カンパ〜イ!←最初の1杯目、なに頼む?

人を見下すのは最低ですが、しかしこれは仕方ないことなのでしょうか?
人間平等なんてあり得ないと分かってても、そう接しなければならないという倫理観は働く。
それでも自分より容姿も知性も経済力も血筋も劣る相手に対して無意識に格下判定をしている自分が嫌いです。
性格が良いとか悪いとかの問題じゃなくて、とにかくヒエラルキーを意識してしまう、これって仕方ないことですか?
治らないんです。

質問者からの補足コメント

  • 自分が底辺スペックだったらこんなに人を見下すことなんてなかった、色々な人々を尊重できてこんな嫌な奴にはならなかったんだと思う、、、

      補足日時:2024/09/28 12:42

A 回答 (29件中1~10件)

自分の未熟な点や認知の歪みを治したいなら、その点について真剣に考えたり学んだり実践したり周りに意見を求めたり、場合によってはカウンセリングやセラピーや訓練を受ける等して、進んで治そうとしなきゃ治らないことが多いですが、あなたは今まで具体的にはどういう努力をしてきたんでしょうか。



別に治したくない、治す気ないなら、誰が何を言おうと無駄ですから、あなたは一種の劣等感や罪悪感、孤独感を感じながら、そのまま生きるほかないと思います。

誰でも周りの環境や文化(世間の価値観)に影響受けることは受けますので、あまりにも周りの人を見下したり階層を意識しすぎる場合、今の人的環境が良くない可能性はあると思います。その場合は付き合う人間を変える、人的環境を変えるのが手っ取り早いです。

大胆な変化が難しくても、今はネットもあるので、色々な文化圏の人と繋がったり、進んで多様な人の様子を垣間見たりすれば、短絡的で一面的すぎる偏見などの補正は比較的短期間でも、行いやすいです。

しかし、家庭環境や幼少期からの親の支配、何らかのトラウマ体験、などが根深く影響している場合は、長期的な心のケアが必要かと思います。精神科やカウンセリングルームに通って専門家と面談する他には、書籍や動画による学習も効果的です。

人によっては哲学書や宗教的な書籍、文学作品や芸術作品に触れることが、反省や自己改革に効果的な場合もあります。武芸や運動なども同じです。こういったことは個人差が大きいので、精神科に通うことが万人に向いているわけでもありません。自分の趣味や性格やライフスタイルに馴染みやすい方法を探すと良いかと思います。

他者と自分を比較し、勝負を一方的に挑んだり、自分が相手を強く見下したりすることは、コンプレックスの裏返しであることも多いです。自分のコンプレックスときちんと向き合うことも大事です。

問題意識があるからこそ、こういう投稿をしているんでしょうし、年齢も若いみたいなので、まだまだこの先、さまざまな出会いや体験を通して柔軟に変化していけるでしょう。ただ、人はネガティブ思考や受け身でいるときには、あまり変われないので、ポジティブ思考を意識し、他責思考になっていないかな、と時々かんがえ、反省の心や主体性を意識しながら毎日を生活するようにしてください。
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それは、実は自分に自信が無い、劣等感がある人の特徴です。


常に、自分が勝っているかが気になりすぎる。
たとえ、自分が底辺スペックだったとしても、変わらないですよ、人と自分の優劣が気になるのは。
治るかは疑問ですが、容姿・学歴・経済力ばかりが好かれるわけでも羨ましがられる訳でも無いことを自覚することを お勧めします。
モデルより芸人が好きな人も居る。
都会より田舎が良い人も居る。
東大出より、調理師学校出が欲しい職場も有る。
そんなとこです。
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今の自分のすべてを肯定したり、否定したりするのは乱暴ですよ。

