とっておきの手土産を教えて

仕事の関係で最近明治維新について勉強しています。長州藩の桂の思想を中心に勉強していたところ,長州の割拠論と武力上洛論についていろいろ述べられていたのですが基本的なそれぞれの主張の内容がわからず混乱しています。どなたかご存知の方おられましたら詳しく教えていただけると助かります。よろしくお願いいたします。

A 回答 (1件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>長州の割拠論と武力上洛論についていろいろ述べられていたのですが基本的なそれぞれの主張の内容がわからず混乱しています。

幕末の長州藩は、天保2年(1831)7月に飢饉による「百姓一揆」が起き、天保8年(1837)にも飢饉による「一揆」が起こりました。その結果、かなりの「財政赤字」を抱えていました。
そこで、藩主の毛利敬親(たかちか)は、藩の財政改革として、村田清風(むらたせいふう)と坪井九右衛門(むらたくうえもん)の2人を交代で登用しました。
この2人の政策は全く違った方針でしたが、藩の財政は、かなりの改善を見ました。
しかし、この2人を交互に登用したことで、藩政の争いの「火種」となってしましました。
村田と、その方針を受け継いだ周布政之助(すふまさのすけ)や木戸孝允(きどたかよし=桂小五郎)高杉晋作らの「正義派=改革派=武力上洛論」と、
坪井と考えを同じくして、坪井に抜擢された椋梨藤太(むくなしとうた)などの「俗論派=保守派=割拠論」、
等、大きく2つに分かれて藩政を左右しました。
藩主は、安政5年(1858)、
朝廷への忠節・幕府への信義・祖宗(=そせん)への孝道
という「藩是三大綱(はんぜさんだいこう)」を取り決め、周布をもって安政の改革に乗り出しました。
周布は、公武合体を模索していたところ、長井雅楽(ながいうた)が、文久元年(1861)に開国を前提とした公武合体を提唱し「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」をまとめました。周布もこの案を是認しましたが、木戸(桂)や久坂玄瑞(くさかげんずい)らに批判をされ、考えを改めて、後の「破約攘夷」へと突き進むこととなりました。
長井の提唱した「航海遠略策」は、藩内には批判はあったものの、藩主も認めたため、長井は文久元年3月30日、公武周旋の藩命を受け、4月29日、萩を出発し、

(1)朝廷への力説・・・。
5月12日入京し、長州藩と親交のあった正親町三条実美(おおぎまちさんじょうさねなる=大納言)に面会して、公武の離間は攘夷と開国の確執にあること、今では破約攘夷は不可能であることを論じ、
「外国がもし4~5隻の軍艦で九州に臨めば、数百万の士民は、自国の騒動をおいて東上ことはできない。京都守護がおぼつかなくなるだろう。今は朝廷も鴻館(平安時代のような)の昔を思召されて、神威を世界に振るうことを大基本とし、開国遠略の策をもって幕府に臨ませれば、幕府の実行は容易であり、君臣の位次を正しくし、公武一和の道も開きえるだろう」
と弁じると、正親町三条は、
「もし幕府が長州の建白に同意しないときはどうするのか?」
と尋ねた。
それに対して、長井は、
「幣藩はどこまでも穏和手段をとるつもりである。国内に隙を生じさせるようなことは好まない」
と答えたという(『徳川慶喜公伝(長州御往反始末、長井雅楽一件書類・防長回天史より)』)。
正親町三条は同説を喜び、長井に文書にして提出するよう求めた。天皇も建白書を嘉納し、6月2日、正親町三条は長井を呼び出して天皇が喜んでいたとの内意を伝えた。

(2)幕府への力説・・・。
朝廷の賛同を得た長井は、今度は幕府を説こうと、6月2日に京都を発ち、14日に江戸に入った。
7月2日、世子毛利定広は老中久世広周(くぜ ひろちか)に面会して長井上府の趣意を告げ、夕刻、長井は久世を訪問して意とするところを陳述した。久世は大いに喜んだという。さらに8月3日には老中安藤信正に面会し、安藤の同意も得た。
このとき、長井は、
「事の成否は御同列の存意次第に在り、誠に公武一和を希望せらるるならば、主人も周旋すべし」
と、長州藩の周旋の意図を告げたと言う。(『徳川慶喜公伝(長井雅楽一件書類)』)。
幕閣は、ついに外様大名である長州藩に国事周旋を任せることにしたのである。
つまりは、長井はもともと「開国派」でしたが、朝廷には、
「朝廷のため開国を遅らせるため公武合体を急ぐべき」
と説き、幕府には、
「幕府のため公武合体が御ため、さすれば、いずれは朝廷も開国を聞き入れるだろう」
と、確かに、力点が若干違った言い方をしているようです。

(3)その後、長井は8月7日に江戸を出立し、途中、京都に寄って正親町三条に状況を報告して、29日、萩へ戻った。
長井の復命を受けて、藩主毛利敬親は自ら周旋に乗り出すことにした。
11月13日、藩主毛利敬親の参府に随従して長井は再び江戸入りした。同18日、敬親は老中久世・安藤と会見したが、この席で老中は長井の意見を称し、今後国事を敬親と相談したいと告げた。
12月8日、長州藩は幕府に対して、正式に航海遠略策の建白を提出した。さらに、同月30日、老中久世は長井に公武の周旋を任せるという将軍家茂の内意を伝えた。
これを受けて、敬親は長井を中老に昇格させ、再入説のため、再び京都に派遣することにした。幕府も目付浅野氏祐(伊賀守)を京都へ派遣し、所司代酒井忠義(若狭守)とともに長井を支援させることにした。

