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日朝修好条規で
日本政府は朝鮮をどう捉えていたか。

A 回答 (9件)

当時の状況を無視して学校の教師が期待する回答で、


現在の感覚で正解を求められたとしたら、
 朝鮮を恫喝して開国を強要し、大陸進出の足掛かりを得ることができた。
ということになります。

しかし、当時の資料を読めばわかることですが、当時の解釈としては
 明治維新で政権交代したので隣国だからこれからもよろしく。
 (元から交易があったから開国ではないけど)
 そのためにこれからのことをしっかり決めておきましょう。
 でも、朝鮮は貿易相手国としてはイマイチかな。
という捉え方です。



さて、このような意見を言うといつ仕入れたかわからないコピペとか
偉い先生と違うから間違いとか言われる方もおられるようなので、
当時の資料をだれでも簡単に確認できる範囲で提示していきます。
閲覧は「アジア歴史資料センター」でレファレンスコードを入力すれば
見られるものを重点に挙げていきます。


「韓国官憲トノ応接及修好條規締結ニ関スル談判筆記」
(コード:B03030141400 P31、19行目より)

 元来両国の間対等の権を相有し其(その)盟を永遠に
 伝えんと欲せば則(すなわ)ち互に富国強兵を以(もっ)て
 国本を固くせざるべからず。
 而(しか)して富国強兵の道はその本人民繁殖し
 有無相通ずるに在るべし。有無相通じ人民の繁殖するに
 非(あら)ざれば持って富国強兵の由なし。
 富国強兵にあらざればすなわち永遠の親盟を期し難し。


2月27日、宮本小一外務大丞、野村靖外務権大丞が、
申大臣の居館を訪ねて話し合いが持たれた時の会話です。
日本と朝鮮は対等の権利があり、末永く付き合いたい。
そのためには朝鮮も富国強兵の努力を惜しまないでほしい。
という意味と解釈します。
(ちなみに、都合のいいところだけ抜きだしたわけではないので、
 興味があれば全文を読んでみてください)
なぜこのようなことをあえて述べたかというと、
朝鮮の国力が低く、官吏の腐敗が横行していたため。


「修好條規実践ニ関シ正副両大臣建言ノ件」
(コード:B03030143100 P2~P3)

 要するに上下貧困、到處(いたるところ)寂寞たるあるのみ。
 彼と強て貿易せんと欲するも貨幣ある無く、
 産物、一の貴重すべきなければ、
 至急繁盛の市を開く時にあらず

(同 P7 29行目(後ろから5行目)))
 一 通商章程等議立の事
 従前収税し来りたる輸出物は税額些少嗣後廃止せられ
 当分の内、朝鮮への輸出物尽は惣て無税に定められ
 貿易推進の一端なるべく


修好条約締結後に帰国した黒田大臣らが今後の朝鮮との交際について出した
建白書というものです。
当時の認識としては、朝鮮は貿易相手国としての体を成しておらず、
貨幣はあってもないに等しく、見るべき特産品もないので
産業育成のためには関税を無くしてはどうかという提案もなされたほどです。


「修好條規談判中朝鮮政府希望ノ件々申出ノ義ニ付宮本、野村両大丞ヨリ具申ノ件」
(コード:B03030142700 P2 5行目)

 一 日本人、常平銭の使用を許さざる事
 一 米穀を貿易するを禁する事
 一 貿易は総て物を以て物に易る事
   並びに彼我商民売買に手付金又は銭物賃貸及び利息をとることを禁ずる事
 一 開港地へ洋人入港禁止の件
 一 鴉片烟(アヘン)輸入並びに洋教(キリスト教)宣布禁止の件


これは条約締結前に宮本小一(外務大丞)対してなされた要求です。
以前、奈良女子大の中塚明教授の講演に行ったとき、
 朝鮮には貨幣があり、貨幣経済が無かったというのは間違い
という趣旨のお話がありました。
実際には貨幣はあっても無いに等しく、修好条約の事前交渉で朝鮮側から
常平銭(朝鮮の貨幣)は使わずに物々交換にすることを要求されていました。
ちなみに、これらの要求については、自由貿易の観点から看過しえないもので
日本と関係ない洋人の入港禁止とかキリスト教も含めて却下されています。


