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ある本に新羅系渡来人秦氏と神社の関係、武蔵國の幡羅郡の神社の説明があり、
「古代神社の雛形は朝鮮半島の新羅あたりから来たものと考える説もある」とありました。
初耳なのですが、古代朝鮮に日本の神社に似た宗教制度、宗教設備があったのでしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

 韓国人、在日韓国人は何でもかんでも日本のものは朝鮮から来たと主張しますが、根拠が希薄なものが多いのであまり素直に信じないほうが良いです。


 在日2世の大学教授が、日本酒の作り方は奈良時代に朝鮮からの渡来人が伝えた、醤油も味噌も漬物も朝鮮半島からの渡来人が教えた、とテレビで言ってましたが、奈良時代に日本酒(清酒)はありません。
 醤油はずっと後の時代に南方から日本に伝わったことがわかっています。古代に醤油はありませんでした。漬物は世界どこでもあります。
 「日本酒」の意味が違うのです。奈良時代に日本酒が無かったことを言うと、「先生が日本酒というのは、今の清酒のような日本酒ではなくて、どぶろくのような濁り酒のことです。」というかもしれません。しかし、どぶろくのような酒は古くからどこにでもありました。東南アジアにも、世界どこでもありました。奈良時代に朝鮮の渡来人がどぶろくを教えたという根拠になるものはありません。

 御質問の「古代神社」もどういう意味でしょうか?「古代神社」の定義をきちんとしないことには、その説の意味もわかりません。定義をきちんとさせない、わざとあいまいにして何でもかんでもカスルようにすれば、何でも朝鮮から来たということに話を持って行くことが出来てしまいます。

 古代朝鮮の宗教設備としてわかっているのは、高句麗で毎年秋に穀物(雑穀)や動物を与えてくれた神に感謝するため、特別な祭壇をこしらえて(作って)大きな祭祀を行なったことです。これは韓国の中学校の歴史の授業でも習います。屋根はなかったようで、子供向け本の挿絵には木で数段の棚を作って、その上におそなえものをのせて、祈っている絵が描かれています。これは想像して画いた絵です。実際がどのようなものだったかはわかっていません。
 毎年わざわざ作っていたので、祭壇は祭祀が終わるたびに壊していたようです。
 毎年秋に感謝祭って、世界中あちこちでします。
 土地の神(自分たちが住んでいる土地の神様)を始め、諸神(いろいろな神)に祈りました。(「土地の神様」という考え方は、モンゴルに今もあります。東西南北四方の土地の神様にヨーグルトやお酒を撒いてお祈りします。「四方に祈る」というのは今の日本の神道でも、多くの神事で行ないます。)
 祭祀の主催者(祭祀を先頭切って仕切る人)は、王でした。古代朝鮮でも、世界の多くの王がそうであったと同じく、王は祭祀長でした。
 秋のこの大規模な祭祀は百済にも受け継がれ、また新羅でも後の時代に行なったようです。

 他の神事、神事に関する建物についてはわかっていません。
 
 朝鮮に中国から仏教が伝えられてからは、寺という建物ですから、中国から来た文化ですね。つまりそれ以前の宗教及び宗教施設ということですね。
 朝鮮の元にあるのは、自然を神とする自然崇拝、多神教です。
 武蔵国の古い時代の神社というと、一族の先祖とか、その土地を開拓するのに功績があった人とかを神として祭る神社ですよね。
 しかし、古代朝鮮で自分たちの特定の先祖や、世の中の役に立つことをした人を神として祭り、恒久的な建物を建てて祭祀、神事をやったかどうか、歴史資料はありません。王でもない人を神として奉りそのようなことをやるような宗教観があったかどうか。

 朝鮮で古代神社や神殿、祭祀場の建物のような物が発掘されていたら、日本の神社と比較したりして関係を考察出来ますが、比較の相手が無いので考察のしようがありません。
 新羅の神社?神殿? そのようなものは発見されていません。よって、あったかもしれないし、なかったかもわかっていません。
 あったかもしれないとしても、どのようなものだったかは、全くわかりません。想像するしかありません。
 想像は日本では歴史的事実だと認められません。

 古代朝鮮の祭祀長は王だと先記しましたが、祭祀(まつりごと)をするには王様一人だけで足りません。祭祀を王様と一緒にする、宗教を職業とする人たちがいました。シャーマンです。
 朝鮮の古代宗教は、広くシベリアで行なわれていたシャーマニズムと共通性が多いことがわかっています。
 今の韓国のシャーマンも、今のシベリア少数民族のシャーマンたちも祈りのときにピョンピョン、地面に対して垂直方向に飛び跳ねます。地面に垂直に飛び跳ねるのは朝鮮半島のシャーマンの特徴だとよく言われますが、実はシベリアのシャーマンも同じなのです。
 今の韓国に民俗行事として残っている、大勢が大きな輪になって踊るのも、シベリア諸民族に非常に似た伝統行事があります。

 もちろん日本には朝鮮半島から伝えられたものもあります。しかし元々、アジア一帯に広くあったものもあります。
 朝鮮半島には南方から伝えられた文化もあります。それは朝鮮の神話を見れば明らかです。朝鮮の神話は「南方系神話」と「北方系神話」の両方が入り混じった神話です。
 新羅の神話に王が卵から生まれるという有名なのがあります。これは南方系神話の典型です。朝鮮半島が南方アジア、北方アジア両方の文化の影響を受けて来たことを示しています。
 日本の神話『古事記』にも、南方系北方系両方の神話が入っています。


 また、在日韓国人の人は奈良が朝鮮語から来たとよく言いますが、俗説です。マスコミがこの説をよく取り上げて広報するので「奈良は朝鮮語なんだってね。」と言う日本人がいますが、「ならす」(平らにする)の古代日本語から来ているという説のほうが一般的です。
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確かに日本の文化、というか日本人そのものが大陸から渡ってきたことに間違いはありません。

