ちくのう症(蓄膿症)は「菌」が原因!?

今夜合気道の稽古に行きました。
寒かったです。

すると、稽古の後にある人がこう言いました。
「昔の人はどうやって寒い冬を過ごしたんだろうね」

私「ダウンとかないですよね。藁をかぶって寝てたんでしょうか」
「じゃあ戦のときはどうやって寝たんだろう」
私「うーん。野宿は無理でしょ」
「でも農繁期には戦はしないだろ」
私「いや、秀吉のころには兵農分離していたし、やったのでは?
昼間は広いところで戦っても、夜は農民の家や納屋で寝たのでは?」

「そんなに都合よく寝るところが見つかるかな。テント張ったのでは?」
私「無理です。大将は天幕張ったかもしれないけど、雑兵は無理でしょ」

「寒いけど我慢したのかな」
「我慢できるとは思えません。寒すぎますって」

すると別の人が言いました。
「江戸時代とか、かけ布団はなかったらしいよ」
私「そりゃ死にますよ。服を何枚も重ねたのですかね」

さて、実際の農民や戦場の武士はどうやって寒さをしのいで
寝ていたのでしょう?

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A 回答 (9件)

江戸時代と農民と戦場の武士とは、時代も条件も違いますので、バラバラの回答になります


江戸時代に冬季に武士が野宿するような戦闘は行われませんでした。(念のため)

日本家屋というのは「住いは夏をもって旨とすべし」と言われていたように密閉度の低い風通しの良い構造になっていました。
部屋の仕切りも襖か障子でした。
逆に言いますと冬は現在に比べれば相当に寒い環境でした。

現在のようにエアコンや石油ストーブなどが普及しなかった昭和30年代以前は江戸時代も昭和時代も余り変わりはありませんでした。
都市部では、火鉢と炬燵(行火)がごく普通の暖房設備でした。
火鉢や炬燵のある部屋に家族全員が集まって寒さをしのぐというのがごく普通の習慣でした。
部屋ごとに部屋全体を暖房するというのは、高度成長期以降の習慣です。

炬燵や行火が使われるようになったのは室町時代以降とされています。
火鉢は奈良時代から使われていました。
火鉢に使われる木炭は縄文時代からありました。
つまり、奈良時代から昭和30年代までの都市部の暖房というのは、主役は火鉢でした。
信長が秀吉の才能を注視するようになった切っ掛けは、城中で使われる炭を大幅に節減したことだったと言われています。
江戸時代の江戸の街の様子を描いた江戸名所図絵という書籍がありますが。
その中に、部屋の障子を全て開け放って、皆で庭に積もった雪を眺めている絵があります。
部屋の真ん中に火鉢が一つ置いてあるだけです。
江戸時代は現在よりも寒冷で、江戸でもよく雪が積もりました。(小氷河期と言われています)
あちらこちらで雪見という行事をやっていました。

台所などの炊事場には七論と呼ばれる煮炊き用の移動式の炉があって夏でも火が入っていました。
湯沸かし器がありませんでしたから、常時お茶用などのお湯を沸かしていました。
この移動式というか携帯形の炉は平安時代から置き炉と呼ばれて使われていました。
日中は必ず火が入っていましたので、暖房の役目も結果的には担っていました。

農漁村地帯では囲炉裏が唯一最大の暖房設備でした。
囲炉裏の周りに集まって寒さをしのいでいました。
現在、村興しなどで古民家を使って囲炉裏端での食事を提供していますので、機会があれば訪ねてみて下さい。

明治以降ストーブが普及した後はストーブが囲炉裏の代わりをしていました。
学校も教室にストーブが一つ置いてあるでけでした。
入学試験の際には不公平になるということで、ストーブは消してありました。
つまり暖房のない教室で試験を受けていました。
もしお祖父さんやお祖母さんがおられれば聞いてみて下さい。

明治になるまではウールという動物質の繊維製品がありませんでしたから、着物は木綿が主体でした。
木綿の入手が難しかった関東以北の地では麻が主体でした。
セーターという衣料品は明治以降に着られるようになった衣料品です。
木綿も麻も現在の衣料品に比べれば保温性が劣ります。

江戸時代には、着物は夏は一重と言って浴衣のような感じの着物でしたが秋になるとあわせといって、夏の着物に裏を付けて二重にしました。
和服というのは、糸を抜いてばらばらにして洗い、また縫い直すというやり方をします。
この為に季節ごとに一枚にしたり重ねたりということを繰り返して着ていました。
冬になると、この重ねた表裏の間に綿を入れた綿入れという状態にして着ていました。
この綿入れの綿の量を増やした掻巻(かいまき)、あるいは褞袍(どてら)というものを作って掛布団代わりにしていました。丹前とも呼ばれました。
掛布団が無かったのではなく、チャントその代わりの役目を果たすものがありました。

