江戸時代の勉強で小林一茶が作った俳句をおしえてください

A 回答 (1件)

一茶は2万の句を作ったようです、


代表を選ぶとしたら、
「すずめの子そこのけそこのけ御馬が通る」ですかね
関連サイトがあります、調べてください
http://park3.wakwak.com/~issakinenkan/main/01_is …

http://www.janis.or.jp/users/kyodoshi/issaku-13. …

http://kuuon.fya.jp/ISSA/index.html

http://www.janis.or.jp/users/kyodoshi/issaku.htm
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この回答へのお礼

ありがとうございます
これで?は解消しました!
ご親切にどうもありがとうございます!!!!!!!!

お礼日時:2008/12/03 21:28

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Q江戸時代小林一茶が作った俳句はなんですか?

江戸時代の勉強で小林一茶が作った俳句をおしえてください

Aベストアンサー

一茶は2万の句を作ったようです、
代表を選ぶとしたら、
「すずめの子そこのけそこのけ御馬が通る」ですかね
関連サイトがあります、調べてください
http://park3.wakwak.com/~issakinenkan/main/01_issa.html

http://www.janis.or.jp/users/kyodoshi/issaku-13.htm

http://kuuon.fya.jp/ISSA/index.html

http://www.janis.or.jp/users/kyodoshi/issaku.htm

Q【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったか

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越しの銭は持たなかったとうう説は間違いとわかる。

大金が回ってくる仕組みを火事が多いので大金を持たなかったという江戸っ子の説は矛盾に気付く。

2つ目の仮説。銀行はなかった。けれども頼母子講という少額を積み立てて大金を引き出す銀行みたいな仕組みがあったのでこれも嘘の仮説だと分かる。

最後の仮説の江戸っ子は貧乏だったという説。

江戸時代に流通していた通貨は金貨、銀貨、銭貨の3種類。

銭貨の価値は現在の価値で50円程度。

江戸時代の江戸っ子の日当が50円程度だった?

金貨の価値が20万円程度だった。

江戸時代の大工に月収は2万円。2万円/30日で日当で666円。

1日銭貨を13枚。

当時の大工は高給取りだったとすると一般庶民のブルーワーカーは大工がホワイトカラー職で現代の月収50万円職に値すると一般庶民のブルーワーカーの月収は25万円として6枚。

で、1日6枚で飯が3食で銭貨3枚が余る。で、相互会に毎日銭貨3枚を預けると月で99枚。1枚50円で5000円。

金貨が20万円なので月5000円で12人で相互会を組んでいるので年1回月収が6万円のときがある。

年1回大金を掴んでも6万円なら江戸っ子は20万円の価値がある金貨を一生見ることがなかったのかも知れない。

ということは、江戸っ子は宵越しの銭は持たないの話には続きがあって、(けど江戸っ子は銭貨を大金の銀貨に変えて貯金していた)。要するに1番価値がない銭貨を持たないで銀行(相互会)に預けて大金にするという仕組みが江戸にはあったので当時の人は江戸の仕組みを珍しく思い、「江戸には銀行という仕組みがある」ということを「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と表現したのが真相ですかね。

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越し...続きを読む

Aベストアンサー

すごいですねえ。
いろいろ計算して、ここまで考えると、おもしろいですね。

私は、ただ、単に、
物に執着して、がつがつ貯めこむのは粋じゃない。
きっぷ(気風)がいいことが美徳、という考えが江戸では一般的だったから、
(本当にもらったら、もらっただけ使ってしまう人ばかりでなくても)
そういう気質だと、おもしろがって、または、自慢気に、言っていたのではないかと思いました。
開き直ったスローガンみたいな(笑)。
で、そういう風潮ができたのは、
やはり、長屋に住んでいるような、大部分の人が、
ぎりぎりの生活で、贅沢はできない状況だったからでしょう。

ところで、たのもし講、私が小さい頃、母がやっていましたよ。近所のおばちゃんたちと。
なつかしい言葉です。

Q小林一茶の性について質問です。

小林一茶って50歳になるまでセ○クスやオナニーを一回もしたことが無かったって本当ですか?

Aベストアンサー

50代♂ 48歳まで童貞。因みに現在もまだ一度も、風俗の経験なし

> 小林一茶って50歳になるまで
らしいですね…その様に聞いてますが…

Q江戸時代の半ばのころ、江戸の長屋に住んでいる職人の夫婦は、どの位の生活費が掛かったのでしょうか?

江戸時代の半ばのころ、江戸の長屋に住んでいる職人の夫婦は、どの位の生活費が掛かったのでしょうか?

