
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9186 …
この筆者であるアスナロウさんは、格助詞「に」の意義についての批判をいくつかのサイトを引用しつつ展開している。
これが、明らかな勘違いに基づくものであることを、要点のみを挙げつつ以下に証明していきたいと思う。
1.
「日本語 文法 格助詞:解説 - 東京外国語大学」
http://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/ja/gmod/content …
に対する批判。
煩雑になるのでかいつまんで引用させていただく。
☞から
(31)木村さんに本をあげます。
(略)
このように、「受け取り手」や「到着点」「動作の相手となる人」とは個別の文における意味であり、名詞の語の意義や格助詞「に」の意義ではないのである。
格助詞「に」自体が「受け取り手」や「到着点」「動作の相手となる人」を表わしているのではないことは明らかであろう。(アスナロウ)
☜まで
この点はまったく同感である。
◎「意味」=様々なシチュエーションに対応して解釈可能な個別の意味。一つの語に対して辞書が表記している複数の語釈のことを指す。
◎「意義」=あらゆるシチュエーションに通底する、ただひとつの意味。
ということだ。
問題は、このサイトでは、上記批判に値するようなことはまったく言っていない、という点。
つまり彼は勘違いをしているわけだ。
サイトでは上記(31)の例文に関して、
『2 「に」は物や情報の受け取り手を表わす』(要約)
と解説している。
《個別の文における意味であり、名詞の語の意義や格助詞「に」の意義ではない》点では同じ認識であるにもかかわらず、アスナロウさんは勘違いして、その点をまず批判している。
これが第一の勘違い。
また、この解説文は『格助詞「に」自体が「受け取り手」や「到着点」「動作の相手となる人」を表わしている』と言ってるわけではない。
以下、順に説明してみよう。
(ア-1)格助詞「に」は、(「に」の前の語に、「に」の後に続く)動作を空間的・時間的に位置付けるという認識を表わす。
これはアスナロウさんも納得できるはずの「に」の本質的意義である。
上記例文に当てはめれば、
(ア-2)格助詞「に」は、「木村さん」に『「あげる」という動作』を空間的に位置付けるという認識を表わす。
ということになる。
「木村さん」は、格助詞「に」(という主体的認識表現)によって『「あげる」という動作の行われる場所(=受け取り手)』として空間的に位置付けられた。
格助詞「に」を使うことによって「木村さん」は本の受け取り手として定められたわけだから、
・格助詞「に」は「木村さん」が本の受け取り手であること表わす。
という意味になる。
「受け取り手であること」の文中「こと=認識」であることは当然である。
これを『「に」は物や情報の受け取り手を表わす』と言っているだけなのだ。
しかるにアスナロウさんは、「に(主体的認識)」=「受け取り手(客体的認識):木村さん」ではないのだから間違っている、と主張している。
しかし、その論理でいくと、
・格助詞「から」は起点の認識を表わす。
という表現も《「から」=「起点」ではないのだから間違っている》ということになってしまう、という矛盾に気づいていない。
これが第二の勘違い。
つまり彼は二重の勘違いを犯していることになる。
むろん、「木村さん」が受け取り手となるのは、この文における動作が「あげる」だからである。
アスナロウさんも、
『この名詞句が「受け取り手」として理解されるのは、「に」で動詞「贈る」「教える」「あげる」との関係が表現されているからで、動詞が「もらう」「借りる」などになれば起点の意味に変化するのである。』
と極めて的確に指摘しているとおりだ。(この件は重要な認識である。以下の2でも詳しく触れることになると思う)
いずれにせよ、このサイトをあえて批判するなら、『「に」の意味だけを述べており、意義について触れられていない』という点にすぎない。
誤った根拠に基づく批判は撤回されるべきだろう。
蛇足として付け加えておくと、このサイトでは「やりもらい」の「渡し手」の例文が載っていないという点での不備がある。論点を避けようとしているかのようで印象はよろしくない。
基本的に初級者向けということのようだ。
2.
菅井三実【格助詞にの統一的分析に向けた認知言語学的アプローチ】
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8221 …
に対する批判。
☞から
「(格助詞「に」は)主格 NP から与格 NP へのエネルギー伝達を前提とする」ようでは、まともな文法の論理とは考えがたい。それが認知言語学の限界である。(アスナロウ)
☜まで
122ページで菅井は次のような例文を挙げている。
(16) a .花子が先輩に携帯電話を借りた.
