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https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9186 …
この筆者であるアスナロウさんは、格助詞「に」の意義についての批判をいくつかのサイトを引用しつつ展開している。
これが、明らかな勘違いに基づくものであることを、要点のみを挙げつつ以下に証明していきたいと思う。

1.
「日本語 文法 格助詞:解説 - 東京外国語大学」
http://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/ja/gmod/content …
に対する批判。
煩雑になるのでかいつまんで引用させていただく。
☞から
(31)木村さんに本をあげます。
(略)
このように、「受け取り手」や「到着点」「動作の相手となる人」とは個別の文における意味であり、名詞の語の意義や格助詞「に」の意義ではないのである。
格助詞「に」自体が「受け取り手」や「到着点」「動作の相手となる人」を表わしているのではないことは明らかであろう。(アスナロウ)
☜まで

この点はまったく同感である。
◎「意味」=様々なシチュエーションに対応して解釈可能な個別の意味。一つの語に対して辞書が表記している複数の語釈のことを指す。
◎「意義」=あらゆるシチュエーションに通底する、ただひとつの意味。
ということだ。
問題は、このサイトでは、上記批判に値するようなことはまったく言っていない、という点。
つまり彼は勘違いをしているわけだ。

サイトでは上記(31)の例文に関して、
『2 「に」は物や情報の受け取り手を表わす』(要約)
と解説している。
《個別の文における意味であり、名詞の語の意義や格助詞「に」の意義ではない》点では同じ認識であるにもかかわらず、アスナロウさんは勘違いして、その点をまず批判している。
これが第一の勘違い。

また、この解説文は『格助詞「に」自体が「受け取り手」や「到着点」「動作の相手となる人」を表わしている』と言ってるわけではない。
以下、順に説明してみよう。

(ア-1)格助詞「に」は、(「に」の前の語に、「に」の後に続く)動作を空間的・時間的に位置付けるという認識を表わす。

これはアスナロウさんも納得できるはずの「に」の本質的意義である。
上記例文に当てはめれば、

(ア-2)格助詞「に」は、「木村さん」に『「あげる」という動作』を空間的に位置付けるという認識を表わす。

ということになる。
「木村さん」は、格助詞「に」(という主体的認識表現)によって『「あげる」という動作の行われる場所(=受け取り手)』として空間的に位置付けられた。
格助詞「に」を使うことによって「木村さん」は本の受け取り手として定められたわけだから、

・格助詞「に」は「木村さん」が本の受け取り手であること表わす。

という意味になる。
「受け取り手であること」の文中「こと=認識」であることは当然である。
これを『「に」は物や情報の受け取り手を表わす』と言っているだけなのだ。
しかるにアスナロウさんは、「に(主体的認識)」=「受け取り手(客体的認識):木村さん」ではないのだから間違っている、と主張している。
しかし、その論理でいくと、

・格助詞「から」は起点の認識を表わす。

という表現も《「から」=「起点」ではないのだから間違っている》ということになってしまう、という矛盾に気づいていない。
これが第二の勘違い。
つまり彼は二重の勘違いを犯していることになる。

むろん、「木村さん」が受け取り手となるのは、この文における動作が「あげる」だからである。
アスナロウさんも、
『この名詞句が「受け取り手」として理解されるのは、「に」で動詞「贈る」「教える」「あげる」との関係が表現されているからで、動詞が「もらう」「借りる」などになれば起点の意味に変化するのである。』
と極めて的確に指摘しているとおりだ。(この件は重要な認識である。以下の2でも詳しく触れることになると思う)
いずれにせよ、このサイトをあえて批判するなら、『「に」の意味だけを述べており、意義について触れられていない』という点にすぎない。
誤った根拠に基づく批判は撤回されるべきだろう。
蛇足として付け加えておくと、このサイトでは「やりもらい」の「渡し手」の例文が載っていないという点での不備がある。論点を避けようとしているかのようで印象はよろしくない。
基本的に初級者向けということのようだ。

2.
菅井三実【格助詞にの統一的分析に向けた認知言語学的アプローチ】
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8221 …
に対する批判。
☞から
「(格助詞「に」は)主格 NP から与格 NP へのエネルギー伝達を前提とする」ようでは、まともな文法の論理とは考えがたい。それが認知言語学の限界である。(アスナロウ)
☜まで

122ページで菅井は次のような例文を挙げている。
(16) a .花子が先輩に携帯電話を借りた.
(16) b .花子が先輩から携帯電話を借りた.

