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「くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 
針やわらかに 春雨の降る」

此の短歌についての質問を他の方の質問ページで拝見していた時に、拙い疑問が思い浮かびました。

酷く拙い私見によりますと、
「形容する修飾節」が掛かっていく被修飾語をその「修飾節」に隣接させる遣り方を採用した方が比較的に読者やら聴衆やらに内容が伝わりやすいのではないか、
と思われたのですが、上記の短歌では、文字数の都合で、
『「名詞+助詞」の修飾節』が並列で繋がっている様ですね。
(「くれなゐの」「二尺伸びたる」「薔薇の」)

そこで、次の様な疑問が浮かびましたから、
御忙しい中への御邪魔で畏れ入りますが、伺わせて下さいませ。

『複数の「名詞+助詞」が同じ名詞を修飾する場合には、
「連用形」の様な直列繋ぎの方式を適用させられないだろう、
と私は勝手に考えていますが、上記の短歌の様な修飾方法は、
一般的な方式なのでしょうか?』

此の疑問が浮かびました際に拝見していたページは、
既に締め括りの後の状態になっていましたので、
直接的に其処へ参加させて頂き損ねたものですから、
何卒宜しく御願い申し上げます。

A 回答 (10件)

質問者様の仰る意味を取り違えているかもしれませんので、


ご参考まで。

一般的に詩文(特に短詩形)では文法が問題になるときは、
内容の意味が分かりにくい、あるいはいくつかの意味に取れる場合に、
文法から分析していくことがありますが、
大抵はそれをせずともかなりいい加減に内容の意味が解釈されることが殆どです。
歴史として言葉や詩が先にあり、文法はずっと後からそれを追いかけて来たという事情もあります。
特に詩文という文芸では、文法を厳密に守っているとどうしても面白みのないものになってしまうという事情もあるのだろうと思います。
そこで

>くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やわらかに 春雨の降る」

ですが、この短詩の意味が取りにくい、といわれるのですね。
それで


>形容する修飾節」が掛かっていく被修飾語をその「修飾節」に隣接させる遣り方を採用した方が比較的に読者やら聴衆やらに内容が伝わりやすいのではないか、

仰るような理論に沿って、この短詩を作り直していただければ、
主張されることが証明できるのではと思うのですが、

私には くれないの と 2尺伸びたる を直接 バラの芽の につなげる方法が見出せずに居ります。
出来ましたらこの点補足をお願いいたします。

この回答への補足

有り難う御座います。

短歌の字数制限の都合で入れ替えられないのは、
最初から分かっています。

唯単純に、こういう文法の表現技法が破格なのか否かを伺う目的だけを考えまして、此の質問を提出させて頂いておりますから、
御容赦を御願い申し上げます。

補足日時:2011/05/08 00:11
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この回答へのお礼

すいません。言葉が不足し過ぎていましたので、
追加で此処に入力をさせて頂きますから、
何卒御容赦を御願い申し上げます。

確かに、書き言葉の場合には、
読み直しで内容の誤解の可能性を減らせるかも知れませんが、
会話の場合には、隣り合わせの語句の繋がりに配慮しませんと、

お礼日時:2011/05/08 00:34

この、明治33年4月21日作の連作「庭前即景」十首の内のこの一首の構成については、このように考えてはいかがでしょう。



まず「二尺伸びたる」が掛かる体言は春の季語「薔薇の芽」でしょう。
「薔薇の芽(茨(いばら)の芽) 観賞用に最も多く植えられているセイヨウバラの芽やわか葉は紅味を帯びていて、捨てがたい風情がある」「野生種の野茨…ときに2.5メートルに達する落葉灌木で、その芽吹きは見事である」(角川書店「合本 俳句歳時記」)
そしてこの「薔薇の芽」は、上方にまっすぐ伸びた徒長枝なのかも知れません。少なくとも添付画像のようなものなのか、と。