(16) b .花子が先輩から携帯電話を借りた.
この場合「(格助詞「に」は)主格 花子 から与格 先輩 へのエネルギー伝達を前提とする」ということになるのだが、それは文法の論理とは考えがたい、とアスナロウさんは批判しているわけだ。
たしかに「エネルギー伝達」はわかりにくいかもしれない。
もう少し読んでいくと、菅井は次のように続けている。
(16a)のように先輩をニ格で標示したときは,主格 NP花子から先輩に借りることを求めたことが前提となっているのに対し(16b)のようにカラ格で標示したときは花子が先輩に借りることを求めるという働きかけの側面が背景化され,結果的に先輩から携帯電話が一時的に移動していることがることが前景化されているということになる。
つまり、(16a)の場合、「花子は借りるという動作を先輩に積極的に求めた」という認識が話者にはある、と言っているわけだ。
ここは今回読み直してみて気づいた新鮮な視点であった。
(16a)をアスナロウさんの定義に則って解釈するなら、
《この文における格助詞「に」は、「(花子が)借りるという動作」を「先輩」という地点に空間的に位置付けるという話者の認識を表している。》
となるだろう。
ところで、文中の「位置付ける」は、
物の占める場所をある地点に定める。配置する。「展示物を正面に━」
という意味の他動詞である。
他動詞は他に働きかけるという機能を持つのだから、
『「(花子が)借りるという動作」を先輩という地点に空間的に位置付ける』という話者の認識は、「(花子が)借りるという動作」を先輩に積極的に求めた』という認識が話者にあったことを示している。
『「(花子が)借りるという動作」を先輩に積極的に求めた』という認識があったからこそ、話者は『「(花子が)借りるという動作」を「先輩という地点」に空間的に位置付けた』のである。
無論、
(16) b .花子が先輩から携帯電話を借りた.
に、
『「(花子が)借りるという動作」を先輩に積極的に求めた』という認識はない。先輩は純粋な起点として認識されているだけである。
以上のように、
『「(花子が)借りるという動作」を先輩に積極的に求めた』ということが「(格助詞「に」は)主格 花子 から与格 先輩 へのエネルギー伝達を前提とする」という文の意味であり、『まともな文法の論理とは考えがたい』というアスナロウさんの認識は勘違いであることが明らかになったはずである。
また、この点に関して、
【イメージで教える日本語の格助詞】で杉村泰氏が述べている以下の内容も理解に役立つと思われる。
☞から
堀川(智也氏)(1988)はこうした「に」について、「相手としての意味役割を持ち、主語が、相手に対して何らかの働きかけをすることが意味される。ここでいう働きかけとは、相手の好意を求める気持ち、相手の意志を動かそうとする気持ちが相手に向かって働くことである」と説明している。
☜まで
3.
さて、ここで【着点】という概念について若干触れてみたい。
すでに述べてきたように、
(16) a .花子が先輩に携帯電話を借りた.
は、
「先輩」は、格助詞「に」(という主体的認識表現)によって『「(花子が)借りる」という動作の行われる場所』として空間的に位置付けられた。
という意味である。
「先輩」は「空間的に位置付けられた【先】」なのであるから、「先輩」=【着点】という認識は極めて妥当である、と言えるはずだ。
・この文で先輩は起点ではないか?
という疑問が生じるのもよくわかる。
ただ、格助詞「に」(という主体的認識表現)は、「(花子が)借りる」という【動作】を「先輩」という空間的地点に位置付ける認識なのだ。
「先輩(間接目的語)」は、「(花子が)借りる」という動作の空間的【着点】として位置付けられた結果、携帯電話(直接目的語)の移動する「起点」となり得たのである。
つまり「起点」であるのは「に」の意義によるものではなく、あくまで【着点】として位置付けられたものが「(花子が)借りる」という動作だったからだ、ということである。
長文を最後までお読みいただきありがとうございます。
以上のように考える次第ですが、諸賢のご見解・ご感想などいただければ幸いです。
A 回答 (83件中1~10件)
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No.83
- 回答日時:
>とってもお上手ですね。
猿真似が。それさえできずに、
>お詫びして訂正させていただきます。
では何ともはや!