この場合「(格助詞「に」は)主格 花子 から与格 先輩 へのエネルギー伝達を前提とする」ということになるのだが、それは文法の論理とは考えがたい、とアスナロウさんは批判しているわけだ。
たしかに「エネルギー伝達」はわかりにくいかもしれない。
もう少し読んでいくと、菅井は次のように続けている。

(16a)のように先輩をニ格で標示したときは,主格 NP花子から先輩に借りることを求めたことが前提となっているのに対し(16b)のようにカラ格で標示したときは花子が先輩に借りることを求めるという働きかけの側面が背景化され,結果的に先輩から携帯電話が一時的に移動していることがることが前景化されているということになる。

つまり、(16a)の場合、「花子は借りるという動作を先輩に積極的に求めた」という認識が話者にはある、と言っているわけだ。
ここは今回読み直してみて気づいた新鮮な視点であった。
(16a)をアスナロウさんの定義に則って解釈するなら、

《この文における格助詞「に」は、「(花子が)借りるという動作」を「先輩」という地点に空間的に位置付けるという話者の認識を表している。》

となるだろう。
ところで、文中の「位置付ける」は、
物の占める場所をある地点に定める。配置する。「展示物を正面に━」
という意味の他動詞である。
他動詞は他に働きかけるという機能を持つのだから、
『「(花子が)借りるという動作」を先輩という地点に空間的に位置付ける』という話者の認識は、「(花子が)借りるという動作」を先輩に積極的に求めた』という認識が話者にあったことを示している。
『「(花子が)借りるという動作」を先輩に積極的に求めた』という認識があったからこそ、話者は『「(花子が)借りるという動作」を「先輩という地点」に空間的に位置付けた』のである。
無論、
(16) b .花子が先輩から携帯電話を借りた.
に、
『「(花子が)借りるという動作」を先輩に積極的に求めた』という認識はない。先輩は純粋な起点として認識されているだけである。

以上のように、
『「(花子が)借りるという動作」を先輩に積極的に求めた』ということが「(格助詞「に」は)主格 花子 から与格 先輩 へのエネルギー伝達を前提とする」という文の意味であり、『まともな文法の論理とは考えがたい』というアスナロウさんの認識は勘違いであることが明らかになったはずである。
また、この点に関して、
【イメージで教える日本語の格助詞】で杉村泰氏が述べている以下の内容も理解に役立つと思われる。
☞から
堀川(智也氏)(1988)はこうした「に」について、「相手としての意味役割を持ち、主語が、相手に対して何らかの働きかけをすることが意味される。ここでいう働きかけとは、相手の好意を求める気持ち、相手の意志を動かそうとする気持ちが相手に向かって働くことである」と説明している。
☜まで

3.
さて、ここで【着点】という概念について若干触れてみたい。
すでに述べてきたように、

(16) a .花子が先輩に携帯電話を借りた.
は、

「先輩」は、格助詞「に」(という主体的認識表現)によって『「(花子が)借りる」という動作の行われる場所』として空間的に位置付けられた。

という意味である。
「先輩」は「空間的に位置付けられた【先】」なのであるから、「先輩」=【着点】という認識は極めて妥当である、と言えるはずだ。

・この文で先輩は起点ではないか?
という疑問が生じるのもよくわかる。
ただ、格助詞「に」(という主体的認識表現)は、「(花子が)借りる」という【動作】を「先輩」という空間的地点に位置付ける認識なのだ。
「先輩(間接目的語)」は、「(花子が)借りる」という動作の空間的【着点】として位置付けられた結果、携帯電話(直接目的語)の移動する「起点」となり得たのである。
つまり「起点」であるのは「に」の意義によるものではなく、あくまで【着点】として位置付けられたものが「(花子が)借りる」という動作だったからだ、ということである。

