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下記質問で、「住む」は継続動詞という趣旨のご回答が案外多かったですね。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11092199.html
しかし、動詞自体を取り上げて継続動詞と断定してしまうのは間違いではないでしょうか。

なぜかというと、文脈によって、その意味は多様になるからです。
特に「ている形」では、その点が顕著に表れる。
a.彼は一度も引っ越しておらず、今もあの家に住んでいる。(継続)
b.近所に住んでいる子供の名前は全員知ってる。(状態)
c.こういう海岸沿いのマンションには昔からよく住んでいる。(反復)
d. 5LDK には一度も住んだことはない、と彼女は言ってたが、あれは嘘で実は過去に一度住んでいる。(過去完了・経験)
などです。
継続用法は a. の場合だけであることがお分かりになるかと。
継続用法かどうか判断が難しい場合は、進行形にして不自然にならないか、検証してみると良いでしょう。

b'.近所に住み続けている子供の名前は全員知ってる。

という解釈は不自然であることがわかりやすくなるはず。
あるいは、結果の存続用法かどうかは、

b".近所に住んで、その結果が存続し続けている子供の名前は全員知ってる。

と解釈にしてみれば、不自然であることがわかりやすくなる。
これらに対して、

b.近所に住んでいるという状態にある子供の名前は全員知ってる。

は不自然にはならないかと。

状態を表す用法は、文末の叙述に「ている」を伴うのが普通な動詞で使われる、といったご回答もありました。
しかし、大辞泉のように、
㋒現在の状態を表す。「彼の気持ちはもう変わっている」
という例文もあります。
他の辞書の例文に対応させても、
・行く手を阻むかのように、前方に高い山が聳える。
・彼は知力に富む人間だ。
・テルテル坊主をたくさん作れば天候に恵まれる。
・基本的に男子は母親に似る。
・周囲を林に囲まれる閑静な住宅地。
などなど、「ている」を伴わなくても普通な動詞がほとんどとさえ言えるでしょう。

以上のことからも、継続動詞というものは、あくまで「継続用法をする場合の動詞」という意味に捉えるべきだと思うのです。
我々はシチュエーションというものについて、もう少し神経を使う必要があるのではないですかね。

「住む」は継続動詞

のような分類はまったく意味がないと思うのですが、みなさんはどう思われますか?

質問者からの補足コメント

  • #25お礼欄からの続き

    8.
    >最初に、日本語の動詞をアスペクトの観点から全体的に分類し、体系づけた、という業績は否定しようがありません。

    ただ、それは niwa 先生もおっしゃるように『基準となる用法』としての分類ですよね。
    そのように分類することで、「基準以外の用法」に思いをいたせない方が多くなってしまっているのではないか、ということを申し上げているところです。

    9.
    >  次の文の「歩く」(スル形)は動きを表すが、「歩いている」(シテイル形)は状態を表す。
        鈴木は歩く。(単に「歩く」という動きがあることを表す)
        鈴木は歩いている。(「歩く」という動きを現在の状態としてとらえる)

    ・あ、鈴木さんが歩いている。(「歩く」という動作が進行中である)
    という捉え方はできない、ということですか?

    下段へ続く

    No.25の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/05/17 15:22
  • 上段からの続き

    10.
    >で、動きの「進行中」は、「状態」を表す、のです。

    それを言うなら、継続している状態・存続している状態・反復している状態・完了している状態、すべて「状態」では?

    >私は、どうもこの言い方には抵抗があるのですが、上に書いたように、「現在のことを表せる」のが「状態動詞」の定義ですので、

    ご自身の感覚のほうを信用なさっていただきたい、という印象を受けますね。
    「〇〇動詞」という分類に拘ってしまうのは勿体ないですし、これこそが弊害と言えるように思われます。
    先にも申し上げましたが、進行と継続は分けて考えるべきでしょう。(わたしも流されて一緒の意味で使うこともありますが)

    下段へ続く

      補足日時:2019/05/17 15:23
  • 上段からの続き

    11.
    工藤氏のサイトもありがとうございます。
    わたしの手には余りますが、つまみぐいしたところでは下記のような記述があります。

    ※b)運動動詞[動作動詞とも] :テンスは、基本的に<未来-過去>の対立
      イ)動作動詞[継続動詞とも]:シテイル形の基本的な意味が<動作作用の継続>
       ①主体の動き・動作を あらわす 自動詞
         歩く 走る 泣く 働く ~~~※ 

    【シテイル形の基本的な意味が<動作作用の継続>】という箇所だけで、首を傾げざるを得ない、というのが個人的なスタンスです。

      補足日時:2019/05/17 15:24
  • 上段への補足

    【シテイル形の基本的な意味が<動作作用の継続>】ということ自体を否定しているわけではありません。
    「基本的な意味(だけ)」を分類項目として取り上げるのは(分類から外れる意味を結果的に無視していることになるわけだから)疑問に思う、という意味。
    「ている形」が介在せずとも、「住む」という動詞自体に複数の意味(作用)がありますよね。

      補足日時:2019/05/17 15:28
  • #26お礼欄からの続き。

    5.
    >「(住む という)動作が進行中」という捉え方は不自然でしょう、ということです。

    「進行と継続は分けて考えるべきだ」と思うのはかまいませんが、わけのわからない用語を使ってはいけません。

    「(住む という)動作が進行中」という捉え方は不自然

    という私見について、

    ちょっと何言ってるかわからない。

    ということでしょうか?

    6.
    >日本語のアスペクトというのは、かなり議論が進んでいる分野なんですよ。

    特に深く掘り下げるつもりも力もありません。
    浅学の身には荷が重すぎるようですが、色々ご紹介いただきありがとうございます。

    No.26の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/05/22 15:12

A 回答 (26件中1~10件)

1.


