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下記質問で、「住む」は継続動詞という趣旨のご回答が案外多かったですね。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11092199.html
しかし、動詞自体を取り上げて継続動詞と断定してしまうのは間違いではないでしょうか。

なぜかというと、文脈によって、その意味は多様になるからです。
特に「ている形」では、その点が顕著に表れる。
a.彼は一度も引っ越しておらず、今もあの家に住んでいる。(継続)
b.近所に住んでいる子供の名前は全員知ってる。(状態)
c.こういう海岸沿いのマンションには昔からよく住んでいる。(反復)
d. 5LDK には一度も住んだことはない、と彼女は言ってたが、あれは嘘で実は過去に一度住んでいる。(過去完了・経験)
などです。
継続用法は a. の場合だけであることがお分かりになるかと。
継続用法かどうか判断が難しい場合は、進行形にして不自然にならないか、検証してみると良いでしょう。

b'.近所に住み続けている子供の名前は全員知ってる。

という解釈は不自然であることがわかりやすくなるはず。
あるいは、結果の存続用法かどうかは、

b".近所に住んで、その結果が存続し続けている子供の名前は全員知ってる。

と解釈にしてみれば、不自然であることがわかりやすくなる。
これらに対して、

b.近所に住んでいるという状態にある子供の名前は全員知ってる。

は不自然にはならないかと。

状態を表す用法は、文末の叙述に「ている」を伴うのが普通な動詞で使われる、といったご回答もありました。
しかし、大辞泉のように、
㋒現在の状態を表す。「彼の気持ちはもう変わっている」
という例文もあります。
他の辞書の例文に対応させても、
・行く手を阻むかのように、前方に高い山が聳える。
・彼は知力に富む人間だ。
・テルテル坊主をたくさん作れば天候に恵まれる。
・基本的に男子は母親に似る。
・周囲を林に囲まれる閑静な住宅地。
などなど、「ている」を伴わなくても普通な動詞がほとんどとさえ言えるでしょう。

以上のことからも、継続動詞というものは、あくまで「継続用法をする場合の動詞」という意味に捉えるべきだと思うのです。
我々はシチュエーションというものについて、もう少し神経を使う必要があるのではないですかね。

「住む」は継続動詞

のような分類はまったく意味がないと思うのですが、みなさんはどう思われますか?

質問者からの補足コメント

  • #25お礼欄からの続き

    8.
    >最初に、日本語の動詞をアスペクトの観点から全体的に分類し、体系づけた、という業績は否定しようがありません。

    ただ、それは niwa 先生もおっしゃるように『基準となる用法』としての分類ですよね。
    そのように分類することで、「基準以外の用法」に思いをいたせない方が多くなってしまっているのではないか、ということを申し上げているところです。

    9.
    >  次の文の「歩く」(スル形)は動きを表すが、「歩いている」(シテイル形)は状態を表す。
        鈴木は歩く。(単に「歩く」という動きがあることを表す)
        鈴木は歩いている。(「歩く」という動きを現在の状態としてとらえる)

    ・あ、鈴木さんが歩いている。(「歩く」という動作が進行中である)
    という捉え方はできない、ということですか?

    下段へ続く

    No.25の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/05/17 15:22
  • 上段からの続き

    10.
    >で、動きの「進行中」は、「状態」を表す、のです。

    それを言うなら、継続している状態・存続している状態・反復している状態・完了している状態、すべて「状態」では?

    >私は、どうもこの言い方には抵抗があるのですが、上に書いたように、「現在のことを表せる」のが「状態動詞」の定義ですので、

    ご自身の感覚のほうを信用なさっていただきたい、という印象を受けますね。
    「〇〇動詞」という分類に拘ってしまうのは勿体ないですし、これこそが弊害と言えるように思われます。
    先にも申し上げましたが、進行と継続は分けて考えるべきでしょう。(わたしも流されて一緒の意味で使うこともありますが)

    下段へ続く

      補足日時:2019/05/17 15:23
  • 上段からの続き

    11.
    工藤氏のサイトもありがとうございます。
    わたしの手には余りますが、つまみぐいしたところでは下記のような記述があります。

    ※b)運動動詞[動作動詞とも] :テンスは、基本的に<未来-過去>の対立
      イ)動作動詞[継続動詞とも]:シテイル形の基本的な意味が<動作作用の継続>
       ①主体の動き・動作を あらわす 自動詞
         歩く 走る 泣く 働く ~~~※ 

    【シテイル形の基本的な意味が<動作作用の継続>】という箇所だけで、首を傾げざるを得ない、というのが個人的なスタンスです。

      補足日時:2019/05/17 15:24
  • 上段への補足

    【シテイル形の基本的な意味が<動作作用の継続>】ということ自体を否定しているわけではありません。
    「基本的な意味(だけ)」を分類項目として取り上げるのは(分類から外れる意味を結果的に無視していることになるわけだから)疑問に思う、という意味。
    「ている形」が介在せずとも、「住む」という動詞自体に複数の意味(作用)がありますよね。

      補足日時:2019/05/17 15:28
  • #26お礼欄からの続き。

    5.
    >「(住む という)動作が進行中」という捉え方は不自然でしょう、ということです。

    「進行と継続は分けて考えるべきだ」と思うのはかまいませんが、わけのわからない用語を使ってはいけません。

    「(住む という)動作が進行中」という捉え方は不自然

    という私見について、

    ちょっと何言ってるかわからない。

    ということでしょうか?

