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徳川家康、豊臣秀吉は信長の下についていた時期がありましたが
織田信長は誰かの家来・下についていた時期はあったのでしょうか?
先輩を立てたり、目上の人へ気を使ったりする機会がないような気がします。よろしくお願い致します。

A 回答 (11件中1~10件)

家臣って何よ?


ってのが、曖昧なんです。

1559年に上洛して義輝に謁見していますが、京都見学にったわけでなく、将軍である義輝に「来い」と言われたので、行ったわけです。
同じ年に、上杉謙信も義輝に来いと言われて上洛しています。

上洛命令に対してその命令に従ったことをもって家臣と定義するなら、信長は義輝の家臣です。

朝倉義景に対して、上京せよという命令も義昭の命令で行われており、その義昭の命令に従わない(上京しない)ことを理由に1570年に越前出兵しております。
つまり形式上は、義昭の命令に従わない義景を信長が撃つということになり、形式上は、信長は義昭の命令に従っていることになります。



弘治3年5月 日(15570050550)
【文書名】足利義輝・織田信長御定書写
【底本名】鍜冶記録国友文書(32610054)
原本の信頼度はわからないが、義輝と信長の併記書面らしいので、国友村に対して、上位者義輝、その代官なり、奉行人として信長が配置されているものと思われる。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/01/15 23:54

穏やかな方なので質問が無いのだと思います。



隠居したのだから、形式上、斯波義銀の家臣はおかしいのではないですか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AF%E6%B3%A2% …

とか、
既に大名化しており家督相続にこだわり過ぎて判断していないか?
とか、
守護、守護代に拘り過ぎていないか?

とか、来なくて良かったと思って「寝てる」つ^_^)つ
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/01/16 21:12

TANUHACHIさん、守護と守護大名が違うものだなんてことは、良く存じてますよ。


私も日本中世史専攻でしたから。

私の回答は、信長自信がどう認識していたか、という点には言及していませんよ。
まさに形式の点では「仕えるべき主人を持っていた」と記したのです。
また織田家は、最初から超然として織田家が存在していたのではなく、下克上を
経て勢力を伸ばしたことは、正しく認識すべきではありませんか。

「旧来の枠組みや価値観からの脱却を試みる」のは、一人、信長だけが志したもの
ではなく、守護から守護大名、そして戦国大名みな等しく持っていたものであって、
その程度の差です。でなければ、下克上も戦国大名の出現もありえないでしょう。

また「幕府や朝廷などの形式的権力装置は実質の権力など兼ね備えて」いないことは、
一部分は確かです。ただし将軍による軍勢催促、天皇による戦の停止は実際として
あの時代に行われていることも事実です。無力な存在であったと片付けるのは早計に
過ぎます。

と、反論はここまでにします。
質問者様、ご質問に関係の無い回答を記しましたことをお詫び申し上げます。
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この回答へのお礼

とんでもないです。ありがとうございます。

お礼日時:2012/01/14 09:05

 No.7はNo.5方の回答に対する疑義です。

No.6の方の認識が最も的確に的を得た答え方です。信長は自らを「第六天の魔王」と称するように旧来の枠組みや価値観からの脱却を試みています。「枠組みの再構築」を志向する人間にとって「家中の奉行人」など意味のない存在です。
 この意味で彼自身が次の権力継承者として想定していたのは明智光秀か徳川家康の何れかであったとも言われています。両者とも法務官僚としては図抜けた才能を持っています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/01/14 09:05

 あの時代に守護が権力を持っていたなどの史料はありません。

守護と守護大名は日本史学において異なる基礎的概念です。中世後期の権力構造で特質的な概念は「在地領主」です。殊に幕府や朝廷などの形式的権力装置は実質の権力など兼ね備えていません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/01/14 09:05

まあ、確かに



織田 信友
斯波 義銀
足利 義昭

が主君となっています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0% …

織田 信秀(信長の父)は「織田大和守家」に仕える庶流ですから
信長が家督を相続した時点では

織田 信友の家臣。

その後庶流の信長が織田家の頭領になり、守護職、斯波 義銀の家臣となりますが名目だけ。
バンバン利用された挙句追放。

義昭も同じ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/01/14 09:04

織田信長の家(弾正忠家)は、尾張守護・斯波氏に仕え、尾張下半国守護であった


織田家(大和守家)の三奉行の家の一つです。

信長が弾正忠家の家督を相続した時点では、斯波氏も織田大和守家も健在でしたので、
その意味では仕えるべき主人をもっていたといえます。

信長の父・信秀の代に織田大和守家や斯波氏をしのぐ力をつけ、戦国大名化していますが、
大和守家を打倒し、斯波氏を追い出すのは信長の尾張統一の過程においてです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/01/14 09:04

 信長は織田家の嫡男ですから、織田氏の正当な後継者です、従って「他家の家臣だった」ことは一つの可能性もありません。

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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2012/01/14 01:21

城主の嫡男なので、家来であったことはないでしょう。



先輩を立てたり、目上の人へ気を遣ったりしていては、
天下統一なんて思いつきもしなかったでしょうね。
結果、日本の戦国時代は長引き、
全国統一はもっと遅れたかもしれませんよ。
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この回答へのお礼

結果的にはよかったのですかね。
ありがとうございました。

お礼日時:2012/01/14 01:21

#1です。


家臣ではありませんが、
強いて挙げるとしたら、
朝廷・将軍の下です。
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この回答へのお礼

なるほど。
ありがとうございました。

お礼日時:2012/01/14 01:21

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