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「ば」は後ろには依頼などの表現は付けられない、主語が違う場合、つけられるといいますが、つまり、「雨が降れば、窓を閉めてください」という文は文法的には正しいですね、確認したいんですが、教えていただければ助かります

質問者からの補足コメント

  • 皆さん、はっきり言えなくて、すみませんでした、中国の先生が編集している参考書に、「s1+ば、s2」という文型が書いてありますが、「s1の動詞は状態系述語文、あるいは、前後の主語が違う場合は、後ろに依頼文とか、意志文とか、命令分とか付けられないという制限があって、でも、テキストの後ろに「❌雨が降れば、窓を閉めてください」と強調しました、どうしても理解できなくて、皆さんに伺ってみました、丁寧なご返信を、誠にありがとうございます

    「「ば」は後ろには依頼などの表現は付けられ」の補足画像1
      補足日時:2020/09/16 23:57
  • 皆さん、はっきり言えなくて、すみませんでした、中国の先生が編集している参考書に、「s1+ば、s2」という文型が書いてありますが、「s1の動詞は状態系述語文、あるいは、前後の主語が違う場合は、後ろに依頼文とか、意志文とか、命令分とか付けられないという制限があって、でも、テキストの後ろに「❌雨が降れば、窓を閉めてください」と強調しました、どうしても理解できなくて、皆さんに伺ってみました、丁寧なご返信を、誠にありがとうございます

    「「ば」は後ろには依頼などの表現は付けられ」の補足画像2
      補足日時:2020/09/16 23:59

A 回答 (34件中11~20件)

No.22 の回答にお応えして



他人の庭でいつまでもやり合うのもどうかと思いますが、日本語も怪しい回答に簡単に答えておきます。

>>話者の認識と言うのは無意識的なものなので、分析や理解が難しいのは止むを得ません。

こういう逃げ口上を最初に置くのは何も判っていない証拠です。無意識的なものを明らかにするのが文法論です。

>>《【たら】は、基本的に、【一回限りの仮定→帰結】という関係性を表わす場合に使われる仮定条件です。》

 ★ 雨が降ったら、必ず窓を閉めます。

この仮定が一回限りというのは、この文の記述が一回限りであるだけで、雨が降るのは不定、未定、繰り返しであるのは言うまでもありません。

「必ず」、というのは、もし降ったら毎回必ずであり、一回振ったら二回目は閉めない馬鹿は回答者ぐらいでしょう。

>>★ 雨が降れば、必ず窓を閉めます。
という文においては、
「雨が降る」は、一回限りの現象ではなく、恒常的な現象、つまり「雨降りという天気」といった内容で仮定し、「必ず窓を閉めます」という行為に帰結させている。

上記の取り、別に「たら」であろうと「ば」であろうと何の関係もないということです。

2.
>>実際の事態を想定するという認識が働きづらく、そのため「基本的に~」とか「常に~」といった恒常的な認識が優先しがちだということ。》

「実際の事態」と「恒常的な認識」の間に何の関係もないのは中学生でも理解できます。
あなたの「日本語理解力は、中学一年生以下です。」と言われても已むを得ませんね!

鳶が鷹を産み、猫の手を借り、臍が茶を沸かすのが「恒常的な認識」とはどこの世界の住人ですか。

馬鹿馬鹿しい!

物言えば唇寒し秋の風(ものいえばくちびるさむしあきのかぜ)

(●^o^●)を洗って出直しましょう。■
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#22です。


訂正があります。

×
・臍が茶を【沸かせれば】おもしろいのだが。


・臍が茶を【沸かせば】おもしろいのだが。
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#19です。


#21さんの反論意図がよくわかるので、再度応じさせていただきます。

話者の認識と言うのは無意識的なものなので、分析や理解が難しいのは止むを得ません。
私の基本的な考え方は、#16と#19で述べていますが、疑問点があれば、質問者さんも、どうぞ応答なさってみてください。

1.
>仮定が一文で「一回限り」なのが当然で、「たら」も同様です。なんら「ば」と「たら」の意義の相違とは関係ありません。

記述内容をよく読んでいないか、または理解する能力がないかのどちらかなのでしょう。
わたしは、
《【たら】は、基本的に、【一回限りの仮定→帰結】という関係性を表わす場合に使われる仮定条件です。》
《【ば】は、【一回限りの仮定→帰結】以外にも【恒常的な仮定→帰結】という関係性にも使える仮定条件です。》
と申し上げたはず。

 ★ 雨が降ったら、必ず窓を閉めます。

という文においては、
「雨が降る」を一回限り(実際に)起こる現象として仮定し、「必ず窓を閉めます」という行為に帰結させている。
これを『仮定が一文で「一回限り」』と解釈するのは、読解力不足と言わざるを得ない。
というか、そもそも難癖をつけることだけが目的なのかな??

