多賀城跡に観光に行きました。
驚いたことに、広大な敷地は起伏がそこそこある丘?山?にあったようです。
今まで、平城京跡や大宰府跡に行きましたが、これらは平地に造られていました。
多賀城は、なぜあのような起伏があるところに造ったのでしょうか?

多賀城を訪れてちょっとした疑問を感じたのですが、分かりやすく説明してくださる方が居たら嬉しいです。

A 回答 (2件)

平城京や平安京(京都)、大宰府などは大和朝廷の力が最高潮に達した平和な時代で「都市」を作ることを念頭においた造りになっているので、平地にあります。

平城京と平安京は当時の唐の首都である長安を模倣したのですが、長安と違って城壁を作りませんでした。なぜなら、すでに日本は朝廷によって統一国家になっていて九州から関東まででは異民族の侵入がありえなかったからです。

多賀城は平城京と同じ時期の城ですが、ここから先はまだアイヌなどの異民族がいて「ヤマト」を守る前線基地でありました。そのため、防衛と攻撃を同時に考えた、出城でもあったのです。

この地図(グーグルマップの地形図)を見てください。
https://goo.gl/maps/3jQZEYFPvLz

地形を見てもらうとわかるのですが、鉄道線と道路が通っているところは、北や西に向かって山間の通りやすい地形になっており、多賀城跡から南は仙台平野がひろがっています。
つまり、奈良時代、稲作を主とする倭人が仙台平野を開拓するにあたって、東夷とされた狩猟民族であるアイヌ人などが侵入してこないように、平地を望む山側に城を作ったのです。

軍隊と言うのは集団ですから、分散して険しい山を登ったり下ったりすることはしません。可能な限り隊列を組んで行動できる場所を移動するのです。ですから、多賀城周辺でいえば、七北田川などの河川敷を移動してきたでしょう。高台にある多賀城からみれば西の岩切中学校ぐらいまで来た軍隊は容易に見つけることができたわけです。
いまでこそ、護岸されていますが、当時の川の敷地は広く、また海も現在より近かったので、東北本線の線路あたりから南西は湿地帯で高い木などがなく、高台にある多賀城からは良く見えたでしょう。

また、利府町の方角からやってきたとしても、今度は多賀城の真横を通過することになります。海を北から来るにしても城のすぐ下の砂押川に船を用意しておけば、すぐに攻撃に移れます。

その上で、軍勢を多く城に置いた時でも、すぐ北にある加瀬沼から水が豊富に来ますので、水源の確保も容易だったといえるでしょう。

つまり、古代の軍隊が城を築いて守るにはうってつけの高台だった、ということです。たぶん、どんな軍人でも「守る」ということを考えたら、この高台に城を作ったと思います。

以下蛇足、地形と城について
長篠城 戦国時代、長篠の戦いと呼ばれる、この城を舞台にした戦いがありました。織田・徳川の軍勢と武田軍との戦いです。織田・徳川は尾張から甲斐に向けて軍勢を送るのですが、甲斐に向かっては木曽の深い山があるので、ルートは事実上2本しかありませんでした。その1本を守るのが長篠城です。

現在でいえば、JRの飯田線が走っている場所で、鉄道は急な勾配を登れないので、鉄道線が走っているということは、昔なら軍隊が隊列を組んで移動できたルートになります。そして長篠城は尾張ー甲斐のルート上「絶対に通る」場所で、しかも川が合流するT字の場所にあったのです。
地図 https://goo.gl/maps/YfcXjjyUA8C2

地図を見てもらえばわかりますが、尾張からくる軍勢は絶対に川を渡らないと、長篠城にたどり着けません。しかも川は谷底なので、崖上にある城から矢を射かければ容易に軍勢を阻むことができたわけです。
ですから、この場所に城を作れば「甲斐へのルートを守ることができた」のです。

上田城 昨年の大河でも上田城は良く出てきましたが、この城も良くできています。ルート的には関東・東海・関西と真田家が戦ったほぼすべて(特に徳川)が攻めてくるルートが合流する場所に城があり、この上田城を超えないと真田家の領地には入れなかったわけです。

上田城は盆地の平地部分にあるのですが、なぜここかというと、千曲川だけでなく、安曇野方面からくる道(現在の143号など)が千曲川流域に出てくる谷を見渡せるからです。またドラマにもでてきますが、神川に堰をあらかじめ作っておくことで、大軍勢がやってこれる、千曲川の下流域を分断することも可能になります。

上田城を攻められたら、神川の堰を切って、城攻めの前線の兵が退却できないようにしつつ、後ろに控えている援軍や補給部隊を神川の上流にある真田本城からの部隊で攻める、という構図が作れます。

つまり、上田城の場所も地形的に「あそこじゃないとダメ」だったのです。

ということで、ブラタモリじゃないですが「地形」を見ればどのように考えて城を置いたのか、が良く分かる、ということです。
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この回答へのお礼

長文で色々な例えを交え、具体的に説明して戴きありがとうございます。良く分かりました。

お礼日時:2017/06/13 23:26

平城京や大宰府は軍事より政治に重きを置いているのでは?