質問者さんが、江戸時代どころか、昭和20年代の家へ行けば、おそらく寒さに文字通り震え上がるでしょう。
簡単に言えば昔の人は寒さには強かったということです。

あとは、生活習慣が違いますので、一人で部屋にこもってゲームで過ごすなどということはありませんでした。
常に火のある部屋へ家族が集まって過ごしていました。

それと、人間はある程度寒さには慣れます。
これは外国人観光客の方にも見受けられます。
南欧以外のヨーロッパから来られた方やアメリカから来られた方は日本人よりもはるかに薄着です。
永平寺などで修業をされている僧侶も特に暖房もなく一冬過ごします。
寒稽古で頑張って下さい。寒さには直ぐに順応します。

戦国時代の武士の野宿ですが、当然焚火をして寒さを凌ぎました。
移動の際には、蓑と呼ばれる稲わらを重ねた外套を着用していました。
雪のある時期はお互いに足場も悪く体の動きも鈍りますので、余り積極的には戦はしていませんでした。
この当時の常識を破ったのが佐々成政のさらさら越えです。
命懸けで冬の立山を越えています。
常識外の行動でしたので、現在まで伝えられています。

人間の体というのは血液が循環していますから、手足を温めるだけでも寒さは凌げます。
焚火が効果があるのはこのためです。
湯たんぽもこの原理を応用したものです。
寒いなと思ったら手をお湯に10分ほど浸けてみて下さい、全身が温かくなってきます。
最近温泉地で足湯というのが流行っていますが、これも相当暖かくなります。
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この回答へのお礼

たくさんの回答をありがとうございました。
一括ですみません。

昔の人は寒さに強かったというのもあるかもしれませんね。
冬には戦わなかったというのも納得です。
ありがとうございました。

お礼日時:2015/01/20 22:47

大体…300年ぐらい前は今ほど寒くありません


それに雪国では冬は戦はしません(城に閉じこもってじっとしています)

江戸では着込んで過ごす
火鉢は意外と暖かい
江戸で氷点下20度とかは考えられないので 1℃やそこらなら凍死もしませんから
慣れてる当事の人なら過ごせたのでは?
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江戸時代の小噺にこんなのがあるのです。


ある田舎の村に尼僧がやってきた。ある農家がその尼僧を家に泊めてやることになり、夜が寒いのでその家の主人は娘に「尼僧さまが寒いといけないから、お前が一緒の布団に入ってやれ」といいました。
ところがその尼僧は実は男で、しかも全然悟りをひらいていなかった。あっという間に手籠めにされて、娘は慌てて出てきた。両親が「お前は尼僧さまのところにいるんじゃないのか」といっても「うふふ」といって取り合わないので、母親が尼僧のところにやってきて「いうことをきかない娘で申し訳ありません」といって布団に入ってきた。するとあっという間に母親も手籠めにされた。そして母親が戻ってきたので主人が「お前までどうしたんだ」と聞いても「うふふ」というばかり。
仕方がないので主人が「いうことをきかない妻や娘で申し訳ありません」といって布団に入ると、この僧侶は両刀遣いで、あっという間に主人まで手籠めにされてしまった。主人が戻ってくると娘と母親がニヤニヤしながら「どうだった?」と聞いてきたので主人は、「俺も、うふふ」

おそらくなんですが、下々の身分の者はみんなで身を寄せ合ったのだと思います。寒いときのお猿さんみたいにね。子供さんがいる人なら分かると思うけど、子供を抱いて寝ると、冬は暖かくて夏は暑いです・笑。
戦国時代の足軽や雑兵がどうしていたのかは、資料が残っていないのでわからない、となります。ただ、今も残るような宿場町は戦国時代に軍隊が行き来することによって成立したので、最前線にならない限りは少なくとも大将・幹部クラスは宿場町ではちゃんとした部屋で寝ていたと思います。
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そのころからダウンはないけど綿入れはありましたよ。


どてらといって、つい50年前は年寄りの代名詞のように言われてたけどね。
江戸時代にはその前身のわらを中に入れたものがあったでしょう。
わらだけで十分暖かかったしね、蓑などがいい例です。
農家に大田道灌が借りに入って、蓑一つだになきぞ悲しきといわれたんだよ。
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猫を抱いて寝たのでは?

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江戸時代とはちょっと異なりますが、古代ローマの兵士は上半身はTシャツ程度に防具をつけ、足はミニスカートのようなものに、サンダル(いまでいうグラディエーターサンダル)とせいぜい脛当て、程度でした。



イタリアは比較的暖かいのですが、イギリスあたりは相当に寒かったと思います。ガリア人などは皮を着ていたのに、ローマ軍兵は寒くても同じ格好で戦ったといわれています。

また現代でも、極北のような寒冷地に住む人は、冬マイナス40度ぐらいが当たり前なため、春先マイナス10度ぐらいになると、上着(防寒着)を着ていられないほど暑くなり、せいぜいセーターぐらいで作業をするようですし、夏は最高気温が3度ぐらいにしかならないのに、現地の子供も大人もTシャツ1枚ですごせるそうです。逆に沖縄とか台湾の人は15度ぐらいでコートを着るぐらい寒さを感じるようです(多分におしゃれの意味もあるようですが・・)