>「住んでいる」は「継続動詞」とは言いません。
「住む」が状態の意味も持っていることを、わかりやすく説明するために「ている形」を持ち出しています。

「わかりやすく説明するために」間違ったことを言ってはいけません。

2.
>この分類の基準となる用法の観察は、主文末の述語として、言い切り・現在の用法についてだと言うことがあります。
おっしゃりたいことはよくわかります。
ただ、複数の用法がある動詞について『分類の基準となる用法』を確定させようとする意図に疑義を呈しているところ。

「複数の用法」の中から、どれが基本的な用法かを見極め、それを「分類の基準」とすること。
こういうやり方(複数の事象の中から、どれが基本的なものかを判断し、それを分析の対象とし、その結果を基準として全体を考えていくこと)は、多くの自然科学(例えば生物学?)でとられている方法だと思います。研究の方法論の問題ですね。
アスペクトの分析で、主文末言い切りを基本とすることに「疑義を呈して」みるのは、まあ、悪い事じゃないでしょうが、相当詳しい議論が必要ですね。思いつき程度では相手にされません。

3.
>ですから、「近所に住んでいる子ども」のような連体節内の用法の例は議論にとって無意味です。
:これはこれでまた別の問題になるということはあるでしょうね。

「これはこれでまた別の問題になるということはある」のではなくて、まったくそうなんです。

4.
>「ある・いる」のような「状態動詞」を他の動詞と分ける根拠は、言い切りの述語として現在のことを表せるかどうかという点です。
>「継続動詞/瞬間動詞」は今現在のことでなく、発話時以降のことを表します。
:「あの湖には竜が住む」
は非文ということですか?

こういうところで、文法研究の「センス」とでも言いたくなるところがあるのですが、うーむ、どう説明すればいいか。
普通体の文末言い切りというのは、実際の言語運用場面から離れて、宙に浮いたような文になることがあります。この例で言えば、
あの湖には竜が住む、(と言われる、と語り伝えられている、という噂がある)
みたいなものを、聞き手が頭の中に無意識に浮かべてしまうと、その文がごくふつうの文に思えてくる。(こういうのは実例としても拾えてしまいます)
そうではなくて、話し手が聞き手に実際に話す場面として、
  「あの湖には何がいますか」「あの湖には竜が住みます」
という会話が自然かどうかということです。(答えが「ずれている」と感じませんか? そう感じないなら、「頭の中にもっている文法の違い」です。)
「あの湖には竜が住む」が「非文」でないのはわかりきったことなので、それを問うても議論にならないのです。
この辺の議論は、文法研究者でもわかっていない人がけっこういて、議論をして疲れることがありますが。

5.
> あるもの/人の、本来持った性質や常に繰り返される動作についての文は、「現在」でなく「超時」と見なされます。
    ・テルテル坊主をたくさん作れば天候に恵まれる。
    ・基本的に男子は母親に似る。
の類ですね。これらは「現在の状態」とは言えません。
:テンスから言えばそうなのでしょうが、アスペクトとすれば「状態」と捉えて差し支えないような気もしますけどね。
「その状態」あるいは「超時の状態」なら可でしょうか。
「我妹子が家の垣内のさ百合花ゆりと言へるは否と言ふに似る」〈万・一五〇三〉
「動作」を表わすものではない、と言いたいのが主張の骨子です。

「テンスから言えばそうなのでしょうが」はい、テンスの話をしています。
「アスペクトとすれば「状態」と捉えて差し支えない」はい、そうです。「超時」という、テンスに対立する中で「状態」を表していると言っていいでしょう。
しかし、それは「現在の状態」ではありません。(この「現在」は、「今、現在」という現実の話ではなく、文法用語、テンスの一つとしての「現在」です。)

6.
>私は以前は東京に住んでいましたが、現在は北海道に住みます。
:これは、非文だということですか。
それはさておき、「動作」ではない場合を示したかったのですが、例としては妥当性を欠いたかもしれませんね。

「それはさてお」いてはいけません。まさにそこが問題なのです。「例としては妥当性を欠いた」のではなく、そもそも不適当なのです。

7.
>下の「進行形」の意味がわかりません。
>この「ている」は「進行/継続」を表す、という風には言いますが。
b'.近所に住み続けている子供の名前は全員知ってる。

個人的には、進行と継続は分けて考えるべきだと思っています。
「(住む という)動作が進行中」という捉え方は不自然でしょう、ということです。

「進行と継続は分けて考えるべきだ」と思うのはかまいませんが、わけのわからない用語を使ってはいけません。

まだ続いていますが、問題点はほとんど同じことです。用語(分析概念)をきちんと使い、議論を積み上げていくことは、そういう議論になれていない人には難しい、ということで、まあ、しかたがないことですが、やはり基本文献をしっかり読んでからのほうがいいでしょうね。

日本語のアスペクトに関する基本中の基本の文献

https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%A …

もう一つ。
https://www.amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%9 …

これはちょっと難しい。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%8 …

まあ、この3冊(ほかに論文いくつか。)が基本でしょう。その後もアスペクトに関する本は何冊も出ています。

ほんとに、日本語のアスペクトというのは、かなり議論が進んでいる分野なんですよ。
私なんぞが何か言えるところじゃないんですが、まあ、知っている範囲で答えてみました。

saburoo
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.
>「わかりやすく説明するために」間違ったことを言ってはいけません。

ごもっとも。

「住んでいる」というテイル形と同じように、「住む」という動詞自体もすでにそれだけで多様な意味を持っているはずだ。

などのように表現すべきだったかもしれません。

2.
>アスペクトの分析で、主文末言い切りを基本とすることに「疑義を呈して」みるのは、まあ、悪い事じゃないでしょうが、相当詳しい議論が必要ですね。思いつき程度では相手にされません。

これまたごもっともです。
「疑義を呈して」は大げさだったかもしれません。

「住む」には(気づいていないだけで)多様な意味があるでしょう。
あたかも、そうした意味を無視するかのような「住む は継続動詞」という分類はいかがなものか。
これを『分類の基準となる用法』などと捉えてしまうため、
「住んでいる」は継続・進行中の動作である、といった解釈が平然と罷り通ってしまうのではないか?

