牛、豚、鶏、どれか一つ食べられなくなるとしたら?

戦国時代の合戦で 
一番最初に槍同士でぶつかりあう足軽の人たちは
どういう気持ちだったんでしょうか?

時代劇などみてると 少々相手を倒しても次から次へと敵がきて
死ぬのは目にみえてます。。
自分なら合戦前に逃げ出してしまいそうです、時代の考え方の違いなんでしょうか。
殿様のために死ぬのが本望なのかな。
合戦に出る時点で ほとんど死を覚悟だったんでしょうか・・
それでも ある程度強ければ生き残れたのかなあ。

A 回答 (12件中1~10件)

NO.6です。

私の以下の文章・・・
「戦国時代の足軽になった人たちは、いわゆる普通の人ではありません。普通のおとなしい人は鍬を持って田んぼや畑を耕します。
 田んぼや畑をこつこつと耕すのが嫌な人で、出世願望が強くまた腕力のある乱暴者が一旗上げられるかもしれないと思って足軽になったわけです」・・・を否定するようなご回答がありますが、私は次のように考えます。

 大人しい普通の百姓が足軽になって戦闘に参加したのであれば、戦国時代の数千人規模の合戦は皆数万人、万を超える大合戦は十万単位のものになってしまい史実に合わなくなります。
 大人しい普通の百姓が戦いに駆り出されるのは、せいぜい兵站までです。荷駄運びなどです。 
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厳密に言うなら足軽ごときが大将首などとれません。

取ってもいいのは士分、つまり侍です。市松自身も最初から二百石取の士分です。
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戦国時代の戦闘では、あなたが言うように最初に足軽が突進し、相手が押されたときに、騎馬武者が戦闘するというような形ですが、その中でも大将首をとった足軽は、関白秀吉ではありませんが、出世する機会がありました。


秀吉が天下を統一し刀狩りを行う前は、農民と武士とは対した違いはありませんでした。つまり、野心をもった農民などが武将となっていったのです。
家康には上手く使われた福島政則は、秀吉の血筋ですが、桶屋の市松という不良少年です。戦乱で功名を立てることが出世の道だったのでしょう。

なにか、今のヒルズに憧れ群がる野心家とオーバーラップしてしまいます。
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槍組の足軽というのは徹底的に集団で戦います。


訓練では弓や鉄砲は各自が的に射撃して命中率を高める訓練をするのに対して、槍の場合は個人技術の訓練はなくあくまで集団でチームごとに分かれて叩き合って相手のチームを圧倒した方が勝ちという内容でした。この中でチーム意識のようなものも育成される訳です。
実戦でもあくまで密集した集団で激突しますので、チームを捨てて自分だけ逃げ出すような事はあまりないでしょう。味方のチーム自体密集しているので逃げようにも逃げられません。
そしてこれは実際どの程度行われていたのかわかりませんが、太鼓の音に合わせて集団行動を取っていましたので、それで統一行動をする事で恐怖心を減殺できたかもしれません。例えば太鼓の音がトン、トンと1拍子で叩かれているときはその音に合わせて前進。乱打になったら全力で突撃、トントン、トントンと2拍子なら敵の騎馬に備えて槍襖、3拍子なら銃撃や矢に備えて地面に伏せるといった感じです。

とはいっても、実際の戦争では人間怖くない訳はありません。怖がって敗走した側が負けです。戦闘前には「自分は殺す側だ」と思っていなければ戦えません。やる前から「自分は殺される側だ」と思ってたらさっさと逃げ出します。そして戦闘が始まって、優勢になればかさにかかって攻めかかるし、劣勢となれば途端に死の恐怖で逃げ出します。
昔の人はたしかに今よりもはるかに命知らずですが、命が一つしかないのは同じ事。死にたくはないし、死ねば功名を立てて出世する事もできません。逃げるときはさっさと逃げるのです。
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実際の戦闘経緯では多くの場合最初に石つぶての投げ合い、次に弓組による矢合わせ、最後に槍組の突撃というのが通常で、後世鉄砲が採用されても一斉射撃などではなく、狙撃が主でした。



