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弥生時代の遺跡として有名な佐賀県の吉野ヶ里遺跡には、復元された「物見やぐら」が建てられていいます。この「やぐら」の使用目的は、ほんとうに敵を見張ることなんでしょうか。弥生時代の歴史書は日本では見つかっておらず、そのような証拠はないと思っています。現代のえらい学者先生の学説あるいは通説と理解してよいのでしょうか。

A 回答 (3件)

そりゃだれも実際に使用しているところを見たことがないんだから。


それに歴史書なんて結局後世の人が自分に都合良く書いたものだから証拠にはならない。
また当時の記録があったとしてもそれが真正なものか判らない。
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この回答へのお礼

そうですよね。

お礼日時:2013/06/14 11:44

邪馬台国は中国の魏と交流があったとされています。


巨大な城塞で街を囲む技術があり、すでに火薬(地雷)まで発明されていた当時の中国から技術の供与があればやぐらくらい簡単に作れたんじゃないでしょうか。
またいくつかの敵対国と戦いを繰り広げていたともされており、鎧や槍も出土しています。
それだけの環境があれば柵で周りを囲み見張りのための高い建物を作る程度のことはするんじゃないだろうかと思いますよ。
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 吉野ヶ里の様な集落遺跡には二つの側面があります。

一つは文字どおりの他の集落との境目を記すために周囲に何がしかの目印を付け、ここから内側は俺たちのテリトリーだよと宣言する目的であり、その見張りをするための高台を設けるとの意味。
 そしてもう一つは「集落内部での境界線」です。集落内部の境界線とは、集落内でのリーダーやカリスマ的指導者が神からのお告げを聴くための場所との意味です。神に近い場所は空に近い場所、つまり高い場所につながります。
 邪馬台国の女王卑弥呼は巫女としての一面をも持ち合わせていましたので、彼女(もしくは彼)は神聖な存在であることになり、それだけで下々の者達はははーっとひれ伏したとも考えられます。
 文字のない時代の話ですから、それを類推するためには他の民俗学などの成果に頼らざるを得ません。アンデスの墓葬形式は風葬ともいわれます。亡骸を神の許に返すとして自然に任せたのでしょう。もしギリシァのオリンポスの神殿が平地にあったなら、それは世俗の目線と全く同じ位置にあることとなり、神である必要もなくなってしまいます。神だから自分達世俗の者よりも高台に置いてそこを崇め奉るとのニュアンスも生まれたのかもしれません。飽くまでも推測の域を出ない話ですが。
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この回答へのお礼

勉強になりました

お礼日時:2013/06/14 11:46

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