といった程度の単純な「疑義」にすぎないのですけどね。

3.
>普通体の文末言い切りというのは、実際の言語運用場面から離れて、宙に浮いたような文になることがあります。

それはわかります。
「あの湖には主がいるそうだが、一体何が住んでいるのですか?」「あの湖には竜が住みます」
という会話は成立するかと。

>「あの湖には竜が住む」が「非文」でないのはわかりきったことなので、それを問うても議論にならないのです。

非文でないなら、

この場合の「住む」の用法(意味)は何か?

ということを論点にしていただきたい、という趣旨です。
わたしとしては「状態」を表わしていると捉える次第。
「住み続けている」という意図でも、「過去に住みつき、その結果が今も存続している」という意図でもないはず。

4.
>しかし、それは「現在の状態」ではありません。

たしかに「超時」を表わすに適切な表現ではないですね。
ただ、これは、単に大辞泉の編纂者の能力の問題かと。
わたしは「超時」と捉えているつもりですし、大辞林では「その状態であることを表す」となっている。

以下、補足欄へ。

お礼日時:2019/05/22 15:11

長い議論が続いたようで、今ごろになってという感もありますが、私の考えを少し。



議論の大元は1950年の金田一春彦の論文ですが、それはずいぶん前の話なので、その後、いろいろと修正意見が出され、議論は細かくなっています。それを参照せずに、70年前の論文についての疑義を出すのはどうかなあ、というのが一つあります。

それはともかく、「状態動詞」「継続動詞・瞬間動詞」という分類の基本を考えます。

1 まず、「継続動詞」というのは、「住む」のようないわゆる単独の動詞の終止形についての名付けで、「住んでいる」は「継続動詞」とは言いません。この点で、一部、議論が不必要に混乱しているように見受けられます。
「住んでいる」の「(て)いる」が「継続」を表すか、「状態」を表すか、というのは別の議論です。

2 この分類の基準となる用法の観察は、主文末の述語として、言い切り・現在の用法についてだと言うことがあります。
ですから、「近所に住んでいる子ども」のような連体節内の用法の例は議論にとって無意味です。

3 「ある・いる」のような「状態動詞」を他の動詞と分ける根拠は、言い切りの述語として現在のことを表せるかどうかという点です。

    今(現在)、ここにいる/ある
    今(現在)、走る/たべる/変わる/生まれる

「継続動詞/瞬間動詞」は今現在のことでなく、発話時以降のことを表します。

4 この「現在を表す」ということについて、よくある誤解は「超時」というテンスの話での術語にしたしんでいるかどうか、という点に関わります。
 あるもの/人の、本来持った性質や常に繰り返される動作についての文は、「現在」でなく「超時」と見なされます。

    ・テルテル坊主をたくさん作れば天候に恵まれる。
    ・基本的に男子は母親に似る。

の類ですね。これらは「現在の状態」とは言えません。

5 で、「住む」という動詞は「現在の状態」を表すかどうか。

    私は以前は東京に住んでいましたが、現在は北海道に住みます。

という文を、何の抵抗もなく受け入れられる人は、おそらく、私とは(頭の中にある)日本語の文法が違うのだろう、としか言えません。(話し言葉的にするために、丁寧体にしました)
日本語学習者がこういう文を書いてきたら、「住みます」は「住んでいます」にしないと変ですね、と言って直します。

6 「住んでいる」などの「ている」の形が文脈によって意味が多様になる、ということは、よく知られていることです。基本的な用法と派生的な用法をどう整理するかという議論は、金田一以後に繰り返しなされています。

これは細かいことですが、下の「進行形」の意味がわかりません。日本語の文法で「進行形」という術語が使われるかどうか、私の知る範囲ではないように思うのですが。
この「ている」は「進行/継続」を表す、という風には言いますが。

    継続用法かどうか判断が難しい場合は、進行形にして不自然にならないか、検証してみると
    良いでしょう。
      b'.近所に住み続けている子供の名前は全員知ってる。

7 「「住む」は継続動詞」のような分類はまったく意味がない、というのはなかなか大きな議論です。金田一論文は戦後アスペクト研究の出発点、という評価はほとんど不動のものだと思うのですが、
それに反対するには、そうとう大きな、詳しい議論が必要です。
 もちろん、金田一の分析内容は後にいろいろと検討され、修正され、拡大され、用語の変更が提案され、といった具合に議論がなされていますが、最初に、日本語の動詞をアスペクトの観点から全体的に分類し、体系づけた、という業績は否定しようがありません。
 言語は、自然科学的な方法で分析できる対象です。その中にある事実は、一度発見してしまえば、その発見そのものはもう二度と繰り返せません。早い者勝ち、です。言語事実は変わらないので、その中にある、自ずからなるおおよその分類/体系は一つしかないのです。金田一以後の研究は、ほとんどが金田一の分類を基本的に引き継いでいます。
 日本語のアスペクトに関する基本的事実は、金田一によって整理/確立された、と言っていいと思います。それに対する反論(全体的な体系の組み替え)をしようと思ったら、少なくとも数冊の専門研究書と、数十編の論文を読んで、それらで述べられた分析/言語事実を、違った観点から読み替える必要があります。
 そんなことができたら、すごいですねえ。

8 「住んでいる」は「継続」を表すか、「状態」を表すか。
 この議論には、私は関心がありません。「継続動詞」の「ている形」が「状態」を表すと言っても、「継続動詞」であることに何の影響もないからです。
 私がいつも引用する全7巻の「現代日本語文法」には、次のようにあります。