結局、江戸時代にしても現代人には考えられないほど寒さに耐性があったのだと思います。逆をいえば、これらの耐性を身に着けられない病弱な人は、子供の頃に死んでしまうわけです。

私も子供の頃は病弱ですぐに熱を出して倒れるほうでしたから、江戸時代まででしたらたぶん5歳ぐらいまでに死んでいたでしょう。

それぐらい過酷な耐性を身に着けた人だけ大人になれたから、冬でもそれなりの寒さに対応できたのだと思います。

また、平安中期になると紙ぶすま(紙衾)という夜具ができます。和紙を使って中にわらなどを入れた掛布団で、かなり貧しい者でも買うことができたようで、非常に普及し、薄く作られたものは旅行に携行するなど広く用い垂れたそうです。芭蕉の句にも紙衾をうたったものがあるようです。
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No.2さんの回答に、



3枚100両、、、とあります。

1両は、現代の10万円ですから、

100両なら、1000万、、ということです。

闇夜に紛れて、盗人が千両箱を肩に担いで逃げますが、

千両箱には、1億円入っています。


昔の人は、寒さへの 耐性があったのでしょうね、現代人と違って、、、。

暖房は、せいぜい、田舎なら囲炉裏、街中なら火鉢 くらいでしょうから。

あとは、石を焼いて ボロ布で包んでホッカイロの代わりにする、、、とか。




余計なことでしたが、、、。
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ベタな回答なので、まあ漫談としてお納めください。




合戦ですが、基本的に冬場はしません、というか、できません。
防寒が貧弱だったので兵士の損耗が当然多くなりますが、兵士=領地の農民なので、損害を出しすぎると平時の農耕に支障をきたすからです。また、万が一戦をやってしまったとしても、春が近づくと兵士=領地の農民が自分の畑を気にしだして脱走がふえ、戦どころではなくなります。


また、兵士・武器・弾薬の維持と、馬の維持には補給が継続していることが必要ですが、雪などの天候障害で補給の維持が難しくなります。補給が途絶えた軍隊からは、やはり兵士の脱走がおきるので、冬場の戦はやらないのが当時の軍事常識でした。

例外は城郭に対する包囲、城攻めの継続です。これは攻める側が包囲陣地を完全に構築して、冬場もしのげるようにするのが基本だからですが、それでも物資が莫大な量必要となるので、冬がくる前に終わらせることが基本でありました。

ところが、秀吉の朝鮮出兵、4月に侵攻したのですが冬場にもつれこんで反撃されて、膠着状態になります。
この時は日本水軍=補給部隊であり、官僚として兵站組織維持に有能だった石田三成のおかげで、日本軍は壊滅せずにすんだのです。


農民も町民も、まずは厚着です。農民は囲炉裏、町民は火鉢、あと、コタツが大活躍でした。
寝る時は、かいまきという、どてらを大きくしたような物を着て寝ていました。当時、ふとんといえば敷布団のことをいいます。掛け布団はゼイタク品でした。綿が貴重品で、当時は綿は糸にしていたからです。掛け布団を使えるのはお金持ちで、3枚100両と高価なものでした。どろぼうの標的になるほど貴重品だったのです。

町だと、夜泣きそば、鍋焼きうどんが来たりもしました。これの究極発展形が、現代の立ち食いそば・うどんです。

ネタになればさいわいです。
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Q昔の人は冬の寒さをどうやってしのいだのですか。

灯油ストーブが各部屋に普及するのはいつ頃なんでしょう

上流階級から庶民まで各時代の日本人はどのように寒さをしのいでいたのでしょうか。
素足で粗食、隙間風。
あるじ以下全員集合で囲炉裏ばた?
殿様もヌクヌクとはいかなかったのですかね。
日本人らしいですよね。何でですかね。日本人はケチ文化なんですかね。
私は暖房入れていないのですがこれでは冬に寿命が縮みます。昔をしのばれる状況です。
昔の人はどのくらい寒い思いをしていたのですか。平成の現代人には耐えられませんよね。


ご教授のほど宜しくお願いします。

Aベストアンサー

こんばんわ。
bungetsuです。

お読みいただきありがとうございます。


>>行火も含めて炭にかかる出費は生活を圧迫したり無駄遣いとはされていなかったのでしょうか。

江戸時代は士・農・工・商と言われましたが、江戸市中を見る限り農業は0%、工業(鍛冶職、鋳物職など)は10%、商業は30%、後は、大工や鳶職などが10%、武士は軍事上の秘密から公表はされていませんが50%。

