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ありえない仮定で申し訳ないのですが、もし世の中でいい人ばかり、頭もマナーもすばらしい人があふれかえったら、どうなってしまうのでしょうか。今よりいい世の中になるのでしょうか。

考えられることは、警官の廃業、公共ギャンブルの廃業、宝くじの廃業、低級番組の消滅、社会的マナーの対策不要などいろいろありそうですが、こういうことは本当に世のためにいいことなのでしょうか?

まったく突飛なことですみません。

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A 回答 (14件中1~10件)

#8です。


「軽罪とされている犯罪が重罪に繰り上げられる」の下りが解りづらかったので、補足します。
全てが良い人になるということは、今私達が「良いと思っていること」が「普通」になるということです。
逆に見れば、悪いことは多くなり(今、私達が「普通」と思っていることが「悪いこと」になる)、「悪いこと」の価値基準が上がります。
つまり、殺人などの禁忌的な犯罪がなくなる代わりに、万引き等の軽罪が重罪になる可能性がある、という考え方です。

> もっと根本的にレヴェルの高い(...)人が社会を構成したらということなんです。
そうですね…。
「徳の高い人」も主観的表現なので、以下は、私の思う「徳の高い人」という前提の話ですが…。

人と人との争いがなくなります。犯罪も…なくなるでしょうね。
(先に述べたように悪いことの価値基準は上がりますが、徳の高い人は悪いことをしても寛容な心で許してしまうような気がします。
犯罪制度がなくなるかもしれません。)
調和の取れた世界になり、国同士がお互いに協力し合うことで目覚ましい技術的進歩が期待できます。
(競争がなくなる可能性もありますが、協力による進歩の方が大きいかなと。)

反面、各人の個性は少なくなるかもしれません。
私のイメージでは、徳の高い人というのは
「他人の失敗を寛容に許す心を持っている」
「他人の気持ちを推し量り、常に周りに配慮する事を忘れない」
というものです。
こういった心構えは人の「理性」から来るところが大きいでしょう。
つまり、感情的になり、号泣して周囲の人を困らせたり、怒りを示して他人を傷つける事がなくなります。
これは「負の感情(怒りや悲しみ)がない」のか「負の感情を他人に示さないように努めている」のか、で解釈が違ってきますが、後者であると考えたいですね。
ただ、個性が少なくなるといっても、せっかちな人ですとか、寝起きが悪い人ですとか、そういった個性は残ると思います。
多少の欠点があっても、徳の高い人は咎めないと思いますから。
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この回答へのお礼

そうですね。
悪いことの価値は相対的ですから、価値基準の変動が起こるでしょうね。それは仕方ないことですが、実質的な被害というのが減るでしょうから、心理的な問題ということで、枝葉なことになる気もします。

私も「徳」というイメージはaqucentさんと共通です。そんな人間がお互いを安心して受容できる社会(ユートピア)を希望します。

お礼日時:2006/07/28 00:21

生物の進化を考えたとき、多様性こそが、集団として生き残っていくための重要な要素のように思います。


人間の多様性のない世界が本当により良い世界なのでしょうか?新しい知恵は自分(たち)にないもにより刺激され生まれてくるのではないでしょうか?人間の生きようとする力は徳も教養も超えることがあるのではないでしょうか?そしてそれは「すばらしい」人であるかないかとは違う基準でみなくてはならないのではないでしょうか?
日当たりの良い青々と茂った芝生の公園でくつろぐこともあれば、場末の酒場で酔っ払い絡み絡まれながら自分の業と向き合うときがなければ、生きるということの一面だけしか見ていないような気がしてなりません。
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この回答へのお礼

確かにそういう面もあるかと思います。「多様性」という言葉は生命にとって本当に重要なものだと思っています。自然は多様性で成り立っているのですからね。

ただ、人間には、自然に許されうる多様性を超えてしまっているのではないだろうかと。嫌悪とか恐れ怒り軽蔑そういう感情というのは、自然的な生命活動とはちょっと別次元にいってしまっているのではないだろうかと感じます。