いまだに未完成なのであり、そのうえで「生きている間中成長するのだ」と自分に言い聞かせることです。

以下は長いので興味があればお読みください。

●今の自分と理想の自分を分けて考える

自分の今いる場所(今の自分)がどこでにあって「自分が目指す場所がどこにあるのか」を明確にすることです。

それが終わったら、そこに向かって、(ゆっくりで良いので)近づいていくしかないです。自然に変わる場合もありますが、意識しないでいると「通り過ぎる」こともあるんです。なので「あれが理想像」と言うもの探しておいて「自分に教えておく」のがコツに思えます。

●お手本は部分的に頂くもの

私は会社に入って多くの上司に接し、それぞれの良い部分を頂きました。すべてを兼ね備えている人は滅多にいません(その人も成長の途上にあるのですから)。なので相手を0と1で決めつけず、自分として欲しいと思う部分を有難くいただくのです。

●誰かを侮る自分を嫌いましょう

誰かを侮ると取りこぼしもしますし、相手の人が演技をしているだけの時もあります。なので「全ての人を尊敬し、応援できる自分に自分を変えていく」ほうが安全であると思います。不用意に心が傷つくシーンも減るでしょう。また、そういう自分を好きになれると思います。一度、そのような人物に自分を変えることができたのなら、そのあとは生きている間中「幸福を感じられる」と思います。

●自分の仕分けはどこかでやりましょう

しかしメリット(取りこぼしがなくなる。傷つくことが減る。自分を好きになれる。幸福を感じられる)は大きくとも「都合よく自分の心が変わる」わけではありません。かなり時間がかかると思います。

そのため0と1で自分を決めつけず、ここは良い、これは嫌だけど仕方なく必要、これは不要だし辞めたい、など自分を分解して仕分けするべきです。これは誰もが人生のどこかでやらないと行けないと思えます。

●今すぐどうするべきか?

今は「生き残ることで精いっぱい」でしょう。なので落ち着くべきです。そして、そういう時に雑な考え方を身に着けてしまうと(後で)「自分を変えるのが億劫になる」ものです。

ですので、

「今は変われなくても。ここの部分が変わると嬉しいな」

としておき、そう思った自分を褒めるんです。そのあたりが実際的な落としどころであり、誰もがそうやって来たのだと思いましょう。

●他の人に期待しすぎないこと

自分だけではなく他の方も成長したいと思っているんです。「自然に成長出来たら楽だなあ」と思うものでしょう? また、失敗をするたびに落ち込むはずですよね。つまり余裕がないのが真実であるはずです。

そうであるのに「ネットで同意を求める」「自分の意見を出して賛同されるか確認する」「何が正しいのか聞く」「許せない物事を吐露する」という誘惑は消えませんよね。

しかし実際は「誰もが他人を助ける余裕なんてない」というのが真実でしょう。無責任な呼応に対して、迂闊に勇気を得てしまったら危ないですよ。

「お忙しい中失礼します。・・・忙しそうですね」

この様なスタンスで全ての人を見ることです。

●良い悪いではなく、成長するかしないか

自分がこれ以上成長しないのであれば「良い悪いを決めるのもアリ」だと思います。しかし、その瞬間に「これ以上成長しない自分」を受け入れたことになりますよね。もし自分が成長を続けるとして、一年後の自分が自分を見て「こりゃだめだ。恥ずかしい」と思うのならば「今の自分は未来の自分より劣っているはず」です。

なので、

「未来の自分に恥をかかせないようにする」

というのが今やるべきことなんです。

●自分の成長を信じて抵抗する

自然に他の人を尊敬できなくとも「それを態度で表す」事をしたら「(自然にできるようになった)未来の自分」は過去を振り返って恥ずかしいと思うはずです。

なので本音は隠して、無理をしてでも、あるべき理想を演じるべきです。その時は苦しくても「未来の自分は今の自分に感謝するはず」と強く思うべきです。それは自分の成長を信じている人の「できる限りの抵抗」なのです。

●「綺麗ごと」との違いを意識する

「綺麗ごと」というのはある種の逃げ口上です。本当に「何とかしたい」と思っている人ではないのです。なので「綺麗ごと」の反対は「汚いこと」「冷たい論理」ではありません。「何とかしたいが俺にはできない」という切ない気持ちを表すことになります。逃げる自分を許すとしても「それを美化する」行為は許されないと思います。