Aベストアンサー

以下のサイトによると年間の生活費は約20両。 1両約13万円ゆえ、大体今の260万円ですね。

http://keisan.casio.jp/exec/system/1318902180

Q小林一茶の、ある俳句を探しています

小林一茶の句で、外国語に訳されており、「小さな屋根に、絹のような雪が、降り注いでくる」というような意味の俳句があるそうです。
その小林一茶の俳句をご存知の方いらっしゃいませんか?
お知恵をお借りできたら幸いです。

Aベストアンサー

補足(「白い雪が、よい音をたてながら溶けている」とも訳せる)も参照し、次の句は雰囲気が近いのではと思いましたので、投稿いたします。

・六尺の暖簾 ひたひた 雪げ哉

(外国語に訳された際に、暖簾が屋根と訳された可能性もあるのではないかと思いました)

Q江戸時代の「江戸」以外

最近では江戸時代について書かれた本が多数出ていますが、
大多数が「文化が熟した頃の江戸」の話で、他所の話はあまり書かれていません。
そして内容も「江戸礼賛」のようなかんじのものがほとんどです。
もちろんそれはそれで構わないのですが。
例えばイザベラバードの旅行記には、明治に入ってもなお東京を離れたら、
不潔、不衛生のオンパレードのような様子が醒めた視点で書かれています。
江戸時代の地方に関して、できれば江戸と対比するようなかんじで、
詳しく解説された本がありましたら教えてください。

Aベストアンサー

江戸時代の人自身が表した書物で、現在でも入手しやすく有名なものとしては、雪国新潟の暮らしを描いた鈴木牧之の『北越雪譜』、東北・北海道(蝦夷地)に住む人々の暮らしを描いた菅江真澄の『菅江真澄遊覧記』があります。それぞれ岩波文庫と東洋文庫に収録されています。

Q江戸時代の日本人の性生活は活発だったのでしょうか?

江戸時代の日本人の性生活は活発だったのでしょうか?
小林一茶が精力絶倫であったことは知っていましたが、トルストイやゲーテと同様、天才はモノゴトを異常に追及する変態っぽいところがあるからだろうと考えていましたところ、下記↓のような記述を読みました。
http://www.eps1.comlink.ne.jp/~mayus/eating11-20/issa1.html

上記によると、一茶は例外ではなく、当時の日本人一般にそうであったというのです。
農民夫婦にとって、一晩に3交、5交は普通のような書き方をしています。しかし、一茶に関する文献は吟味していても、農民に関する文献はありません。何故そう断定できるのか根拠を挙げていません。

というのは、私も若い頃から肉体労働をやって来た者ですが、総じて疲れており、性生活に積極的であったとは到底言えません。当時は農作業は機械化されておらず、農作業は長時間労働であったと思います。
戦前の農村を描写したものを読んだことがあるのですが、夜明け前から、星が出る時分まで野良で働いていたという描写があり、何と言う長時間、重労働なんだろうと驚いた記憶があります。自分も田んぼで雑草取りなど(農薬を使わないから)をやっていましたが、一日中中腰で屈みっ放しで、その疲れること。

江戸時代の農民も、戦前の農民のように勤勉であったと私は想像します。いくら昔は娯楽がなかったからとは言え、そんなに活発な性生活があったのでしょうか?疲れてなかったのでしょうか?自分の経験から、どうも信じにくいです。

活発であったことがうかがえる文献などあれば教えて頂けませんか?

江戸時代の日本人の性生活は活発だったのでしょうか?
小林一茶が精力絶倫であったことは知っていましたが、トルストイやゲーテと同様、天才はモノゴトを異常に追及する変態っぽいところがあるからだろうと考えていましたところ、下記↓のような記述を読みました。
http://www.eps1.comlink.ne.jp/~mayus/eating11-20/issa1.html

上記によると、一茶は例外ではなく、当時の日本人一般にそうであったというのです。
農民夫婦にとって、一晩に3交、5交は普通のような書き方をしています。しかし、一茶に関する文献は...続きを読む

Aベストアンサー

4番です。

春画、とアマゾンで検索されれば、より取り見取りですよ。

幕府に搾取、というよりその土地を統治している藩が年貢をとるのだとおもいますが、農村が疲弊して立ち行かなくなるほどはとらないでしょう。むしろ、それで騒動になって中央に知れたら、それこそ取りつぶされます。その前に代官の首が飛びますよ。

基本的に農業は技術が進歩し続けたので、飢饉のとき以外は食べられなくなるほどの事態にはならないでしょう。

山奥は別ですが、農村も都市部で消費するものを供給するのですから、都市とつながりはあります。春画は量産されており、またかさばらないのでオミヤゲに重宝したそうです(春画に限らず、風景・人物の絵、暦などもそうです)。

当時は本当に夜の娯楽(健全な)がなかったので、男性過多な都市部(特に江戸)より、女性に恵まれていた農村では、セックスに走ったと思います。そのかわり江戸には遊び場がありましたが。

Q江戸時代以前の江戸

江戸時代以前の江戸とはどのような所だったのでしょうか?

歴史に殆ど登場しないので、太田道灌が江戸城を築城したことくらいしか知りません。

徳川家康は当時無名だった江戸をなぜ選んだのでしょうか?