  アスペクトで表し分けられる動きの取り上げ方の違いとして、もっとも基本的なのは、
  動きをそのまま動きとしてとらえるか、状態としてとらえるかという点である。例えば、
  次の文の「歩く」(スル形)は動きを表すが、「歩いている」(シテイル形)は状態を表す。
    鈴木は歩く。(単に「歩く」という動きがあることを表す)
    鈴木は歩いている。(「歩く」という動きを現在の状態としてとらえる)
                    (『現代日本語文法3』p.3 くろしお出版)

 この本は、「ている」について「動作の継続」という言い方をしないのですね。「継続」というと紛らわしいからでしょうか。「進行中」と名付けています。で、動きの「進行中」は、「状態」を表す、のです。
 私は、どうもこの言い方には抵抗があるのですが、上に書いたように、「現在のことを表せる」のが「状態動詞」の定義ですので、「ている」が現在のことを表すなら、それは「状態動詞」と同じ類になる、つまり「状態」を表す、といっていいことになります。(そもそも「ている」の「いる」は元々状態動詞ですし)

この辺の話は、私もちょっとまだすっきりしないところなので、この辺でやめておきます。
以上、参考になりましたら。

金田一以後の研究のまとめとして、ネット上にあるものでは次のものがいいかと思います。

http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~kudohiro/notes01. …

レジュメのような形式なのでわかりにくいところもありますが、高校の数学の教科書でも読むような気持ちで、ゆっくり読んでいけば、現在のアスペクト研究のおおよそがわかるだろうと思います。

工藤浩は(このサイト全体を見てみればわかるように)日本語文法研究者として現在の第一線にある人です。

saburoo
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.
>「住んでいる」は「継続動詞」とは言いません。

「住む」が状態の意味も持っていることを、わかりやすく説明するために「ている形」を持ち出しています。

2.
>この分類の基準となる用法の観察は、主文末の述語として、言い切り・現在の用法についてだと言うことがあります。

おっしゃりたいことはよくわかります。
ただ、複数の用法がある動詞について『分類の基準となる用法』を確定させようとする意図に疑義を呈しているところ。

3.
>ですから、「近所に住んでいる子ども」のような連体節内の用法の例は議論にとって無意味です。

これはこれでまた別の問題になるということはあるでしょうね。

4.
>「ある・いる」のような「状態動詞」を他の動詞と分ける根拠は、言い切りの述語として現在のことを表せるかどうかという点です。
>「継続動詞/瞬間動詞」は今現在のことでなく、発話時以降のことを表します。

「あの湖には竜が住む」
は非文ということですか?

5.
> あるもの/人の、本来持った性質や常に繰り返される動作についての文は、「現在」でなく「超時」と見なされます。

    ・テルテル坊主をたくさん作れば天候に恵まれる。
    ・基本的に男子は母親に似る。

の類ですね。これらは「現在の状態」とは言えません。

テンスから言えばそうなのでしょうが、アスペクトとすれば「状態」と捉えて差し支えないような気もしますけどね。
「その状態」あるいは「超時の状態」なら可でしょうか。
「我妹子が家の垣内のさ百合花ゆりと言へるは否と言ふに似る」〈万・一五〇三〉
「動作」を表わすものではない、と言いたいのが主張の骨子です。

6.
>私は以前は東京に住んでいましたが、現在は北海道に住みます。

これは、非文だということですか。
それはさておき、「動作」ではない場合を示したかったのですが、例としては妥当性を欠いたかもしれませんね。

7.
>下の「進行形」の意味がわかりません。
>この「ている」は「進行/継続」を表す、という風には言いますが。
b'.近所に住み続けている子供の名前は全員知ってる。

個人的には、進行と継続は分けて考えるべきだと思っています。
「(住む という)動作が進行中」という捉え方は不自然でしょう、ということです。

以下、補足欄へ

お礼日時:2019/05/17 15:21

そろそろ面倒に感じています。



> 5.>英語のliveも、He lives just across the street from me. と表現した場合、たまたま道の向かいに現在居るというのではないです。 私も、彼も、道を隔てたところに継続して生活しているのを「住む、live」というのです。
> He lives just across the street from me. を状態と考えることは無理そうですかね。
> 継続の場合、He is living just across the street from me. と表現するようにも思うのですが、そんなこともありませんか。

言葉の使い方やイメージが、私とhakobuluさんは、違うようです。
継続する行為  現在の状況      継続する行為     そのときの状況
He lives    He is living       彼は祈る 祈った   彼は祈っている 祈っていた
She runs    She is running     吾は舞う 舞った   私は舞っている 舞っていた
He practices piano He is practicing piano 練習 修行 学習   練習中 修行中 学習中

> 5年後、「うちにはネズミが5年前から住む」と言うことは出来そうですね。

言えますよ。「来年からはロンドンに住む」や「平安時代には日本列島には米国人は住んでなかった」も言えます。 多くの言い方は可能ですが、旅行の行程や目的地で宿泊しても、軍の活動で軍が数日同じ場所を野営地としても、普通は「住む・住んだ」とは言いません。 クルーズ船の同じ船室で一ヶ月寝て暮らしても観光旅行が目的であれば住むとは言わず、水上生活者としてボートに居を求めたり、
https://www.re-port.net/article/column/0000035730/ シェルター(ホームレスシェルター)生活者や車両生活者、路上生活者は、「そこに住んでいる」(状況であるが、継続してもいる)と言うのでしょう。 飲んだくれた結果、あるいは交通途絶麻痺の結果で、路上や車上、構内、空港施設等で寝るはめになったとしても、住むとか住んだとは言わないのが普通です。
住むだけでなく、暮らす、仕える、生える、育つ、育てる、虐める、衰える、栄える、朽ちるなどにも時間軸なしにはイメージしにくい感じがあります。歩く、走る、描く、書く、話す、語るなどの行為を示すのも、1動作というよりは、類似動作が繰り返されていることを前提にしないとイメージしにくいです。 その言葉自体の中に、繰り返しなされる何かのイメージが内在している言葉は少なくないです。 

