「お昼の放送」の思い出

4世紀の古代ローマ帝国での使徒教会では、イエス・キリストの三位一体性をめぐって分裂しており、ニケーア公会議では、三位一体性を認める派が正統だと認められて、一方の反対派は異端とされたらしいのですが、三位一体の意義がイマイチよくわからず、別にどちらでも良いのではと僕自身素人考えでは安易に思ってしまうものの、当時の帝国運営に密接に関わる国教の行方というのは死活問題に繋がりそうな話なのでそれだけ重要な問題だったのだろうと思われるのですが…

そもそもの三位一体の意味とその意義について教えてください。

A 回答 (5件)

ちょっと大胆な仮説を提示します。



それは「そもそもローマ皇帝の権限が三位一体だった」という指摘です。
ローマは王制から共和制になったのが紀元前509年、皇帝制開始が紀元前27年になっていますが、この時に革命やクーデターがあって独裁的な皇帝制になったわけではなく、暗殺されたカエサルが「共和制の制度を利用しつつ、個人に独裁的な権力を付与する方法」を考えたのがローマの皇帝制です。

共和制の仕組みの内、執政官(首相的な役割で政治権力)・独裁官(非常時に軍事指揮権を持つが、非常時必ず独裁官になるという権利を得た)・宗教的権威(元々終身の役職)を一人の人間が役職者になることを「皇帝」としたわけです。

皇帝は政治的権力・軍事指揮権・宗教的権威の「三位一体」の存在だったのです。

ローマにおいて「三位一体」というのは《権力構造として確立されたもの》であったはずで、キリスト教がローマを中心に権力組織として成長するには必要な要素だったのではないか、と思います。

で、キリスト教が宗教として絶対的な権威を確立する場合「他の宗教から突っ込みを入れられないようにする」ことは重要だったはずです。

特にユダヤ教は10世紀以上前から存在し、いくら排除したとしても「キリストを救世主として派遣した主(父)はユダヤの全知全能の唯一神」であったわけです。

ということはユダヤ教か《ユダヤ教を正当に引き継いだとする魅力ある宗教》が勢力を伸ばし、布教する際に「キリスト教?あれって救世主をあがめているだけだろ?その救世主を送った全知全能の神と直接対話できる俺っちの宗教のほうが優れているに決まってるじゃん」とやられると負けるわけです。

だから、キリスト教は「全知全能である父と、そこから派遣された救世主たるイエスを同格にしないといけない」という絶対命題があったはずなんです。

じゃあ2位一体でいいじゃん、と思うでしょうが、もう一つ問題があります。それは「土着宗教との融合問題」です。
 
たとえばメキシコの死者の日は「キリスト教なのに土俗的な宗教と融合したもの」です。イタリアではローマ時代の道祖神(日本のお地蔵様みたいなもの)が、ローマ街道沿いにそのまま残りつつ聖人に変わっています。これも土着との融合です。

キリスト教などの世界宗教は「布教して範囲が広まれば広まるほど、土着宗教を取り込む必要性がある」ものなのです。

だからキリスト教は聖霊という形で「元々、神が人間に与えていたが、まだ神の存在を知らなかった人たちはそれぞれ勝手に祀っていて、キリスト教が正しい教えを説くと聖霊と認識するようになった」と解釈し、キリスト教を布教するさいに利用できるようにした、と考えています。

つまり質問者様が「なんで三位一体が必要なのか?」という疑問に対しては「ローマ領内でキリスト教の権力を認めさせるのに皇帝と同じ権力構造だと説明するのが使いやすかったから」だと考えている、わけです。

こういう「既存の権力構造を模倣する」ことはほかにも存在します。
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私は青山学院大学というキリスト教系大学の卒業者ですが、


入学試験には別に信者審査なく、入学中キリスト教概論受講は
あくまで一般教養単位埋める目的で4単位得たに過ぎませんので
敢て思えば、キリスト磔は「偽物処刑・本物に復活芝居演じ」という
判断をしています。死んだ人は生き返らずですね。
物理学士としての判断です。
古代ローマはキリストの替え玉処刑という術に掛かったということですか。
三位一体は日本の三種の神器とは異なるので、余り拘らずになります。
これで青山卒業=クリスチャンには非該当の立場は貫けたということです。
キリスト不死は「英雄不死伝説」の成就に当たる気がします。
キリストには替え玉ありと思っています。
質問者さんもこちらに見方を変えると、また違う面見えるかもよ。
現にキリストの墓は猶太以外にもインド・日本とか他国にもあるしね。
「キリストは生きていた」なんて説成立しないかです。
ほかに「キリストが神の子ならヨセフの子にあらず」「マリアの連れ子」という説を立説できないかですね。
そういえば
「キリストは生きていた」
「キリストが神の子ならヨセフの子にあらず」
「マリアの連れ子」
という観点で、三位一体ならぬ三説一体はいかがですか
になる。
現に西暦とキリスト生誕紀元は一致しないですよね。
四年か八年いやもっとずれているらしいよね。
聖書も別にキリスト本人が書いた物は一書もないですからね。

でも質問者さんにはこういう投稿は「目の毒」ですか。
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何でこの質問は歴史学のカテゴリーで投稿されているんですか?


どう考えても宗教学ですよね?