それも最初に北方民族と南方からやってきてクマソやアイヌなどの先祖と同じ系統の民族が移住し、後に中国や朝鮮半島で独自の進化を遂げた民族が入ってきた。それが北九州から勢力を拡大しつつ東進したというのが一般的な考え方です。
従って鳥居や神社特有の建築様式は今でも東南アジアにもあるようですし、記録に残るレベルの神社様式は半島から入ってきたと考えるのが自然です。その半島文化も本をただせば中国本土からのものですし、中国本土に伝えたのは東南味さからのものが主で、一部は北方経由とされています。
あくまでも新羅だとか言うのは記録での範囲であり、それ以前のものは定かでは無いだけです。それに氏族も自らの権威を高めるための工作はするでしょうから。

神道の祭りの形式は現在沖縄などに残る祭祀がその原型だとしています。つまり岩の隙間や木の室などに岩、或いは木の枝を立て、そこに神を降ろして神託を仰ぐと言うものです。
この時期はそのつど神を降ろす神籬を用意しましたが、次第に神籬が固定し、その周囲を神域として社ができました。社と言うと今では建物を連想しますが本来は「屋代」つまり今で言う境内のことを指します。
玉垣のような囲いや鳥居の原型はこの頃に生まれたと言う説があります。

日本の国が成り立ちを得て、国主が祭事にかかわるようになりますと雨風を防ぐ建物が必要となります。これが拝殿です。つまり神社は神殿より拝殿が先に作られたのです。
やがて山や岩を御神体とするだけではなく先祖霊だったり山の頂上から麓に祭りを行う場所を設けて、そこに依り代をおくようになりました。つまり今様のご神体が生まれたわけです。これはヌサの形状を取ったり、神器の逸話から鏡を御神体とするようになりました。そしてそれを収めるべき宮を建て、これを神殿とするようになりました。

さらに中国から多くの文化が流れ込み、道教や仏教などの影響を受けて神道の様式も次第に変化していきます。特に神仏混淆以降、習合の時代に入ってからは余計に大陸文化を取り入れてきました。
新羅は半島でもかなり長い時代にわたり存在し、その支配も大きかったので、例えば中国本土から日本に来るにしても新羅を中継せざるを得ません。だから新羅からすれば新羅の文化と言いたいのでしょう。

一方で半島より北の中国大陸ではそのまま新潟方面や秋田方面に船を乗り付けての交流も盛んに行われていたようです。いまでは大和政権だけが日本の国の基盤だとしてあまり研究も進んではいませんからなかなか全体像を捉えることはできませんが、一時期にせよ日本は二つの勢力に分けられると言われるくらい東日本にも大きな文化があったことは確かなようです。

従って初期の神道に影響を与えた文化が半島にあったことは確かでしょう、しかしそのすべてが新羅由来とは限らないはずですし、新羅の文化が新羅特有で他に類を見ないかどうかも怪しいものです。
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 苗族の支族・・・ 何族だったか思い出せないのですが、中国の山岳地方に、村の入り口に鳥居そっくりのもの(木を組み合わせあるもの)を建てている種族がいます。



 鳥居の上に鳥の模型が3羽止まっているモノクロ写真を見た記憶があります。

 「やっぱり鳥が居るから鳥居なんだ」と納得したのです。

 あれと日本の鳥居が無関係なはずはないと思います。名前も形もそっくりなうえ、その村人も日本人によく似ていましたし。

 あの人たちは朝鮮半島を通ってやってきた可能性もあるでしょうが、同じくらいあの人たちが海路日本へ来た可能性もあります。

 私は、神道が日本独自のもので、100%どこの影響も受けていないなんて考えるほど愚かではありませんし、その影響を与えた人が韓国人でもいっこうにかまわないのですが、

 少なくても、朝鮮が日本と一体になるまでの建造物で、日本の神社と同じ構造の建築物の跡が朝鮮半島で見つかったという話は聞いたことがありません。

 掘ってみて、お寺などのつくりでよくにた配置の跡が見つかっていることなどとは対照的です(日本の影響を受けて百済が作ったんだ、と主張する日本人もいますが、私はそれも論拠がないと思います)。

 習慣についても同じです。

 最近、「日本神道の自然崇拝は韓国の影響である」なんて意見を見ましたが、自然崇拝は地球上のどこにでもあったものです。


 朝鮮では中国の影響か、何度も相手を絶滅させるような戦いをやっています。対立者のものをすべて壊したので地上には何もありません。

 百済の情景を知りたい韓国人は日本の奈良へ来るというくらい、韓国にはなにもありません(奈良のナラはウリ・ナラのナラだという説もある)。

 たとえば日本人は、邪馬台国を論じる人は魏志倭人伝を完全には無視することができません。

 かの地は何もないから、自分たちを束縛するものもなく、ゆえに、なんでも好きなことが言えるというのが韓国の状況です。

 ですから、韓国起源論には、あまり耳を傾けないほうがいいと思っています。
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秦氏は中国系百済人の末裔でして、新羅の出身ではありません。


また、確かに幾つかの重要な神社の祀治を行っていましたが、
秦氏が渡来するより古い神社は今も多く残っています。
確かに朝鮮半島は経由していると思いますが、
やはり中国からの影響なんだと思います。
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http://kamnavi.jp/toyo/kawara.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%98%A5% …

このへんの話かもしれない

つまり八幡社の素形は、新羅からの渡来人が作ったものだというもの
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天皇家が半島からやってきたという人たちも居るようですからねぇ。


神社=天皇制でしょう。
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