「今は逃げるしかない。許してほしい」

という発言と態度くらいは表に出せる自分になりましょう。

●自分の成長を促すうえで注意すべきこと

誰かを悪者にしないことです。「やりようはあったのか?」と振り返る習慣をつけることです。すると「次はこうしよう」「あの人はこうすべきだったのかもしれない」と次に繋がる考えが浮かぶものです。しかし「あいつのせいだ」と決めつける誘惑に負けますと「頭が働かない」ものです。これを何度も続けていると「地頭が劣化する」でしょう。

他の人や他の国、自分ではない人に対して一緒に腹を立てたり、泣いたりしてはいけません。自分がカタルシスに浸っている間(考えを止めて決めつける快感に酔っている状態)に「頭を回転させている人」が他にいるのです。その怖さを考えましょう。脳の訓練において周回遅れになりますよね。

年を取って「回転しない自分の頭脳」に気が付いたときは取り返しがつきません。

●自分の心を確認する方法

漠然と良い悪いを感じているだけでは「何から始めてよいのか?」見当もつきません。そういう人のために道徳が(大昔に)研究されています。儒教でいう「徳」というのは「人の上に立つ人が持つべき資質」だそうです。今風に言うと「魅力」を作り出すパラメータでしょうか。この要素は五つあると考えましょう。道徳では五常と言います。

●五常の内訳

主要な5つのパラメータは以下の通りです。

仁:思いやり。相手の立場から気持ちを想像する力。共感力。
義:秩序を重んじること。平安を得るために守るべきものを見抜く力。
礼:縁と出会いに感謝をすること。すべての人と物が自分と出会うため
  に、苦労をしてここまで辿りついたのだと思いをはせる力。
智:知識や論理を日常で使う力。人の思いや願いの外にある理を理解し、
  関係する人々が前よりマシになるようにと解決する力。
信:期待をせずにお付き合いすること。理由なく手伝う感覚。共にある
  事の不思議に感謝をし、今この時の一体感を楽しむ力。

今の自分の考えや行動は上の五つのどれに当たるかを考えましょう。どれにも当てはまらないのだとしたら、そのまま放置してはいけません。できることならば、どれかを選び「それに沿って考えや発言を添削する」べきです。その習慣を作れば自然と良いほうに変われます。

●実践してみる

あなたの質問を五常で評価しましょう。

仁において:自分が見下す人はどの様に生きてきたのか。今どの様に世界が見えているのかを想像しきっていません。

義において:質問そのものを公にすれば、それが人々の心をざわつかせるでしょう。不穏な雰囲気を作る行為であり秩序を乱します。

礼において:相手の人が本当に自分より格下であったのなら、自分に出会うまでに相当な苦労をしたはずです。それを思えば「よくぞ来てくれた」と労うべきでしょう。

智において:格下と思える人であっても貴方の理想に近づくことが出来るはずです。どこを正せばよいのか考えてアドバイスをする気持ちがなければいけません。

信において:相手を尊敬していようと、侮っていようと、一緒に何かするのは楽しいのかもしれません。同じ時を過ごして思い出を作ろうとするべきです。そこに本音は関係ないのです。

●自分の感覚に責任を持つ

格下と感じないように頑張るのではなく、そのように認知したのであるなら、道徳に沿って五常を実践するべきです。あなたの感じ方が正しかろうと、間違っていようと関係ありません。そのように自分が感じてしまったのならば、それが否定されるまでは、感じた事に対してすべきことが(先ほど五常で示したように)あるのです。それをしていないので自分のは心が苦しいのだと考えましょう。

●総括

ステレオタイプの理想で自分の心に蓋をしてはいけません。問題なのはその後なのです。自分が「こう感じてしまった」というのならば、その後に取るべき行動の規範が決まっていることを知らなかっただけでしょう。それらをさぼらないことです。それを実践しているときに「勘違いであった」「それほど心配する必要もなかった」「意外と頼もしいところもあった」と相手を見直すかもしれません。そういう良い流れに向かうためには「五常の実践」は必要なのです。

