都道府県穴埋めゲーム

甲斐武田と常陸佐竹も関東の大名ですよね。北条だけが関東を支配してませんから。
山梨も茨木も関八州ですから。
長篠の戦いでは織田徳川方は甲斐(山梨)武田を「関東衆」と呼んでます。佐竹も茨木の大名ですから両家とも関東大名ですよね。この認識でよろしいでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    茨木ではなく茨城県でした。

      補足日時:2024/11/16 18:51

A 回答 (4件)

NO3の誤変換訂正です。


×ですから、織田徳川方は甲斐の武田を関東州と呼んだのです。
○ですから、織田徳川方は甲斐の武田を関東衆と呼んだのです。
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室町時代に幕府は鎌倉府を置いて鎌倉府が管轄する諸国を関東と呼びました。

昔から「坂東」と呼ばれてきた武蔵、相模、上野、下野、上総、下総、安房、常陸の8ヵ国に伊豆と甲斐の2国を加えた合計10ヵ国が関東十ヵ国と呼ばれていたのです。ですから、織田徳川方は甲斐の武田を関東州と呼んだのです。
関東十ヵ国
https://kotobank.jp/word/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%8 …

当時、武田家は西上野へも進出していたので、関東の甲斐と上野の二国に勢力を持っていたことになります。
従って、室町時代の概念としての「関東」大名であったという認識なら、どちらも間違いではありません。
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何々衆は地方の国人や豪族レベルの呼称で大名クラスでは、関東勢


の様に、何々勢と呼称するのではないでしょうか。

武田氏は河内源氏の流れで、甲斐国の守護大名に任命され、その後
戦国大名になりました、甲斐国は関東には入らないでしょう。
武田氏から見れば、織田氏も徳川氏も、氏素性の知れない新参者の
位置付けと思いますよ。

伊勢新九郎は関西からの流れ者(よそ者)で、今川氏の力を借りて
北条氏を興し、関東管領の上杉氏を追い出して関東の覇者と成ってますよ。
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常陸国(茨城)は確かに関八州・坂東八か国の一つですね。

茨木は摂津国。

甲斐国は関八州に入っていないと思います。


三河衆とか近国衆とか、○○衆という括り方は、時代によって、どの大名から見たかによっても違うかと思います。

常陸の佐竹氏は関東衆ではないと主張している人たちがいるのでしょうか。後に出羽の秋田へ転封されましたけど。
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