 ★ 雨が降れば、必ず窓を閉めます。

という文においては、
「雨が降る」は、一回限りの現象ではなく、恒常的な現象、つまり「雨降りという天気」といった内容で仮定し、「必ず窓を閉めます」という行為に帰結させている。

2.
hako→「たら」のような完了の要素を持たないため、実際の事態を想定するという認識が働きづらく、
アス→「実際の事態」でないどんな事態を想定するのか?

私が示したのは以下の内容。

《【ば】は、【一回限りの仮定→帰結】以外にも【恒常的な仮定→帰結】という関係性にも使える仮定条件です。
「たら」のような完了の要素を持たないため、実際の事態を想定するという認識が働きづらく、そのため「基本的に~」とか「常に~」といった恒常的な認識が優先しがちだということ。》

これを読んで、こうした疑問が湧くというのは、読解力に重大な問題を抱えていると言わざるを得ません。
はっきり申し上げて、あなたの読解力は中学一年生以下です。
日常的にも、他人とのコミニュケーションが取りづらいのではありませんか?
それは致し方ないとしても、次善策として、もう少し謙虚に他人の意見を聞く習慣をつけるようにしないと生活しづらくなりますよ。
他人事ながら心配になります。

それはさておき、
《「実際の事態」でないどんな事態を想定するのか?》
に対する答えが、「恒常的な事態」であることは、このやりとりをご覧になっている他の方々には容易に理解できることでしょう。

《言語は、「実際の事態」であろうとなかろうと話者の認識を表現します。》
などとわけのわからんことを言っているが、だからどうだというのか?
「実際の事態」であろうと「恒常的な事態」であっても認識するのは当然のことだろう。
そもそも、「実際の事態」でなければ認識しないと言っているわけでもないのに、こうした的外れのことを「批判」になると思って得々と述べる癖がありますな、この御仁は。
これも読解力不足がもたらす無意識のあがきかと思えばこそ、憐れを催す次第。

また、意図のわからん例文を挙げているが、以下のような同じ仮定条件文の違いを解説してこそ意味があるのでは?
あなたにできるならば、ですがね。(笑)

・鳶が鷹を【産んだら】面白いがなあ。
・鳶が鷹を【産めば】面白いがなあ。

・猫の手を【借りられたら】、仕事もはかどるのだが。
・猫の手を【借りられれば】、仕事もはかどるのだが。

・臍が茶を【沸かせたら】おもしろいのだが。
・臍が茶を【沸かせれば】おもしろいのだが。
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No.19 の回答について



他人の庭でいつまでもやり合うのもどうかと思うので、簡単に批判しておきます。

>>【一回限りの仮定】に向いている、ということが理由です。

仮定が一文で「一回限り」なのが当然で、「たら」も同様です。なんら「ば」と「たら」の意義の相違とは関係ありません。

>>「たら」のような完了の要素を持たないため、実際の事態を想定するという認識が働きづらく、

「実際の事態」でないどんな事態を想定するのか?
言語は、「実際の事態」であろうとなかろうと話者の認識を表現します。

鳶が鷹を産ん【だら】面白いがなあ。

猫の手を借りられれ【ば】、仕事もはかどるのだが。

臍が茶を沸かせ【ば】おもしろいのだが。

素人の馬鹿話しには付き合いきれません。■
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おはようございます。