・領事裁判権(治外法権)について

日朝修好条規を語るとき、必ずと言っていいほど
 日本は日米修好通商条約で不利になったことから
 武力を背景に朝鮮に不利な条約を押し付けた
と言われます。
このことで、日本をよく思わない研究家は必ず無視する点があります。
一つが、この対応についてはそれまでの宗氏による朝鮮との対応においても
ほぼ同じ施策が取られていたこと。つまり、旧習に倣ったということです。

それと、日米修好通商条約に含まれていない点が規定されていること。

第十款
 日本國人民、朝鮮國指定ノ各口ニ在留中、若シ罪科ヲ犯シ朝鮮國人民ニ
 交渉スル事件ハ總テ日本國官員ノ審斷ニ歸スヘシ。
 若シ朝鮮國人民罪科ヲ犯シ日本國人民ニ交渉スル事件ハ均シク
 朝鮮國官員ノ査辨ニ歸スヘシ。尤雙方トモ各其國律ニ據リ裁判シ、
 毫モ回護袒庇スルコトナク務メテ公平充當ノ裁判ヲ示スヘシ

この規定をよく読むと、治外法権の及ぶのは「指定ノ各口ニ在留中」
つまり地域が限定されていること。
そして、「雙方トモ各其國律ニ據リ裁判シ、毫モ回護袒庇スルコトナク
務メテ公平充當ノ裁判ヲ示スヘシ」と規定されていること。
つまり、治外法権を理由に罪を回避するようなことはせず、
公平に裁判する事と決めらえています。



・官吏の腐敗ついて。

「6.朝鮮理事誌 (正本)/3 自明治八年二月至同年十一月四日」
(コード:B03030132700 P43)

長いので引用を省略しますが、咸鏡道永興にいる3日の間に稍湾中を測量、
その付近が北面の良港として、さらに川を3里遡上しています。
その後、民家の火災を消火した後、慶尚道迎日湾に入港した時に当地の次官に
 「好酒二個請給之」(良い酒を2樽請求する)
と言われたのでその上司の県令に抗議したところ、
次官は県令の怒りを買い、棒打刑でさんざんに打ち据えられました。

雲揚は対馬のような公海だけでなく、江華島以外にも朝鮮の内海である
釜山近郊も測量などを行っていました。
特に問題視されるどころか、地方の官吏が付け届けを要求されました。
ちなみに、この6月20日に雲揚が出港する頃には森山茂理事官が
外交交渉に来ていて、雲揚は6月1日に演習で50発発砲しましたが、
朝鮮政府の正式回答は
「今まで通りのつきあいは認めるが、日本の要求する洋服は認めない」
というもの。
軍艦による威嚇は全く効果はありませんでした。
(江戸時代の頃から「筒払い」といって演習することがありました)



江華島事件は、現在の認識では国際法違反かもしれませんが、
当時の認識としては単に外国船(英国)と間違って発砲したもの。
事件の事後処理での交渉でも測量を責める話は出てこないどころか
「日本の船だと知っていたらこんな無礼はしませんでした」
と朝鮮側が全面的に謝った話です。
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江華島事件の研究は、2002年に大きな進展がありました。


従来は、事件の当事者・雲揚(うんよう)艦長井上良馨の1875年10月8日付け報告書が、主要な史料でした。しかし、同氏の同年9月29日付け報告書が見つかったのです。鈴木淳(現在は東大教授、専門は日本近代史)が防衛庁(当時)所蔵の資料の中から発見しました。
井上良馨の2つの報告書には、かなりの相違があり、比較した結果9月29日付けの方が事実に近いだろうこと、10月8日付けは改竄(かいざん)報告書みたいなものだったことが分かってきました。10月8日付けの、飲み水の補給を目的としてボートで接近したという話の信用性は崩れて、9月29日付けの「測量及諸事検捜且つ当国官吏へ面会万事尋問をなさんと」ボートに乗って江華島に近づいたという記録が正しいと、今日では考えられています。つまり日本の軍艦による挑発行為でした。下記の論文をご覧ください。

鈴木淳「「雲揚」艦長井上良馨の明治八年九月二九日付け江華島事件報告書」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/111 …