「多様性」はそのままで、人間の品位とか道徳性をもうちょっと高いレヴェルに一様に引き上げたほうがいいのではと考えます。

お礼日時:2006/07/28 19:02

その提示された善人集団のなかに、質問者様は含まれているのでしょうか?そこがあいまいになっていると、正反対の答えが出てくるような気がします。


それから、「いい」というのは誰が判断するのでしょうか?われわれでしょうか、それとも、彼らでしょうか?
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この回答へのお礼

含まれたいと思います。私自身はその域に達している人間ではありません。

いいと判断するのは、われわれでしょうね。かれれはそんなに高慢な考えは持っていないと思います。

お礼日時:2006/07/28 00:16

人間のすばらしさは、完結していないことではないでしょうか?


人は自分と違う人と会うことにより、あるいは、逆境により、自分の殻を打ち破り、より良いではなく、より幅広い人間になっていくような気がします。
その意味で、どんな定義であれ、定義できる善良さのみの価値観や人格を持った人だけからなる世界は、おそらく人間のすばらしさ一面しかみることのできないつまらない世界になると思います。
人間の中のなんだかわからない部分に悩みながらそれと対峙し乗り越えたところに、芸術や喜びや感動といったものがあるように思います。自然に対する畏怖がないところに自然との共存はありえないように、畏怖すべき人間存在がないところ(=つまりすべての人間行動が理性や道徳性の予想の範囲に収まっている状態)に、人間の存在の深みはないように思います。
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この回答へのお礼

もちろんそうなんですけど、得の低いとか邪悪だとかどう見てもわるいものってありますよね。それは、ないほうがいいのではないかと。

そしてお答えいただいたようなそういう葛藤とか乗り越える喜びとかは、高い徳のように思うので、そういうものは常に存在するべきです。感動や畏怖もちろんです。むしろ、本当の感動感激が身近になっていくのではと考えます。

お礼日時:2006/07/28 00:13

「良さ」も日々変化するので、そういう世界ではすべての人が同時に新しい「良さ」に気付き、常に同じ「良さ」を共有している必要がありますね。



その「良さ」ももちろんすぐに古くなってしまうので常に新しい「良さ」を発見し、それに対応できる柔軟な性格でなければなりません。すべての人が、です。

> まったく突飛なことですみません

そう?ホントにそう思いますか?そうでもないと思いますよ。

今よりいい世の中になるのかどうか(今生きている私達には)わかりませんが、今のところそういう方向に向かっていると思いますよ。

望む望まないに関わらず、ね♪
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この回答へのお礼

そうですね。でも、徳とか善人とかはそう時代時代によって変化しないように思われます。もちろん現代的である必要はあるでしょうが。

今のところ向かっていますか?どうも信じられません。世の中も人も無味乾燥化してきているような気がしてしまうのです。

お礼日時:2006/07/28 00:10

今と正反対の社会、すなわちマトモな生きやすい社会になるでしょう。


もしかすると「社会」という概念が希薄になるかもしれませんが。
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この回答へのお礼

はい、大いにあると思います。すくなくとも、人心荒廃みたいななくてもいいことはなくなるでしょう。社会という概念が変わるのではないでしょうか?

お礼日時:2006/07/27 01:12

「いい人」「マナーの良い人」は今現在と比較した状態と仮定して。



「マナーの良い人」「いい人」というのは比較論だと思います。
「誰か」と比較して、良い人かどうかを判断する。
「マナーの良い人」が多いということは、常識とされるマナーの基準が上がるということ。
ということは、今現在、軽罪とされている犯罪が重罪に繰り上げられるのではないでしょうか。

つまるところ、良い悪いには上限がないので、どこかで差別化されることになると思います。
差別化されなければ、誰もが「普通の人」になってしまいますから。

この回答への補足

そうですね。質問文があまりよい表現をしなかったので誤解を生んだかもしれません。

つまりもっと根本的にレヴェルの高い(人と比較するとかいうことを超越しているような、前向きで向上工夫心旺盛etc.徳が高い)人が社会を構成したらということなんです。