一事が万事!
あっはっはっはっ!!!笑笑笑
笑笑笑!!!
物(もの)言(い)えば唇(くちびる)寒(さむ)し秋(あき)の風(かぜ)
デジタル大辞泉の解説
《芭蕉の句から》人の短所を言ったあとは、後味が悪く、寂しい気持ちがする。転じて、何事につけても余計なことを言うと、災いを招くということ。■
ご回答ありがとうございます。
あっはっはっ~!!!笑笑笑
猿真似しているとお認めになるのですね。
偉い偉い!笑笑笑
語彙力不足を補っていただけるならご同慶の至りということで。
どんどんやっちゃってください。(笑)
ただし、本題のほうも逃げずにちゃんと答えましょうね。
有耶無耶にしておけば、そのうち忘れるとでも?(笑)
みんな見てますよ?(笑)
No.80
- 回答日時:
どうにも、当方の指摘が理解できずに余所でとんだ誤りを披歴されているので、一応指摘しておきましょう。
日本語がまともに理解できないようです。「下品なうえに感じの悪いコメント」と言われてもしょうがありませんね。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12183747.html
>>
・語=助詞や助動詞⇒主観的認識を表わす。
・客体=対象=わかりやすい例では名詞など⇒客体を表わす。
ということ。
彼の主張の要点は、
《助詞・助動詞は主観的認識【のみ】を表わす》//
これは、全くの誤りです。
こんな、寝ぼけたことを当方が主張する訳がありません。
プレバトの夏井先生風に言えば、
主観的認識でない言語があったら持ってこい!
「犬」を「猫」と言えるのも主観的認識ゆえです。
この程度の理解力も無しに、
>>またしても他人の言葉を勘違いしたまま引用してますな。
とは笑止千万です。
何やらを丸出しですな!
>>《助詞・助動詞は主観的認識【のみ】を表わす》
誰がこんな阿呆なことを言ったのでしょう。これは、質問者の捏造ですね。
本当に日本語が理解できていませんね!
顔を洗って出直しましょう。
>>・基本的な意味は着点という意味での「静止点」を示すことでしょう。
と書き換えるとグレードアップするのではないかという気がします。
グレードアップではなく、誤謬への転落です。■
ご回答ありがとうございます。
>主観的認識でない言語があったら持ってこい!
:
なるほど、ごもっともなご指摘ですな。
お詫びして訂正させていただきます。
ところで、肝心の下記もよろしく頼んます。
【質問1】
あなたは、
《この文における格助詞「に」は、会議の始まりを5時と時間的に位置付ける認識を表している》
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12189564.html?pg=1& …
とおっしゃった。
これはお認めになりますか?
【質問2】
上記文中の「位置付ける」は、
物の占める場所をある地点に定める。配置する。
という意味の他動詞である。
「展示物を正面に位置付ける」のように使う。
これはお認めになりますか?
【質問3】
であるなら、
《会議の始まり》を位置付ける場所としての [ 〇〇に ] という言葉が必要になる。
つまり、
《会議の始まりを5時と [ 〇〇に ] 時間的に位置付ける認識を表している》のように表現するのが正確な文である。
これはお認めになりますか?
No.79
- 回答日時:
漸く、質問者の誤り、限界が明確になったので最後に纏めておきましょう。
格助詞「に」は空間的・時間的な位置付けの認識を表します。
これを、
>格助詞「に」は空間的・時間的な位置付けの認識をす。
という意味は理解できたのですか。
:
十分に理解済です。
と答えながら、
「(時間的・空間的に)位置付ける」の場合
何を?
どこに?
位置付けるのですか?
と質問するというレベルの理解でしかありません。そして、
わたしは理解しているが、アスナロウさんは、
格助詞「に」は空間的・時間的な位置付けの認識を表わす。
の意味を勘違いして解釈していますよ、と申し上げている。
いったい、何をどう理解し、「意味を勘違いして解釈していますよ、と申し上げている。」などとは全くの意味不明で、結論は何らの論理性がなく、何も解っていないということです。
批判とは何かという中学生レベルの理解もなしに、この質問をデッチ上げたということになります。
お粗末の一言に尽きます。
まずは、再三提示した課題に応えられるよう学習、研鑽して下さい。■
ご回答ありがとうございます。
>《格助詞「に」の意義とは何か-機能主義言語論の混迷》 批判
の批判は、「(会議の)始まり」を、どこに位置付けるのも理解できずにしているのですか。批判など成立するはずがありません。
:
わたしは十分に理解しています。
アスナロウさんが理解していない、あるいは勘違いしていますよね?