深く悩まずに自分の成長を願いましょう。今は休養するべきです。

以上、ご参考になれば。
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仕方ないにしろそうでないにしろそういう人とは一切関係はもちませんのであしからず

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あの他の人への回答読んで思ったのですがまだ若いから、そんなことで悩まずどんどん上に行くべきです。


まだ子供だし、本当に上の方の人達はやっぱり心に余裕あるし、慈悲の心がある人とかいる気するし、
そんなことで悩まないで上にいけば心の余裕産まれると思いますよ。
今はまだ見下してもいいと思うしそうゆう年頃です。
それが向上心ともつながることもあります。
そのうち、心に余裕がでれば別に見下すとかなくなりいろんな人が頑張って生きているくらいに思えますよ。
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この社会では、仕方ないのかなと思えば少し気持ち楽になると思います。

自分だって見下されたくないと思い努力している点などにいですか?
今はある言葉かわかりませんが私の時は勝ち組か負け組かなんてよく言っていました。
まあもし自分が底辺じゃないなら、納めている税金がこの世多くの人の助けになっているのだからそれだけで十分だと思います。
まあ、見下す心が慈悲に変わるのがもしかしたら理想なのかもしれませんがなかなかそれは理想論なのでたまには見下して自分がそうゆう人間にならないように努力すればいいのかなと思います。
別に最低とか思いませんよ。
口に出さなければいいだけです。
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違いますよ!



それを乗り越えるには、「首を垂れる」ことを学べばいいですよ。

歳を取ってから学ぶか今まなぶか! 今でしょう! 

がんばってみて
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そのまま見下し続けてよ。



結果的にどうなったのか、後で書籍化して教えて。
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ちょっと不思議に感じるのは、「なんでそこまで他人のことが気になるの?」ってことです



主語がデカくてバカっぽい発言だけど、この国の人って、本当に自分より他人のことが大好きで、他人のことが気になってて、常に他人がどうなのかをチェックしてますよね
他人に気を取られている暇があったら、もっと自分のことをしっかり見つめた方がいいのに、と思います
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>人間平等なんてあり得ないと分かってても


それは平等、とは言いません。
実際に小学校あたりであったらしいですが、何が平等なのかを大いに勘違いして、「お手てつないでゴールイン、ハイみんな一等賞」なんて。
現実にやった学校?先生?があったらしい。
平等はあくまでも法の前(下)では・・・・なんです。
個体差はあって当たり前なんです、法の前(下)では個体差は無関係というのが平等なんです。
>容姿も知性も経済力も血筋も劣る相手に対して無意識に格下判定をしている
これが一時期ある団体が頻繁に使っていた「予断と偏見」そのものなんです、差別意識につながります。
>自分が嫌いです
そんな自分が・・・・その通りです。
「平等」、ちなみに辞書の説明→偏りや差別がなく、すべてのものが等しく一様。
「個体差による区別がなく」とまでの表現ではありません、「差別がなく」
これが余談と偏見にによる・・・ものなんです。
辞書の説明にあるように、表面的な言葉の意味に振り回されているだけなんです。
>すべてのものが等しく一様。
この部分しか理解できない人が、「お手てつないでゴールイン・・・」なんてことをやってしまいます。
個体差は当然あるべし、それを認め、さらに生活習慣その他、異種のものを受け入れる寛容さが必要になります。
意地の悪い見方をすれば・・・・仮の話
>容姿も知性も経済力も血筋も劣る相手に対して無意識に格下判定
ある意味では、生活の知恵カモしれません、相手を格下判定ではなく、自身のほうが劣る?、と感じた時はどうしているのか、それを追求してみれば面白い結果が得られるかも。
長いものにはまかれろ、ではないが、張り合っても勝てないと思えば?。
ひたすら媚へつらうのも生活の知恵、世渡りが上手の手段でもあります。
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