「在る、有る」は、存在の認知を示す場合もありますが、存在や居合わせていることそのものを示す場合も、また目立つ状態であることを表明する場合も、さらに時間が経過することを示す場合も、留まり住み暮らすことを示す場合もあり、補助動詞として特定の状態あるいは任意のものであることを示すのにも使われます。任意のものであることを示す連体詞として「ある」を使うこともあります。 「みる」も、視覚的な要素を含まない用法で頻繁に使われています。 

言葉は、品詞に関わらず、一つしか使い方がない、一つのイメージに集約できるとはならないものが多いです。 品詞の区分だってカンタンに固定できるものではないです。 
そうではあっても、実用や研究上の便宜を考えれば、なんらかの区分にすることが有効というものでしょう。 「いろいろあらぁね、一筋縄じゃだめ」では、実用性がなくなることが多いです。
https://blog.goo.ne.jp/0424725533/e/ec7b8f48fde3 …
https://forum.wordreference.com/threads/i-practi …
英語を教えるのなら、He practices piano ではなく、He practices a piano でもなく、He practices the piano でもなく、He practices his piano にでもしますか。 そのような見切りも必要ではないでしょうか。 もちろん He practices the piano で教えた方が楽という考えもあります。 さらに practices で教えるのであって、 practises とは教えないので構わないでしょう。
私もそうですが、私が意識して聞いたコトがある発言(議事録をとる都合で録音したものを一語一語聞き取ると)、文法さえもめちゃめちゃなのが多いです。用語の選択の不適切など気にしていたら始まりませんし、日常生活や業務に支障が出てしまいます。 細かいことや、少ない事例を気にして言葉遣いを教えたら、教わる方が堪りません。 

この質問に対するコメントや回答は、私はこれで終わりにします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>そうではあっても、実用や研究上の便宜を考えれば、なんらかの区分にすることが有効というものでしょう。 「いろいろあらぁね、一筋縄じゃだめ」では、実用性がなくなることが多いです。

そうかもしれませんね。
色々なお話を聞けて、大変参考になりました。
長らくお付き合いいただき、感謝申し上げます。

お礼日時:2019/05/15 19:42

1.>、多くの方がbのようにも考えるのであれば、日本語を教える実用上は継続と説明してもいいです。


: 端的にお尋ねします。継続以外の用法はあるが、最初からそれを教える必要はない、という意味の文になっていますが、そういうことですか?

★ 実用という面で言うなら、第2外国語として日本語を教えるということなら、滅多にない用法、例外的用法を教えない方が良いです。

2.>実際に表明されているのですから、あり得た見解としか言えないし、
: あなたにとってあり得ない見解でしょうか? という意味です。 いかがでしょうか。

★ { ・あの大きな家に住んでいる人の名前を知ってますか?という文の場合、 ・あの大きな家に 住むという動作を続けている人 の名前を知ってますか?という継続の意図ではなく、 ・あの大きな家に 住むという状態でいる人 の名前を知ってますか?という状態を表わす意図じゃないかと思いますけどね。  ・彼女は母親に似ている。が、継続の意図ではないのと同様に。 }についての私のコメントは、《{}内は、思い違いをしている》です。 
{・あの大きな家に住んでいる人の名前を知ってますか?という文の場合、・あの大きな家に住み生活していた人の名前を知ってますか?という生活者の名前の認知や名前を知らせることの質問であって、状態の質問でもないし、継続についての質問でもない } { あの家に住んでいた人という句は、過去形あるいは過去完了を示していますが、「あの家にいた人」ではなく「あの家に住んでいた人」という表現にしていることから、一時的な状態を切り取って指定しているのではなく、ある程度の期間は連続していた=継続していた【住む】をイメージしている}と理解するのが妥当です。 

3.>「ある時点の」というのは「そのほかの時点では異なる」であったり、「ありさま」は(そのときの)様子、みかけ、見え方、状況」です。
: わかりました。 そういうご見解なのですね。個人的には、「ある時点」は、「そのほかの時点では異なる」という含意は特に無く、「様子、みかけ、見え方、状況」などを認識した時点、といった意味に捉えます。 大辞林では、「変化する物事の、その時その時の様子。」などとなっていて、こちらの場合も、他の時点を排除する意図は含んでいないように思う次第。

★ 「変化する物事の、その時その時の様子。」などとなっているのであれば、「そのときそのとき」ではない時点は認識の対象にはしてないという意味が基本です。 「今は」は「先ほど」や「今後」については対象にはしてないというのが、基本のメッセージです。 
{「ある時点」は、「そのほかの時点では異なる」という含意は特に無く、}という人もいるでしょう。 
「高校では英語の成績は重要だ」という言の場合、「中学や大学については特に思ってはおらず、高校についてだけ述べたに過ぎない」という補足説明と似ています。 当人の意識の中に「高校しかなかった」というのはそうなのでしょうが、そのことは「中学や大学については、意識から外れていた、対象にはしてなかった」ということです。 
「状態」というのは「ある時点のありさま」というイメージが濃厚です。 「ある時点の」というのは「そのほかの時点では異なる」であったり、「ありさま」は(そのときの)様子、みかけ、見え方、状況」です。
空腹状態、混乱状態、貧困状態、当惑状態、失業状態、戦闘状態、平常状態、、、「状態」という熟語を使うときにはその状態のときだけであって、その状態以外の状態については排除し、対象外としているのが普通の言葉の使い方です。

4.>「住む」は、状況・状態というよりも、似た生活が月日を重ねて行われてることを示していると思う人の方が多いでしょう。 2泊3日、1週間滞在というのを、普通は住むとは表現しません。
: まったくおっしゃるとおりです。 ただ、①{『似た生活が月日を重ねて行われてることを示している』の場合、継続・進行を意味しませんか?}  たしかに、それに該当するシチュエーションはあると思います。 しかし、たとえば、②{・あの家は、幽霊の住んでいる家として近所でも評判です。などの場合、継続・進行ではなく、やはり状態を表わしているのではないか} と思う、ということです。