 文を言う人と言われる人が違う場合と同じ場合を対比します。そしてa.たらとb.ばも対比します。たらの場合は1回だけです。ばの場合はいつもです。
1)違う場合 依頼
a.〇雨が降ったら、窓を閉めてください。
b.×雨が降れば、窓を閉めてください。
 要是下雨,请关窗戶.は1回だけの依頼ですか?それともいつもの法則ですか?
2)同じ場合
a.〇雨が降ったら、窓を閉めます。
b.〇雨が降れば、窓を閉めます。
 帰結節が水を溜めますの場合と対比します。
3)
a.〇雨が降ったら、水を溜めます。
b.〇雨が降れば、水を溜めます。
 3-a.の場合は言った人が動作します。その結果水が溜まります。それに対して3-b.の場合は物の性質です。窪んだ部分が水を溜めます。対して2-b.の場合は言った人が窓を閉めます。
4)違う場合 依頼
a.〇雨が降ったら、水を溜めてください。
b.×雨が降れば、水を溜めてください。
 4-b.の場合は人にではなく窪んだ部分に対して水を溜めることを依頼できないので×です。同じように1-b.の場合も人にではなく物に対して依頼することになるので×です。
 中国語でも日本語のa.たらとb.ばのような違いがあるのでしょうか。要是と如果の違いはどのようなものでしょうか。
 要是下雨,请収集水.は1回だけの依頼ですか?それともいつもの法則ですか?そして何かに水が溜まりますか?それとも誰かが水を溜めますか?
 如果下雨,请収集水.は1回だけの依頼ですか?それともいつもの法則ですか?そして何かに水が溜まりますか?それとも誰かが水を溜めますか?
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#16です。


#17さんの回答に応じて。

『全くの誤まった説明』とおっしゃっていますが、要点を理解できていない証左ですね。
たしかに難しいかもしれませんので、若干解説を加えてみましょう。

1.
 ★ 雨が降ったら、必ず窓を閉めます。
 ★ 雨が降れば、必ず窓を閉めます。
話者がこうした使い分けをするのはなぜか?と言えば、下記のように理解するのが妥当だと申し上げている。

【たら】は、基本的に、【一回限りの仮定→帰結】という関係性を表わす場合に使われる仮定条件です。
これは、「たら」が完了の助動詞「た」の仮定形であるためです。
実際に「雨が降った」という事態が完了したことを仮定している形のため、【一回限りの仮定】に向いている、ということが理由です。

【ば】は、【一回限りの仮定→帰結】以外にも【恒常的な仮定→帰結】という関係性にも使える仮定条件です。
「たら」のような完了の要素を持たないため、実際の事態を想定するという認識が働きづらく、そのため「基本的に~」とか「常に~」といった恒常的な認識が優先しがちだということ。

つまり、
 ★ 雨が降ったら、必ず窓を閉めます。
⇒話者は、雨が降るという、実際に起こり得る現実を仮定しながら話している。
よく理解していないようですが、その時々の一回限りの現実を切り取って仮定条件としているのであって、何度も繰り返し窓を閉めると言っているわけではない。

 ★ 雨が降れば、必ず窓を閉めます。
⇒話者は、雨が降るという天気現象自体を仮定しながら話している。
「雨が降るという天気現象になれば、窓を閉める」という動作を恒常的なものとして認識しているわけ。
こうした認識の違いがあるわけです。
どちらを選ぶかは話者の裁量に委ねられる。

2.下記の例でも同じこと。

 ★ お金の余裕があったら、宝くじを買いたいのですが。
⇒話者は、
「現実問題として、今自分に実際にお金の余裕があったら、宝くじを買いたいのですが。」
と言っている。

 ★ お金の余裕があれば、宝くじを買いたいのですが。
⇒話者は、
「自分に [ いわゆるお金の余裕というもの ] があったら、宝くじを買いたいのですが。」
と言っている。
[ いわゆるお金の余裕というもの ] があれば、宝くじのような賭博性のある商品を買うことは恒常的な価値観として認められていますよね、といった認識がされている、ということ。

こうした微妙な違いが分からないと、話者がどのような認識であるのかを理解することはできませんよ?
『話者の認識を捉える事が出来ない』のはどちらなのか、よくお考えになってください。
『全く根拠のない素人の出鱈目なもっともらしい回答』ともおっしゃっているが、それは、アスナロウさんの理解力が乏しいだけのことです。
「根拠のない」と「根拠を理解できない」を混同しませんように頼みます。
むろん、このように言う以上、それなりの根拠があります。
あなたのように、むやみやたらに他人を非難罵倒する趣味はありませんのでね。(笑)
ちょうどよい例が#14に挙がってますので、以下具体的に論証しておきましょう。

