福井の武将朝倉家は朝倉義景の代に滅亡したと伝えられますが、
その後、子供や一族がどうなったかご存じの方がいらっしゃったら
教えてください。

A 回答 (2件)

 朝倉義景の曾孫(一説にはまたいとこ、父の名は在重)朝倉宣正が徳川忠長の附家老として、将軍家よりつけられましたが、監督不行き届きとして、郡山に流されました。

子孫は土井家に家老として召抱えられ、下総古河、伊勢亀山、肥前唐津藩を歴任しました。これほどの名家ですから、断絶は考えられません。
(参考)
http://www.city.koga.ibaraki.jp/rekihaku/kikaku1 …
一族として
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mizoe_as.h …
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この回答へのお礼

ホームページ見ました。
そんな活躍をしていたのですね! ありがとうございます。

お礼日時:2001/03/14 15:49

朝倉氏は歴史ある名族ですから、同名衆といわれる一門衆をはじめとした


同族が越前国内に繁栄していました。滅んだといっても、あくまでも戦国
大名としての話ですから、朝倉氏そのものが消失してしまったというわけ
ではないでしょう。たとえば、義景の弟の曾孫にあたる朝倉宣正は徳川大
納言忠長の付家老として遠州掛川を領していました(忠長滅亡後に徐封。
のち土井氏に仕官)
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この回答へのお礼

なるほどそうなのですね。
名前を変えた一族がいるとか、関東やもともとの兵庫に戻ったという話を
聞いた気がしていたのですが、やはり場所を移して活躍していたのですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2001/03/14 15:46

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Q自分は浅井長政の子孫?

先日、祖父の遺品の整理をしていた所、家系図を発見致しました。
その内容を見ると、6代先までは生没年や氏名が詳しく記載されているのにも拘らず、
何故かその先は適当な感じ(生没年不詳だったり、氏名が片方だけだったり)になっており、
最終的にかの有名な戦国武将「浅井長政」に辿りつく形になっておりました。
また、途中、大岡越前の血を引く娘を嫁に貰っていると書かれてもいました。

しかしながら、記載者の名を見ると、私の祖父の名があり、いまいち信憑性に欠けます。
インターネットで調べてみた所、浅井家は既に滅んでいるとの記述も見つけました。
また、浅井家と大岡家が途中で結び付いたという記述は発見できませんでした。

そこで、私が浅井長政の子孫である、
または大岡越前の血を引いていると確認する方法はあるのでしょうか。
二方ともかなり有名な方なので、
それなりに家系図はしっかりしていると思うのですが
何分私はそういうことに無頓着だったと言うか不慣れなため、何をどう調べたらよいのか分かりません。

どうか親切な方、私にアドバイスを下さい。

先日、祖父の遺品の整理をしていた所、家系図を発見致しました。
その内容を見ると、6代先までは生没年や氏名が詳しく記載されているのにも拘らず、
何故かその先は適当な感じ(生没年不詳だったり、氏名が片方だけだったり)になっており、
最終的にかの有名な戦国武将「浅井長政」に辿りつく形になっておりました。
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しかしながら、記載者の名を見ると、私の祖父の名があり、いまいち信憑性に欠けます。
インターネットで調べて...続きを読む

Aベストアンサー

武家の子孫です(笑)
実は我々の先祖は天皇家のような特殊な家柄を除き、江戸時代より前の家系はなかなか遡って知る事はできないようです。残念ながらうちもそうです。

ほかの回答者様もおっしゃるように、実は立派な事を書いた家系図を売買する商売があった時期があります。ひとつは明治維新後、薩摩・長州のイモ侍が自身の出自に箔をつけるために立派な家系図を書かせる事が流行しました。
またもう一つは太平洋戦争後の混乱期です。食料と引換えにやむなく家系図や家宝を手放す家があり、農家の手に渡っています。
よく「お宝鑑定団」で「なんでこんな農家のオッサンがこんな名品を持ってるの?」という場合は十中八九こっちのパターンです(笑)