従って、江戸は一大「消費都市」だったのです。

さて、話を戻しましょう。

以外と思われるかも知れませんが、江戸の周辺には「炭焼き」が非常に多かったのです。

武蔵(八王子、川越、秩父など)・・・・東京都および埼玉県
伊豆、駿河、遠江(とおとうみ)・・・静岡県
相模・・・・・・・・・・・・神奈川県
甲斐・・・・・・・・・・・・山梨県
常陸・・・・・・・・・・・・茨城県
上野(こうずけ)・・・・群馬県
下野(しもつけ)・・・・栃木県
上総(かずさ)、安房(あわ)・・・千葉県
下総(しもふさ)・・・・千葉県の一部と茨城県の一部

「享保通鑑」という史料によると、享保11年(1726)に船などを使って江戸へ運び込まれた炭は89万9710俵、薪は1829万9687束とありますが、薪は当然のことながら、主に煮炊き専用でした。

前回も述べた通り、江戸では囲炉裏などで大々的に火を焚くことは禁じられていましたので、必然的に暖をとるためには炭に頼らざるを得ませんでした。となると、値がどんどんと吊り上ってしまいます。

そこで、幕府もたびたび炭の値段については「御触れ」を出し、庶民でも気軽に購入できるよう「価格統一」などを行いました。

しかし、薪に関しては、なぜかこの「価格統一」がされませんでしたので、大量に出回るにもかかわらず、結構な価格となってしまいました。

従って、炭は割合安く購入できたようです。ただし、備長炭のように長持ちはしなかったようですね。

まあ、長屋暮らしなどでは家計費を圧迫はしたとは思いますが、寒さにかえられなかったのではないでしょうか。

ご存じ、赤穂浪士の討ち入りで吉良上野介が隠れていたのが「炭小屋」でしたね。
武家は炭は安かったので、結構溜め込んでいたようです。



>>明治以降戦後についてもご存知であればご教授ください。


明治に入ってからは、近代化が進み、西欧諸国から工業技術を積極的に取り入れたため石炭の採掘に力を入れ始め、年間200万トン余りも生産されていた炭も火力が弱いために、10年も経たないうちに約6万トンの生産量・・・と言うよりも使用量に減ったと言われています。

そして、現在のように一般家庭で電気、ガス、石油が使われ始めたのは、何と、第二次世界大戦の後の1950年後半で、それまでの木炭(炭)、薪、石炭から電気、ガス、石油への転換が急速に進みました。
これを「燃料革命」と呼ぶ学者もいます。

こんばんわ。
bungetsuです。

お読みいただきありがとうございます。


>>行火も含めて炭にかかる出費は生活を圧迫したり無駄遣いとはされていなかったのでしょうか。

江戸時代は士・農・工・商と言われましたが、江戸市中を見る限り農業は0%、工業(鍛冶職、鋳物職など)は10%、商業は30%、後は、大工や鳶職などが10%、武士は軍事上の秘密から公表はされていませんが50%。

従って、江戸は一大「消費都市」だったのです。

さて、話を戻しましょう。

以外と思われるかも知れませんが、江戸の周...続きを読む

Q昔の人はどうしていたのでしょうか?

寒いですね。
とても寒いですね。
これからもっと寒くなりますね。
現代人は文明の利器によってかなりの防寒がされていると思います。
昔の人はどうしていたのでしょう?
現代人は寒さに弱くなったのでしょうか?
温暖化で暖かくなっているというのに。
とてもではないですが江戸時代以前に生きていたら布団から出られそうにありません。()
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんばんわ。
私は、自称「歴史作家」です。

皆さん色々な素晴らしい意見が回答されているようですので、私は「大江戸事情」についてお話ししましょう。

「家の造りやうは、夏をむねとすべし、冬はいかなる所にも住まる」
は兼好法師の「徒然草」の有名な一節。

暖房として住まい全体を暖めるには囲炉裏が一番でしたが、江戸では火事が多発したため、囲炉裏で薪を燃やすことは禁じられていました。そして、農家から買い入れる薪も大変高価でした。

従って、深川芸者の置屋や舟宿には囲炉裏が設置されていましたが、炭を置く程度で暖房としての効果は全くありませんでした。

深川芸者などは寒さのあまり、お座敷では華美な着物で芸を披露しましたが、客待ちなどの時は、ありったけの着物を身体に巻きつけて寒さ凌ぎをしていました。そんな姿を見たら客も幻滅したことでしょう。

庶民は・・・と言うと、

まずは、せいいっぱいの厚着をして、火鉢に手をかざしたり炬燵に足を入れたりするていど。

火鉢には金属製、木製、陶器製などがあり、形は丸火鉢、角(箱)火鉢、長火鉢、提火鉢などがありました。

町屋でも、ある程度裕福な家では木製の長火鉢で、片側に猫板といわれる部分があり、茶器などを置くことができ、引き出しになっているので、小間物を仕舞うにも便利で重宝がられました。