(4)こうした背景の中で、文久2年(1862)2月11日、14代将軍家茂と和宮が結婚。

(5)長井の提唱した「公武合体」が、とりあえず、認められた形で長州はますます発言権が強くなりました。しかし、長井が入京した文久2年(1862)3月には、京都の情勢は文久元年とは大きく一転しており、尊攘激派が勢力を伸ばしていた。しかも、島津久光の率兵上洛(兵を派遣して京都を守る)の情報によって、京都では薩摩藩への声望が増しており、在京長州藩は後塵を廃したことへの焦りを感じていた。
今さら公武合体・開国ではない雰囲気だったのである。長井の建白は時宜を得ず、失敗に終わった。(長井が公武周旋を任されたときに中老格に出世したことへの嫉みも藩内にはあったという)。
情勢不利をみてとった藩主敬親の命で、長井は4月14日、退京した。
長井支援のために幕府が京都に派遣していた浅野氏祐も江戸へ戻った。

(6)京都での入説に失敗して長井が帰府(江戸に戻る)してまもなくの5月5日、朝廷は、長井の起草した建白書に朝廷を誹謗した文言(謗詞)があり、懸念ありとの沙汰を下した。
この頃、京都では建白中の
「昔を思い、国威を五大州に振るうの大規模なかるべからず」
という部分が、古代の朝廷隆盛の時代と外国に迫られて開国した今の時代を比較して、現在の朝廷を誹謗するものだという議論が起っていた。長井の公武合体-開国論を嫌い、長井を排斥して長州藩の藩論を一転させようという、藩内尊攘派激派の久坂玄瑞らの朝廷工作の結果だった。
長井への批難は大きく、その累は毛利家にも及ぼうという勢いだったという。長州藩主毛利敬親は在京の家老浦靱負(うら ゆきえ)を遣わして朝廷に陳謝し、6月5日、長井に帰国謹慎を命じると、翌6日、上京して直接朝廷の疑念を晴らすために江戸を発った。

(7) 入京した敬親は、
「尊攘論にあらざれば耳を傾くる者なき形勢」(『徳川慶喜公伝』)
をさとり、家臣と会議の結果、7月、長井の航海遠略策を破棄することに決し、藩論は「破約攘夷」へと大きく転換した。すなわち、勅許なしで調印した条約を破棄し、攘夷を行うというもので、尊攘激派の桂小五郎や久坂玄瑞の主張が通ったわけである。
航海遠略策を推し進めていた長井は、翌文久3年(1863)3月24日切腹を命じられ、無念の最期を遂げた。

(8)そのような長井の動きとは無関係に、朝廷では、孝明天皇は「攘夷」の約束の基で和宮を降嫁させたにもかかわらず、幕府が一向に動かない、さらには、米国や仏国と「通商条約」まで取り交わしたことにしびれを切らし、文久2年(1862)10月に幕府へ勅使を派遣し、家茂を咎めました。

(9)そこで、家茂は、「釈明」のため、文久3年(1863)2月13日、実に家光以来230年振りの上洛をしました。

(10)しかし、家茂は孝明天皇に押し切られる形で、
「5月10日をもって攘夷をする」
と、約束してしまいました。

(11)それを聞いた長州藩は、5月10日に攘夷が決行されたもの、と思い、関門海峡(馬関海峡=ばかんかいきょう、とも呼ばれた)に停泊していた米国商船ベンプローグ号に長州側砲台と庚申丸(こうしんまる)および葵亥丸(きがいまる)から砲撃。突然の砲撃に驚いたベンプローク号は危機一髪で周防灘へ逃避。

(12)初めての「外国船打ち払い」で、長州は沸き立ち、すぐさま、朝廷からも「褒勅(ほうちょく=祝いの言葉)」が寄せられました。

(13)続いて、5月23日には、同じく関門海峡に入った仏国のキャンシャン号を砲撃、周防灘へ撃退。

(14)5月26日にはオランダのメジューサ号を砲撃。メジューサ号も同じく周防灘へ非難。

(15)長州藩は大いに盛り上がりましたが、やがて、孝明天皇自身も、長州藩の余りにも過激な行動に「憂い」を感じ、文久3年(1863)8月18日、「公武合体派」の中川宮朝彦親王や近衛忠房らを参台させ、「攘夷論」一辺倒の毛利敬親(たかちか)やその子の定広親子、そして、三条実美、三条西季知(さんじょうにし すえもと)、四条隆謌(しじょう たかうた)、東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)、壬生基修(みぶ もとおさ)、錦小路頼徳(にしきこうじ よりのり)、澤宣嘉(さわ のぶよし)らを朝廷より排除しました。
これを「8月18日の政変」と呼び、7人の公家が京都を追われたので、これを「7卿落ち」と呼ばれるようになりました。

(16)当時は、御所の警護を薩摩藩と会津藩で行っていました。

(17)京都を追われた長州藩は、巻き返しを計るため、後の「池田屋事件」「禁門の変(蛤御門の変=はまぐりごもんのへん、とも呼ばれた)」などへ拡大していきました。

池田屋事件:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0% …
禁門の変:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E9%96%80% …
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この回答へのお礼

とてもわかりやすかったです。懇切丁寧にご教授いただき本当にありがとうございました。

お礼日時:2008/12/16 02:24

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