と申し上げているところです。
そのための質問なのですが、
「(会議の)始まり」を、どこに位置付けるのですか?
という極めて簡単質問にもお答えになれない。
この事実が、あなたの無理解・勘違いを証明しているのです。
ご自身でもおわかりでしょ?
あなたは、自分の定義した文の意味さえ理解しないで、色々と批判を繰り広げているわけだ。
その無理解・勘違いを是正してさしあげようという、わたしは言ってみればレスキューのようなもの。
大事に扱った方が身のためですぞ?(笑)
とはいえ、ものには限度というものがある。
最後のチャンスをお与えしましょう。
以下に簡単な質問を3つします。
それぞれの質問内容を認めるか認めないか、の2択でお答えください。
認める場合は次の質問に進んでください。
認めない場合はその理由を述べて終了してください。
次の質問に答える必要はありません。
『会議は5時に始まります』
【質問1】
あなたは、
《この文における格助詞「に」は、会議の始まりを5時と時間的に位置付ける認識を表している》
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12189564.html?pg=1& …
とおっしゃった。
これはお認めになりますか?
【質問2】
上記文中の「位置付ける」は、
物の占める場所をある地点に定める。配置する。
という意味の他動詞である。
「展示物を正面に位置付ける」のように使う。
これはお認めになりますか?
【質問3】
であるなら、
《会議の始まり》を位置付ける場所としての [ 〇〇に ] という言葉が必要になる。
つまり、
《会議の始まりを5時と [ 〇〇に ] 時間的に位置付ける認識を表している》のように表現するのが正確な文である。
これはお認めになりますか?
No.78
- 回答日時:
>改めて質問します。
「(会議の)始まり」を、どこに位置付けるのですか?
教えてください。
いよいよ馬脚を表しましたね.
今頃、何を寝ぼけているのですか。
だから駄目なのです。
>>格助詞「に」は空間的・時間的な位置付けの認識をす。
という意味は理解できたのですか。
:
十分に理解済です。
「(会議の)始まり」を、どこに位置付けるのも理解できずに、「十分に理解済です。」とはどの口が言っているのですか。
これまでの議論は何をもとにグダグダ言ってきたのですか。
>>《格助詞「に」の意義とは何か-機能主義言語論の混迷》 批判
の批判は、「(会議の)始まり」を、どこに位置付けるのも理解できずにしているのですか。批判など成立するはずがありません。
まず、このこれまでのグダグダの論拠を明らかにしてください。
これこそが、矛盾、論理の欠片もないと指摘している実態なのですが?■
ご回答ありがとうございます。
>「(会議の)始まり」を、どこに位置付けるのも理解できずにしているのですか。批判など成立するはずがありません。
:
わたしは十~~~分に正しく!理解しています。
アスナロウさんがわかっていない、と申し上げている。
わかっているなら、
「(会議の)始まり」を、どこに位置付けるのですか?
答えて見ろよ!(笑)
ということ。
No.77
- 回答日時:
>そんな大層な論理の話をしているんじゃないわけよ、今はね。
ははは!
論理無しに思い込みを語るのでハチャメチャのお話しだということです。
>山本 義隆 って、ひょっとしてあの東大全共闘の委員長?
そんなことも判らずに応答しているようでは救いようがありませんね!
顔を洗って出直しましょう。■
No.76
- 回答日時:
>>感情に任せて、思いつくまま回答をしまくっているようですね。
少し冷静になりましょう。
そして、わたしの投稿内容をよく読んだうえで、噛み合うような回答をしてください。
部分部分に、感情的に反応しているようじゃ、まだまだ修行が足りませんぞ?(笑)
ははは!
「ああ言えば、上祐」
のお友達ですね!
南無阿弥陀仏■
「(時間的・空間的に)位置付ける」の場合
何を?