長文を最後までお読みいただきありがとうございます。
以上のように考える次第ですが、諸賢のご見解・ご感想などいただければ幸いです。

質問者からの補足コメント

  • (ア)格助詞「に」は、動作の空間的・時間的な位置付けの認識を表わす。(アスナロウ)

    という解釈自体を否定しているわけではありません。
    大辞林にも、
    「動作・作用が行われ,また存在する,時間的・空間的な位置や範囲を示すのが本来の用法」
    といった注釈がある。
    ただ、本質的意義というのであれば、

    ( B-1 ) 格助詞「に」は動作・作用の着点(という認識)を表わす。(hakobulu)

    とするほうがベターではないか、ということ。
    このように解釈によって様々な勘違いや誤解を防ぐことができるだろう、という意味でもある。
    因みに紙数の関係で端折りましたが、下記質問でも着点について述べています。
    お時間のあるときにでも。
    菅井氏や杉村氏の解釈とそれほど違ったことを言っているわけではなさそうで一安心しているところ。
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12201688.html

      補足日時:2021/02/14 16:44
  • 「位置付けの認識」と「位置付ける認識」では意味内容が違う。

    と言うのは、

    「慰めの気持ち」と「慰める認識」では意味内容が違う。

    と言っているようなものであることは理解なさっておられますか?

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/02/14 21:50
  • hakobulu:
    『読み手は、作品の言葉をたどりながら、同時に、作者の認識の動きを追っているのだ。また、言葉が紡ぎだされたとき、紡ぎだした作者は、いわば、言葉によって逆に自分の位置をはっきりと限定される。』
    とも言ってますが、ここで言う「言葉」は、おそらく主体的認識を表わす助詞・助動詞の類を指すのでしょう。

    アスナロウ:
    いいえ。
    これは「作品の言葉」、つまり文、文章で、規範としての語の意義ではありません。

    hakobulu:
    図らずも読解力の無さをさらけ出しておられますね。(笑)
    実に読みが浅い。
    「作品の言葉」であるのは当たり前だが、「(読み手は)作者の認識の動きを追っている」と書いてるでしょ?
    つまり、主体的認識を表わす語が絡んでいる言葉を指しているわけ。
    たとえば「読み手」ではない、「読み手は」という主題提示の認識を伴う言葉のこと。
    ブーメランお上手。(笑)

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/02/15 00:33
  • >もう一度、自身の質問の内容を真摯に見直して下さい。顔から火が出ると思うのですが?

    どういった理由で『顔から火が出ると思う』と思うのですか?
    その箇所を指摘して批判してくれば良いものを、そんな論議の基本すら実行できないでいるところをみると、おそらく、その理由さえ分からないのでしょう。
    まあ、自己投影の典型例として拝聴しておきましょうかな。(笑)
    しかし、勘違いは誰にもありますから、そう悲観しなくてもよろしいです。

    知らざるを知らざると言う、これ知るなり。

    過ちて改めざる、これを過ちと言う。

    てな諺があったと思いますが、そゆことです。(笑)

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/02/15 01:06
  • #16お礼欄からの続き。

    >6.
    >>堀川(智也氏)(1988)はこうした「に」について、~~と説明している。
    この説明が根本的に誤り。話者の認識の世界と客体の世界を混同している。

    その辺りについては興味深い。
    いずれ改めて伺いましょう。
    とりあえず今はお互いの発言内容に対して責任ある解説を加えていかないと前に進むことはできないでしょう。

    7.
    >>ただ、格助詞「に」(という主体的認識表現)は、「(花子が)借りる」という【動作】を「先輩」という空間的地点に位置付ける認識なのだ。

    意味不明の日本語。
    以上のように批判というには程遠い奴シロウトの言葉のお遊びに過ぎない。

    気持ちはわかります。
    これも

    >5時に位置付ける。
    5時を位置付ける。
    どちらですか?