「薔薇の芽」は一連語であること、二尺ほど伸びていること(おそらく上方へと真っ直ぐ)、それには未だ柔らかい針が見られること、したがってこの三点の繋がりはこの歌どおりに素直に流れていると受け止められるでしょう。
「薔薇の芽」の紅みは、縁側で座りながら視ている角度からは、二尺伸びたこの薔薇の芽をやや仰角の視線で捉えているのではないでしょうか。だから裏葉の紅みも、針と雨のしずくとの「やはらかに」絡む有り様が目に入って来るのでしょう。そしてこれこそがこの歌の眼目となるでしょう。

「くれなゐの」は、直接的には「薔薇の芽」を修飾してはいましょうが、それはまた「くれないの雨」として、いわば枕詞のように季語「春雨」と繋がっているでしょう。
「こうう【紅雨】春、花にそそぐ雨。くれないの雨」(小学館「国語大辞典」)
ついでですが、枕詞「くれなゐの」は「振り」に掛かる意味では「降る」は縁語関係と見てもよいのではないかとも思います。

以上から、「二尺伸びたる」「薔薇の芽の」」→「くれなゐの」「薔薇の芽の」→「薔薇の芽の」「針やはらかに」→「針やはらかに」「春雨の降る」→「くれなゐの」「春雨の降る」…このような自然な流れにおいて「庭前即景」が味わえるではありませんか。

ですので、設問文にあります「文字数の都合」とか「「連用形」の様な直列繋ぎの方式を適用」は及ばぬことではないでしょうか。
「文法的には破格なのでしょうか?」の回答画像2

この回答への補足

有り難う御座います。

私には「文芸」を理解する力量が乏しいのかも知れませんね。

遅れを取り戻せる様に、学習を遣り直してみよう、
と思いました。

補足日時:2011/05/08 00:18
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この回答へのお礼

「くれないの雨」という表現に適している時期は春だけなのでしょうか?

ついでの質問で畏れ入りますが、
もし宜しければ御説明を賜れますと幸いです。

お礼日時:2011/05/09 04:30

*「薔薇の芽」は名詞節と考えた方が良いのではと思います。

「くれなゐの」の「の」は同格を表す格助詞ですから、「くれなゐ」と「二尺伸びたる」が同格で「薔薇の芽」を修飾している(かかっている)と考えた方が良いのではと思います。何故かというと、比較をしてみるとわかりやすいと思います。

くれなゐの芽の 二尺伸びたる芽の 薔薇の芽の(この場合の「くれなゐの」の「の」は連体格を表す)

くれなゐの薔薇の芽の 二尺伸びたる 薔薇の芽の

どちらの方が意味がわかりやすいですか。下の文がわかりやすいものと思います。また、この文は複文ですが、複文の「被修飾語をその「修飾節」に隣接させる遣り方」とは、実は子規の短歌のような方法です。また、一般的な方法です。例をさがしましたので参考にしてください。

http://www006.upp.so-net.ne.jp/inamoto/writing/k …

さて、「の」の多用はリズム感を演出していると思います。このリズム感が「くれなゐ」「伸び」「芽」「春(雨)」の言葉が醸し出す成長・若々しさ・生命力と同調する。それを春雨が包み込む。「針やわらかに」の「やわらかに」は「針」のやわらかさだけでなく春雨にもかかり、生命をいつくしむ春雨のやわらかさ、やさしさをも表しているのではないでしょうか。死病の中で苦しむ病床の子規にとって、病床から見えるバラや春雨はどのように映っていたのか。それがこの短歌であったということを考えてみることも必要であると思います。
最後に、文学作品、特に韻文は文法で読むものでなく、感性で味わうものではないでしょうか。私も文法的に解釈することが多く、自分でも文法至上であったと思うことも多いので、自戒の意味も込めて。

勝手なことを書いて失礼しました。

この回答への補足

私の拙い質問文から本意を汲んで下さいまして、
非常に嬉しく思います。

韻文を文法至上の発想で味わってはいけない、
という事情への反省を忘れない様に心掛けます。

又今後にも、もし支障が御座いませんでしたら、
御指導を宜しく御願い申し上げます。

補足日時:2011/05/08 00:41
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この回答へのお礼

『「時制の一致」の様な階層的枠組み』が準備されていなかった日本語にも、前近代から別の枠組み(三十一文字)が拵えられていたのではないか、という私見が急に思い浮かびましたが、偏見だ、と思われますでしょうか?