それはともかく、三位一体を認めるか認めないかは、神を信じない人にとっては実にどうでも良い話で、質問者さんには何の関係もありません。

三位一体とは、父なる神と御子イエス・キリストと聖霊(「精霊」ではない)なる神は別々の神ではなく一人の神であるという教理です。

父・子・聖霊はそれぞれが創造・救済・聖化という信仰者を完成に至らせる業に関わっており、それらの業が決して切り離せないのと同様、同じ一人の神を切り分けることは不可能であり、三神ではなく三つの位格として捉える他はありません。

人間はただ神の啓示によってのみ、この真理を悟ることができます。従って、三位一体はどこまでも信仰の問題であって、信仰を持たないあなたにはその意味も意義も決して理解することはできません。分かった風に振る舞うことはできますが。

ニケ―ア公会議が開かれた当時、ローマ帝国は様々な分裂の危機に瀕していたため、コンスタンティヌス帝は教会を一つにまとめることによって帝国を一つにまとめようと考えました。そこで彼は、教会内で長い間続いていた論争を会議で決着させたのです。その論争とは、イエス・キリストとは何者かという論争ですが、キリストにおいて神性(神であること)と人性(人であること)が一つになっていることを認めない立場の人たちを、教会に分裂をもたらす異端として排除するために表明された統一見解が、三位一体なのです。

コンスタンティヌス帝自身は、キリストの神性と人性の問題がどのように決着するかには関心がなく、異端とされたアリウス(アレイオス)派の方に教会が傾いても構いませんでした。結果的にアタナシウス派が勝利し、三位一体の教理が正統であるとされていくのですが(それもすぐには決まらず、何度も会議を開く必要があった)、皇帝が求めていたのは論争の終結であり、教会全体が丸く収まり、ひいては帝国も平和になるなら、どのような結論が出ても良かったのです。

従って、質問者さんの気になっている、「当時の帝国運営に密接に関わる国教の行方」に関して言えば、三位一体は本質的に何の意味も意義もないということになります。ただし、通俗的な意味(世間で誤解された形)での三位一体について言うなら、この概念が発明されたことで、三つのものが一つにまとめられることこそ正しい在り方だという考えが広まったと言えるでしょうし、そこに(本来的ではないにしても)意味と意義を見出すことができるかもしれません。たとえば現代でも、「三位一体の改革」などと言ったりするように。
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キリスト教信者には重要な事柄ですが、信者ではない人にとっては


どうでも良い事柄かと。
とわ、言えキリスト教の影響力は大きいので、雑学として学んでいても
損は無いかと。
三位一体、東方、西方教会で検索すると、沢山ヒットします。
日本に在るカソリック教会、東方教会を訪れて、尋ねるのが一番
宜しいかと。

個人的には、私が読んだ福音書には、キリストはモーゼと同じ神の声を
伝える預言者の位置付で、神の子の表現はなかったので、教会が
布教活動の手段として考え出した事と思ってます。

偶像崇拝を禁止しているのに、キリストの磔、マリアの受胎告知などを
絵画に書いてます、偶像と絵画は何が違うの?同じじゃないの?
布教の手段として便利だから、と思っています。
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室町幕府末期、キリスト教布教の為に来日したフランシスコ・ザビエル
がバチカンに送った書簡で、上陸した薩摩と周防の農民に質問攻めに
合い、その中で答えに窮したことが複数有った事が記載されてます。

デウスが全知全能の神ならば、何で悪魔なんて変な者を造ったのか?
キリスト教に改宗しないと地獄に落ちて、そこから逃れないと言うならば
我らの先祖はどうなる?地獄から抜ける手段がないと言うなら、情けも
慈悲も無い神ではないか?
これらの質問が仏教の僧でなく、農民から発せられた事に驚きを
見せてます、天皇や将軍に拝謁出来ない事も有り、仕切り直しで
一旦、マラッカに戻りました。
どうも、日本人は支那を尊敬しているみたいなので、支那から普及活動
を始め様として、皇帝拝謁の許可を得るべく待機中に熱病に掛かり
無くなりました。
書簡を読むとフランシスコ・ザビエルの潔らかな心に宗教を超えて
感嘆しますね。

それでも、一神教には馴染めないですね、八百万の神々が宜しいです。
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私はクリスチャンではありませんので不正確かもわかりませんが……



三位一体というのは「父なる神」と「イエス」と「内なる精霊」が同一だということです。ですからキリストは神の表れなんですよ。

ところが異端とされたアウリス派はキリストは預言者であるということです。「人の子・イエス」ということですね。感覚的にはこちらの方がわかりやすいです。

ですから三位一体となれば「父なる神」も「イエスキリスト」も同一であり崇拝の対象になります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
難しいですね。今の僕からすると、イエス氏は一般庶民と同じくヒトから生まれて人並みに人生を生きた1人の人物だと思っているので、浅はかな考えかもしれませんがどちらかといえばアリウス派寄り(というかもう一方の考え方を知らないだけ)ですか…

イエスと神、内なる精霊という考え方が一体どういう経緯から出てきたのかがまだよく理解できないですが、そのあたりが理解できれば、僕の捉え方も変わりそうな気がします。

お礼日時:2024/09/22 10:19

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