★ ①「住む」が『似た生活が月日を重ねて行われることを示している』場合、「住む」は、「何かがある期間継続する」=『似た生活が月日を重ねて行われる』を意識していると思います。 過去完了の場合でも、現在進行形の場合でも、これから先のことを考えている場合でも、「住む」は、「何かがある期間継続する」=『似た生活が月日を重ねて行われる』を意識していると思います。
★ ②a「あの家は寝室毎に浴室とトイレがある家として近所でも評判です」、b「あの家はベートーベンがウィーンへ行く21歳まで住んでいた家として近所で知らない人はいません」 このa「家として近所でも評判です」、b「家として近所で知らない人はいません」はともに状態を表しています。 a「寝室毎に浴室とトイレがある」も状態を示しています。 b「ウィーンへ行く21歳まで住んでいた」は居が継続していたことを示しています。 「幽霊の住んでいる家」ならば、いつが始点であるか、いつが終点であるかは不明ですが、少なくとも(現在を含んで、数日よりも長い期間、継続して幽霊が出現を繰り返した)というメッセージ内容だと解するのが普通です。 
住む、暮らす、仕える、生える、育つ、衰えるなどの言葉は、その言葉自体の中に、繰り返しなされる何かのイメージが内在してます。 「する」を付ける動詞でも、「修行する」「訓練する」「調教する」「練習する」「研究する」「経営する」「統治する」「発展する」「老化する」「強化する」など場合、その動詞で「(何かが)繰り返えされているイメージ」は重要な要素です。(もちろん、本番の前に一度だけ練習するというような言葉の使い方がないわけではないです。強化するなどの場合には、物品や構造物に一度の何かの策を講じるという用例も多いです)
英語のliveも、He lives just across the street from me. と表現した場合、たまたま道の向かいに現在居るというのではないです。 私も、彼も、道を隔てたところに継続して生活しているのを「住む、live」というのです。

「うちにネズミが住み着いた」というような場合でも、たまたま一度しかネズミを見かけなかったとしても、意識としては我が家のどこかにネズミが巣を作って住み着いてしまったと思っているのです。明日にはどこかに巣を作って我が家からいなくなるだろうと思ったら、住むという言葉は使いません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.
>★ 実用という面で言うなら、第2外国語として日本語を教えるということなら、滅多にない用法、例外的用法を教えない方が良いです。

そういうお考えなのですね。
わかりました。

2.
>《{}内は、思い違いをしている》です。
:
『あり得た見解としか言えない』だけでは、そういう意味であることがわからなかったのでお尋ねしたのですが、これでわかりました。

3.
>そのことは「中学や大学については、意識から外れていた、対象にはしてなかった」ということです。 

なるほど。
無意識的に外れていたのか、意識的に外したのか、どちらの場合もありそうですね。

4.
> 過去完了の場合でも、現在進行形の場合でも、これから先のことを考えている場合でも、「住む」は、「何かがある期間継続する」=『似た生活が月日を重ねて行われる』を意識していると思います。

わかりました。
ここは見解の相違のようです。
「(ベートーベンが住んでいた)家として近所で知らない人はいません」
は状態を表わすが、
「幽霊の住んでいる家として近所で評判です」
は状態ではない。
という論理展開がちょっと理解できませんでした。

5.
>英語のliveも、He lives just across the street from me. と表現した場合、たまたま道の向かいに現在居るというのではないです。 私も、彼も、道を隔てたところに継続して生活しているのを「住む、live」というのです。

He lives just across the street from me.

を状態と考えることは無理そうですかね。
継続の場合、

He is living just across the street from me.

と表現するようにも思うのですが、そんなこともありませんか。

6.
>「うちにネズミが住み着いた」
>明日にはどこかに巣を作って我が家からいなくなるだろうと思ったら、住むという言葉は使いません。

たしかに。
ただ、5年後、

「うちにはネズミが5年前から住む」

と言うことは出来そうですね。

お礼日時:2019/05/14 17:08

> ここを勘違いなさる方が多いように思うのですが、a(・あの大きな家に住んでいる人の名前を知ってますか?) という文の場合、b(・あの大きな家に 住むという動作を続けている人 の名前を知ってますか?)という継続の意図ではなく c(・あの大きな家に 住むという状態でいる人 の名前を知ってますか?) という状態を表わす意図じゃないかと思いますけどね。



勘違いがどうかはともかく、多くの方がbのようにも考えるのであれば、日本語を教える実用上は継続と説明してもいいです。

> d(・彼女は母親に似ている。)が、継続の意図ではないのと同様に。

dを継続とは思わず、状況や状態の判定評価だと思ったとして、そのことと、a.b.c.とは関係が無いでしょう。

> どう思われます? 極めて自然ではないかと自負しているのですが、わたしの見解は、あり得ない見解なんですかね?

表明された他人の意見や思い込みを、「あり得ない見解」というのは、修辞表現としては言えても、実際に表明されているのですから、あり得た見解としか言えないし、今後も、また現在も似た見解のヒトはいるでしょう。 

国語辞典によって、少しは説明が違うと思いますが、「状態」というのは「ある時点のありさま」というイメージが濃厚です。 「ある時点の」というのは「そのほかの時点では異なる」であったり、「ありさま」は(そのときの)様子、みかけ、見え方、状況」です。 「住む」というのは「ある期間はそこで生活している」というイメージです。 「住む」は、状況・状態というよりも、似た生活が月日を重ねて行われてることを示していると思う人の方が多いでしょう。 2泊3日、1週間滞在というのを、普通は住むとは表現しません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
お礼が遅れて申し訳ないです。

1.
>、多くの方がbのようにも考えるのであれば、日本語を教える実用上は継続と説明してもいいです。

端的にお尋ねします。
継続以外の用法はあるが、最初からそれを教える必要はない、という意味の文になっていますが、そういうことですか?