もし支障が御座いませんでしたら、御教授を賜れますと、幸いです。

お礼日時:2011/05/09 13:41

直接の回答ではありませんが、関連していると思えますので、ご迷惑を顧みず、お邪魔します。



詩人は文法を創出する者、文法学者は既存の文例から既にある言葉の規則を探り出すしそれに適切な構造を付与する者ですね。まあ、詩人が政治家で、文法学者が官僚みたいなものですね。あるいは、詩人が物理学者で、文法学者が数学者って言った所でしょうか。優れた数学者は物理学者に向いていず、優れた官僚は政治家には向いていない。同じように、優れた文法学者は詩人には向いていないのではないでしょうか。

質問者さんに反対にお聞きしたくなってしまったのすが、優れた文法学者で同時に優れた詩人だった方をご存知ですか。それを教えてもらえると、私の見方の至らなさを思い知ると言う意味で、参考になるのですが。

この回答への補足

有り難う御座います。見事な御指摘を賜りまして、脱帽を致します。

皆様が優れていらっしゃると思われますので、「優れた文法学者で同時に優れた詩人だった方」がいらっしゃったのか否かを、拙い私は申し上げられません。寧ろ仰る通りに、詩人の方々が新しい文法を創出なさるのは必然的な展開なのだろう、と思われますので、反省を致しました。

因みに、確かに折角の御指導を賜る訳で御座いますので、適切な質問なのか否かの判断を行なわないといけないのかも知れません。でも私の知識が酷く乏しいものですから、拙い推敲を重ねるよりも、其の儘の表現で質問させて頂いた方が適切な御指導を賜れるのではないか、と思いまして、此のページの質問文の表現内容を拙い儘の状態で送信させ頂きましたから、御容赦を何とぞ宜しく御願い申し上げます。

補足日時:2011/05/08 11:59
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 こんにちは。


 ★ 上記の短歌の様な修飾方法は、一般的な方式なのでしょうか?
 ☆ 日本文において 一般性を持つと考えます。特に文学作品だからではなく あるいは短詩型ゆえでもなく 日本文の一般としてそのようであると見ます。

 このうたについては ほかの回答者の解説を読むと なるほどきれいに自然の調べに乗せてうまく 繊細な気持ちをも 表わしているなと思いますね。思いました。
 わたし自身は 趣味嗜好としては 短詩型文学が――古代のは 生活自然と社会文化とがえも言われぬかたちで溶けあっている場合として 別としますが――好きではありません。その読みをあまりにも時間をかけて努めておこなうように強いているのではないか と感じられるからです。それなら散文(非定型)で上手に表わすこともできるのではないか。
 あるいはつまり 短歌ひとつに意味合いを詰め込み過ぎているように感じます。
 つまりのっけから趣味嗜好の問題をまづは述べました。

 日本語の構文という問題から ちょっと眺めてみたいと思いました。 

 基本的に言って 日本語の文はすべて体言に相当する主題を次から次へと言い出して行くかたちで成り立っている。この見方からうたを眺めます。
 和文は すべて名詞から成っており名詞相当の語句の羅列であるとまで言えるようなのです。それは 論述(述語部)もひとつの主題であることを物語ります。
 用言ないし述語動詞を用いこれを活用させていても たとえば連用形はそのまま概念法の活用であり名詞ないし体言に当たります。《あたり》は 概念法の活用形として 体言である。《当たり・中り・辺り》。
 連体法ないし連体形の活用も 次につづく体言をもし省略してしまえば そのまま用言の連体形のみが 体言相当となります。《伸び‐たる〔‐薔薇の芽〕》の《伸び》なる連用形が名詞であることは無論のこと 《たる》なる連体形も そのまま《伸び‐たる‐何か》を意味させ得て 名詞に相当し得ます。こういう事情を言っているはずです。