石つぶてや矢せは急所に命中しなければ負傷に留まるので戦線脱落はすくなかったでしょう。

槍組の突撃は指揮官の「かかれ!」という命令の下一斉に進むのですが、やはり恐怖でなかなか進めず、この恐怖を最初に吹っ切る勇者が一番槍と称えられるのです。

後は恐怖で頭の中は真っ白の状態で機械的に前に進むだけというのは近代戦の突撃でも同じです。 この時の心理は生死に関係なく早く終わらせたいというだけだったとは軍人に聞かされました。

槍合わせも多くは殴り合いで突くのはかなりの手練れだったといいます。
当時の戦闘での死者はどちらかといえば敗走時の時に発生する場合が多く、従って正面に向き合っての戦闘では運次第でした。
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農民は戦争に参加しなかったと仰る方がいますが、これは身分の固定化された幕末の話で、戦国時代には当てはまりません。


戦国時代の戦い(大名家の対外戦争)と言うものは、単に大名の勢力争いや外交的思惑のみで行われるものではなく、農閑期の農民に対する雇用創出的な要素もあったのです。特に外征戦争の場合は、自分たちの郷土を破壊されずに敵地での略奪等が可能でしたので、農民は喜んで従軍するケースが多かった位です。武田信玄治下の甲斐では、戦争と言えば対外侵攻のみでしたので、動員が掛かると国中が沸き立った、等とも言われています。このような侵攻の場合、敵国に深く進入するため、他郷人の侵攻軍側では脱走しても故郷まで無事に帰れる可能性が低いですし、せっかくの略奪のチャンスを棒に振るような事も考えないでしょうから、結束して戦ったのではないでしょうか。
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今ほど命を大切にする時代はありませんでした。

とくに今の日本ではそうです。アメリカなんかにおいては、日本よりももっと命は軽いでしょうね。第二次世界大戦以降も、朝鮮、ベトナム、イラクなどで多くの人命を消費しています。
 日本でも戦前までは、こうじゃなかったんです。女の人は5人6人と子供を生み、子供が育つまでに疫病で失い、大人まで育ったとしても結核などの病気や兵隊に取られて戦死などということで、今よりもはるかに命の値段は軽かったですね。
 こんな今の腰抜けの日本人(あなたも私も皆そうです)から見れば、戦争に行く人の気持ちはわからないし、とくに銃ではなく、刀槍での白兵戦なんてものは、とても怖くてやれたもんじゃないと思うのが普通だと思います。
 さて、足軽が槍を持って、真っ先に駆け出すときの心境はどうなのかということですが、戦国時代の足軽になった人たちは、いわゆる普通の人ではありません。普通のおとなしい人は鍬を持って田んぼや畑を耕します。
 田んぼや畑をこつこつと耕すのが嫌な人で、出世願望が強くまた腕力のある乱暴者が一旗上げられるかもしれないと思って足軽になったわけです。冑首の一つも取れば即出世につながります(こういう人は今でもいるんですが、働く場所が今の社会にはありません。アウトローの社会にしか)。
 さて、そういう乱暴者でも戦場に出れば、やっぱり物凄く怖いんだと思います。脱糞したり小便を洩らしたり、まあ体はガチンガチン、ブルブルでしょうね。
 それでも号令がかかれば行かざるを得ません。前で足がすくんでも後ろから押し出されます。そしてワーッと喚声を上げて駆け出し、敵とぶつかったら、めったやたらと槍を突き振り回し、死に物狂いで戦うんだと思います。
 >殿様のために死ぬのが本望なのかな。・・・上位の侍は別にして、戦国時代の足軽には、こんな気持ちはこれぽっちもないと思います。みんな自分のためでしょうね。 
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私もよく、そのようなシュチュエーションで、夢想します。


恐くないはずがないですよね。
すんなり、殺されたら、それは、それで。
と、思いますが、重傷で、長い時間生き長らえてしまったら・・・。
なんて、考えてしまいます。
いろいろなものを背負って、どうしても闘わねばならない状況と、なると、脳内麻薬が、分泌されると思います。
何も恐くない状況であったり、痛さも感じないということもあると思います。
何のために闘うのかと、問われたら、おぼろげにでも「いつか来る平和のために」と、思っていたのではないでしょうか。
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逃げ出したら敵前逃亡で味方から殺されるんですけどね・・・これは古今東西共通です。