Aベストアンサー

 もともと江戸は、寂しい漁村に過ぎず、江戸という地名も「入江の門戸」の村を意味していました。

 鎌倉時代に江戸氏がこの地と関わりを持ちましたが、とくに長禄元年(1457)に上杉氏の家宰太田道灌が江戸城を築いてから城下町が出来ました。

 その江戸城は、戦国時代には小田原の北条氏の一支城となり、遠山氏が上代を務めて支配していました。

 家康が天正18年(1590)に江戸に入府した頃は、「町屋なども、かや葺きの家百ばかりもあるかなし」で、「城も形ばかりに、城のようにこれもなく」というありさまだったということです。 

 なお、徳川家康が江戸を選んだのではなく、豊臣秀吉から領地替えを命じられ、苦渋の思いをしながら江戸に入府したのです。

Q小林一茶の「めでたさも…」の句について

小林一茶の「めでたさも中くらいなりおらが春」という句がありますが、中くらい=ほどほと、「である」なのか「であってほしい」なのか、どちらでしょうか。また、どうして「中くらい」なのですか。一茶にそう言わせる背景があったのですか。調べるための資料やサイトがあったら、あわせて教えて下さい。

Aベストアンサー

【めでたさも中くらいなりおらが春】
この句は一茶の生涯を調べていくと
どのような意味を持つ句かわかります。

1763年、小林一茶は信濃の国に生まれ 3歳で母を失います。
8歳の時から継母に育てられたという不遇の子供時代を送りました。
その後、江戸で奉公をしながら俳諧を学びました。
1791年、25歳の時に帰郷し「帰郷日記」を著述しました。
再び俳諧修業の流浪の旅に出た後、50歳で故郷に帰りました。
52歳で結婚しますがすぐに妻子に先立たれます。
1819 年の元旦から悲喜転変の思いを57歳のから
歳末に至る随想におりおりの句綴った「おらが春」を発表します。
1819 年 (文政 2) の元旦その時の句ですね。
正月でめでたいことだが、私の周りには色々なことがあって
私の気持ちはそれほどめでたいという気持ちにならない。
どちらかというと中ぐらいというところかという意味の句ですね。

参考URL:http://www.mitsubishi-fuso.com/jp/pr2003/0310/travel/

Q江戸時代の上方と江戸文化の違い

上方が「いかに生きるか」
江戸が「いかに楽しむか」
だと思っていますが、あっているでしょうか?

Aベストアンサー

江戸時代の江戸と上方の文化の違いについての見解が示されておりますが、この見解はあまりにも短絡的ではないかと思います。

徳川家康が江戸の地を踏むまで、江戸は単なる片田舎だったのです。
したがって全ての中心は「上方」(上という字が使われていることに注目)にありました。京都に行くことが「上る(のぼる)」であり、江戸に行くことは」下る(くだる)」だったのです。

したがって、上方の文化が単に「いかに生きるか」だけではなく「楽しむこと、生活に潤いを持たせること、情緒を豊かにすること」など、本来の文化に求められるものは全て有していたと思います。

しかし、江戸幕府成立後、江戸の地には新しい文化をつくりあげようとする機運が急激に高まってきたのです。とはいえ、その初期の時代は、いまだ京都を中心とした上方文化の影響を強く受けていました。

ところが、政治の中心地、人口の増加の顕著な江戸には、次第に独自な江戸文化が完成して行きます。これに対し、上方は伝統的な文化が存続し、江戸時代の中期以後は両文化が併存するとも考えられます。 江戸時代も後半になりますと、江戸の文化の隆盛に比べ、上方の文化の影がやや薄くなる感もあります。だが、上方文化は消失することはありません。

江戸時代なかば、近松門左衛門や井原西鶴などが登場し、元禄文化が花開くけれど、その発信地は上方だった。いや文学だけではない。諸事全般、新興都市の江戸は、千年の都を背にした上方の文化に頭が上がらなかった。 

江戸時代も後半になりますと、江戸の文化の隆盛に比べ、上方の文化の影がやや薄くなる感もあります。だが、上方文化は消失することはありません。

時代も下ると文化の中心は江戸へとシフトしていきます。
 宝暦、天明の時代ともなれば、いやもう上方なにするものぞ、の気運バリバリ。超人気作家、山東京伝により「金の鯱(江戸城の天守閣の意味)にらんで、水道の水(玉川水道)で産湯を使い、吉原本多(イケメン風髪形)に髷を結い、本町通りの角屋敷を売ってでも吉原でお大尽遊び」なんて感じの江戸っ子像オリジナル版が登場したのもこの時期だったのです。

このように文化の勢い、新鮮さなどにおいては江戸文化のほうに軍配が上がるかもしれませんが、伝統、質等の面では上方も引けは取らなかったと思います。

「いかに生きるか」は上方も江戸も、というより江戸の方が大変だった時代です。みんな大変な時代にあって、いかに楽しむかを大事にしていたのではないでしょうか。

江戸時代の江戸と上方の文化の違いについての見解が示されておりますが、この見解はあまりにも短絡的ではないかと思います。

徳川家康が江戸の地を踏むまで、江戸は単なる片田舎だったのです。
したがって全ての中心は「上方」(上という字が使われていることに注目)にありました。京都に行くことが「上る(のぼる)」であり、江戸に行くことは」下る(くだる)」だったのです。

したがって、上方の文化が単に「いかに生きるか」だけではなく「楽しむこと、生活に潤いを持たせること、情緒を豊かにするこ...続きを読む


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