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戦国時代に秀吉などの武将が城を囲んで兵糧攻めをやっていますが、この闘いは長丁場になってしまうので効率的ではないと思います。
城に火をつけるなどをした方が手っ取り早いと思うのですがどうでしょうか?
ぜひ教え下さいませ。

A 回答 (10件)

戦いにおいて味方の損害を小さく抑えるという兵糧攻めの戦法は、理に適った戦い方です。


敵を弱らせて止めを刺す戦法は、古代中国の戦記からも見て取れます。
攻城戦で力攻めでは、味方の損害が多くなり、場合によっては、包囲網の弱体を招き、奇襲攻撃によって破綻する場合も多々ありました。
敵を包囲して籠城戦をする場合、敵味方の戦力比は、敵に対して3倍以上多くなくてはならないのが基本です。
馬鹿の一つ覚えの力攻めは、昔から名将の器で無い猪武者がおこなう戦法と考えても間違いの無いところです。
兵糧攻めには、長い時間がかかり戦費も多くかかるのも事実です。
籠城戦をおこなおうとしている相手は、遊軍を擁している場合があって、相手兵力に対して有利な地形(城)で向かい打つという戦法も当時としては、常識でした。
また、戦を長い目で見るなら、戦いはこの場限りでは無いので、味方兵力の温存には、兵糧攻めは不可欠な戦法といえましょう。
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この回答へのお礼

>戦を長い目で見るなら、戦いはこの場限りでは無いので、味方兵力の温存には、兵糧攻めは不可欠な戦法といえましょう。

なるほど。秀吉はこの時、中国地方を転戦していましたからね。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/05/13 03:17

それは質問者さんが「戦争の目的」を間違っておられるからそう思われるのです。



古来より戦争という物は「土地の取り合い」であって、敵を殺し尽くすのが目的ではなかったのです。そして城という物は戦略拠点、交通の要衝に築かれ、とても「重要な建築物」だったのです。言い換えれば「城自体が戦利品」とも言えるわけです。それを手っ取り早く勝てるからといって城を焼き落としてしまっては、本末転倒もいい所です。たとえ勝利を収めたとしても、件の土地支配の為に「新たに築城する必要」が出来る上、膨大な人的損失が発生します。

戦によって勝利するのは上策とは言えず、戦わずして勝利するのが「上の上」。紀元前からの鉄則です。

寄せ手には守備側の数倍に達する兵力が必要である事、人的損失、将の好み、そういう理由もありますが「城自体が戦利品」というのが最大の理由でしょう。もちろん、いったん落とした城であるならば、大坂城の様に解体して新規に築かれる事も多かったはずですが。
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この回答へのお礼

>城という物は戦略拠点、交通の要衝に築かれ、とても「重要な建築物」だったのです。言い換えれば「城自体が戦利品」とも言えるわけです。

確かに仰るとおりだと思います。
戦の後のことも計画しないといけませんからね。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/05/13 02:44

戦国時代の城は、たいていは高い所に築かれています。

例外は、忍城や備中高松城のような「水城」で、沼地の中の少しだけ高い所に築かれています。

戦国時代には、日本には「大砲」の名に値する兵器が基本的にありません。ですので、戊辰戦争の際に官軍が会津城を攻めた時のように「会津城より比高の高い山を占領し、そこから城の中に大砲を撃ち込む。所構わず炸裂する砲弾で会津軍は死傷者続出」などということはできません。

例えば、会津城が築かれた戦国末期にこの城を攻めるとします。戊辰戦争の時に官軍が会津城砲撃用の大砲を据えた山を占拠した所で、そこから城の中に届く射程距離のある武器はありません。この山は、会津城を見下ろせるかもしれませんが、攻撃の役には立たないわけです。

戦国時代、城に火をつけようとすれば「火矢」によるしかありませんが、城を築く時は当然それを考慮し、火矢を射込まれないように築城します。矢は下から上に放っても殆ど威力がありません。低い場所から高い場所にある城に火矢を放っても全く無駄でした。先述した「水城」の場合は、広大な沼地の中に城がありますので、やはり火矢は届きません。そのように地形を考えています。

さて、戦国時代の中期になると火縄銃が普及しました。この兵器は、「重くて」「雨に弱くて」「装填に時間がかかり」「単価が高く」野戦にはあまり役立つものではないのですが、城を守る際には非常に役立ちました。