さて、ネトウヨ歴史学は今日の学問水準に達しておらず、いつ仕入れたかも分からないようなコピペの使い回しでしかありません。
江華島は首都ソウルに近く漢江の河口に接し、その周りの海は朝鮮(当時)の内海です。「対馬海域」とは異なります。対馬海域なら公海で、測量も合法でしょうが、江華島付近すなわち他国の内海で測量・検捜・尋問などするのは、主権の侵害です。前回回答で引用したように、国立公文書館のサイトにも「雲揚号の江華島接近は万国公法(国際法)に違反していた」と書かれています。
また、砲艦外交とは1875年・翌76年の両方を指します。76年、日本の使節は儀仗兵約200名、ガトリング砲4門を装備した砲兵45名とともに江華島に上陸しました。砲兵45名が「全権大使としては普通の陣容」とおっしゃるのは牽強付会でしょう。
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No5です。


前回の回答の補足をさせていただきます。


江華島事件とは、1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の江華島付近で起きた日本と朝鮮の武力衝突事件ですが、その原因は朝鮮側の不手際によるものです。

当日雲揚号が江華島付近を公開していた理由は↓です。

A:対馬海域の測量
B:朝鮮の東南西海岸~清国牛荘の航路調査と研究
C:帰路、琉球諸島を測量

雲揚号は、まず対馬の測量を行い、次に朝鮮東南西海岸から清国牛荘に向かいました。
しかし途中で水が不足した為に、補給のため江華島に行き、事件がおこりました。

日本と朝鮮は、事件前にお互いに船への水や燃料を補給するという約束を交わしていました。
(その際、日本は日の丸の国旗を渡し、日本の船はコレを掲げていると説明しています)


江華島事件の経緯は以下の通りです。

1:江華島に向けて給水要請の為のボートを派遣した。
2:朝鮮の砲台からボートに向けて激しい砲撃があった。
3:雲揚号が応戦し朝鮮の台場を破壊。
4:その後事情聴取の為のボートを出したが、朝鮮が再び発砲。
5:雲揚号が再度応戦。
6:日本は上陸の後、朝鮮陣地を制圧。

結果は、朝鮮側の死者35名、捕虜16名、(日本は負傷:2名のみ)
朝鮮側には担当官がいたらしいが逃走した模様。



事件の原因は、朝鮮政府には日本国旗は既に届出られていたが、その後の各地への連絡が遅れており、その為に江華島の部隊が不審船による侵犯と誤認したことでした。

事件後、日朝間で大臣が会談を行っており、朝鮮側は以下の発言をしています。

イ:事件前に朝鮮政府が日本国旗を受け取っていたのは確かである。
ロ:しかし、地方には見本・通達が届いていなかった。
ハ:日本の軍艦と分かっていたら,そんな無礼な事はしなかっただろう。

この事件に関する日本の行動に関しては、以下の事を未だに言う方がいるようです。

a:領海侵犯
b:砲艦外交
c:日本による挑発
d:日本の侵略のはじまり

aですが朝鮮の砲撃理由を、雲揚号が無断で江華島水域の測量をしていたからだという意見があります。
しかし、上記の会談時、日本の黒田大臣を乗せた船は釜山→江華島間を、測量しながら航海した為に、20日も掛かっており、雲揚号が江華島の測量を行っていたとしたら、不自然です。
他にも、雲揚号は朝鮮沿岸を測量していますが、朝鮮は容認しており、問題は起こっていません。

bですが、当時でも270トン程度の雲揚号で「砲艦外交」は不可能だと思います。

cですが、この事件で日本が挑発行為を働いたという記録はありません。
それどころか、雲揚号は少人数のボートを先行させています。

dですが、この事件が元で結ばれた「日朝修好条規」を不平等条約として、日本の侵略の意志の現れと主張する方がいるようです。
しかし、日朝修好条規は、江華島事件の謝罪の意味もありますので、日本に有利なのは当たり前です。


翌76年に再び江華島へ6隻(内3隻は「運送船」)で向かったのは、和交を結ぶ為です。
これを「威圧」と仰る意見もあるようですが、全権大使としては普通の陣容です。
それに、そのような事件の後で丸腰で行かせるべきでしょうか。

一行はガトリング砲も持ち込みましたが、それは陸戦の装備であり一行を護衛する為のものでした。
そもそも、航空機も存在せず、海戦は艦砲で打ちあっていた時代に、ガトリング砲が役に立つのでしょうか。(射程とか威力とか的に)

条約を結んだ後でさえ、公使館を焼き討ちするようなゲスい国でしたので暴徒の心配もあったと思います。
これで平等条約とか・・・(清国との関係もありますし)