 ▼ くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やわらかに 春雨の降る
 ☆ 文末の論述用言(述語動詞)の《降る》 これも存続法(終止形)と見るよりは 連体法(連体形)だと見られます。連体形ならそのあとに体言が来ているはずです。
 ○ ・・・降る〔とき。 / ころ。 / きょうの日。 / この世界。 / ・・・〕
 ☆ のようにです。だとしたらこのうたで 体言相当でない語句は 《やわらかに》だけではないでしょうか。
 《春雨‐ノ》というノ格 これもむろん基本として連体法でしょう。そのあと用言の《降る》とのかかわりにおいてやっと その動作(現象)の主体として主格を担い いわゆる主語と呼ばれる線形論理としての意味連絡を担います。
 S-V-O の意味連絡はあくまで――日本文においては―― 結果論だと言えるはずです。

 つまり 文の構えとしては 主題を次から次へと言い出して行くのですが それは 体言の羅列として成されて行く。こういうかたちなのだと見られます。

 つまり 《二尺伸びたる》は 用言の《伸び》が述格を担うからにはその主格があるはずです。むろんそれは《薔薇の芽〔‐ガ〕》であるわけですが その意味連関は あくまであとで分かるようになっている。こうだと考えます。

 つまりは 《二尺》も《伸びたる》も けっきょくみな小主題を成すべく体言として表出されている。
 《くれなゐ》も《の》も《薔薇》も《芽》もみな 体言の羅列として成り立っている。とさえ見られますまいか?
 おそらくその一連の体言の行列に対してあたかもその並びから外れるようにわづかに波を起こし風の吹くのを感じさせるのは 《降る》という論述用言であるよりは 《やわらかに》という論述条件(副詞)なのではないでしょうか。
 《降る》という語句を含めて《やわらかに》のほかはみな 図柄としては地を成している。みな体言の行列の中におさまっていて地となって背景を構成しており 《降る》という現象でさえ 動きはないかに見える。わづかに《やわらかに》だけが 地の中に浮かび上がる図として描かれた。

 よって
 ★ 上記の短歌の様な修飾方法は、一般的な方式なのでしょうか?
 ☆ 日本文において 一般性を持つと考えます。特に文学作品だからではなく あるいは短詩型ゆえでもなく 日本文の一般としてそのようであると見ます。
 どうでしょう?

この回答への補足

有り難う御座います。

奈良・平安時代の長文の中で、主語が違う文章が直列的に繋げられる場合にも、読者達が主語を理解し得る状況なら、周知の通りに、それぞれの主語が省略されたりしますが、繋がり方が分かり難い表現は将来の一般的な日本語にも残り続けていく、と思われますでしょうか?

補足日時:2011/05/09 02:14
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#2です。


愚見に恬静にご応じいただき幸いでした。

>私には「文芸」を理解する力量が乏しいのかも知れませんね。
いかがでしょう。要はその作品にいかばかり惚れこめるか、それだけのことなのかも知れません。
ましてこの場合のような短詩型作品においては、その一句だけを切り離して鑑賞するということは困難のみならず不自然そのものなのだというだけのことではありませんか。

是非一度「ノボさん」に逢ってみたい。あの漱石が「談心の友」と敬愛した彼の人の住まう根岸の里を訪ね、その謦咳に接し、その途でもない知性の極みに薫染を受けれれるものならばと、かように祈念する者ならば、自ずからその作品に敬して接するが故に、作品もまたその一端を開扉させてくれることもあらずんばならずではないでしょうか。