高い所に築いた城の壁に「狭間」を設け、低い所から登って来る敵兵を上から下へ狙い撃ちすれば、弓矢より遥かに効率的に敵兵を射殺できます。何しろ、飛翔体(弾丸、矢)の速度と弾道の直進性が全く違いますので命中率が段違いです。よって、鉄砲が普及すると、城攻めは鉄砲を持つ防御側が圧倒的有利、大砲を持たない攻撃側が圧倒的不利となりました。攻撃側は、城壁に隠れている城兵を殺す効果的な手段を持たないからです。弓矢はもちろん、火縄銃をいくら城壁に向けて撃っても効果はたかがしれています。
(ただし、長篠の合戦の前哨戦として行われた「武田軍の長篠城攻囲」では、武田軍が大量の鉄砲で長篠城の城壁を繰り返し射撃し、城壁が崩壊した部分がかなりあったようです。長篠の合戦で武田軍が壊滅し、徳川家康が味方の守りきった長篠城を視察した際にそのように手紙に書いています。)

よって、鉄砲が普及してからは、大規模な城を攻略するには、兵糧攻めのような持久戦によるしかなくなりました。なお、武田信玄が城攻めで何度も成功している「水の手を絶つ」(鉱山技師を動員して城の外で坑道を堀り、城の中にある井戸の水脈を探り当ててこれを経ち、城の中の井戸を枯れさせる)方法も、兵糧攻め以上に有効でした。食料がいくらあっても、水がなければ終わりですから。

遠江二俣城 (武田軍が包囲し、城兵が天竜川から取水する設備を破壊して水の手を絶ち、開城)
高天神城(武田氏が徳川氏から奪い取り、徳川領に突出した拠点として長期間防衛。数年をかけた兵糧攻めで落城)
浅井氏の小谷城 (長期間の包囲の後、援軍の可能性が完全になくなった段階で力攻めで落城)
石山本願寺 (毛利水軍などによる水上補給を絶つことができず、兵糧攻めが成立せず。交渉によって本願寺側が退去)
鳥取城 (兵糧攻め)
備中高松城 (水攻め)
小田原城 (まともな戦闘はせず、北条側が戦意を失うまで包囲を続けて交渉で開城)
大坂城 (冬の陣では、東軍は大坂城を攻略する手段を持たず。この時期にようやく日本に登場した大砲を遠くから撃ち込んで守備側を威嚇し、交渉で休戦。休戦中に謀略で大坂城の防御設備を壊して丸裸にし、城郭とは言えない丸裸の状態にしてから攻略)

大坂冬の陣や島原の乱では、大砲による砲撃(大坂の陣)、もしくはオランダの軍鑑による海上からの砲撃(原城)が行われています。しかし、強力な炸裂弾はまだ実用化されていませんので、「防衛側への威嚇、士気低下」程度の効果しか期待できませんでした。城の防御設備を破壊し、城兵を大規模に殺傷するほどの効果のある砲撃ができるようになったのは、日本では明治維新の時期です。
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この回答へのお礼

最高におもしろいです!ありがとうございます。


>石山本願寺 (毛利水軍などによる水上補給を絶つことができず、兵糧攻めが成立せず。交渉によって本願寺側が退去)

交渉で終わったんですね。信長が手を焼いたこの戦をさらに研究しようと思います。

お礼日時:2007/05/13 02:48

まさに「持久戦」ではないでしょうか。


確かに相手をぶっ殺したいだけなら、当時の技術でも
反動を利用した火炎弾的なものがあったと思いますが、

例えばぶっ殺すんじゃなくて生け捕りたいとか、
兵士が死ぬのを極力おさえたい場合などには
兵糧攻めがいいのではないでしょうか。

ただ兵糧攻めしたからといって投降したような武将は聞いたことが
ありませんが。
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この回答へのお礼

そうですね。これぞ持久戦ですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/05/13 02:50

では、どうやって火攻めするのでしょうか?