どこに?
位置付けるのですか?
について、もう少し具体的にお伺いしましょう。
下記の(#20)で、以下のように回答していますね?
※
会議は5時に始まります。
この文における格助詞「に」は、会議の始まりを5時と時間的に位置付ける認識を表しているもので、格助詞「に」の意義は時間的・空間的な位置付けの認識を表すものです。※
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12189564.html?pg=1& …
つまり、「何を=(会議の)始まりを」と言ってるわけだ。
そして、それは正解です。
しかし、「どこに?」が書かれていません。
改めて質問します。
「(会議の)始まり」を、どこに位置付けるのですか?
教えてください。
No.75
- 回答日時:
>」>余分な言葉遊び
:
と感じるのは、あなたに論理的思考ができないことの証です。
ははは!
>>ただ、「どのように位置づけるのか??」という点にまで踏み込み、
《格助詞「に」は空間的・時間的な [ 着点としての ] 位置付けの認識を表わし、》のように解釈するのが、より本質に迫る簡潔明快な定義である、ということです。
『着点を表わす』という定義を、あだやおろそかにしてはいけませんぞ。(笑)
のどこが論理的。
論理の欠片もありません。
何度も指摘しているようにどういう論理に基づき言語を論じているのですか?
最近、文庫本になりましたのでパラダイム転換とは何かを実感できるように下記を熟読下さい。
『日本語は~』一冊、読めないようでは如何ともしがたいとは思いますが!
重力と力学的世界 上 ――古典としての古典力学 (ちくま学芸文庫) (日本語) 文庫 – 2021/2/13
山本 義隆 (著)
まあ、ボロボロになるくらい読み込まないかぎり、理解はできませんが。■
ご回答ありがとうございます。
>何度も指摘しているようにどういう論理に基づき言語を論じているのですか?
:
だから、そんなコケ脅しの論点外しはみっともないから、やめたほうがいいよと何度も言ってるんだが、まだわからんみたいですな。(笑)
そんな大層な論理の話をしているんじゃないわけよ、今はね。
それはそれでまたいつかゆっくり拝聴するからさ。
今は、とりあえず、
「(時間的・空間的に)位置付ける」の場合
何を?
どこに?
位置付けるのですか?
に答えていただけませんかね?
山本 義隆 って、ひょっとしてあの東大全共闘の委員長?
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(ア)格助詞「に」は、動作の空間的・時間的な位置付けの認識を表わす。(アスナロウ)
という解釈自体を否定しているわけではありません。
大辞林にも、
「動作・作用が行われ,また存在する,時間的・空間的な位置や範囲を示すのが本来の用法」
といった注釈がある。
ただ、本質的意義というのであれば、
( B-1 ) 格助詞「に」は動作・作用の着点(という認識)を表わす。(hakobulu)
とするほうがベターではないか、ということ。
このように解釈によって様々な勘違いや誤解を防ぐことができるだろう、という意味でもある。
因みに紙数の関係で端折りましたが、下記質問でも着点について述べています。
お時間のあるときにでも。
菅井氏や杉村氏の解釈とそれほど違ったことを言っているわけではなさそうで一安心しているところ。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12201688.html
「位置付けの認識」と「位置付ける認識」では意味内容が違う。
と言うのは、
「慰めの気持ち」と「慰める認識」では意味内容が違う。
と言っているようなものであることは理解なさっておられますか?
hakobulu:
『読み手は、作品の言葉をたどりながら、同時に、作者の認識の動きを追っているのだ。また、言葉が紡ぎだされたとき、紡ぎだした作者は、いわば、言葉によって逆に自分の位置をはっきりと限定される。』
とも言ってますが、ここで言う「言葉」は、おそらく主体的認識を表わす助詞・助動詞の類を指すのでしょう。
アスナロウ:
いいえ。
これは「作品の言葉」、つまり文、文章で、規範としての語の意義ではありません。
hakobulu:
図らずも読解力の無さをさらけ出しておられますね。(笑)
実に読みが浅い。
「作品の言葉」であるのは当たり前だが、「(読み手は)作者の認識の動きを追っている」と書いてるでしょ?