この歌を詠んだ子規は33歳で連日体温は39℃越えも儘続いた日々でしたが、恩ある陸羯南に報いようと売れ行きの落ち込んだ「日本」への巻き返しに努め、ために「ホトヽキス」2月号は遅延のために休刊に迫られるほどの多忙ぶりでした。その「日本」への記載は「短歌愚考」はじめ例月歌会や万葉集輪講の結果の「万葉集を読む」などと続いており、最も短歌に集中したのがこの4月だったといえます。
この日は、前日夜半からの雨のため輪講仲間の左千夫たちも一泊した、その払暁、庭前即景の詠み合いから興に乗じてついには長歌・旋頭歌にまで及んだとされています。
この時に「雨中庭前の風物の中で、丈の低い若松に注意を集中し、その松の中でも雨の雫が松の葉に玉を結ぶという一点に観察を注いだもので、そこに著しい特色がある。こういう観察の微細にわたったものは、居士の歌に見当たらぬのみならず、在来の歌人の窺い知らぬ世界であった。」(柴田宵月「評伝 正岡子規」岩波文庫)
そしてその同日、その微細な観察あったればこそ、この「針やはらかに」薔薇の芽に降る紅雨の歌がまた一緒に生まれたものなのでしょう。

折しも、昨日据えた金網製の大鳥籠に今日はキンバラの番いなどを放つ予定であり、縁側からもその愉しみがその時の歌に現れています。
   かな網の大鳥籠をつくろいて小鳥を入れん明日の朝またる(4月20日)
   かな網の鳥籠広みうれしげに飛ぶ鳥見ればわれもたぬしむ(4月21日)

長男を亡くし新聞も売れ行きの芳しくない恩師への思いも合わせ、公私ともに懊悩し苛まれている子規の心中たるや、その頃の唯一の親友漱石宛ての惻惻たる長文の手紙には落涙の跡で滲んでいた、その子規が恬淡として見つめている「くれなゐの」薔薇の芽と春雨の雫の間に交わされている妙なる調べを観察している子規とは如何なる為人(ひととなり)であったことか。
繰り返しになりますが、ことさらに「力量」など要りませんでしょう。啻にその思い入れが、その志が心中に宿り得るかどうかでは─。短詩型作品の観賞とは結局、その詠み手本人の足跡を辿り、その先達の謦咳に接せんと努め、その大いなる人となりから薫陶を受けることに他ならないのだと思えてならないからです。

この回答への補足

再度の投稿を下さいまして、有り難う御座います。

『「在来の歌人の窺い知らぬ世界」への入門』を許して貰える自分になってみたい、と思いました。

因みに、私が此の質問の様な語順への拘りを持ち始めました切っ掛けは、業務上での「プレゼンテーション」の方法の模索に有りました。

つまり、文字を書かせて貰えない会話の中で、複数の方々へ同時に物事を説明させて頂く為には、聞き手の方々の印象に残りやすい語順での語り掛けが望ましいので、短詩形文学にも当て嵌まるのだろう、と私は考えていたのです。

従いまして、韻文の読み方にも気付かず、此の場へ恥ずかしい愚問をお出ししてしまいました。

補足日時:2011/05/09 01:59
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この回答へのお礼

質問の個数の制限の影響で、
別の質問を現時点で提出させて頂けなくなっていますので、
此の枠へ追加質問を入力しまして、大変に畏れ入りますが、
もし支障が御座いませんでしたら、教えて下さい。