特に前者の場合は戦国時代から派手な例だと奈良時代・平安時代の記述が非常に詳しい(天皇のご落胤とか源氏の出自とか書いたりします)くせに、途中の江戸期などの記述が大雑把・あいまいになっているケースが多いです。
家柄を証明するのはなかなか難しく、証明したところでメリットもありません。逆に言えばウソを言っても詐欺行為をしない限り罰則もありませんし。。。
むしろ記述の内容はともかく、その家系図の内容に恥じない生き方を心得えて人生の充実を図る方が建設的かもしれませんよね。家系図すら無い家も多いんですから。
ロマンとしてそっとしておくのも手かもしれません。

武家の子孫です(笑)
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Qお腹にたまっているガスを出す方法を教えてください。

私はよくお腹にガスがたまってお腹が痛くなります。
なかなかガスが出口へ行ってくれません。すごく集中してガスが下に行く様子を頭の中に描いてもう少しでおならが出るぞ~という状態になったのに集中力がふっととぎれただけで、ガスがお腹に逆戻りします。しかも、ひどい時は夜中胃の辺りまで痛んで寝られない時もあります。ガスさえ出れば…。と思います。
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Aベストアンサー

ヨガのねじりのポーズが効果的です。
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Q*ちくちく刺すような頭痛*

最近、後頭部を針で刺したような痛みに襲われます。

一瞬、『イタッ!』というような痛みです。

後頭部右上だったり、左上だったり日によってまちまちです。

去年の今ごろも同じような頭痛がありましたが、放っておいたら治っていたので病院には行っていません。
それまでは頭痛とは無縁の生活でした。

いろいろ調べたのですが、頭痛持ちの人のように我慢できないので薬を飲む・・・といった痛みではないようです。

脳の血管が切れているのでは、脳に腫瘍があるのでは、など、考えれば考えるほど怖くなってしまいます。病院で検査してもらえばいいのでしょうが、結果を聞くのが怖くて・・・。

因みに私は・・・
・20代半ば(女)
・9時~18時までPCで仕事(時々休憩をしたり、外出し たりもアリ。)
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・お酒はたまに飲みます。
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もし頭痛に詳しい方がいらっしゃれば、私の頭痛は命に関わるかどうか教えていただきたいです。

最近、後頭部を針で刺したような痛みに襲われます。

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Aベストアンサー

こんにちは。
命にかかわる頭痛で有名なのはクモ膜下出血ですね。
ただ、これはチクリと刺すような頭痛じゃないので、全く違います。

むしろそういう感じの頭痛は、肩こりから来る物が多いでしょう。
場所からもそれが大変怪しいです。

となると、
○整形などで、腕~肩辺り~首を見てもらう・・・頚腕など
○眼科で目をチェックしてもらう・・・眼精疲労

といったところが重要でしょう。

念のため、内科で心臓もチェックしてもらいましょう。
腕が逆なので、ほとんど考えられませんが全くないとも言えないので。

Q戦国時代の「禄高100貫」とは?(大河ドラマ風林火山を見て)

先週の大河ドラマ「風林火山」で、今川家重臣の食客として駿河にいた山本勘助を、家督を継いだ武田晴信が「禄高100貫」で招くという話がありました。

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Aベストアンサー

室町期の貫高は時代により変り、一概にはいえないのですが、
北条氏康時代の「小田原衆所領役帳」によると、平均七貫に一人の軍役(例えば、284貫の所領の宇津木兵庫助は軍役36人)になっています。
江戸幕府の軍役は50石で一人ですが、戦国時代は20~40石で一人、平均して30石で一人と推定されます。(戦前の陸軍参謀本部)
従い一貫は約4石で、勘助の初任給は400石相当のようでなかなかの高給です。
当時所領500貫(2000石)は重役でした。

Q徳川綱豊(徳川家宣)がいるのに徳川綱教が6代将軍候補になっていた理由は?