では、熊さんや八っあんたちの長屋では・・・

江戸時代の初期の頃は、もちろん厚着をして、丼を大きくしたような鉢に灰を敷き炭を入れて、せいぜい手を暖める程度。
江戸も中期以降になると、陶器製の行火(あんか)が登場。どこへでも持ち運べるので大変な人気になりました。

そして、一工夫加えて、行火の上に蒲団をかけて何人もが手足を入れて暖をとることができるようになりました。また、辻番が好んで使用していましたので、別名「つじばん」とも呼ばれました。

さらに発明がされて、行火の上に現代のような櫓(やぐら)を置き、その上から蒲団をかける「櫓炬燵」が登場しました。
これにより、家族全員が等しく暖をとることができるようになりました。
しかし、現代のように「炬燵板」の考えがなかったため、茶器などの道具類が置けないのが難点でした。

狂歌に、
「四角でも炬燵は野暮なものでなし」
と詠まれたほどでした。

寝具:

江戸では、現代の掛蒲団にあたる「夜着」(よぎ)が一般的でした。
「夜着」は、袖と襟のついた大形の着物のような形で綿が入っていました。

上方では、元禄年間頃には敷布団よりも薄くて幅広い、いわゆる現代風の掛蒲団が庶民の間にも定着したと言われています。

また、「寝間着」といった独立した衣服は存在せず、昼間着ていた下着や肌着のまま寝るのが普通で、夜着も持てないような貧乏人は、ありったけの着物を身体に巻きつけて寝ましたので「寝間着」ではなく「寝巻」と書くのが本当。

以上、江戸の風俗でした。

こんばんわ。
私は、自称「歴史作家」です。

皆さん色々な素晴らしい意見が回答されているようですので、私は「大江戸事情」についてお話ししましょう。

「家の造りやうは、夏をむねとすべし、冬はいかなる所にも住まる」
は兼好法師の「徒然草」の有名な一節。

暖房として住まい全体を暖めるには囲炉裏が一番でしたが、江戸では火事が多発したため、囲炉裏で薪を燃やすことは禁じられていました。そして、農家から買い入れる薪も大変高価でした。

従って、深川芸者の置屋や舟宿には囲炉裏が設置されていまし...続きを読む

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q平安時代の寝殿造り.....冬はどうやって寒さをしのいだのでしょうか?

寝殿造りと呼ばれている建物は廊下をはさんで部屋にすだれ(みす?)や屏風が
あるくらいで、特に戸になる物は無い様に思うのですが、
冬はどうやって寒さをしのいだのでしょうか?
やはり着物を重ねる事でしのいだのでしょうか。

仮に火鉢などを部屋に置いてもかなりの寒さだったと思います。
さらに雨風が廊下から吹き付けば、濡れてしまったり....。

平安時代に限らず、現代から見ると昔の家は不思議ですね。

無知ゆえわかにくい質問ですが当時の暮らしぶりがとても気になります。
なにかお知りの事があったら教えてください。
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

「家のつくりようは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり」これは鎌倉時代の終わり1330年ごろに兼好法師が「徒然草」に書いた、日本の気候風土と住まいについて書いた有名な一説です。

寝殿造(しんでんづくり)は、夏向けの建物です。そのかわり装束は冬向けに作られたといわれます。
寒さを凌ぐために、重ね着を着れるだけ着たでしょうし、綿衣(わたぎぬ)という真綿(まわた)を袷(あわせ)の中に入れた今でいう綿入れのような冬着もありました。舶来の毛皮などもありました。

几帳、屏風、衝立、襖は寝殿造りの内部の調度品のなかにあって日本独自のものとして生まれ、これが工夫されて、間仕切りの少ない寝殿造りの防寒、機密性を保つ為に作られたものと考えられているそうです。

部屋は帳(とばり)を引きつめて、炭櫃(すびつ)や火桶(ひおけ)を部屋に集めてがんがん焚けば、それなりにしのげたようです。

火桶(ひおけ)・火櫃(ひびつ)・炭櫃(すびつ)
木をくり抜いて金属製のおとしを入れ、その中に灰を入れ、炭火を焚いて暖を取る暖房機具。主に桐の木で作られる。炭への灰のかけ具合で暖かさを調整する。本来は円筒形のものを火桶、方形のものを火櫃と呼んでいたが早くから混同していたらしい。炭櫃は方形で脚のあるもの。または、据え付けの大きな角火鉢のこと。

建物の風雨を防ぐ物としては、格子(こうし)、蔀(しとみ)妻戸(つまど)等がありました。

   http://www.iz2.or.jp/kizoku/chodo.html

「家のつくりようは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり」これは鎌倉時代の終わり1330年ごろに兼好法師が「徒然草」に書いた、日本の気候風土と住まいについて書いた有名な一説です。

寝殿造(しんでんづくり)は、夏向けの建物です。そのかわり装束は冬向けに作られたといわれます。
寒さを凌ぐために、重ね着を着れるだけ着たでしょうし、綿衣(わたぎぬ)という真綿(まわた)を袷(あわせ)の中に入れた今でいう綿入れのような冬着もありました。舶来の...続きを読む