    の質問に答えることで解決につながるかもです。
    繰り返しますが、逃げずに必ずお答えください。
    ご自身のためにも。

    No.16の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/02/15 19:13
  • いずれにせよ、読解力がほとんどなく、論理性の欠片もないことが明らかになったわけだ。
    すばらしい書物は読んでいるのかもしれないが、あなたは、その内容を曲解している公算が大きい。
    つまり、ダイヤを拾ってはきたかもしれんが、それを包丁研ぎに使って自慢しているようなものだな。(笑)
    まあ、それなりに頑張れば良いが、他人を批判するタマじゃないことぐらいは、そろそろ自覚したほうがいいぞ?(笑)
    そのたびに自らの論理性の無さ、読解力の無さを曝け出していることに気づくべき時だよ。
    今までのよしみで忠告しおくから、拳拳服膺するがよろしかろう。(笑)

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/02/16 18:34
  • https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12183747.html?isSho …
    上記#38の質問にも逃げずに答えていただけますか?
    まさか、こちらも分からない???
    ひょっとして記憶にありません、とか?(笑)

    >「先生からいただく」「先生に指導していただく」という文は能動文で、「指導する」という行為について見ているのであり、「指導を受ける」という側から見れば受身の文にならなければなりません。これを勝手に受身文と解釈するのは誤りです。(アスナロウ)

    ご教授いただきたいのですが、
    「先生に指導していただく」というのは、『「指導を受ける」という側から』見ている文ではない、とおっしゃっていますか?

    No.51の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/02/22 23:45
  • 4.
    >どこで言っているのか具体的に提示してみて下さい。

    他動詞には「他に働きかける」という機能を持つので、「花子は借りるという動作を先輩に積極的に求めた」という認識が話者にはあることになる。
    「他動詞」
    その動詞の表す動作や作用が直接他に働きかけたり、他をつくり出したりする働きとして成り立つもの。(大辞泉)

    5.
    格助詞「に」自体が表すのは、空間的・時間的な位置付けの認識です。(アスナロウ)

    「位置付け」という転成名詞の元である「位置付ける」は、
    物の占める場所をある地点に定める。配置する。「展示物を正面に位置付ける」
    という意味の他動詞です。
    上記定義文、

    「(時間的・空間的に)位置付ける」の場合

    何を?
    どこに?

    位置付けるのですか?

    わからなければ、そのようにおっしゃってください。
    ご自分の勘違いを知りたくはないのですか?
    端くれとは言え、あなたも真理の徒でしょう。

    No.54の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/02/23 16:27
  • >どこが勘違いですか!

    だから、それを分かるようにしてあげるから、

    「(時間的・空間的に)位置付ける」の場合

    何を?
    どこに?

    位置付けるのですか?

    という質問に答えてください、と申し上げている。

    なぜ答えない?????
    勘違いの原因がそこにある、と言っているのに。
    答えられない、ということ自体が勘違いであることを証明している、とは思いませんか?
    自分自身でも。

    No.62の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/02/24 17:43

A 回答 (83件中41~50件)

>>「美しかろ」は「美しい」の未然形、という一般的な前提にもとづいて話をしているわけ。


それを認める認めないは、アスナロウさんの自由だけど、質問とは関係ない論点だから話がくいちがってくるわけだよ。

一般的な前提にもとづこうが、もとづかまいが、

>>『未然形が推量を表す』というのは、『形容詞型活用の未然形(を使うこと)自体が推量を表わす』という意味だと明記までしているのに。

これが根本的、本質的な誤りだと指摘しているのが理解できませんか?

>それを認める認めない

の話しではないということ!