軍事要素が全くないというわけではないですが、大和政権の内部なので。

多賀城は国府の機能もありましたが、前線の軍事拠点です。
何回か戦場になっているようなところだったので、防衛要素を優先させたのかもしれません。
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この回答へのお礼

面白い意見ですね。なるほど!と納得しました。ありがとうございます。

お礼日時:2017/06/13 14:01

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耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
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いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
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あと一般にいわれる石高は基本的に「表高」つまり「検地の結果として幕府に届け出た値」であり, 年貢の算出基準である「内高」とは異なります. さらに, 藩の収入にはほかのものもあるので, 石高は必ずしも大名の力を反映した値とはなりません. 例えば, 御三家筆頭である名古屋藩は表高こそ 62万石弱ですが木曽ヒノキの権利を持っていたため実際の収入はもっと大きな値になっています.

なお, 石高は家格に反映されるため, 家の格を上げるためわざと本来の石高よりも大きな値を申告した例もあります (もちろん負担も大きくなるため住人が割を食う形になります).

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三国時代で、中華の戦い方が、転機を迎えた様に感じますよ。

軍,武将の強さに関して言いますと、主に3つくらの要素かと。
① 武将の能力 
  1. 一騎打ち的な剛勇
2. 用兵や統率力
② 軍略,策略
③ 兵士の練度
特に①-2.と②,③を重視したのが、「孫氏の兵法」などに精通している曹操と言えそうです。

「官渡の戦い」が転機の前と後の戦いで、袁紹軍が前時代的であるのに対し、兵力,国力に劣る曹操軍が新たな戦を試み勝利したと言えそうです。

袁紹軍は緒戦から、二枚看板の顔良,文醜をぶつけてきましたが、それまでの中華の戦いでは極めて正攻法。
楽毅,伍子胥,白起に廉頗,王翦,項羽に韓信など、中国史に残る名立たる剛将,智将や王までもが、①~③までを一手に担って先頭に立ち、軍を率いていたのだから。
二枚看板が先頭でも、何の不思議もありません。
当時、中華最強であった袁紹軍の二枚看板が、凡庸な武将であろうはずも無く、練度なども最高水準だったでしょうし、軍師の陣容も曹操軍に勝るとも劣りません。

一方の曹操陣営は、軍師を前面に立てて、顔良は策略+関羽の武勇、文醜は策略で、あっさり討ち取っています。
呉や劉備陣営も、この後に軍師や智将の重用に転じ、赤壁の戦いで曹操に勝利しています。

実際、曹操陣営って、張遼を除くと、①-1.的な武将って、余り居ないんですよね・・。
許褚とか典偉なども居るんですが、これらは曹操の身近に置いてます。
軍の指揮官は、機動力がズバ抜けてる夏侯淵とか、事態の収拾能力が高い徐晃,張郃、技術者肌の李典など、文武両道の武将と・・軍師です。

呉は、孫策,孫権と若手がリーダーでしたから、割と柔軟に曹操型にシフトして、周瑜,魯粛,呂蒙,陸遜と、智将タイプを軍のトップに据えています。

蜀がやや遅れ気味で、劉備が死去するまでは、①-1.タイプが目立ちます。
従い、蜀のビッグネームが、一騎打ちで勝つことはあっても、敗れた事例はほとんどありません。
また諸葛孔明や法正のもと、馬超や晩年の張飛までも、かなり優れた用兵や統率もしているものの・・。

蜀から離れ、猛将 関羽が率いた荊州のみが、最後の前時代的。
一時はかなり魏を脅かしましたが、最終的に呉の策略に敗れてます。

三国時代の関羽を最後に、武将の勇猛と言う戦いは、終ったと言えるんじゃないでしょうか?

三国時代で、中華の戦い方が、転機を迎えた様に感じますよ。

軍,武将の強さに関して言いますと、主に3つくらの要素かと。
① 武将の能力 
  1. 一騎打ち的な剛勇
2. 用兵や統率力
② 軍略,策略
③ 兵士の練度
特に①-2.と②,③を重視したのが、「孫氏の兵法」などに精通している曹操と言えそうです。

「官渡の戦い」が転機の前と後の戦いで、袁紹軍が前時代的であるのに対し、兵力,国力に劣る曹操軍が新たな戦を試み勝利したと言えそうです。

袁紹軍は緒戦から、二枚看板の顔良,文醜をぶつけてきま...続きを読む

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戦前の日本軍は柳条湖事件をきっかけに満州地方を短期間で占領してしまいます(満州事変)。
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ナチスドイツが征服したフランスよりも広大な地域を、わずか半年程度で勢力下においてしまうというのは恐るべきものだと思うのですが。
また、満州事変においては南京大虐殺のような事件(この事件が本当だったかどうかは置いておいて)がほとんど起きなかったのも不思議です。レジスタンスのような運動もあまり起きなかったのではないでしょうか。
あれだけ反日的な中国政府でさえ、満州事変の際の日本軍の暴虐についてはほとんど言ってこないのですから。

Aベストアンサー

もともと満州は清国を建国した女真族の聖地で、清国全盛時代には漢族が入り込むことは禁じられていました。 当時の満州は今の日本と同じように安全で、家に鍵をかけて外出する必要がなかったと言われています。 ところが清国が衰退し始めると満州に漢族たちが次々と入植を始めました。  漢族が入植した土地は、強盗団が跋扈して、安心して暮らせず、満州の治安も酷い状態になりました。 そのため、日本が女真族をバックアップして女真族の国である満州国を建国したのです。その結果、満州国は以前のように安全な国になりました。 満州国は日本軍が中国人(漢族)を追い払って女真族の皇帝を担いで作った傀儡国では決してありません。 日本が満州を中国から奪い取って、日本の傀儡である満州国を作ったと言うのは、戦勝国のでっち上げでしかありません。 この事実を知れば、質問者さんの疑問も自ずと氷解するでしょう。

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