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歴史の事実が勝者によって書き変えられることが普通に起るのが歴史ですが、私は、西郷隆盛の征韓論もそうではないかと思っています。

理由は簡単で「李氏朝鮮に対する武力による開国」が、征朝論ではなくて、なんで征韓論になるの?
これに対する理由付けは知っていますが、李氏朝鮮に対する開国交渉の議論の真っ最中に、征朝論か征韓論かなどの議論はされていないはずで、征韓論は後年、岩倉らによってねつ造されたと見るのが正しいと思います。

ウィキペディアの征韓論の記述内容が、数年前と比較してずいぶんと変化していることに驚きましたが、間違いを認めるのなら教科書をとっとと訂正しろや!と思います。

「西郷隆盛の征韓論」は正しいのですか?

質問者からの補足コメント

  • お礼のコメントもしないで大変申し訳ありません。
    自民党の総裁選挙と結びつけようとして、このカテゴリーで質問したのが間違いでしたが、削除するにはもったいないので、この質問はほったらかしにします。

    教育カテゴリーの歴史学で同じ質問をしており、そちらの方が勉強になるかと思いますので、興味ある方はそちらをご覧ください。

      補足日時:2024/09/23 04:00

A 回答 (4件)

> 当時の新聞記事の写真がベストですが、ソースを教えていただけないでしょうか?



「征韓論」という言葉が、岩倉とは関係なく、幕末や明治初年から新聞記事などに踊ってたことのソースですね。
幕末については、ウィキペディア情報で恐縮ですが、
「慶応2年(1866年)末には、清国広州の新聞に、日本人八戸順叔が「征韓論」の記事を寄稿し、清・朝鮮の疑念を招き、その後の日清・日朝関係が悪化した事件があった(八戸事件)。」

一方、日本の新聞はどうだったか。『日新真事誌』に明治5年から征韓論が盛んに載ったそうです(歴史学者の内山京子氏による)。「そんな聞いたことない新聞を一紙挙げられても」と思うかもしれませんが、ある意味、当時の日本で随一の新聞でした。下記をご覧ください。

メディアと近代 土屋礼子(歴史学者、メディア史) - トイビト
https://www.toibito.com/toibito/series/b1dcb28e- …
〔引用開始〕
 明治5年(1872年)に、『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)『郵便報知新聞』などの5紙が創刊されます。とはいえ、つくる側にも新聞とはどういうもので、記事にする情報をどう取ってくればいいのかを分かっている人はあまりいないわけです。政府もできたてのほやほやだし、民主主義という思想も理解されていないし、議会制も整っていないので、当初はお上の出すお触れなどをただ載せておけばいいと思っていたようです。
 そんな中、先ほど話したイギリス人ブラックが創刊した『日新真事誌』だけは、政府の各省庁と特約を結んで取材をしていました。政府の出した法令や文書をただ載せるのではなく、いろいろな角度から検討したり、問題提起をしたりということを率先してやった。それが刺激になって他紙も取材をするようになり、だんだんと「新聞らしく」なっていった
〔引用終り〕

当時はまだ言論の自由がなく、政府の顔色をうかがわずに新聞を発行できたのは、居留地の治外法権に守られた外国人でした。この『日新真事誌』は日本語の新聞です。
ぺりかん社という所から複製版が出ています。数万円もする高価な本ですが、東京のかたなら国立国会図書館などへいらっしゃればただで読めるでしょう。

なお、征韓論はむしろ明治6年の政変後に、世間でもかまびすしく取り沙汰されました。この政変で敗れたのが征韓論者たちで、政府から下野したのです。
一方、前述の『日新真事誌』の明治5年、岩倉らは岩倉使節団(明治4年~明治6年。帰国後に政変)として長期外遊中でした。質問者さんの「征韓論は後年、岩倉らによってねつ造された」という説に対する、反証であることがお分かりになりますね。
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この回答へのお礼

お礼のコメントのなかでの厚かましい追加の質問に回答していただき、ありがとうございます。感謝、感謝です。

実は、回答内容の疑問点についてお礼のコメントで言及しても回答していただけない方が多いので、今回もダメかな、と思って自分でネット検索して、回答していただいた内容は確認していました。