おわかりかな?(笑)
ほんまわからんおっさんや。(笑)

つまらん与太を飛ばしていないでしかっり学習、研鑽しなさい。

爪の垢は煎じましたか?(笑)

まだ、服用してない?(笑)■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

わたしは「一般的な前提」に基づけば正しいという内容を回答し、アスナロウさんは「本質的な前提」に基づけば正しいという内容を回答した。
どちらもそれぞれの「前提」に基づいて正しい内容を回答しているのだから、それはそれでいいんだよ。
後は質問者の判断なんだから。

アスナロウさんが、わたしの用いた「一般的な前提」は間違っているというなら、それはそれで論議の対象になり得ることだが、今は論点が違うわけだから、それをごっちゃにしてはいかん、ちゅうこと。

お礼日時:2021/02/19 23:49

なお、「らしい」につては、『日本語は~』のp24を参照のこと。



一体、どこをどう読み何を理解しているの?

要は、全く理解力がないということ晒しているだけでしょう!■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

『日本語は~』のp24は全然理解できますが、客体的表現と主観的表現の違いがある、ということですよね。
だからどうだと言うのですかね?

だから、

「らしい」には未然形が無いようですが、なぜなのでしょうか…。

という質問に対して、

《「らしい」には(推量の)助動詞と(様子を表す)接尾語との二種類があるということです。
そして、助動詞の「らしい」には未然形が無いということです。》
というのは【頓馬な回答】じゃないとでも言うのですか???
あり得ん!!!(笑)

お礼日時:2021/02/19 23:42

>>いずれにせよですが、形容詞の未然形は推量以外の何かを表わす助動詞につながりますか?


具体的には、「美しかろ」とい未然形は推量の助動詞「う」以外のどういうものにつながるのですか?
ぜひ教えてください。

そういう寝ぼけたことを言っているからだめなのです。

「美しかろう」というのは、「うつくしくあろう」の「くあ」の音が熟合し「か」になったもので、これは形容詞自体の活用形ではありません。

「うつくしくあろう」は連用形「美しく」+判断辞「あり」の未然形「あろ」+推量の助動詞「う」です。

そして、形容詞の未然形「美しく」には否定の助動詞「な」が続き「美しくない」になります。つまり、推量を表すのは当然ながら助動詞「う」で、未然形自体が推量など表す訳がないということです。

こういう基本的な理解もなしに、いつも思い込みで意味不明なことを繰り返している事実をキチンと理解、反省しましょう。

なお、この点は『日本語は~』のP143~146、P156~157を参照下さい。少しは、まともに本をよんだらどうなの?

猫に小判、宝の持ち腐れですね!■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

だから論点が違うというのは、そういうことなんだよね。

「美しかろ」は「美しい」の未然形、という一般的な前提にもとづいて話をしているわけ。
それを認める認めないは、アスナロウさんの自由だけど、質問とは関係ない論点だから話がくいちがってくるわけだよ。
おわかりかな?(笑)

>なお、この点は『日本語は~』のP143~146、P156~157を参照下さい。少しは、まともに本をよんだらどうなの?

だから、そういう話は、それはそれでまた、そういう機会に教えてくれればいいだけの話。
ほんまわからんおっさんや。(笑)

お礼日時:2021/02/18 22:28

>>日本語においては、動詞または形容詞(未然形)に「-(よ)う」「-(だ)ろう」をつけて表現する。



助動詞「う」が推量を表し、それが未然形に続くのは当然で、未然形が推量を表すというのが根本的な誤りということです。

>>活用によって意義が変化するかしないかは立場の違いであって、そんなことを論じている場面じゃないことぐらいわかりなさいよ。

立場の相違ではなく事実誤認と指摘しているのが理解できないということですね。それくらい、わかりなさいよ!いつも、こうした言葉の遊びで誤魔化していると何度も指摘している通りです。

>>あの質問の意図とは直接関係ないことをあれこれ言うから紛らわしくなるということ。
それはそれで別の機会にやればいいじゃん。

いいえ。質問に対して全く誤った認識に基づき回答をしていることを自覚しなさいということです。いつものように別の機会に同じ誤りを繰り返すだけです。

【なぜ「頓珍漢」と言われるか?】未だ理解できていないことが自覚できていませね!(笑)

そんなことより、当方が指摘した課題にまともに応えられるよう学習、修練に励みましょう。

下らない、与太を飛ばしている場合ではありませんん。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>助動詞「う」が推量を表し、それが未然形に続くのは当然で、未然形が推量を表すというのが根本的な誤りということです。

