた局面で、そうせずに、丸く収まりながらも、あなたの気持ちが収まる形というのはあるものなのですよね。
 こういうスタンスはどう思いますか?

 誰しも聖人にはなれないのだから、その人にNOを言ったりても良いのですし、不快を表明しても良いのですよね。大事なのは、その後も関係を続けたいと思う相手が多いはずですから、そういう対象には表明の仕方を変えてみる必要があると思うのですよね。
 そうすれば本当のあなたの心と意思に近い表出が成されるのではないですか?

 あなたが私の友達であったなら、私はあなたに不快の表明とか、NOとかを、言うべき時に言ってもらいたいと思いますよ。

 また、引用させたもらいますね。
>本当にkumosukeさんと話していると凄く混乱してきます。
それにも関係していると思います。
私は他者からも自分の評価について1か0で受けていると感じているからこうなってしまうんだと思います。
しかし、それ以外の世界を信じることが出来ないんです。

 ”それ以外の世界を信じることが出来ない”というのは素直な今の自分の表明だと思いますよ。それはそれでいいのではないでしょうか。だって、今はこれだけしか出来ないというのは皆そうでしょう?皆、今出来ることは、今有るものだけなのですから。

 ”探る”とは、今無いものを求めて行く形ですから、今信じられるものを探る必要はないでしょう。今信じられないものを探るのが、”探る”という行為なのです。どうでしょう?

 そして、今、あなたに無いものを語る私だから、あなたがそれを聞いて、話してみて、混乱するというのも素直な表明だと思いますよ。だって自分に無いものを理解することは出来ないでしょう?理解できないもの、していないものを取り合えず頭の中ににストックしておく、つまり、混乱と葛藤を頭の中に保持しておくこと、それがつまり大きな”学び”を行うことそのものなのですよ。それら混乱と葛藤は、年月を経るごとにあなたの中で少しづつ整理され、道筋がついていくのです。そしてある日眼が覚めたように、霧が晴れたように全てを理解する。それがブレイクスルーなのです。
 だから、あなたは過去の私と同じ、ブレイクスルー予備軍なのだと感じますよ。


 またまた、引用させてもらいますね。ごめんなさいね。
>最近本当に自分は幸せになれないだろうと切に感じます。
もうどうすればいいか分かりません。

 とても素直な表明だと思います。本当に素直な人なのだと感じました。
 では、もう一回、再度聞いてみますね。

 ”幸せ”とは何でしょうか?

 人間にとっての幸せとは何でしょうか?



 何だか、旧友に再会したような気持ちになれました。

 葛藤と混乱は宝物なのですよね。それを大事に育める環境ってとっても大事なものなんだと最近感じています。 
 あなたの真摯さが報われるよう、私にも祈らせて下さい。


 
 

 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

放置していたのに関わらずありがとうございます。

大抵の人は他者と付き合うにあたり、冗談など柔らかい手段を使いつつもやんわりと拒否反応をしていると思うのですが、私は全面的に相手に迎合するか相手を否定するか、もしくは自分の楽しみのために利用するかのいずれかです。
そして全面的に否定した以外の相手に対しては疲れてしまい酷いことをしたり、バッタリ距離を置いてしまうので問題だと思うんです。
後から後悔はしますが、それと同時に安心もします。
でも社会で生きていくにあたり問題だとは思います。
相手にNOと言ってもいいのはわかりますが、私は相手からNOと言われるとすごく頭にきます。
その場では取り繕っていますが、後からも苛々するか凹むかどっちかでそのことを生産的な何かには繋げられません。
そしてその場ではよっぽど嫌なことや爆発寸前でない限り相手にその場を任せ反論等はせず、平穏に過ごします。
なので、自分のケースを考えると相手をやんわりと否定が出来ないです。
私はすごくマイナス思考なので自分にマイナスなことはすぐキャッチするので余計です。
どうすれば拒絶ではなく相手をやんわりと否定出来るのでしょうか。
私にとっては自己に対する否定はどんな小さなものであれ大きな怒りか絶望です。

私にとって幸せとは自分をそのまんま受け入れられ、他者にそれを見せられ、それでもなお他者からもそれを受け入れられること、そして他者に対してもそうなれることです。
私は他者に関しても例え本人の前でその人に迎合していたとしても否定的だからです。

kumosukeさんからの問いかけを考え、そしてそれを言語化することにより少し自分の問題が明確になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/07/02 17:32
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