Q昔の寝具についてー薄すぎませんかー

テレビなどで見る限りにおいてですが、かなり高貴な人の場合でも、寝具は季節に関りなくとても薄くて、特に敷布団が全く厚みのないものの上に寝ています。
あれでは暖房もない時代、絶対風邪を引いてしまうと思うのですが、実際のところ、どうなのでしょうか。
庶民の方が「わら布団」という言葉もあるくらいで、ずっと温かく眠れた様に思います。
となりの市に、律令時代の「県庁」に当る建物が復元されているのですが、それをみても、よくもこんな風通しの良すぎる建物に滞在できたものだなと、信じられません。
そういうところに、タオルケットのような物一枚を敷いて、上にも、薄絹のようなものを掛けただけで休んだのでしょうか。
(もう少し時代が下がって、平安時代くらいの映像で、そのような寝具が良くでてきますので)
今より、ずっと冬は寒かっただろうと思うのですが。
夏以外は、とてもそういう状態では眠られないだろうと、他人事ながら気になっています。
高貴な人は畳一枚をベッドのように敷いて、その上に布を引いていたりしますが、それでも寒いと思いますし、寝苦しいと思います。
それとも、そういう形は時代劇の「お約束」のようなものでしょうか。
些事で、つまらない質問かもしれませんが、ご存知の方教えてください。

テレビなどで見る限りにおいてですが、かなり高貴な人の場合でも、寝具は季節に関りなくとても薄くて、特に敷布団が全く厚みのないものの上に寝ています。
あれでは暖房もない時代、絶対風邪を引いてしまうと思うのですが、実際のところ、どうなのでしょうか。
庶民の方が「わら布団」という言葉もあるくらいで、ずっと温かく眠れた様に思います。
となりの市に、律令時代の「県庁」に当る建物が復元されているのですが、それをみても、よくもこんな風通しの良すぎる建物に滞在できたものだなと、信じられませ...続きを読む

Aベストアンサー

竪穴式住居では土の上に藁などを編んだ菰(こも)や莚(むしろ)を敷きその上で、着のみ着のままで寝ていました。     冬は焚き火を絶やさず、結構暖かったでしょう。
板張りの床の家ができると、その上に莚や茣蓙(ござ)など敷いて、昼間の着物を掛けて寝ました。     二人並んで寝るときは、お互いの着物の袖が重なるようにしたそうですが、寝相が悪いとどうなるか。   庶民は囲炉裏や温石などあり、そんなに寒くはなかったでしょう。
高位の人の方が家が広く寒さはこたえたでしょう。    そこで莚をたたんで重ねた畳が作られました。    いぐさ莚を表に萱を芯にした上等なものも作られました。      畳の上の褥(しとね)という敷物の上で寝ました。    始めは草を編んだものが、芯に真綿を入れた高級品も使われました。
平安時代から衾(ふすま)と呼ばれる掛け具が使われ始めました。  伏す裳(も)寝る時に着る意味です。     衣服と異なり長方形の布で中に真綿を入れるようになりました。
布団と夜着の寝具になるのは、木綿の生産が進んだ、室町以降と言われています。     もっとも戦国の武将たちは板敷きの床の上にそのまま寝ていたようです。     戦場では土の上のごろ寝ですから。
一方庶民の方は菰、莚、茣蓙の時代が永く続いたと云われています。    昔の人は貴賤とも寒さには鍛えられ、強かった事は確かです。    幼児の方は耐えられず、夭折が多かったのは止むを得ません。  

竪穴式住居では土の上に藁などを編んだ菰(こも)や莚(むしろ)を敷きその上で、着のみ着のままで寝ていました。     冬は焚き火を絶やさず、結構暖かったでしょう。
板張りの床の家ができると、その上に莚や茣蓙(ござ)など敷いて、昼間の着物を掛けて寝ました。     二人並んで寝るときは、お互いの着物の袖が重なるようにしたそうですが、寝相が悪いとどうなるか。   庶民は囲炉裏や温石などあり、そんなに寒くはなかったでしょう。
高位の人の方が家が広く寒さはこたえたでしょう。    ...続きを読む

Q昔の野宿の方法

 昔の人が遠くへ足を運ぶ際は歩くくらいしか移動手段がなかったと思いますが、徒歩ではとても移動に時間がかかりますからやはり宿を見つけられないようなこともあったと思います。

 そこで質問なのですが昔の人はどのように夜を凌いでいたのでしょうか。移動が徒歩などしかない時代でも寝袋のようなものくらいはあったんですか?
 