3.
(#14)から引用(一部項立て追加)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(ア) ○時間があれ バ 仕事を手伝ってくれ。

この場合、「時間がある」という想定をした観念的な話者は、「ば」と仮定した後に、現実の話者に戻り、そうした場合には「仕事を手伝ってくれ」と依頼しています。
これに対し、
(イ) ○時間があっ タラ 仕事を手伝いなさい。 

「時間がある」という観念的な仮定の立場のまま、それを既定とし、次に進みます。したがって、「時間がある」という場面を構成し「仕事を手伝いなさい」と命令をすることができます。しかし、「ば」の場合には、すでに「時間」がない現実に戻っているため、「手伝ってくれ」と依頼、お願いをする他ありません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここにも無理解が露呈しています。

(ア) ○時間があれ バ 仕事を手伝ってくれ。

には、

(いわゆる)時間(というもの)があれ バ 「仕事を手伝う」と頼むことは自然で恒常的な価値観だよね、というニュアンスが込められている。
なので、

(ア’) ○時間があれ バ 仕事を手伝いなさい。

と命令することも十分できる。
(いわゆる)時間(というもの)があれ バ 「仕事を手伝う」と命令することは自然で恒常的な価値観だよね、というニュアンスが込められているわけだから。

《「ば」の場合には、すでに「時間」がない現実に戻っているため、「手伝ってくれ」と依頼、お願いをする他ありません。》
などと頓珍漢な結論に至っているのは、
《「時間がある」という想定をした観念的な話者は、「ば」と仮定した後に、現実の話者に戻り、》
のような無理なこじつけが間違いの元。

後半の、
(イ) ○時間があっ タラ 仕事を手伝いなさい。 
「時間がある」という観念的な仮定の立場のまま、それを既定とし、次に進みます。したがって、「時間がある」という場面を構成し「仕事を手伝いなさい」と命令をすることができます。

という箇所は、言いたいことはわかりますが、ただ、
《観念的な仮定の立場のまま、それを既定とし》などといった意味不明の記述がよろしくない。
仮定を説明するのに既定を持ち出すよりは、むしろ、

「時間がある」という事態が完了したことを仮定している立場のまま、次に進みます。

とでも表現すればよいでしょう。
《「時間がある」という場面を構成し「仕事を手伝いなさい」と命令をすることができます。》というのは

(ア’) ○時間があれ バ 仕事を手伝いなさい。

という表現が可能なのだから、「タラ」の専権事項じゃないことはすでに述べたとおり。

他人の庭でいつまでもやり合うのもどうかと思うので、論理的な反論が無い限り、アスナロウさんに対するここでの投稿は控える予定。
腑に落ちない点があれば、必ず応じるので、新たに質問を立てることをお勧めします。
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No.14の「回答」について (No.10のsaburooです)



いや、驚きました。いまどき、こんなデタラメを思いつく人がいるんですね。

驚きの新鮮なうちに、ちょっとコメントを。

(No.14から引用)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ば」と「たら」の本質的な相違はその意義、主観のありかたの相違、つまり観念的な話者の移動の相違にあります。
「仮定」というのは、眼前の現実の認識ではなく想像、想定です。この想像と対峙する話者は現実の話者ではなく、観念的に分離、移行した観念的な話者です。
「ば」は仮定のために観念的に分離、移行した観念的な話者は、仮定した後、直ぐに現実に戻ります。これに対し、「たら」は観念的な話者がそこから現実に戻ることなく、その仮定が既定、つまり実現したものとして次の認識、記述に進みます。これが、「ば」と「たら」の本質的な相違です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(引用終わり)

いやー、すごいですね。少しずつ見ていきましょう。

   つまり観念的な話者の移動の相違にあります。

「観念的な話者の移動」? なんじゃそりゃ。「観念的」な話のようです。

   「仮定」というのは、眼前の現実の認識ではなく想像、想定です。

これはその通り。No.14の中で、唯一、まともな内容の文です。

   この想像と対峙する話者は現実の話者ではなく、観念的に分離、
   移行した観念的な話者です。

ひぇ? 「観念的に分離、移行した観念的な話者」?
そんなもん、誰が、どうやって検証したんでしょう?
根拠、証拠は?? 言語学は科学なんですが。

上の一文、どうやって「立証」あるいは「論証」するんでしょうか。
なーーんにも、「証拠」「根拠」はないんでしょうね。
ただ、そう言っている人の「空想」「妄想」に過ぎませんね。

