カンパ〜イ!←最初の1杯目、なに頼む?

狗奴国との戦争が起こる中卑弥呼が死ぬ
卑弥呼の後に男王が立つが国内が服さず内乱になる
台与が女王になり治まる

1.何故邪馬台国の内部の情勢だけが書かれていて狗奴国との戦争の結末は記されてないのでしょうか?
2.それでも邪馬台国が台与の時代まで存続してるという事は戦争に勝ったと見ていいのでしょうか?それとも和睦が成立したのでしょうか?
3.普通戦争してる途中に王位を巡る内乱など起こったら敵国に付け込まれないのでしょうか?
4.狗奴国はどこにあった国なのでしょうか?

A 回答 (5件)

正始八年(247年)の記事は、皆が読み間違えているのですが、ちゃんと書くと次のような記事です。



原文
其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

その8年、太守に王頎が就いた。(これによって6年に出された、難升米に黃幢を賜えとの詔が行われることになった)
ところが、倭の使いが先に来て、狗奴國と戦っている(から助けてほしい)と言ってきた。
詔に従い張政が倭に使わされ、難升米に黃幢をやって、ついでに檄(木札を立てて兵を募集)し告し喻した。
ところで、卑彌呼は死んでいて、でっかい塚を作ってうんたらかんたらをすっとばして、宗女(血筋?)の壹與が女王になっていたので、彼女に檄し告し喻した。つまり、卑彌呼に檄告喻しろって命令(詔)だったけど、死んでたから壹與にやってきたんだよって話。
で、任務が終わったので帰ってきました。倭の人も付いてきたけど。

ちゃんとした訳はちゃんと読んでください。

これで分かると思いますが、難升米は数日間、行って帰ってきただけで、戦ってるところを見たわけでも、卑彌呼の死に際に居た訳でもありません。倭のことなか知ったこっちゃないってくらいです。だから何も書かれていませんし分かりません。

狗奴国は、クマ国であろうというのが有力な説です。熊本ですね。狗古智卑狗(ククチヒク)はククチヒコで、鞠智城というのが菊池市と山鹿市の堺にありますが(戦国時代の菊地城とは別モノ)、鞠智城は今ではキクチジョウと読みますが、数年前までククチジョウが正式名称でした。また日本書記などにでてくるククリヒメの当て字は菊理媛です。
これらから、熊本の菊地(鞠智城)を本拠地としてたのが狗奴国だったのでしょう。

私は、邪馬台国連合は狗奴国に負けて滅んだ(消えた)のだろうと思っております。その九州を支配した狗奴国は、日本書記などには景行天皇(や息子のヤマトタケル)の熊襲討伐の話にあるように畿内ヤマト王権に討たれたのではないか、と思っています。
ところが古墳などは、九州にも早くから前方後円墳が作られていたりして、話は一筋縄ではいかないようですが。
    • good
    • 0

狗奴国は熊襲、邪馬台国は大和朝廷。


台与は豊鋤入姫、中国人の概念は王は一人という概念で固まっていたのでしょう。
応対者が女性だったので、その応対者だけを王と判断しただけ。
日本は天皇が政治を行い、別に祭祀王がいたということで2元統治国家という概念を理解できずに一人王とも思い込んだだけ。祭祀王が台與。

卑弥呼は武埴安彦の乱鎮圧中の死。魏志倭人伝は40年以上たった時に陳寿が人づてに書いたもの。書いた本人は日本に行っていない。あくまで聞いて後でまとめたもの。
距離などは概数で大雑把なもの。それを地図に当てはめて勝手に自分の好きな土地に誘導しているだけで、諸説乱舞。みなご当地ソング。一つも当てにならない。100説迷走である。あれでは何年立っても結論出ない。永遠に終わらぬ。無駄。だからあてにならない。卑弥呼は日巫女。天照大神ではない。時代錯誤になる。
    • good
    • 0

1.戦争の決着がついてないからでは?帯方郡の使者の張政から台与に下された檄文は、卑弥呼の介入要請を受けてのものですから、すでに決着がついてたら、あまりもらう意味のないものです。


2.戦争というものは、必ずしも一方が他方を滅ぼす結果になるわけではありませんし、明確な和睦などなく、うやむやのうちに終わる、あるいは中断する場合もあります。
3.弱みに付け込んだとしても、それで相手が滅ぶとは限りません。
4.邪馬台国の南と書かれていますが、詳細は不明です。
    • good
    • 0

お邪魔します。



邪馬台国につきましては、僅かに魏志倭人伝に記述があるだけで、詳しいことは何もわかっていないのが実情です。

ただ、天皇家が神代の昔からあったということが、邪馬台国の存在を認めることで成り立たなくなりますから、戦時中は上層部は邪馬台国の存在をひた隠しにしたとは読んでいます。

ですのでご質問の1.2.3.4.いずれも残念ながら誰も分からないのが現状です。

何かのお役になれれば幸いです。
    • good
    • 0

邪馬台国は、記録としてでてくるのは中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)だけです。

そこに書かれている事以外は全くわかりません。

>1.何故邪馬台国の内部の情勢だけが書かれていて狗奴国との戦争の結末は記されてないのでしょうか?

戦争の結末は記されていません。

>2.それでも邪馬台国が台与の時代まで存続してるという事は戦争に勝ったと見ていいのでしょうか?それとも和睦が成立したのでしょうか?

記述がないためにわかりません。

>3.普通戦争してる途中に王位を巡る内乱など起こったら敵国に付け込まれないのでしょうか?

そうだと思いますが、何故内乱が続いたのかは記述がないためわかりません。

>4.狗奴国はどこにあった国なのでしょうか?

邪馬台国の南の国としか記載されいません。
----

下記のサイトに全文の日本語訳が書かれています。

魏志倭人伝(弥生ミュージアム)
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/index.html
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!


おすすめ情報