徳川御三家は徳川宗家の血が絶えたときに、将軍を出す役目を持っていました。
つまり、とくがわ徳川宗家の世継ぎがいる限り、その人物が将軍となることが決まっていたはずです。
5代将軍の徳川綱吉には、兄(徳川綱重)の嫡男であり、家光の孫にあたる徳川綱豊(後の徳川家宣)がいました。常識で考えれば、れっきとした徳川宗家の血をひいている徳川綱豊が6代将軍の筆頭候補になるはずです。
なぜ、徳川綱吉は甥であり、家光の孫である徳川綱豊をさしおいて、分家にあたる御三家の一つである紀州家の徳川綱教を次の将軍にと考えたのでしょうか?
血統的には誰が考えても徳川綱豊こそが次期将軍筆頭候補になるはずです。
徳川綱吉がれっきとした宗家の血をひく人物(徳川綱豊)がいるのに、御三家(分家)の徳川綱教を次期将軍にと考えた理由を教えてください。

Aベストアンサー

綱吉には徳松と言う子がいました。当初、綱吉は徳松に将軍職を譲りたいと思っていました。
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順当に行けば綱豊が将軍継嗣となってもおかしくは無いのですが、
当時、綱吉の母(桂昌院)と兄・綱重の母(順性院)は反目していて、綱吉は綱重の子である綱豊が将軍になるのは避けたかったと言うのと、
綱吉の「自分の血筋を将軍にしたい」と言う願望から、娘婿の綱教を将軍候補に擁立しようとしたのです。

しかし宝永元年、綱吉の娘で紀伊綱教の正室の鶴姫が亡くなってしまい、
綱吉の血筋が絶えてしまった事から綱教が将軍世子になる根拠がなくなり、綱豊が綱吉の世子となり家宣と名を改め6代将軍となりました。

Q戦国時代の六角氏の勢力範囲と敗退原因について

 六角氏は信長に、あっという間にやられてしまった大名というイメージです。
 ですが、実態はかなりの勢力があったと思います。
 
 六角は南近江の大名というイメージですが、勢力範囲は伊勢・大和・伊賀にも
 相当あったのではないでしょうか?

 伊勢の関氏の六角氏の重臣、蒲生氏と通婚しています。当然重臣の家臣は
 主君の許可がいるでしょうから、蒲生と関氏は同格の上、関氏は六角氏の息がかかっていると
 思います。逆に、南の北畠氏と単独では対抗できませんから、六角氏を頼ったのでしょう。
 伊賀三郡も六角氏の間接支配です。

 近江は太閤検地では77.5万石と高い石高です。伊賀も支配、伊勢も石高が高く
 近江は北近江に浅井がいるとはいえ、相当な領域支配、動員が可能だったと思います。

 ついては、六角氏の勢力範囲と敗退原因についてどう考えるか、お書きください。

 (1)六角氏は南近江(近江の石高の7割程度)+伊賀3郡+北伊勢+大和一部で
   おそらく100万国を超える領域をもっていたのではないか?
 

 (2)信長に攻められあっけなく敗退したのは、それは戦略(いつもの六角氏の)であったが
   ただ、観音寺騒動等で、家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかった
   のでは?

 どのように考えますか?
 

 
 

 六角氏は信長に、あっという間にやられてしまった大名というイメージです。
 ですが、実態はかなりの勢力があったと思います。
 
 六角は南近江の大名というイメージですが、勢力範囲は伊勢・大和・伊賀にも
 相当あったのではないでしょうか?

 伊勢の関氏の六角氏の重臣、蒲生氏と通婚しています。当然重臣の家臣は
 主君の許可がいるでしょうから、蒲生と関氏は同格の上、関氏は六角氏の息がかかっていると
 思います。逆に、南の北畠氏と単独では対抗できませんから、六角氏を頼ったのでしょう。
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Aベストアンサー

>(1)六角氏は南近江(近江の石高の7割程度)+伊賀3郡+北伊勢+大和一部で
   おそらく100万国を超える領域をもっていたのではないか?

