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松本城、姫路城、犬山城、彦根城と国宝の城は4つしかないですが、なぜたった4つしかないんでしょうか?戦争で焼けたとしても北陸、東北の方はそれほど被害を受けていないし(東京とか東海、中国地方にくらべれば)、焼けるというのは考えにくいのですし・・・明治維新の時に昔の文化はいらないみたいな感じで壊されたものもたくさんあるんでしょうか?

A 回答 (5件)

大東亜戦争の戦火で消失した城は



仙台城大手門
水戸城
大垣城
名古屋城
岡山城
広島城
福山城
首里城

などでしょうか。これより明らかに多くの城が、明治時代に失われました。

古写真大図鑑 日本の名城 (講談社プラスアルファ文庫)
http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E5%86%99%E7%9C …
という本があり、明治維新前後に撮影された城郭の写真、及びその城がその後どうなったのかが分かります。

この本を見ますと
1. 明治維新前後の段階で、藩の財政窮乏により手入れが行き届かず、荒廃の様子が見て取れる城がかなりあること。
2. 明治時代に「旧藩士の団体や旧大名家が維持しようとしたが、維持費が続かずに解体された城」がかなりあること。
3. 大東亜戦争まで残存した城は、何らかの形で公費が投入されて維持されたものであること。
4. 現存する備中松山城、松江城などは、戦前に大修理がされるまで、「倒壊寸前」というような悲惨な状態になっていたこと。
が分かります。要するに、木造の城郭建築というのは、維持するのに大変なお金がかかるのです。

伊勢に松坂城がありました。この城は蒲生氏郷が会津に移る前に築城したものですが、何人かの大名の居城となった後、1619年から和歌山藩の「持ち城」となりました。
その後、手入れがなされなかったようで、約25年後の1644年に天守が倒壊してしまいました。木造建築というのは、手入れがなされなかった場合、我々が想像する以上に脆いものなのです。
松坂城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%9D%82% …

現存する城で、例えば犬山城があります。この城は、この城の城主であった名古屋藩付家老(譜代大名と同格)の成瀬氏が、明治以降も「維持修理すること」を条件に私有していたものです。

犬山城に行ってみると分かりますが、天守は小さな可愛らしい建築です。このくらいなら、明治維新後に子爵になった成瀬氏の代々が何とか維持できたのか、と思わせる建築物です。

また、現地に残っている木造建築物は天守のみです。石段を上がっていくと、急に視界が開けて、眼前に可愛らしい天守が建っている、という感じです。

犬山城(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E5%B1%B1% …
国宝犬山城 公式サイト
http://www.inuyamajohb.org/

前述した「古写真大図鑑 日本の名城 (講談社プラスアルファ文庫)」を読むと、大東亜戦争まで天守が残っていた城でも「天守以外の建物は順次破却された」という記述が目立ちます。公費を投入しても、維持できる建物は天守以外は限定された範囲にならざるを得なかった、ということです。

明治時代に多くの城が解体されて消えて行ったのは「維持費がどこからも出ない以上、放置していればいずれは腐って倒壊してしまう。それなら、解体して古材木として売却した方がマシ」という止むを得ない計算があったものと思われます。

また、「天守以外の建物は順次解体」という言葉の裏には「手入れの行き届かない建物はどんどん腐っていき、台風で倒壊した折などに整理された」ということもあると思われます。

「古写真大図鑑 日本の名城 (講談社プラスアルファ文庫)」
は、「明治維新後の城郭の運命」を知る上で大変参考になる本ですので、ぜひお読み下さい。
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>なぜたった4つしかないんでしょうか?



皆さんの回答通り、戦前は多くの城郭が国宝指定でした。
が、文化財保護法改正によって旧国宝城郭は国指定重要文化財となっています。
選定基準ですが、江戸期までの縄張り・建造物が残っている事が重要でした。
松本城は、1596年築城当時の姿を留めているなど。
姫路城は、近世城郭の比類の無い天守様式を留めているなど。
犬山城は、丸岡城同様に初期望楼型天守の形式を留めているなど。
彦根城は、1603年築城当時の姿を留めているなど。
が主たる理由のようです。

>明治維新の時に昔の文化はいらないみたいな感じで壊されたものもたくさんあるんでしょうか?

明治初期、神仏分離令で多くの由緒ある寺院が破壊されました。
奈良興福寺なども放棄され、坊主が一斉に春日大社の神職になってます。^^;
城郭も同様に、明治政府の「城郭存廃決定」(明治6年1月)により存廃が決まり、廃城と決まった城郭は民間払い下げとなっています。
藩の中心である城郭を壊す事で、支配者が変わった事知らせる効果もあったようです。
存続城郭は兵部省の管轄(軍隊駐屯)になり、解体費用不足で残った城郭(姫路城など)を含めると20城の天守が残ったようですね。

対戦で、多くの城郭が米軍の爆撃対象になりました。
広島・名古屋・岡山・福山・大垣・水戸城天守閣が焼失しましたが、もし残っていれば国宝指定の有力候補になっていた城郭もありそうです。
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戦前の国宝保存法時代には、多くの城郭が国宝(旧国宝)として指定されていました。

戦後、国宝保存法が文化財保護法に切り替えられたとき、多くの国宝が重要文化財(旧国宝イコール重要文化財という認識で良いと思います)として指定され直しています。その中で再び国宝(新国宝)として指定されたのが四城です。

現在、天守が現存しているのは、国宝四城の他に、弘前、丸岡(福井地震で倒壊、旧建材を使って再建)、松江、備中松山、丸亀、松山、宇和島、高知の八城だけですが、これらはすべて旧国宝から重要文化財に指定されています。

天守が現存する城郭は12しかありません、多くは、明治維新と、その後の廃藩置県、また、第二次大戦によって失われています。
また、多くの城が火災による焼失を経ています。その際、屋敷だけ再建して天守を再建しない場合も多かったのです。ですから、○○譲渡言っても、御殿しかなかったというケースは結構あります。
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もともと明治維新成立時日本には約260ほどの城が存在していました。

  しかし明治2年(1869年)に廃城令が出され多くの城が破壊されたのです。
これは城が武家制度の遺物とみなされ不要とみなされたためです。

現存しているにはあまりにも立派な建築であったのや、地元の民衆が保存を望んだものがほとんどです。

さらに第2次大戦での焼失で減少したものもあります。
したがって現存しているのは運命により残ったものだけといえましょう。
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1:もともとそんなに立派な城は数が少ない。


城郭を作ってOKと幕府から許可されるのが5万石とか6万石くらいから。300諸侯といいながら、そんな大身の大名家は数が少なかった。大身でも必要がなければ作らない。
秋田城とか鹿児島城などは、普通にイメージするような城郭ではありません。

2:使える城は幕末も使った
北陸の長岡城や、九州の小倉城、東北の会津鶴ヶ丘城などは、幕末の戦争で落城しております。
壊した のではなく 壊された。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。各藩に大阪城とか姫路城クラスといわないまでも、彦根城クラス、それよりもうちょっと小さいクラスの城があったのかなと思っていたのですが違うのですか。幕末では壊されてしまったんですね、知りませんでした。勉強になります、ありがとうございます。

お礼日時:2008/08/18 11:37

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