 調べてもなかなかそういうことが載ってるものが見つけられません。お願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>昔の野宿の方法

男性の場合:
(1)雨合羽(あまがっぱ)を必ず着用したり、持ち歩きました。それで、雨露を凌いだり、防寒用具としました。
(2)合羽はポルトガル語で「capa」からきていますが、織田信長が着用したように、すでに、16世紀頃、日本に伝来しています。
(3)信長が着用した「マント」のような形は、時代劇でもお馴染みの「木枯らし紋次郎」などのように主に風来坊が三度笠とともに着用しました。
(4)素材は、信長が着用したものは「羅紗(らしゃ)」で出来ていて非常に高価でした。
(5)江戸時代初期には、豪商なども競って羅紗の雨合羽を使用しましたが、「贅沢品」として、幕府は「禁止令」を出しました。
(6)そこで、代わって登場したのが「木綿」の生地に「桐油(きりあぶら=とうゆ)」を塗ったものでした。
(7)雨の日は、当然、雨除けとし、晴れた日は、それを着て歩くことにより、乾かすことができました。
(8)また、庶民などがお伊勢参りなどをする時には、「和紙」に同じく「桐油」を塗った「折りたたみ式」を携帯しました。
(9)和紙の雨合羽でも、当然、寒さを凌ぐことはできました。
(10)それでも寒い時は、合羽を羽織、焚き火で暖をとりました。
(11)また、近くに水車小屋や海岸に番屋、お堂などがあれば、そこで一夜を過ごしました。
(12)昔の人は、結構「礼儀正しく」、山中であっても水車小屋や番屋であっても、焚き火をした後始末は、きちんと火が消えたことを確認してから、出立しました。
(13)従って、水車小屋や番屋、お堂などを勝手に使用しても、近隣の人たちは文句を言いませんでした。

女性の場合:
(1)主に、和紙の雨合羽でしたが、男まさりの風来坊もいて、そういう人たちは、やはり、木綿の合羽を着用しました。
(2)また、女性が旅をする場合は、宿場町へ入ると、次の宿場町までには陽が暮れてしまうと判ると、早めに宿に入り、なるべく「野宿」をしないようにしました。その代わり、朝は「早立ち」をして、距離をかせぎました。
(3)何らかの事情で野宿せざるを得ない時は、男性と同じく、合羽を被り、焚き火をして暖をとったり、水車小屋、番屋、お堂、あるいは、近くに農家などがあれば、一夜の宿を借りたりしました。
(4)男性が農家などに一夜の宿を借りようとしても、「盗人」のおそれもあり、農家も「うん」とは言わなかったが、女性の場合は、割合気軽に泊めてもらうことができました。
(5)しかし、大概の場合には、早めに宿場町で宿をとるように心がけました。

男女共に:
(1)上方(京や大坂)辺りでは、江戸時代初期から敷蒲団や掛け蒲団の風習が始まりましたが、江戸では、中期になってから、やっと、庶民も蒲団が広まり始めました。
(2)それまでは、江戸では、「夜着(よぎ)」と呼ばれる、着物を一回り大きく作り、綿を入れた「かい巻き」を掛け蒲団替わりにし、敷蒲団はなく、畳の上にジカに寝ていましたので、寒さに耐えることは「当たり前」になっていました。
(3)ましてや、道中での寒さに耐えることが、旅そのものでした。

(よもやま話)
(1)大名の参勤交代でも、「道中奉行」が先回りをして、行く先々の宿を手配して回りましたが、夜五つ(午後8時)までに宿に入らなかった場合は、宿も断ることができ、そういう時は、大名といえども野宿をしました。
(2)もっとも、参勤交代自体が「行軍」でしたので、陣幕や鍋、釜、食材、果ては、殿様用の便器、風呂桶などまでも持ち歩きました。
(3)また、宿に入っても、宿屋の料理人ではなく、宿の調理場を借りて、同行している「御膳掛り」が持参したり、途中で購入した食材で食事を作りました。

あなたのお役に立てたでしょうか・・・。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>昔の野宿の方法

男性の場合:
(1)雨合羽(あまがっぱ)を必ず着用したり、持ち歩きました。それで、雨露を凌いだり、防寒用具としました。
(2)合羽はポルトガル語で「capa」からきていますが、織田信長が着用したように、すでに、16世紀頃、日本に伝来しています。
(3)信長が着用した「マント」のような形は、時代劇でもお馴染みの「木枯らし紋次郎」などのように主に風来坊が三度笠とともに着用しました。
(4)素材は、信長が着用したも...続きを読む

Q夜着に使っていた白い着物の名称

時代劇の大奥のシーンなどで、夜寝る時に着ている白い着物は、着物なのでしょうか、長襦袢なのでしょうか、それとも夜着とした全く別ものなのでしょうか?
以前から気に入っていたのですが、その着物の名称も分からず、調べようも無いまま今まで来てしまいました。
知っている方がいらしたら、是非教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>時代劇の大奥のシーンなどで、夜寝る時に着ている白い着物は、着物なのでしょうか、長襦袢なのでしょうか、それとも夜着とした全く別ものなのでしょうか?