   「ば」は仮定のために観念的に分離、移行した観念的な話者は、
   仮定した後、直ぐに現実に戻ります。

はー。戻るんだ。どうやって? キントウンかなんかに乗って?
どうしてそれがわかるの? 誰がそうわかるの?

   これに対し、「たら」は観念的な話者がそこから現実に戻ることなく、
   その仮定が既定、つまり実現したものとして次の認識、記述に進みます。
   これが、「ば」と「たら」の本質的な相違です。

「たら」だと戻らない? 誰がそれを確かめたの?
「本質的な相違」ですか。「本質的」なんて語を使っているあたり、相当怪しいですね。
   「条件表現の<本質>とは何か」 
人をごまかす人は、「本質」とよく言うんですよね。

以上、要するに全部でまかせ、デタラメです。
何の根拠、言語事実に基づく証拠もなく、誰かさんが考えた妄想に基づく「ファンタジー」です。

(再びNo.14から引用)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ○時間があれ バ 仕事を手伝ってくれ。
この場合、「時間がある」という想定をした観念的な話者は、「ば」と仮定した後に、現実の話者に戻り、そうした場合には「仕事を手伝ってくれ」と依頼しています。
これに対し、
 ○時間があっ タラ 仕事を手伝いなさい。 
「時間がある」という観念的な仮定の立場のまま、それを既定とし、次に進みます。したがって、「時間がある」という場面を構成し「仕事を手伝いなさい」と命令をすることができます。しかし、「ば」の場合には、すでに「時間」がない現実に戻っているため、「手伝ってくれ」と依頼、お願いをする他ありません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(引用終わり)

こんなデタラメを読んで、なんとなくわかったような気になって、「納得」してしまう人がいるのでしょうかねえ。そういう人は詐欺に気をつけましょう。
でも、いわゆる「霊感商法」だって、もう少しホントらしい「説明」をするんじゃないかしら。

以下、No.14の「回答」はまだ続きがありますが、むだなのでここでやめます。

しかしなあ、「科学的な言語学」とか言っている人物が、こんな途方もないデタラメを書いて、(「霊感商法」の詐欺師たちは自分のウソを知っているはずですが)それを本気で信じているのかもしれないと思うと、何とも言えない気分になりますね。

元ネタは三浦つとむですかね。三浦も相当メチャクチャなことを書きますからね。
何の言語学的根拠もなしに。

saburoo
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No.16の回答について



>>【たら】は、基本的に、【一回限りの仮定→帰結】という関係性を表わす場合に使われる仮定条件です。

 ★ 東京へ行ったら、いつも姉の家に泊まります。

 ★ 雨が降ったら、必ず窓を閉めます。

 ★ お酒を飲んだら、いつも後でウーロン茶を飲みます。

と言うように、全くの誤まった説明です。

>>【ば】は、~
「たら」のような完了の要素を持たないため、実際の事態を想定するという認識が働きづらく、そのため「基本的に~」とか「常に~」といった恒常的な認識が優先しがちだということ。

 ★ お金の余裕があれば、宝くじを買いたいのですが。

 ★ 大学を出れば大企業に就職できると思います。

 ★ 暇があれば、海外旅行に行きたいのですが。

など、実際の事態を想定するという認識が働き、「基本的に~」とか「常に~」といった恒常的な認識とは何の関係もありません。

こういう単なる思い付きの、話者の認識を捉える事が出来ない、全く根拠のない素人の出鱈目なもっともらしい回答には注意しましょう。

ただ、混乱するだけです。■
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#11です。


#14さんに応じて。

>>おそらく違うと思います。

これも何の論証もない主観的な思い込みです。

思い込みではありません。

>(2)主語が違う場合
★雨が降れば、屋根を閉めて下さい。
>これらは「ば」の仮定形ですが、
(これらと)
>これ(=既定の条件を表わす [ 「たら」の ] 場合)を区別しようとして誤まって、<「ば」は後ろには依頼などの表現は付けられない>と言ったのではないかと推測されます。