『「副詞的目的格」の羅列だけで、短歌・俳諧を作成している、
という事例もがよく有るのでしょうか?』

お礼日時:2011/05/10 14:06

 ★ (No.5補足欄) ~~~~


 奈良・平安時代の長文の中で、主語が違う文章が直列的に繋げられる場合にも、読者達が主語を理解し得る状況なら、周知の通りに、それぞれの主語が省略されたりしますが、繋がり方が分かり難い表現は将来の一般的な日本語にも残り続けていく、と思われますでしょうか?
 ~~~~~~~~~~
 ☆ まづ次の過去の事実はそれとして すでに別のことだと見ます。 
 ★ 奈良・平安時代の長文の中で、主語が違う文章が直列的に繋げられる場合にも、読者達が主語を理解し得る状況なら、周知の通りに、それぞれの主語が省略されたりしますが
 ☆ すなわち 時代の情況やそこでの言語習慣のあり方によるとすれば 現代とは違っているのだと。

 そして
 ★ 繋がり方が分かり難い表現
 ☆ については 短詩型作品の場合と一般の文章の場合とは別だと見ます。

 ▼ くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やわらかに 春雨の降る

 ☆ この詩の場合なら 《芽》が 茎のそれをも言い しかもすでに60cmにもなっていてもその茎をも表わすと分かれば それほど《つながりの分かりづらい表現》とも思いません。
 それとこの短歌の場合で言えば ほかの回答で読みましたが 作者の人生やその置かれた情況や状態について知ることが この作品を読む上で或る程度に必要だとすれば その方面のことがこの作品だけを読んでも分かりづらくしている。こう思います。
 〔つまりけっきょく背景事情などなどについての解説を読まなければ 作品をしっかりとは味わえないとすれば そのような作品というのは 横着な表現者の手になるものだと考えます。いただけません。つまり自分の覚え書きなりあるいは仲間内での互いの鑑賞としてなりであれば よいのでしょう〕。

 一般の文章の場合なら それは 質問者さんも触れておられたように 修飾語句を置く位置や順序をきちんとすればよいという問題に帰着するように思います。

この回答への補足

有り難う御座います。

作品へ期待されている意志伝達効果の度合いが乏しいと、
不特定多数者の方々へのブロードキャストには適さないですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AD% …

補足日時:2011/05/10 12:42
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>私が此の質問の様な語順への拘りを持ち始めました切っ掛けは、業務上での「プレゼンテーション」の方法の模索に有りました。

、、、複数の方々へ同時に物事を説明させて頂く為には、聞き手の方々の印象に残りやすい語順での語り掛けが望ましいので、短詩形文学にも当て嵌まるのだろう、

もしそれが本意なら、文法の構造よりも遥かに重要なことがあります。プレゼンテーションでは、言葉の美しさや、言葉の流れの美しさよりも、貴方の持っている迫力を伝えることの方が遥かに重要です。すなわち、プレゼンで伝えるべきは話の内容ではなくて、話しの内容に対する貴方の熱意です。内容を本気で伝えたいなら、プレゼンだけでは駄目です。相手が疑問な点に何度も戻って考えることができるように、文章に書いた物を相手に読んでもらうか、一対一で議論する以外には方法は無いでしょう。

どんなに上手なプレゼンでも内容その物で相手が理解出来るのは、内容全体の20%ぐらいなものだと、プレゼンの指導を専門にしている人が言っておりました。人は、貴方の熱意からくる迫力から、その問題に興味を持ち出し、自分でもその問題を本気で考えてくれるようになるそうです。だから、プレゼンで好印象を得てもらえるには残りの80%の熱意から出るオーラが本質的だそうです。そして、その迫力の有る無しで、貴方のプレゼンが評価される。言葉の流れの美しさは無いよりも有った方がましですが、それは二の次、三の次です。

だから、文章を書くのとは違って、プレゼンでは相手に論理を解ってもらうように話すのではなく、論理抜きに幾つかの重要なキーワードを相手にぶつける話し方をすべきです。話しに迫力が在れば、そのキーワード間の論理は聞き手本人が自分で見付けて来ます。貴方の論理を相手に押し付けて解ってもらうよりも、聞き手本人が自分で論理を見付けて解ってもらった方が、桁違いに相手は貴方の言いたいことを理解したことになりますから。