普通に「寝巻き」で良いのですよ。
また、「寝衣(しんい)」とも呼びます。

なお、良く菱形のような白い透けた柄がありますが、
「工事繋ぎ(こうじつなぎ)」や「紗綾形(さやがた)」多く用いられました。

紗綾形:
http://haruusagi.gozaru.jp/NewFiles/photoshop-pattern.html

Q戦国時代における戦での遺体の取り扱いって?

近年の戦争の映画で戦死者の遺体を棺に収め、国旗などでくるんで本国に移送するという場面を見たことがあるのですが、日本の戦国時代はどうしていたのでしょうか?
大きな戦では大量の遺体が発生すると思うのですが、そのまま放置されたのでしょうか?それとも組織的に回収されたのでしょうか?
また、海外(中世の欧州など)でどうだったのかも分かれば教えてほしいです。

ご存知の方、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、通行するクルマ以外に邪魔者はいません。効率よく死体処理(カラス等の食事)が進むでしょう。

ご質問ですが、戦国時代の戦いでの戦死者の遺体は、下記の経過を辿ったと思われます。

1. 戦死者は、首を取られた状態で戦場に残されている。
よほど大きな合戦、例えば武田信玄が徳川家康を完敗させた三方ヶ原の合戦でも、徳川軍の戦死者は1000人行かない計算のようですから、そんなに大きな数ではありません。普通の合戦なら「戦死者10人」とかの単位です。

2. 戦闘が終わって両軍が引き上げると、既に回答されているように農民たちが「戦場狩り」を行います。これは、「田畑を荒らしたことに対する補償」の意味も含まれていたようです。
この際は、我々の眼から見て価値がある鎧、刀、槍などはもちろん、着ているものもフンドシに至るまで全て剥ぎ取られます。戦国時代の日本は、今の北朝鮮のような「使えるものは全て使う」社会ですから、例えば「戦死者がつけていた、血に染まったフンドシ」でも洗えば価値があるので剥ぎ取られました。地位のある武士が着ていた服は、農民から見れば「超豪華な織物」ですから、血や泥を落として分解すれば高値で売れました。(和服は、縫った部分をほどけば長い反物に戻ります)

3. 農民が徹底的に戦場狩りを行った後、戦死体は、全て丸裸になったでしょう。即ち、冒頭で説明した「クルマに轢かれたタヌキ」と同じ状態です。この状態であれば、後は野生動物が死体を処理してくれたと想像できます。実際、合戦の後の戦場をカラスが徘徊している様子が、当時の手紙か何かで描写されている例があったと思います。

4. 現在も痕跡が残るように、地元の僧侶が穴を掘って死体を埋め、供養したと言う例もあったでしょう。これは、「戦場狩りで大儲けした農民たちが、罪滅ぼしの気持ちで供養を依頼」ということが多かったのではと思われます。

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、...続きを読む

Q土日眠りっぱなし、これは病気なんでしょうか?

 週休2日制(土日休み)の仕事をしており、金曜日が来ると「よし、この2日はこんなことしよう!」と色々計画を立てるのですが、何一つ実行できません。
 まず、朝、起きることができません。昼、なんとか起きて食事を作るものの食べたら、次の行動を起こせないんです。例えば、友達と約束をしていても外出することができません。着替えたり、髪型を整えるのが“大きなハードル”となり、『もう10分ゴロゴロしたら着替えよう。休みなんだから無理しない』と考えて、ベットに横たわると、夜になっています。
 つまり、土日はまるまる2日、ほとんど寝ているんです。熱はないし、食欲がない、いくらでも眠れる・・・という感じで、とにかく衰弱してるんです。今日も20時間ほど、トイレもいかずに寝ていました。
 月曜日になると、朝6時に起きて、始業時刻の1時間前には出勤し、12時間以上働いて帰宅します。平日はこの調子で金曜まで元気いっぱいです。でも、この土日になると、とたんに無気力になり何にもできないんです。この症状は、ここ数ヶ月続いており、夜に“見舞い”に来る友達は“1人暮らしゆえの甘え”だと言い呆れています。
 世間には、私のような人はいらっしゃらないでしょうか?ほんとに怖いくらい無気力になってしまうんですが、これって、病気ではないでしょうか?

 週休2日制(土日休み)の仕事をしており、金曜日が来ると「よし、この2日はこんなことしよう!」と色々計画を立てるのですが、何一つ実行できません。
 まず、朝、起きることができません。昼、なんとか起きて食事を作るものの食べたら、次の行動を起こせないんです。例えば、友達と約束をしていても外出することができません。着替えたり、髪型を整えるのが“大きなハードル”となり、『もう10分ゴロゴロしたら着替えよう。休みなんだから無理しない』と考えて、ベットに横たわると、夜になっています。
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Aベストアンサー

私は病気でした。
同じように月曜から金曜までは仕事に行くのですが
土日は寝たきりでした。
結局、うつ病による過眠とわかりました。
当時は精神的落ち込みなど感じませんでしたが。
一度、受診なさることをお勧めします。お大事に。

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html


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