補足日時:2006/07/27 00:56
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教養のある人間が土工のしごとをするでしょうか?どうも労働環境が崩れて世の中が崩壊するような気がします。

この回答への補足

そこは「人徳者」の社会なのでうまく調整してやると思います。兵役みたいに一定期間は肉体労働に付く義務を負う社会とかにするとか。

補足日時:2006/07/27 00:52
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当事者間で何事も調整できる、すばらしい大人ばかりになって、民事・刑事の紛争自体がなくなるならば、弁護士も裁判所も警察も、存在する意味はなくなるでしょうね。

しかし、いくら教養や徳のある人同士でも、意見の相違はあるわけで、紛争自体はなくならないのではないでしょうか。何でも当事者でやっていては手数がかかってしょうがないわけですから、代理機関は存続するんじゃないですか。扱う問題の質が高くなるとは思います。そのためにかえって忙しくなるかもしれません。

公共ギャンブルや“低俗”番組もどうでしょう。私は賭博をする人が悪い人であったり頭やマナーの劣った人だったりとは思いませんし、娯楽に何を求めるかは無関係のように思います。何を低俗とするかは変わるかもしれませんし、今あるそういった番組の数が減るかもしれませんが、消滅するとまでは思いません。
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この回答へのお礼

そうですね。ただ、暴力とか人を人とも思わないような犯罪行為は消滅するのではないかと、それだけでもどんなに救われた気になるかわかりません。

まぁギャンブルの類はたとえが悪かったですね。娯楽はさまざまなものが残っていても不思議でない気がします。また、社会の根本の質が向上するなら、いくら低俗な娯楽が存続していても、笑い事で済むでしょう。

お礼日時:2006/07/27 01:11

「いい人」「すばらしい人」の定義を考える必要が生じるように思います。


ご質問自体が、そういう人たちで溢れかえった世の中が進むにつれて「いい人が悪い人に」「素晴らしい人がくだらない人に」なっていく可能性を示唆しているからです。

環境に左右されず当初の信念などを貫けるのが「いい人」だと定義すれば「いい世の中」にならざるを得ません。
しかし、それでは面白くないので、環境に左右されることはあり得るが当面は「良さそうな生き方をしている人」を「いい人」と定義してみます。
彼らが、環境によって左右される可能性を持ちながらなぜ「良さそうな生き方」を維持しているのかといえば、大まかに言って、生き方を大幅に変更しなければならないほどの不満が現在環境から発生していないからということになるでしょう。

環境の最たるものは他者ですから、その他者が皆善人となった暁には大いなる不満が発生し、「いい人」であることをやめてしまう人もいると思います。
アイデンティティが崩れ去るわけです。
どういうタイプの人かというと、相対的な生き方をしている人です。
他者と比較して自己の存立基盤を確保しているような方々ですね。

彼らにとっては弱者の救済すら自己満足の域を超え、自らが存在するための糧となるわけです。
そういった他者の弱さと比較して初めて自分が弱くないことを立証しようとする人でも現実的には「いい人」で通用しているはずですから、「>今よりいい世の中になる」可能性は殆んどないと思われます。

ただ、何億年か経って今の我々のような人類が古代人類と呼ばれるほど進化している場合はまた話が違うかもしれません。
その時には地球は消滅しているかもしれませんが、人類は姿かたちを変えて今の歴史を振り返ることが可能な生命体として生き延びていてくれれば・・・、などという連想を誘われる結果になったご質問でした。

この回答への補足

そうですね。質問文があまりよい表現をしなかったので誤解を生んだかもしれません。

つまりもっと根本的にレヴェルの高い(人と比較するとかいうことを超越しているような、前向きで向上工夫心旺盛etc.徳が高い)人が社会を構成したらということなんです。

補足日時:2006/07/27 00:59
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この回答へのお礼

そういう相対主義で生きる人は、知らず知らずのうちに意識せずにやっている面もあるのでしょう。回りの善人化にかんしゃくを起こすというのはありえそうに思えます。

お礼日時:2006/07/27 01:08

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