また、プレゼンも論文も同じですが、話しには山があります。ここだけはどうしても解ってもらわなくてはならないと言う場所です。その場所に来るまでは、出来るだけ言葉は文章に凝らずに、内容の表現に対する精確さや文法の正確さを犠牲にしてでも、話しが透明に解り易く伝わるように、淡々と平易な通常の表現をすべきです。精確であることと透明であることはしばしば両立しません。しかし、ここと言う重要な場所が来たら、言葉や文章に凝り、言葉を慎重に選び、また、場合によったら解り易さを犠牲にしてでも精確に話し、さらに、感情を込めて、迫力を伝える努力をしなくてはならない。淡々さを一変さて妖気を伝えなくてはならない。聞き手はその妖気に刺激されて、その部分が印象に残る可能性がグンと増すからです。

私の先生はプレゼンでは芸術の域に達っしていた方です。彼はいつもぼそぼそと話し始め、最後には全ての楽器を動員してフルオーケストラで終わりました。また、重要なキーワードが、論理抜きで始めの方に既に出て来て、それを途中で何度もフーガの音楽を聴いているように繰り返して出して来ました。だから、聴衆はその言葉や概念を初めて聞いたにも拘らず、彼の講演が終わる頃には既に何度も同じ言葉を聞いているので、皆、そんな事この話を聞く前から疾っくに知っていたとの錯覚を持って会場を離れて行きました。

言うは易し、行い難しですので、こればかりは場数を踏んまないと中々自分の物にはならないと思います。その意識を持ちつつプレゼンで何度も失敗を繰り返すしかないでしょう。

この回答への補足

有り難う御座います。安易にこの質問を締め切りに致さずに御待ちしていた甲斐が有った、と思います。

同じ言葉の繰り返しの問題には気付いておりませんでした。会場の雰囲気を盛り上げる為に余談を増やしませんと、しらけやすい、と私見では考えておりましたので、余談の過程の途上で聴衆の方々の注目点がずれてしまう、という展開を避ける為に、同じ言葉を頻繁に繰り返してきました。どうりで、十分に望ましい結果が出難いのですね。

ちなみに、私の拙い表現からプレゼンの技量の乏しさがばれる、と思われますので、自分の現状を申し上げるのは酷く恥ずかしいことなのでしょうから、たとえ個人情報が公開されていませんでしても、多くの方々が御覧になる環境への送信の内容にも、十分な配慮が必要になるのですね。

補足日時:2011/05/10 01:48
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#2、6です。



>「くれないの雨」という表現に適している時期は春だけなのでしょうか?

「紅雨」はもともと蘇軾の詩に由来するとされていますが、それであれば春の花にそそぐ雨はまた、花を散らす雨でもあり、花の散り降る姿をも表わすものでしょう。
ただ、日本での「コウウ」という音だけなら、同じ春雨でも「膏雨」と書いて草木をうるおう雨を指す季語になります。

日本語読みの「紅の雨」については「広辞苑」でも「相模集」の「花の色ますくれなゐの雨」を上げているだけで、手元の書籍では春雨もしくは春の季語とは明記されていませんが、それは春だけでないという意味でもなく、「くれない」をベニバナもしくは末摘花に限定すべきものなのか、また広く桃や梅それに桜に梨などと広げた場合、それでは早春から晩春まで季節感の絞り様がないので、ひいては肝心の雨の意味あいもまた焦点が移ろって納まりが難しいという扱いにくさにあるのかも知れません。
ちなみに「コウオ」となると「紅於」は楓(カエデ)を指し、かの有名な杜牧の「霜葉はニ月の花よりも紅なり」に由来します。

この回答への補足

有り難う御座います。

非常に詳しい説明を賜れまして、嬉しく思います。

因みに、もし宜しければ此方へも御協力を賜れましたら、幸いですから、何とぞ宜しく御願い申し上げます。
http://okwave.jp/qa/q6728122.html

補足日時:2011/05/10 20:19
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この回答へのお礼

短歌等の短詩形文学の作成の際に、
どの句から着手するのかの判断基準に、
読者達とか聴衆とかの理解力への配慮をも盛り込むのは非常に難しそうですね。

表現の技術の奥深さが分かり始めた様な「気がします」。

