アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

朝鮮が松雲大師惟政を日本に派遣した理由と、国交回復に踏み切った理由はなんですかは

A 回答 (2件)

>朝鮮が松雲大師惟政を日本に派遣した


認識が違いますね、徳川家康が要請して招いたのです。
日本軍への増援と食料補給が出来ず、加藤清正らは孤立状態でした。
秀吉の死に依って朝鮮侵攻は休戦に成りました。
徳川家康は無意味な戦と思っていたので、早く終息させたかったのです。

朝鮮側は援軍の明軍の略奪・暴行が著しく、戦を早く終わらせかった様です

松雲大師惟政が加藤清正の陣に出向いて、和平を話し合った事が双方の
国に記録されてます。
戦後処理を早く済ませたい徳川家康が招待したのです。
朝鮮出兵の拠点になっていた、名護屋城を始めとして、戦争関連の
施設を取り壊し、その確認の為に朝鮮通信使を招待の形で復活したのです。

秀吉は朝鮮侵攻、ナポレオンとヒットラーは欧州中を戦場にし、毛沢東
は文化大革命で自国の文化を破壊しました、独裁者の末路は汚点を
残す事が共通の様です。
    • good
    • 0

朝鮮出兵は秀吉の死で休戦状態になったままで、日本ではその後は豊臣vs徳川の内乱が勃発したこともあり、家康が幕府を作ったのちもしばらくは正式な講和条約が結べていなかった。



日本側も対馬の宗氏を中心に国交回復を望む声は強かった。幕府を作った家康にしても交易の利は当然考えていた。朝鮮側に捕えられた兵士たちの問題もある。
朝鮮側も、日本が再び朝鮮に派兵するのではないかという疑心や連れ去られた両班や陶工などの問題もあって、国交回復を早急に結ぶべきという声は強かった。しかし、両班たちは戦乱を引き起こした上に一方的に逃げ帰った日本が最初に侘びの使節を送るのが当然と考え、自分たちが先に使節を送るのは体面に関わると考えて動きたくても動けなかった。

とはいえ、再度の倭軍襲来は困る。そこで正式な使節ではなく、民間人である仏僧の惟政を送って日本側の内情を探らせることにした。

高麗王朝では仏教は隆盛を誇り、政治にも深く関わっていたが、朝鮮王朝は朱子学を国教とし仏教は弾圧の対象でしかなかった。仏僧の地位は妓生などと同類の賤民に落とされていた。
しかし、秀吉軍の来襲に際して、朝廷は仏僧に義兵隊を組織して倭軍と戦うように命じた。ご存じとは思うが、その隊長が惟政だった。
惟政は戦いが膠着状態になると、対陣していた加藤清正と何度も腹を割った講和の条件を話し合い、その人柄や知見の素晴らしさは清正を通じて日本の武将たちに知れ渡ることになった。
朝鮮王朝の朝廷が日本側の内情を探らせるには惟政が適任と考えたのはそれが理由だろう。

惟政は日本に行って大きな成果を上げ、朝鮮に持ち帰って、正式な使節団を朝鮮から送るように進言。王やクチうるさい両班たちへの説得にも成功した。かくて通信使が復活した。
惟政は、日本から事実上の賠償金を得る条件で講和案をまとめ、その金額が両班たちの想像を遥かに上回っていたのだ。
幕府の通信使接待予算は1回あたり100万両だったが、そのうち相当な金額が朝鮮王朝側に直接渡っていたと思われる。後に新井白石が幕府の財政難を理由に60万両に下げているが、朝鮮側と宗氏からは大きなクレームが付き、一時はかなり険悪な状況になっている。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A