他の人が逃げ出さないようにという見せしめの意味もあります。現代の軍隊でも敵前逃亡は即刻処刑が可能ですし。

所属しているほうが勝てばある程度のお金も入りますし、とりあえず畑も荒らされない。自分の家も荒らされませんし。忠誠以前に、実の生活のためでもあるのです。

また、次から次へと・・といいますが、あれは時代劇的な演出ですから。
大体同数の数がぶつかり合っている場合、自身が相手しなければならないのは1~2人。味方の数が優勢ならば1人相手に複数で突き殺すことも可能です。
さらにいってしまうと、当時の合戦は、投石から始まり、矢掛け、そして槍衾のぶつかり合いになります。この槍ですが、普通は時代劇のように乱戦にはならず、一列に並んで「叩き合う」ものなのです。で、叩きあいでどこかが崩れたら、そこから切り込んでいきます。
ただ、戦国時代の戦においては、そもそもの問題として「白兵戦」があったか自体が問題になることがあり、ほとんど弓と鉄砲が勝敗を決めていたのが実際のところのようです。
なお、死傷者の数はそんなに膨れ上がりません。けが人のほうがずっと多くなります。
鉄砲が登場してからは又様相が変わるのですが・・・たとえば、信玄が大敗したとされる「戸石城攻防戦」ですが、死者は大体700~1000とされています。正確な武田軍の規模は不明なのですが、だいたい5000~8000と考えられますから、死亡率は1割~2割程度です。「大敗」と揶揄される合戦の敗北側でもこんな程度なんです。死ぬのは。
ちなみに村上方の死者は200~250程度。兵数はほぼ同数から半分程度と予想できますから、こちらの死者は1割以下ですね。

なお、当たり前ですが腕は生き残るための重要な要素です。そもそも、白兵ではこれが大きい。歩兵にとって、この身体能力というのは、戦術以前の問題です。ただ、それでも生き残れるかどうかは・・・時の運です。とある漫画ですが、こんなくだりがありますね。戦闘機の話ですが、歩兵だって同じです
「死は結局運命である。戦闘機載りというのは、時に数千発の機銃弾の真ん中を飛んでも一発もかすらないときがある。しかし、当たるときは一発の流れ弾でもあたる。そう言いながら腕を磨き生き残るための必至の努力をする。大いなる矛盾だ。その矛盾を生きるのがパイロットである。しかし、生き残るために細心の注意を払い、完璧に近づこうとしなければ、自分の運命にも出会えないまま、あっという間に死んでしまう」
結局、戦場と言うのはこういうところです。また、死と隣り合わせにある戦場で、死の覚悟をしないと言うのは、そもそも心構えからして間違っています。平和ボケ国家にいると、実感しにくい話ですけどね。
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>戦国時代



当時の戦争は武士の争い(各武士は地域の支配者)だから
農民には関係ないです。

農民殺せば年貢(税金)取り立てられなくなりますね(^^)
信長がいちはやく「鉄砲」の有用性に気付き、天下統一しました。

武士にすれば自分の出世もかかるので必死です。主君には家臣を養う義務あります。残された家族の面倒も見ます。
それができなければ家臣団に引退や廃失いいわたされそうです。

幕末の戊辰戦争(幕府軍と倒幕派の戦争)でも徳川家派遣の城主幕閣(重役)や家臣と領民は「違う方向」向いていたわけで
農民は敵方に情報教えたほどです。板垣退助はこれを知って
領主は領民に信頼されていない(幕府体制はだめ)と悟ったといいます。
会津藩では藩士は全滅に近い状帯になりますが、家康の孫から200年中央直結体制で「幕府だめ」「「京都警備(監視役)引き受けるな」という家臣の説得を支配層は受け入れなかった結果です。地位あるものの薩長への恨みはあったと思うが明治期以降の県民は中央政府との関係は悪くないです。
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