お礼日時:2011/05/11 01:09

#9に続けます。


くれないの雨が春限定かとの問いかけ自体は#10でご納得いただけたようですが、それは実は季重なりではないかの示唆もまた含まれているのかとも思い立ち、ここで少し続ける形で触れてみます。

まず、この短歌の季語は「春雨」と見られます。
「薔薇の芽」も次の俳句の場合などそれだけで季語となります。
   薔薇の芽の真紅を洗う雨となりぬ   岡田日郎

ただ、この短歌において、散文的な表現の整合性を求めた場合には、芽の「の」と針の「に」を入れ替えてしまえば、「二尺伸びたる」「針やわらか<の>」「薔薇の芽<に>」「春雨の降る」となります。
それを敢えてこの語用を転換して見せた事によって、これこそ韻文ならではのある種アクロバティックな、しかしそこに日本語ならではの奥行きと陰影を齎す事で、それが春雨と薔薇の芽との「やはらかさ」という主題の微細なコントラストとハーモニーを引出して見せてくれているのだと思えてなりません。
しかも、末尾の「春雨の降る」についても、上接の「春雨」に意味上の重点をおく「が」格ではなく、敢えて「の」格を使うことで言い切りの力を弱めなお一層の「やはらかさ」を導いていると見る事もできるのではないでしょうか。

そもそもの疑問に関わる「くれなゐの」「薔薇の」「芽の」という「no」の3連発は、リズミカルなだけに簡単に誘導されやすく、それでいてどう繋がるのか、どれと繋がるのかとそこで読み手が戸惑い始める。初5字の「くれなゐの」は続くべき名詞が見当たらず、では枕詞かと思い出もするが明確な相手が見つからず、頭でっかちのままフラフラしている内での3連発を食らうことになる。
しかも下句の頭の「針やわらかに」をぶつけられて、「やはらかに」は最後の7字に繋がるとしても「針」とはどう関わって読めばよいのか、それさえ「芽」とはどう関わるのかと悩みかねない。ただしここでは頭韻のように「針…」「春…」と「ha」のリズムは心地よく、
「春雨の降る」というさりげない言い切りで軟着陸できる。

そこでもう一度上の句から辿り始めて、まずは「くれなゐの」が呼び込む「万葉ぶり」や、「薔薇の芽」の一連語を拾い、上末5と下始め7の助詞の交差などを、主題は薔薇の芽と雨との「やはらか」な関係であることに焦点を合わせると、ようやく詠み手の隅々まで廻らされた巧みさと素朴さのコントラストに驚かされる次第です

まさに、少しくは鋭かるべき針の箇所においてこそ、しとつく春雨のしずくは和毛(にこげ)様のそこに宿して水玉を生(な)しており、そうであればこそ春雨の「やはらかに」降る様がこよなき鮮明さで表現されているのでしょう。
ここに来てようやく、「くれなゐ」とは、「(多くは赤系の色についていわれる)美しく映える色、ほんのりした色合い」(小学館「古語大辞典」)としての「にほひ」なのだ。それが”仮分数”頭故に全句を覆っていることに驚かされるでしょう。

そして、その「ほんのりした色合い」は更には、薔薇の芽の針と春雨の生み出した水玉が伝える「ほんのりとした色合い」として、のほのかにして「やはらかな」「光」の色合いなのだとしたら、例えば草野心平の詩「富士山 第肆」のごとく、「川面に春の光はまぶしく溢れ。そよ風が吹けば光たちの鬼ごつこ。葦の葉のささやき。行行子は鳴く。行行子の舌にも春の光。」の如く、よしきりの舌に見出した「春の光」にも通じるものがあるのかもしれません。

「くれなゐの」と詠いだしたその色は何に係る、どこへ行った。それは薔薇に、その芽に、その針に、また春雨には紅として、さらにはその融合では「ほんのりの色合い」に、遂には「春の光」を見出す。それを視続けている詠み手の心模様もいつしか「やはらかに」の心境へと治まっていく。そこでこの短歌は詠まれたのかもしれないと。
この頃に次のような歌もあります。
  くれなゐの光をはなつから草の牡丹の花は花の王

この回答への補足

有り難う御座います。

非常に詳しい解説を丁寧に紹介して下さりまして、助かりました。

今後にも御教授を賜れましたら幸いですから、
何卒宜しく御願い申し上げます。

補足日時:2011/05/11 14:30
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この回答へのお礼 お礼日時:2011/07/30 15:26

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