●回答・・・その可能性はあります。
六角氏の最盛期を築いた六角定頼の晩年と、その子、六角義賢が当主になった初期には、もしかしたら100万石程度はあったかもしれません。
六角定頼の弟は北伊勢の梅戸氏(南近江に接する北伊勢を領地にする国人)に養子に入っていますし、関氏なども六角氏につきましたから北伊勢にもかなりの勢力があったでしょう。

一つの目安として1560年に六角義賢は浅井氏と「野良田の戦い」を行いましたが、ここで2万5千人の兵力を動員しています。
豊臣政権での軍役制度では一つの目安として、1万石あたり250人の動員をしました。
ただし、戦場に近い場所の武将は兵を多く動員し、遠い場所の武将は兵を少なく動員するのが普通であり、100石あたり4人とか、5人を動員する場合もありました。
六角氏も他方面への備えから全力を浅井氏に当てる事はできないでしょうから、この2万5千という兵力から考えれば、この頃は100万石程度はあったかもしれません。
ただし、この「野良田の戦い」で六角義賢は敗北しますから、その勢力を減退させた可能性があります。

また、織田信長は南近江侵攻前に北伊勢に侵攻しています。
それにより北伊勢八郡を信長の支配圏にしていましたから、北伊勢での六角氏の影響力は無くなったと見てよいと思います。

ですから、六角氏最盛期には100万石程度はあったかもしれませんが、信長侵攻時にはかなり勢力を減らしていたと思います。この時は既に100万石は無かったのではないかと思います。



>(2)信長に攻められあっけなく敗退したのは、それは戦略(いつもの六角氏の)であったが
   ただ、観音寺騒動等で、家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかった
   のでは?

●回答・・・いつもの戦略とは思いませんが、観音寺騒動等で家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかったという考えには賛成です。
実際、観音寺城の戦いで主力は和田山城に6千。義賢自身は千しか率いていません。唯一戦いになった箕作城の兵が3千。
他に支城に兵を配備していたにしても、1560年に浅井と戦った時に動員した2万5千や、1562年に京で三好勢と戦った時に動員した2万人に比べると、例え北伊勢を既に失っていたにしても、主力の数があまりに少なすぎるように思います。
やはり、1563年の観音寺騒動の影響と、織田信長の調略が大きく響き、対抗できなかったのではないかと思います。
観音寺城より南に大きく六角氏の領地はあったわけで、その南近江の南方で信長に抗戦する事なく、伊賀まで六角親子が退いたというのは、やはり国人衆に裏切られていたからではないかと思います。
実際、永原氏などは信長の侵攻五ヶ月前から信長と誼を通じていたと言われますが、永原だけが信長と通じていたというよりも、他の国人衆にも信長が調略をかけていたと考える方が自然な気がします。南近江の国人衆は殆どが信長と戦う事なくその傘下に入っていますし。

○六角親子と同じような負け方をした大名に今川氏真がいます。
「薩埵峠の戦い」で今川の国人衆の多くが戦う事なく兵を退いて武田信玄に付き、それを見た今川氏真は駿府で戦う事なく逃亡を余儀なくされました。武田の調略が良かったのか、氏真が酷すぎたのか、両方かもしれませんが。
六角義賢と義治も今川氏真と同じく、結局、器量の問題で国人衆に背かれたのではないかと思います。

まぁ尾張、美濃、北伊勢を手中にし、三河の徳川と、北近江の浅井と同盟している織田信長と戦っても勝ち目は無いと思った南近江の国人衆が多くいても不思議ではないかと思います。
何せ、六角氏親子は浅井長政とだけ戦う時でも、浅井を滅ぼす事ができませんでしたから。

>(1)六角氏は南近江(近江の石高の7割程度)+伊賀3郡+北伊勢+大和一部で
   おそらく100万国を超える領域をもっていたのではないか?

●回答・・・その可能性はあります。
六角氏の最盛期を築いた六角定頼の晩年と、その子、六角義賢が当主になった初期には、もしかしたら100万石程度はあったかもしれません。
六角定頼の弟は北伊勢の梅戸氏(南近江に接する北伊勢を領地にする国人)に養子に入っていますし、関氏なども六角氏につきましたから北伊勢にもかなりの勢力があったでしょう。

一つの目安として15...続きを読む


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