という推測が違う、と申し上げた次第。
思い込みでもなんでもない。

そもそも質問者が提示しているのは、
『(主語が同じ場合、)「ば」は後ろには依頼などの表現は付けられない、主語が違う場合、つけられる』
という内容です。
つまり、「主語が同じ場合」と「主語が違う場合を区別して言っているのであって、
《(=既定の条件を表わす [ 「たら」の ] 場合)を区別しようとして誤まって、》言ったのでないことは明らかだろう、と指摘したまでのこと。
十分な『論証』でしょう。

こうした読解力不足による曲解はまったく厄介なものですが、些末なことにかかずらわっているわけにはいかないので本質について少し述べてみましょう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「雨が降ったら、窓を閉めてください」

「雨が降れば、窓を閉めてください」
は、どちらも正しい日本語です。
前者が自然に感じられるのは確かですが、それは、単に、そのように言うシチュエーションが多い、ということにすぎません。
その根拠と、それぞれの違いについて若干、私見を述べてみます。

【たら】は、基本的に、【一回限りの仮定→帰結】という関係性を表わす場合に使われる仮定条件です。
これは、「たら」が完了の助動詞「た」の仮定形であるためです。
実際に「雨が降った」という事態が完了したことを仮定している形のため、【一回限りの仮定】に向いている、ということが理由です。

【ば】は、【一回限りの仮定→帰結】以外にも【恒常的な仮定→帰結】という関係性にも使える仮定条件です。
「たら」のような完了の要素を持たないため、実際の事態を想定するという認識が働きづらく、そのため「基本的に~」とか「常に~」といった恒常的な認識が優先しがちだということ。

【一回限りの仮定→帰結】
a.〇明日、雨が降ったら遠足は中止です。
b.?明日、雨が降れば遠足は中止です。

【恒常的な仮定→帰結】
e.?毎年、雨が降ったら遠足は中止です。
f.〇毎年、雨が降れば遠足は中止です。
g.? ATM はカードを入れて暗証番号を押したらお金が出てくる仕組みです。
h.〇 ATM はカードを入れて暗証番号を押せばお金が出てくる仕組みです。

上記例においても ? がつくように、厳密な違いではありませんが、
「たら」は、基本的に【一回限りの仮定→帰結】を表わし、【恒常的な仮定→帰結】には向かない場合が多く、
「ば」は、【恒常的な仮定→帰結】に対応することが基本的にできる、ということ。
つまり、この両者は【そうした傾向】を持つ語である、という点が重要です。

「雨が降ったら、窓を閉めてください」
は、
「(暑いので今は開けておきますが、もし後で)雨が降ったら、窓を閉めてください」
のような【一回限りの仮定→帰結】というシチュエーションが想定されやすいため、自然な表現と受け止めやすい。

一方、
「雨が降れば、窓を閉めてください」
は、
「(暑いので今は開けておきますが、もし)雨が降れば、(誰もが当然のこととして恒常的に行うことだと思いますが)窓を閉めてください」というシチュエーションであれば自然な表現になる。
つまり、
「雨が降れば、(当たり前のことですが)窓を閉めてください」
という、極めて直截的な、あるいは無礼なニュアンスになってしまうため不自然な印象を与えてしまうわけです。
「不自然な印象を与える場合が多い」ということと「誤った日本語表現である」という点を混同してはいけません。

「ミサイル発射のサイレンが鳴ったら速やかに地下街に走って避難してください」
という緊迫したシチュエーションでは、
「ミサイル発射のサイレンが鳴れば速やかに地下街に走って避難してください」
と言うほうが適切に感じられる可能性が高い。
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#12です。



ご返信ありがとうございます。

《前後の [ 主語が違う場合 ] は、後ろに依頼文とか、意志文とか、命令分とか付けられないという制限があって》

これは、質問者さんの

《「ば」は後ろには依頼などの表現は付けられない、主語が違う場合、つけられるといいますが、》

という認識と逆だと思います。

それで、[ 主語が同じ場合 ] の書き間違いかな、と思ったのですが違いしたか?
念のための確認です。
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