メモのコツを教えてください!

【友好商社】1966年文化大革命が始まると、日本共産党と関係の深い企業は中国側から友好商社指定を取り消され、これらの企業の多くは倒産・解散を余儀なくされた。

なぜ共産主義の日本共産党が共産主義の共産党から排除されたのですか?同じ思想で自民党と結び付くより日本共産党と結び付いた方が中国政府にとって左翼指導者が日本国内に増えて良かったのでは?なぜ右翼思想の自民党を左翼思想の中国共産党が支持をしたのでしょう?

A 回答 (3件)

日本共産党は、元々ソ連の影響力が強い組織でした。


それは中国共産党も同じ事でしたが、毛沢東はスターリン死後にソ連トップの座に就いたフルシチョフが独裁性が強すぎた「スターリン批判」をぶち上げると、毛沢東は同じく独裁性が強かった自分も批判されたと感じ、国内の批判勢力を弾圧し始めると同時に、フルシチョフに猛口撃を開始し、小規模な国境紛争まで引き起こすようになりました。

それで中ソは断交状態になりましたが。日本共産党はソ連側にとどまったため、中国共産党と日本共産党の仲も悪くなった。そういうことです。

時が進み、一度は失脚した毛沢東が文化大革命で復活した後、ソ連と犬猿の仲になった毛沢東は米国ニクソン政権と接触し、西側諸国に接近を図ります。しかし、なかなか中米会談は進まずいたところ、横から自民党の高名角栄が中国に急接近して日中国交正常化を果たし、中国が台湾に代わって国連安保理常任理事国になる手助けをしたわけです。

それで、中国共産党と自民党、及びその両者を結び付けた創価学会・公明党が急速に仲良しグループになったという次第です。
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お礼日時:2024/09/28 20:09

文化大革命の時期に、日本共産党と中国共産党の関係が悪化した背景には、以下のような要因があります。



1960年代に入ると、中国共産党とソ連共産党の間でイデオロギー的な対立が深まりました。 日本共産党はソ連寄りの立場を取っていたため、中国共産党との関係が悪化しました。

日本共産党内でも、暴力革命を支持する徳田球一派と、平和的な手段を重視する宮本顕治派に分裂していました。 徳田球一派は中国共産党の支持を受けていましたが、宮本顕治派が主流派となったため、中国共産党との関係がさらに悪化しました。

文化大革命の中で、中国共産党は国内外の「反革命分子」を排除する動きを強めました。 この過程で、日本共産党と関係の深い企業も「反革命」と見なされ、友好商社指定を取り消されました。

1970年代に入ると、中国は米国や日本との関係改善を図り始めました。 特に、1972年の日中国交正常化に向けて、自民党の田中角栄首相が中国との関係を深めたことが大きな転機となりました。

これらの要因が重なり、中国共産党は日本共産党よりも自民党との関係を重視するようになったのです。
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日本共産党が文革を「冒険主義」と批判したからです。


それ以前、日本共産党は、徳田球一派と宮本顕治派に分裂していて、主流派で暴力革命推進の徳田球一派は日本を追放されて中国共産党の庇護下にあったことから、中国共産党は徳田球一派を支持し続けました。しかし、暴力革命を否定する宮本顕治派は日本に残れたことから、日本共産党は宮本顕治派に取られてしまったのです。
このような経緯があったことから、中国共産党と日本共産党は犬猿の仲で、中国共産党の日本での「友党」は社会党だったのです。
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