相変わらず読解力の無さを露呈しまくっておられますな。(笑)
しかも、『未然形が推量を表す』というのは、『形容詞型活用の未然形(を使うこと)自体が推量を表わす』という意味だと明記までしているのに。
(いちいち明記しなくても読解できるのが普通の日本人だけどね)

いずれにせよですが、形容詞の未然形は推量以外の何かを表わす助動詞につながりますか?
具体的には、「美しかろ」とい未然形は推量の助動詞「う」以外のどういうものにつながるのですか?
ぜひ教えてください。

>立場の相違ではなく事実誤認と指摘しているのが理解できないということですね。

ホンマわからんおっさんやなあ。(笑)
だから、あの質問は、そういう事に関して聞いてるわけじゃないっつうことぐらいわからんかなあ。
つまり、論点が違っているわけなのですよ。
アスナロウさんの言ってること自体を否定しているのではなく、批判の筋道がしっちゃかめっちゃかだ、ということ。

>そんなことより、当方が指摘した課題にまともに応えられるよう学習、修練に励みましょう。

都合が悪いと、すぐそうやって論点をすり替えようとする。
お得意技ですが、すっかり見抜かれていますぞ。(笑)
みっともないから、そろそろ手法を変えたほうがいいよ?

そんなことよりも、
《「らしい」には未然形が無いようですが、なぜなのでしょうか…。》
という質問に対して、
『助動詞の「らしい」には未然形が無いということです。』という頓馬な回答をしたことへの反省はちゃんとしてますかな?
それとも、【なぜ「頓馬」と言われるか?】未だ理解できていない?(笑)

お礼日時:2021/02/18 21:21

何を批判されているかが理解できずに相変わらず、呆けをかまされているようですので、簡単に指摘しておきましょう。



>>「らしい」は推量の助動詞。
たぶんですが、形容詞型活用の未然形自体が推量を表わすからじゃないですかね。

何が頓珍漢かといえば、語の活用とは何かの基本が理解できていないということです。

語の活用とは次に続く語による単なる形の変化でしかなく意義は変化しません。
つまり、「形容詞型活用の未然形自体が推量を表わす」などと活用形自体が意義を表すというのは形容動詞と同じ日本語の基本を理解できていない根本的な誤謬ということです。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>語の活用とは次に続く語による単なる形の変化でしかなく意義は変化しません。

まあ、そういう考え方があってもよろしいでしょう。
ただ、ウィキにも以下のような解説があるように、『形容詞型活用の未然形(を使うこと)自体が推量を表わす』というのが間違い、ということはないでしょう。
「推量」
日本語においては、動詞または形容詞(未然形)に「-(よ)う」「-(だ)ろう」をつけて表現する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E9%87%8F

活用によって意義が変化するかしないかは立場の違いであって、そんなことを論じている場面じゃないことぐらいわかりなさいよ。
あの質問の意図とは直接関係ないことをあれこれ言うから紛らわしくなるということ。
それはそれで別の機会にやればいいじゃん。

そんなことよりも、
《「らしい」には未然形が無いようですが、なぜなのでしょうか…。》
という質問に対して、
『助動詞の「らしい」には未然形が無いということです。』という頓馬な回答をしたことへの反省はちゃんとしてますかな?
それとも、【なぜ「頓馬」と言われるか?】未だ理解できていない?(笑)

お礼日時:2021/02/18 18:29

最近顔写真さらしています。


レベルが小学生並みの、ませガキと思われたくないので・・・・。
読解力、だけではありません理解能力、分析能力、その結果を統合整理もできません。
でも逆効果?、引きこもりタイプ丸だし。
言葉に関する、論理、と言っても論理そのものが怪しい。
論理を振り回しているというより、論理という言葉を振り回しているだけ。
それが可能な、このネットだけが頼り?・・・・が想像されます。
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>>非論理的なんて言葉を他人に使うなんざ10年早いっつうことぐらい、そろそろ学んだら?



品と教養の無さという地を丸出しですね。

論より証拠!