回答文中にも記述していただいたように、政変後に征韓論が盛り上がったのは間違いないので、その犯人は岩倉たちだろうと思っていましたが、実際は武力をもって朝鮮の開国断行に熱心だった板垣退助だったようですね。

私の認識違いでした。お詫びします。

しかしながら、西郷隆盛が征韓論者というのは歴史の中ででっち上げられたことは、間違いないと思っています。

当時の新聞記事をネット検索するなかで、近年のサンケイ新聞に西郷隆盛は「征韓論」ではなく「遣韓論」だった、という記事が目に留まり、イヤイヤ、イカンではなイキタイだろ、と思いました。

ありがとうございました。

お礼日時:2024/09/18 06:23

お礼ありがとうございます。

前回、「『日新真事誌』に明治5年から征韓論が盛んに載ったそうです(歴史学者の内山京子氏による)」と述べたのは、下記の論文のことです。もうご存知かもしれません。

征韓論政変前後の言論状況と木戸派(一)
https://www.kokugakuintochigi.ac.jp/tandai/commo …
〔引用開始。3ページ〕
『日新真事誌』など、J・R・ブラックが関与した「ブラック系新聞」による外征煽動〔中略〕という視点から、征韓論沸騰の背景〔中略〕について考察する。〔中略〕
〔14ページ〕
ブラックは論説機能を重視したが、日本語の読み書きの知識はなく、同紙は総計六〇名以上の士族によって運営された。また、支配人は山内家家令の日野春草であり、板垣・後藤派の人物だった。〔中略〕ブラック系新聞の征韓煽動が本格的に始まるのは、『日新真事誌』創刊後の明治五年七月である。〔中略〕
〔16ページ〕
他方、明治五年には『新聞雑誌』以外にも『横浜毎日新聞』『東京日日新聞』『郵便報知新聞』などが創刊されていたが、政論・報道ともに未熟な状況であり、とくに政治や海外情報は外字紙や『日新真事誌』に依存する傾向がみられた。〔中略〕
〔19ページ〕
〔引用者注:明治6年に〕しかし、これに過敏に反応した板垣らによって即時征韓の議案が提出され、七月下旬には副島が帰朝し、清国から征韓への不介入の言質を得たとの報告がもたらされる。ブラック系新聞の動きが再び活性化したのは、この前後である。まず副島帰国の三日後、『日新真事誌』が「上海新聞」の報道として副島の日清会談の模様を報じ、
〔引用終り〕

この後、9月に岩倉が帰国し、政変が急展開していきます。

次に、質問者さんの「西郷隆盛が征韓論者というのは歴史の中ででっち上げられた」についてですが、学説的にも、「西郷隆盛 = 征韓論」みたいにイコールで結ぶのは単純過ぎる、となっているようです。西郷は征韓論の筆頭というより慎重派だったと、(知識は無いですが)私も思います。
しかし、産経新聞などに載った「遣韓論」には賛成できません。西郷を美化する、あるいは日本の侵略主義をぼかす、底意が見えます。歴史観を大きく分けると、「列強諸国は侵略的だったが日本は侵略などしていない」、「日本も負けじと侵略的になっていった」、「日本こそ侵略的だった」の3説があるでしょう。私は2番目です。まあ人それぞれ意見がありますね。
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この回答へのお礼

追加の回答で私の質問に答えていただきありがとうございます。

質問は「西郷隆盛の征韓論」はウソだったのではいか?・・ということでした。これは、西郷隆盛が板垣退助と同じ征韓論者だったのか、または、積極派ではなかったにせよ、自分が朝鮮に行って殺されることで征韓論者を支援しようとしていたのが歴史の真実なのか?
それとも、本当に武力抜きで外交交渉のみで朝鮮に開国してもらうために朝鮮に行こうとしていたのか?・・・の二択でしたが、ようやくまともな回答をいただきました。