「日朝修好条規で 日本政府は朝鮮をどう捉え」の回答画像7
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> 修好条規で


> 政府は朝鮮をどう捉えていたか。

2点ほど述べたいと思います。

(1) ざっくりと(おおまかに)見ると、日本が幕末に欧米との間で結ばされた不平等条約を、今度は日本が朝鮮に押し付けたのが、ご質問の日朝修好条規(1876年)です。日本も不平等条約改正のために苦しんだのに、立場が変われば朝鮮を苦しめて平気という、何ともゲスい手口でした。
その前年(1875年)に江華島事件が起きています。日本の軍艦雲揚(うんよう)号が、国際法に反して朝鮮の江華島の砲台に近づき、上陸しようとして、朝鮮側から砲撃を受け応戦したものです。それを日本側は「飲み水を求めて接岸しようとしたところ突然砲撃されたので、自衛のために反撃した」と逆ギレして、朝鮮側の責任を問いました。
翌76年、再び江華島へ、日本の軍艦6艦が最新鋭のガトリング砲4門まで積んで現れ、ペリー提督の黒船襲来のまねをして、朝鮮に開国を迫りました。このような砲艦外交のもとに、不平等条約を強要したのです。

日朝修好条規 - 国立公文書館アジア歴史資料センター アジア歴史ラーニング
https://www.jacar.go.jp/learning/term.html?uid=Y …
〔引用開始〕
雲揚号の江華島接近は万国公法(国際法)に違反していたが、日本政府は朝鮮による攻撃事件の責任を問うとして朝鮮政府に開国を迫った。
〔引用終り〕

(2) 次に、ちょっと詳しく見ていくと、単に不平等なだけでなく平等な条文もありました。日朝修好条規第1条は、「朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ」(朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する)となっています。
また、さかのぼって1871年に、日本は清国と日清修好条規を結んでいます。これは(変則的ですが)対等条約でした。これらを組み合わせますと、日本・清国・朝鮮は(建前上ですが)対等の関係と解釈されます。清国と対等な日本が、朝鮮とも平等だと認めたわけですから。
しかし、伝統的に朝鮮は中国の冊封体制に入って朝貢していましたよね(華夷秩序)。それが、第1条により三国は対等という建前になって、朝鮮に対する清国の宗主権が否定され、実質日本の支配が強まることになったのです。日本はなかなか巧妙だったとも言えましょう。

明治初期の近隣外交 - 国立公文書館 近代国家日本の登場
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/mod …
〔引用開始〕
翌明治9年、日朝修好条規が締結され、朝鮮は開国しました。この条約では、朝鮮を独立国として承認し、相互平等を約しました。これは清国と対等の条約を結んだ日本と朝鮮が平等という点で、朝鮮に対する清国の宗主権を排する意味がありました。
〔引用終り〕
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No4です。


今回は不平等条約とやら征韓論と江華島事件についてお話しします。


このようなテーマでは、朝鮮を防波堤にしようとしていたという意見もよく出るようです。
しかし、その方は当時の朝鮮のままで防波堤になるとでも思っていたのでしょうか。
そして、国と国との関係が個人レベルの馴れ合いや仲良しごっこだとでも思っているのでしょうか。
その後に防波堤になってもらう為に、日本が朝鮮にどれだけの事をしたと思っているのでしょうか。
防波堤に成れなかった場合の朝鮮の未来をどのように考えているのでしょうか。



「日朝修好条規」については、日米の件と同様に、日本が不平等条約を朝鮮に押し付けたと騙る意見がよく出てきますね。

日米の条約が不平等だったのは、当時の憲法のない日本を、アメリカがまともな法治国家と認めなかった為です。(日本が必死で近代化を進めたのはその為です)
そして、当時の朝鮮の無秩序は日本どころではなく、政府や役人自体が腐敗しており、まともな裁判や行政などは望めない状態でした。



征韓論について
征韓論が起こった経緯は、後述する朝鮮の非礼によるものであり、日本の領土的野心によるものではありません。
それに、征韓論は西郷氏の失脚で消滅しており、朝鮮政策に影響を与えてはいません。
条約締結の直接の原因は後述の「江華島事件」です。

当時の朝鮮は華夷秩序によりアジアの盟主として清国を崇拝しており、欧米に倣って文明開化をしようとしていた日本を見下していました。
そのような思想により、国交を求めて訪朝した日本の使者に対して、朝鮮政府や国民は非常に無礼な対応をしました。