つまり、主体的認識を表わす語が絡んでいる言葉を指しているわけ。
たとえば「読み手」ではない、「読み手は」という主題提示の認識を伴う言葉のこと。
ブーメランお上手。(笑)
>もう一度、自身の質問の内容を真摯に見直して下さい。顔から火が出ると思うのですが?
:
どういった理由で『顔から火が出ると思う』と思うのですか?
その箇所を指摘して批判してくれば良いものを、そんな論議の基本すら実行できないでいるところをみると、おそらく、その理由さえ分からないのでしょう。
まあ、自己投影の典型例として拝聴しておきましょうかな。(笑)
しかし、勘違いは誰にもありますから、そう悲観しなくてもよろしいです。
知らざるを知らざると言う、これ知るなり。
過ちて改めざる、これを過ちと言う。
てな諺があったと思いますが、そゆことです。(笑)
#16お礼欄からの続き。
>6.
>>堀川(智也氏)(1988)はこうした「に」について、~~と説明している。
この説明が根本的に誤り。話者の認識の世界と客体の世界を混同している。
:
その辺りについては興味深い。
いずれ改めて伺いましょう。
とりあえず今はお互いの発言内容に対して責任ある解説を加えていかないと前に進むことはできないでしょう。
7.
>>ただ、格助詞「に」(という主体的認識表現)は、「(花子が)借りる」という【動作】を「先輩」という空間的地点に位置付ける認識なのだ。
意味不明の日本語。
以上のように批判というには程遠い奴シロウトの言葉のお遊びに過ぎない。
:
気持ちはわかります。
これも
>5時に位置付ける。
5時を位置付ける。
どちらですか?
の質問に答えることで解決につながるかもです。
繰り返しますが、逃げずに必ずお答えください。
ご自身のためにも。
いずれにせよ、読解力がほとんどなく、論理性の欠片もないことが明らかになったわけだ。
すばらしい書物は読んでいるのかもしれないが、あなたは、その内容を曲解している公算が大きい。
つまり、ダイヤを拾ってはきたかもしれんが、それを包丁研ぎに使って自慢しているようなものだな。(笑)
まあ、それなりに頑張れば良いが、他人を批判するタマじゃないことぐらいは、そろそろ自覚したほうがいいぞ?(笑)
そのたびに自らの論理性の無さ、読解力の無さを曝け出していることに気づくべき時だよ。
今までのよしみで忠告しおくから、拳拳服膺するがよろしかろう。(笑)
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12183747.html?isSho …
上記#38の質問にも逃げずに答えていただけますか?
まさか、こちらも分からない???
ひょっとして記憶にありません、とか?(笑)
>「先生からいただく」「先生に指導していただく」という文は能動文で、「指導する」という行為について見ているのであり、「指導を受ける」という側から見れば受身の文にならなければなりません。これを勝手に受身文と解釈するのは誤りです。(アスナロウ)
:
ご教授いただきたいのですが、
「先生に指導していただく」というのは、『「指導を受ける」という側から』見ている文ではない、とおっしゃっていますか?
4.
>どこで言っているのか具体的に提示してみて下さい。
:
他動詞には「他に働きかける」という機能を持つので、「花子は借りるという動作を先輩に積極的に求めた」という認識が話者にはあることになる。
「他動詞」
その動詞の表す動作や作用が直接他に働きかけたり、他をつくり出したりする働きとして成り立つもの。(大辞泉)
5.
格助詞「に」自体が表すのは、空間的・時間的な位置付けの認識です。(アスナロウ)
「位置付け」という転成名詞の元である「位置付ける」は、
物の占める場所をある地点に定める。配置する。「展示物を正面に位置付ける」
という意味の他動詞です。
上記定義文、
「(時間的・空間的に)位置付ける」の場合
何を?
どこに?
位置付けるのですか?
わからなければ、そのようにおっしゃってください。
ご自分の勘違いを知りたくはないのですか?
端くれとは言え、あなたも真理の徒でしょう。
>どこが勘違いですか!
だから、それを分かるようにしてあげるから、
「(時間的・空間的に)位置付ける」の場合
何を?
どこに?
位置付けるのですか?
という質問に答えてください、と申し上げている。
なぜ答えない?????
勘違いの原因がそこにある、と言っているのに。
答えられない、ということ自体が勘違いであることを証明している、とは思いませんか?
自分自身でも。