私のように「歴史のウソだった」と仮説をたてていろいろと調べる者もいれば、歴史教科書に載っている史実を盲目的に歴史の真実と信じる者もいると思いますが、歴史を調べるうえで大事なことはその時の事実は時の権力者によって塗り替えられた事実がたくさんあるということだと思います。

質問内容に余計な事を書いて、回答者の注意がそちらに向くように仕向けた私が悪いのですが、ホント質問に回答してくれない人が多い・・・と思う今日この頃です。

お礼日時:2024/09/23 03:54

間違ってるのは教科書ではなく質問者さんかも知れません。



まず、「征朝論ではなくて、なんで征韓論になるの?」について。
それは複数の理由が束になって、数の力でそうなったんでしょう。理由が一つしかなかったら、「李氏朝鮮だから征朝論が正しい」に負けていたと思います。
国立国会図書館のレファレンス協同データベース(https://crd.ndl.go.jp/reference/)によれば、まず一つには、古代の「三韓征伐」から来ている。
第二に、古事記や万葉集でも「韓」と呼んでいた。
第三に、江戸時代の川口長孺(歴史家)も豊臣秀吉の朝鮮出兵を論じて『征韓偉略』を著した。朝鮮出兵や江戸時代は李氏朝鮮の時代だったのに、征朝偉略とは言わなかった。以上。

また、辞書を引くと、「朝」には「天子が政治をとる所」「日本の朝廷」「日本」の意味があります。明朝といえば中国の明の時代であり、帰朝といえば外国から日本へ返ってくることです。
「征朝」って、日本が外国に征服される感じもあるじゃないですか。一方、「日朝」なら、日本と朝鮮として了解されますが。

さらに私が付け加えたいのは、中国を支那と呼びたがる、日本人の悪弊です。大昔は悪弊じゃなかったんですよ、「支那」は伝統的な呼び方でした。
しかし、辛亥革命が起きて1912年に清朝は倒れ、中華民国が建国されます。日本はこれをあなどって「中国」と呼ばず、ことさらに「支那」と言いたがりました。当時の中国在住の日本人が、そんな傾向を憂えて「中華民国になったんだから中国と呼んであげましょう」と論じた記事が残っています。

同様に、「韓」よりも「朝」の字は格が高いので、見下すニュアンスもあって「征韓論」となったのではないでしょうか。「朝鮮」は格が高くないにしても、「朝」一字は前述のように格が高い。

> 征韓論は後年、岩倉らによってねつ造された

後年とは具体的に何年ですか? 何年に岩倉らが捏造したんですか?
「征韓論」という言葉は、岩倉とは関係なく、幕末や明治初年から新聞記事などに踊ってますよ。
西郷隆盛が、征韓論者の中ではむしろ慎重派だったことは知られています。しかし、「『西郷隆盛の征韓論』はウソ」とまでおっしゃると、ウソになるでしょう。
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この回答へのお礼

当時の新聞記事の写真がベストですが、ソースを教えていただけないでしょうか?日付と記事の内容がわかるものでも結構です。

これ欲しかったんです。お願いします。

お礼日時:2024/09/17 16:29

朝鮮半島の地は、古来、「韓」と呼ばれていました。


それについては、中国の史書や日本の記紀でも明らかです。
「朝鮮」というのは変わることもある国名であって、その地の名称は変わらずに「韓」と呼ばれる地だったということです。
実際に、「朝鮮」の前は「高麗」でしたし、「朝鮮」の後は「大韓帝国」と国名は変化しています。

ゆえに、「征朝論」でも良いのかもしれませんが、「征韓論」が間違いとは言えないでしょう。そもそも当時の「朝鮮」は清国に属国化されて、自主外交権を持たない国家でした。「朝鮮」という国名自体が中国(明)から与えられた国名ですしね。

日清戦争の結果、朝鮮は清から独立を果たしましたが、彼らは国名を自分たちを解放してくれた「大日本帝国」に倣って「大韓帝国」としたわけです。
自分たちで国名を考える際に、「韓」が自然に出てきたのですから、その意味でも「征韓論」が間違いとは言えない。そのように思います。
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この回答へのお礼

やはり頼りになるのは古代中国の古文書ですね。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2024/09/17 16:26

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