天守閣や城の建物が瓦なのは、火に対する備えであり、壁は土壁です。
更に、防御側も、消火で対処できます。
兵糧攻めの利点は、時間も、手間も、資金・物資も必要だけれど、利点として、兵を損なうことが少ないということが有ります。
城ですから出撃拠点は限定されます。
そこに陣を構えれば、交戦状態になったとしても、損害は極限できます。
ですが、一番の利点は、敵に対し、「力の差を見せつける」ことが出来ることです。
当時の兵は、普段は農民です。
攻める方も守る方も、農作業が待っています。
これを怠ると収穫が減り、収入に直結します。
これは篭城側が一段と不利となります。
つまり、少ない損害で、大きな効果が見込め、篭城側は出撃することも出来ず、ただ兵糧が減っていくだけで、ストレスが溜まります。
また、兵糧攻めは、水源を断つことや生鮮食料品の不足から病気の発生もあります。
その上結果、援軍が無い場合の篭城は、敗北しかありません。
このように敗北した場合、再度逆らう気力も涌かないでしょう。
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この回答へのお礼

>兵糧攻めの利点は、時間も、手間も、資金・物資も必要だけれど、利点として、兵を損なうことが少ないということが有ります。

なるほど、理解出来ました。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/05/13 02:55

三木の干殺し、鳥取の飢え殺しですね。


太閤さんは、血を見るのが、基本的に嫌いなんですよ。
だから、野戦は、得意ではありません。
ある程度の長丁場を見越しての作戦です。
ただ、あそこまで、悲惨な状況になるまで、飢えに耐えるとは、思っていなかったようです。
彼は、この一戦に勝つという以上のビジョンがあったので、マイナス要素のある火をつけるということをしなかったのだと思います。
兵糧戦は、圧倒的な武力がないとできないことです。
力を示威するにも、適した方法だと、思います。
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この回答へのお礼

>ただ、あそこまで、悲惨な状況になるまで、飢えに耐えるとは、思っていなかったようです。

そうです。テレビドラマではお城の中がとても悲惨な状況でしたので、秀吉はここまで相手を追い詰める必要はあったのかな?
という思いがあったのですが、実際は相手が頑張り過ぎたのですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/05/13 03:05

城に火をかけるのは、攻城戦において、最も下策です。


城を焼き落とすと、城下町まで焼けてしまい、経済的価値が全くなくなってしまいます。
また城を焼き落としても、そこに野戦軍を駐留させておかない限り、簡単に敵にそこを奪われてしまいます。
戦国時代の軍は、農民兵がほとんどですから、長期間駐留できませんし、そこに軍を貼り付けておく事は、他方面での兵力不足となり、他国からの攻撃の的になります。
そのため、城に少数の兵を置き、拠点を守る必要があるため、相手の城を利用する必要から、焼き落とす事は、下策とされました。

戦国時代の城攻めの場合、兵糧攻めが起こった事は、極めて少なく、ほとんどが内応により落城しています。
意図して兵糧攻めを行ったのは、秀吉の三木城や鳥取城、島原の乱の原城くらいではないでしょうか。
あとは、決着がつかず、不本意ながら兵糧攻めになってしまったように見受けられます。
また、日本の場合、中世の城は、短期間の籠城しか想定しておらず、兵糧を十分持っていませんから、簡単に兵糧がつきてしまいます。
(西洋では、何年も籠城したケースもありますが。)
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この回答へのお礼

兵糧攻めという戦法は主流ではなかったのですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/05/13 03:09

出来るだけ兵を消費させたくない戦法です。


時間をかけてでも兵を消費させたくない、
要は真っ向勝負では被害が大きくなる強い相手のときに使ったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
連日、戦が続く秀吉軍としてはこの戦法が理にかなっていますね。

お礼日時:2007/05/13 03:23

武器として考えた場合


火矢が届かないから。
というのが簡単な理由になります。
また、城側も、防火体制は引いておりますので、簡単には城は燃えません。
直接火器が届くようになったのは、大坂の陣が最初だったように記憶しております。
同時代の欧州では、火器の射程距離が伸びたことによって築城方法が変わります。日本での典型例は函館の五稜郭となります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%9C%E5%A0%A1% …
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この回答へのお礼

なるほど。城は住まいではなく、要塞ですからね。
簡単には燃えなさそうですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/05/13 03:26

その対策のため平地では堀・石垣、山地では崖などの天然の障害物を考慮していますので、矢は届かないはずです。


城周辺には、陣地(丸とか)を設置してますしね。
城に近づくと犠牲も多くなる仕掛けになっています。

外塀までは届いても、壁は土ですから、門などが焼ける程度かな。

兵糧よりも水の確保が大切なようです。
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この回答へのお礼

>城に近づくと犠牲も多くなる仕掛けになっています。

なるほど。これでしたら、容易に近づけませんね。

兵糧攻めは食料の輸送を断てばいいことですからそのほうがリスクが少なさそうですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/05/13 03:36

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