2.
>実際に表明されているのですから、あり得た見解としか言えないし、

あなたにとってあり得ない見解でしょうか?
という意味です。
いかがでしょうか。

3.
>「ある時点の」というのは「そのほかの時点では異なる」であったり、「ありさま」は(そのときの)様子、みかけ、見え方、状況」です。

わかりました。
そういうご見解なのですね。
個人的には、「ある時点」は、「そのほかの時点では異なる」という含意は特に無く、「様子、みかけ、見え方、状況」などを認識した時点、といった意味に捉えます。
大辞林では、「変化する物事の、その時その時の様子。」などとなっていて、こちらの場合も、他の時点を排除する意図は含んでいないように思う次第。

4.
>「住む」は、状況・状態というよりも、似た生活が月日を重ねて行われてることを示していると思う人の方が多いでしょう。 2泊3日、1週間滞在というのを、普通は住むとは表現しません。

まったくおっしゃるとおりです。
ただ、『似た生活が月日を重ねて行われてることを示している』の場合、継続・進行を意味しませんか?
たしかに、それに該当するシチュエーションはあると思います。
しかし、たとえば、

・あの家は、幽霊の住んでいる家として近所でも評判です。

などの場合、継続・進行ではなく、やはり状態を表わしているのではないかと思う、ということです。

お礼日時:2019/05/13 20:15

> 住むという動詞は『ひとつのことにいくつもの視点からアプローチできる』のに、「住むは継続動詞」のように、「ひとつのことにひとつの視点からしかアプローチできないように』分類してしまうのは、日本語学習者にとって実用性が無いのではないだろうか、ということを申し上げたわけです。



国立国語研究所で構築したコーパス (言語を分析するための基礎資料として,書き言葉や話し言葉の資料を体系的に収集し,研究用の情報を付与したもの)で検索すると、『住む』の使用例の大部分は、[ 1 家や場所をきめて、常にそこで生活する。居住する。、 2 ある領域に身を置く。生きている。 ]で、家や建物よりも、地域や環境を対象にしている例が大部分です。 

> a.彼は一度も引っ越しておらず、今もあの家に住んでいる。(継続)
> b.近所に住んでいる子供の名前は全員知ってる。(状態)
> c.こういう海岸沿いのマンションには昔からよく住んでいる。(反復)
> d. 5LDK には一度も住んだことはない、と彼女は言ってたが、あれは嘘で実は過去に一度住んでいる。(過去完了・経験)

a.だけでなく、b.c.d.にしても、[1 家や場所をきめて、常にそこで生活する。居住する、 2 ある領域に身を置く。生きている]という意味で『住む』を使っているのであって、状態や状況、価値・評価、存否を示しているのではないし、ある変化作用や動きを示しているのでもなく、活動などが継続している様を表して『住む』という言葉を使っているのでしょう。 b.で(状態)を示しているのは「知っている」「住んでいる」という「ている」を使っている(これも「ている」)からでしょう。 c.で(反復)と感じるのは「昔からよく○○ている」という形にしているからでしょう。 d.で(完了や過去)に受け取るのは「だ・た」を使ったり、「過去に○度△ている」という表現にしているからであって、『住む』それ自体がもっている意味ではないでしょう。

No.4の回答で、次のように書きました。
国語動詞に於ける(アスペクト観点による)四類型の存在
(状態動詞) 状態を表し、時間を超越したもの:「~ている」は付加できない。
(継続動詞) 動作作用を表し、動作作用に継続があるもの:「~ている」を付加すると継続中を示す。
(瞬間動詞) 動作作用を表し、動作作用がすぐ終わるもの:「~ている」を付加すると結果の残存を示す。
第四種の動詞 時間観念を含まず、「ある状態を帯びること」を表わす:常に「~ている」を付ける。
1つの動詞が複数の項目にまたがる例があるとも言っている。

住む人のない家 住んでない家屋 住んでいる人 10年前に住んでいた家

この例で、《で(て)ない、で(て)いる、で(て)いた》は、継続中であることを示しています。 (《で(て)いた》は、継続が過去、現在完了、過去完了になることを「た」で示しています) 
『住む』についてだけをいうのならば、これを継続動詞として教えることは実用的です。

『浮かぶ』の場合、アイデアが浮かぶ、目に浮かぶ、エーゲ海に浮かぶ、天空に浮かぶ
『帯びる』の場合、刀を帯びる、丸みを帯びる、国際的な性格を帯びる、普遍性を帯びる
このような言葉だと、表現しようとする意味によって区分が変わるということもありますが、動詞の7,8割は、だいたいのところ(瞬間動詞)(継続動詞) と分けて説明することも、日本語教育で実用的有効性はあるのではないかと思います。
なお、1950年の金田一の動詞分類に対して、『ている/ていた/る/た』に注目し変化動詞/非変化動詞というのを見る見解もあります。
学究的なことを別にして、第2外国語として日本語を学ぶ者に対する教育の観点からしても、いろいろの見方はあるでしょう。 被教育者(学習者)の母語や資質及び学習の目的によって、どのような教え方が実用的で効率的なのかは変わると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

b.c.d に関しては、同じ「ている」でも継続以外の用法であり、しかも、それぞれ意味が異なる、という点が肝要かと。

>住む人のない家 住んでない家屋 住んでいる人 10年前に住んでいた家

この例で、《で(て)ない、で(て)いる、で(て)いた》は、継続中であることを示しています。

ここを勘違いなさる方が多いように思うのですが、

・あの大きな家に住んでいる人の名前を知ってますか?

という文の場合、

・あの大きな家に 住むという動作を続けている人 の名前を知ってますか?

という継続の意図ではなく、

・あの大きな家に 住むという状態でいる人 の名前を知ってますか?