当時の朝鮮内の日本公館の門には、↓の文書を貼られもしました。

「無法の国、恥知らず、(洋服を着るなど)衣服容貌とも日本人にあらず、(明治維新など)天下の笑うところなるを平然としている恥知らずである」


いわゆる征韓論は、↑のような日本の使節が侮辱された事に怒った民衆から興ったものです。
これを日本の侵略の意図の現れ と騙る主張もあるようですが、国交が正常化すると征韓論は消滅し全く語られなくなっています。
以上から、征韓論は無礼な朝鮮への懲罰を求めるものに過ぎず、侵略目的と騙るのは歪曲だと思います。

それに、そもそも西郷自身は武力の行使には反対していました。
(一部で歪曲して騙る方がいるようですが)西郷の主張は↓のようなものです。

「自分が朝鮮に行って直談判する、万が一殺されるような事があったら、そのときは軍を出すのもやむを得ないかもしれない」

しかし、西郷のこの要望は受け入れられず、これが原因で彼は下野しました。(これらについては質問の主旨から外れる上に複雑なので、お話ししません)



江華島事件について。
これについても、日本の侵略と騙る方がいるようですが、事実は以下のようなものです。

江華島事件
当時の日朝は、相手国の船舶に水や燃料を提供する約束をしていました。
しかし、日本の軍艦(雲揚号)が水を求めて朝鮮の港に入ろうとした時、朝鮮が砲撃を仕掛けました。
これに対して雲揚号の艦長は反撃し、陸戦隊を砲台に送り込んで武器を没収しました。

この事件について朝鮮は「原因は現地の者が約束を知らなかった為であり、それは朝鮮政府のミスである」と認めています。

これにより朝鮮は日本の要望を拒否できなくなり、自分の実力を知った事もあって日朝修好条規(江華島条約)を結びました。




無知や嘘つきの尻拭いほど虚しいものはありませんね。
「日朝修好条規で 日本政府は朝鮮をどう捉え」の回答画像5
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回答


1:日本が朝鮮を独立国(≠清の属国)であることを認めた条約。
(第一条に「朝鮮は独立の国であり、日本と平等な権利を有する」と記されている)
そして、朝鮮が始めて自分で結んだ国際条約でもあります。
日本は朝鮮を独立国と認める事で、国際的な地位を引き上げました。
実際、この後、イギリス、ドイツも朝鮮と条約を結んでいます。
(何故かこの事実を無視して、様々な主観や願望を騙る方が多いようです)


2:日本は朝鮮や清国と国交を結び、共同して欧米やロシアに対抗しようとしていました。

しかし、その後「彼ら」は内紛で自滅しました。
清国は革命で軍閥政権が割拠する内乱状態に陥り、朝鮮は内紛を治められずにロシアに介入され、破綻し日本に併合を求めてきました。



>日本政府は朝鮮をどう捉えていたか。

丸投げ臭いが半端ないですが、放置すると(質問への回答もしないで)願望や妄想を垂れ流す輩に騙されかねないので回答しましたが、
あなたは現実でもこのような態度なのでしょうか。
公の文章でも、こんな文体を使っているのでしょうか。

違うというなら、あなたはネットの他人様を何だと思っているのでしょうか。
「日朝修好条規で 日本政府は朝鮮をどう捉え」の回答画像4
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その前に国内で激論を戦わせた「征韓論」とワンセットにして考える必要があります。

その後に反征韓論派の使った「主権線」と「利益線」という言葉が、当時の朝鮮問題のすべてでしょう。日本の国益を守るには「主権線」を守るだけでなく「利益線」を守る必要があると考え、その代表として朝鮮半島をとらえていたと思います。つまり「日本の国益」のために朝鮮半島をどのように利用するかということで、それは現在のトランプ政権の外交政策に近いと思います。
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欧米から様々な不平等条約を締結させられた経験を活かし


「今度は我々がやってやれぇ」
のノリで大陸の一部を占領しようとしたのでしょう
植民地政策ですね
でも欧米は占領支配主義だったのに対し、日本は併合主義を採った
朝鮮を、日本にしてしまったのです
それが間違いの元
最終的には選挙権まで与えてしまった
朝鮮王族は貴族の仲間入り
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対欧米列強の防波堤と捉えてた

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