端的に、良識ある真摯な応答とは何かの例を提示しておきましょう。

断定の助動詞「なり」の連用形「に」という誤り
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …

この回答者の爪の垢でも煎じて飲んでみてはいかがですか!■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>良識ある真摯な応答

どの口が言っとる?(笑)笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑笑!!!

お礼日時:2021/02/18 00:54

>>読まなければ読解できないのは当たり前だろ?


読解できないのではなく読解していない、と表現するのが正しい日本語なわけ。

読解できないから読まない、読めない、と判断、表現するのが正しい日本語なわけ。

それはこのお粗末な非論理的質問が明かしていますよ!■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

#27お礼欄で、数多ある矛盾の中からわかりやすいもの3つ指摘しています。
お得意の頬かむりで完全スルーしてますが、減らず口たたくまえに、ひとつでも論破してみなさいよ?(笑)
できないだろ?
大言壮語も御託並べるのもいいけど、それからにすることですな。

非論理的なんて言葉を他人に使うなんざ10年早いっつうことぐらい、そろそろ学んだら?

お礼日時:2021/02/17 23:17

>>読むだけなら猿でも読みまっせ?(笑)



それさえできないのでは、箸にも棒にもかかりませんね!
猿以下ですね(大笑)

そんな論理を振り回しているようでは、まともな読解などできるはずがないのだから。

ホント、何をいっているのか?

物言えば唇寒し秋の風(読み)モノイエバクチビルサムシアキノカゼ

デジタル大辞泉の解説
《芭蕉の句から》人の短所を言ったあとは、後味が悪く、寂しい気持ちがする。転じて、何事につけても余計なことを言うと、災いを招くということ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>それさえできないのでは、箸にも棒にもかかりませんね!
猿以下ですね(大笑)

そういう論理が成立すると思ってしまうのが、あなたの限界だということ。
読まなければ読解できないのは当たり前だろ?
読解できないのではなく読解していない、と表現するのが正しい日本語なわけ。
読んだのに読解できないのとは訳が違う、ということだよ。(笑)

《格助詞「に」の意義とは何か-機能主義言語論の混迷》
これは、読んだし、正しく簡単に読解できている。
まあ、そのことすら理解できていないみたいだがね。
いずれにせよ、矛盾だらけであることは指摘済みだが、早急にひっこめたほうが身のためですぞ?
または、わたしの指摘に基づいて根底から修正するか。
自分が猿であることを、一生懸命証明しまくっていることに気づかんのか?
せっかく衷心から指摘してやったんだから、無にするなよな?(笑)

お礼日時:2021/02/17 17:17

>>つまり、読んでいるいないという問題は、論理性の無さ、読解力という問題とは何の関係もないのだよ。



ははは!
読解力があればグダグダ言う前に読んで誤りか否かを指摘するのが当然でしょう。当方はそうしていますが。

結局、論理性の無さ、読解力の無さを晒し、論理性の欠片もないことが明らかになったわけだ。

わかるかな?(笑)■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「曲解している【公算】が大きい」と言ったことが論点になっている、という極めて基本的な点がまったく理解できておらんね。
だから、【この論点の場合、】『基本的な論も書』を読んでいるいないという問題は、論理性の無さ、読解力という問題とは何の関係もないのだよ。
わかるかな?(笑)

聞けば聞く程、こうした基本的な論理に気づきすらしていないということをつくづく感じますな。
さぞや他人との会話で難儀していることだろう。
ご同情申し上げます。
以下の箴言を拳拳服膺することによって、ひょっとしたら、その泥沼から抜け出せる可能性がわずかながらには残っておるぞ?(笑)
もう少し謙虚になり給え。

過ちて改めざる、これを過ちと言う。

『基本的な論も書』も読んでいることを自慢しているようだが、

門前の小僧習わぬ経を読む

の典型としか思われませんな。
そんな論理を振り回しているようでは、まともな読解などできるはずがないのだから。
読むだけなら猿でも読みまっせ?(笑)

お礼日時:2021/02/17 13:22
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