という状態を表わす意図じゃないかと思いますけどね。

・彼女は母親に似ている。

が、継続の意図ではないのと同様に。
どう思われます?
極めて自然ではないかと自負しているのですが、わたしの見解は、あり得ない見解なんですかね?

お礼日時:2019/05/09 22:57

>基本形なので、進行形の可能性を温存しており、汎用性が高いということなのかも


そういうことでしょうね。
○○形ねなんて決めつけ?手しまうと、表現の自由さがなくなくなるだけですね。
属に言う、箸のあげおろし、まで法律で決められているような感じ?。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2019/05/09 22:57

>>そもそもですが、言語=道具でしょう。



いえいえ、言語は話者の認識の表現です。ここが、言語本質観のきもです。
絵や音楽は直接に感性的な表現なので、感性的な形として表現され規範を必要としません。
しかし、言語表現は超感性的な概念による認識なので、これに感性的なラべルを付け、言語規範により個別の概念認識を媒介する形を取らなければなりませ。この共同規範がラングです。

このため、感性的な形と概念の統一という調和する矛盾として存在しています。このため、謎的な存在となってしまします。

これは、音楽や絵は感性的な形自体による表現で、形を変えると表現が変わってしまいますが、文字や音声は規範内で自由に形を変えることができ、書道や声楽など感性的な自由度を活かした芸術的な表現が可能です。
概念認識の表現なので、心の中を直接表現できますが、心にカメラやマイクを向けても心は表現できません。何らかの感性的な形を作らなければ、絵や写真には写せません。

この認識論を築くためには唯弁証法の論理が必須です。

これは、展開すると長くなるので取り敢えず下記を参照下さい。
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-177. …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>いえいえ、言語は話者の認識の表現です。ここが、言語本質観のきもです。
絵や音楽は直接に感性的な表現なので、感性的な形として表現され規範を必要としません。
しかし、言語表現は超感性的な概念による認識なので、これに感性的なラべルを付け、言語規範により個別の概念認識を媒介する形を取らなければなりませ。この共同規範がラングです。

『言語は話者の認識の表現』の為の道具。
という意味で申し上げた次第です。
『言語規範』というのは、若干、途中修正されたり追加発展したりすることはあるのかもしれませんが、基本的には、おそらくアプリオリに備わっているものですよね。
つまり、ほとんど無意識的に作用しているものではないかと思うわけです。
たしかに、『言語表現は超感性的な概念による認識』なので、そうした共同規範(ラング)に則っているのはわかりますが、「住んでいる」について考える場合に、その共同規範(ラング)までを問題にする必要があるのだろうか、ということです。

すっかりお手を煩わせてしまいましたね。
浅学の身ゆえ、猫に小判の様相も呈しているような次第ですが、また、機会がありましたら色々教えてください。

お礼日時:2019/05/09 17:57

なお、最近の認知言語学の立場からの意味論究明がどの程度のレベルかは、松中完二『ソシュール言語学の意味論的再検討』(ひつじ研究叢書<言語編>第135巻)<ひつじ書房:2018年7月5日>を参照下さい。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

機会がありましたらと思いますが可能性は低そうです。

お礼日時:2019/05/08 23:26

>>アスナロウさんは、カントのカテゴリー説には反論ありのようですね。


そうですね。ヘーゲル以前ですから。

せっかくヘーゲルまで来たので、もう少し論理を展開し最初のご質問とリンクし回答を結びたいと思います。

ヘーゲルは大論理学の第一巻「有論」の最初で、

即ち、天上であれ、自然の中であれ、精神の中であれ、或いは他の如何なる所であれ、この≪直接性≫とともに≪媒介≫を含まないようなものは何ひとつとして存在しない。

と述べ、これに対しレーニンは『哲学ノート』で唯物論の立場から、

(1) 天―自然―精神。天を捨てよ―唯物論。
(2) すべてのものは媒介されている=媒介され、結合され、移行によって結合されている。天を捨てよ、―全世界(過程)の合法則的連結。

と批判を与えています。

言語表現は立体的、重層的な構造、関連を持つ対象の個別認識をラング(語、文、文章規範)を媒介として、対象→認識→表現の過程的構造を持っています。この、個別認識の表現がパロールです。

この表現の過程的構造における媒介を捉えることができないソシュールパラダイム下の論理では、文に表現されるのは、個別の話者の認識ではなく、ラング自体がパロールに転化するという直接性の形式論理に依拠する言語道具観となるしかありません。不可知論では対象と表現が分断され意味を導くことができません。

それが論理的な強制となるしかないのがパラダイムの呪縛です。

したがって、文に示された意味はすべて表現された語自体に還元するしかなくなります。

「今もあの家に住んでいる。」と云う文では、進行・継続を表わしているのは、形式(抽象)動詞「いる」ですが、具体と抽象の相違と関連の理解を持たないと抽象動詞「いる」の意義を理解することができず、結局「具体動詞」である「住む」にこれを還元する他なく、ここに「継続動詞」という「まったく意味がない」、誤った区分と名称が発生することになります。

これが、ご質問の内容を是とした論理です。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>ラング自体がパロールに転化するという直接性の形式論理に依拠する言語道具観となるしかありません。

ここがどうもよくわからないですね。
ラングの意味を取り違えているかもしれませんが、我々の駆使する言語がラング自体に関与することはできないのでは?
できるなら、それは物自体を知っているということになりませんかね。
そもそもですが、言語=道具でしょう。
真理を表現するものではなく、あくまで「〇〇と思う」と表明するための道具。

>具体と抽象の相違と関連の理解を持たないと抽象動詞「いる」の意義を理解することができず、

ともおっしゃるわけですが、具体も抽象もパロールとして捉えているはずなのであって、そこに『ラング自体がパロールに転化する』という認識が介入してくる必然性がまったく理解できません。

しかし、今聞いたばかりですから急に理解できるはずもなく、興味深いお話だとしてだけ受け止めておきます。

お礼日時:2019/05/08 23:25

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