    6.
    >日本語のアスペクトというのは、かなり議論が進んでいる分野なんですよ。

    特に深く掘り下げるつもりも力もありません。
    浅学の身には荷が重すぎるようですが、色々ご紹介いただきありがとうございます。

    No.26の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/05/22 15:12

A 回答 (26件中11~20件)

❶ボーっと生きてんじゃねーよ!、芸に生きる、野に生きる、この隠し味が生きてくる、まだ生きてやがる


同じ動詞でも、使われ形で意味が違えば、状態、変化、いろいろあるので、一つの動詞を1つのスタイルに固定できないことはあっても当然です。 「そうだから、分類には実用性がない」というような言い方はできないでしょう。
①ここの因果関係がよく理解できませんでした。 『一つの動詞を1つのスタイルに固定できないことはあっても当然』だから、「そうだから、分類には実用性がない」というような言い方ができると思うのですが。

図書館などで本を並べるときに、何かの分類法に依っていることが多いです。 一つの本をどう分類するかは考え出すとやっかいです。 本を図書館で探すときも、図書館の分類が便利とは思えないことも多く、検索システムを利用して、目的の図書のありかのめどを付けることが私は多いです。 その私でも、図書館が採用している分類には実用性がないとか、実用性が低いとかは思いません。 1つのものを、同じ分類法でいくつの項目にも該当すると考えることができるものは多いです。 服や服飾品、ドラッグストアでも、大工道具店、靴屋、食料スーパーなどでも似たようなことは言えるでしょう。 特に、大分類・中分類・細分類という数段階の構造で思考することが可能なものだと、実は、大中細は、視点が異なっていて、注目の順位が変わっていると、分類そのものが変わるということは多いです。 そうだから、多くの事典は、文字表記の順のような非分類方式で事項を並べています。 初期の百科事典は、各項目を分野ごとに分類して編成する方法をとっていたようですし、いまでも、分野別に系統立った説明をする事典の方が都合がいいことは多いです。 言語、文法、構文、単語でも、分類法はいくつもあるでしょうし、新たな方法が考案されることはあると思います。 【ひとつのことにいくつもの視点からアプローチできるのでは、分類それ自体に実用性がない】という見方は、研究や思考、思索、整理をすることをねらう場合には不適当だと、私は思います。

②つまり、日本語学習者の方が、後になってから疑問が湧かざるを得ないような教え方はどうなのよ?
ということなんですけどね。

日本語教育や指導にあたるものや、指導者の指導にあたるものが、指導法を工夫するときに、日本語教育文法を仮説として利用していく中で、日本語以外の言語を母語としている者に対して、その言語と日本語の違いに注目した指導が必要と考えて、その考案で動詞の分類も考えたということなのだと思います。 実用性を期待しているから、仮説を出すのです。 実用性が全くないと思えば、そのような文法や仮説が一定の支持を得て特定の人の間に広がるということさえもおきないでしょう。

日本語学習者ってのが、どんなヒトのことを指しているのか、ちょっと?(疑問)です。
日本語学習者(=日本語を母語としてない者であって、日本語を使えるようになることを目指して習練をしようとしている者)は、継続動詞とか、瞬間動詞とか、状態動詞とかの区分を、(日本語教育で、あるいは日本語検定で)、数多い動詞のそれぞれで、これは○○動詞というように覚えようとはしてないのではないかと、私は想像します。 ただ、文例の当て嵌め(穴埋め)問題や選択問題で、日本語表現を覚え馴れようとしているだけなのではないでしょうか。 そのように私は想像します。
『日本語学習者の方が、後になってから疑問が湧かざるを得ないような教え方』
どのような教え方が、どのような日本語学習者に対してなされているのでしょうか。

日本語を母語とし、周囲にドイツ語を母語とする者と日常的に会話する生活をするのではないが、第2外国語としてドイツ語を学習するという程度のドイツ語学習者が、名詞の性をどこまで気にして学習するのでしょうか。 ドイツ語には性があり、使い方に違いが出ることと、いくつかの文例を覚えておくというので実用性はあるでしょう。 そう簡単ではないということを言い出して、実用性がないというのはあたらないです。
https://schlossbaerental.hatenablog.com/entry/20 …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>【ひとつのことにいくつもの視点からアプローチできるのでは、分類それ自体に実用性がない】という見方は、研究や思考、思索、整理をすることをねらう場合には不適当だと、私は思います。

『研究や思考、思索、整理をすることをねらう』人は、『ひとつのことにいくつもの視点からアプローチできる』ことを知っている人ですよね。
そうではなく、住むという動詞は『ひとつのことにいくつもの視点からアプローチできる』のに、「住むは継続動詞」のように、「ひとつのことにひとつの視点からしかアプローチできないように』分類してしまうのは、日本語学習者にとって実用性が無いのではないだろうか、ということを申し上げたわけです。

お礼日時:2019/05/08 23:04

NO.13



>>末尾の文を読むかぎり、この釘貫氏は、言語は物自体などを気にせずに考察すべきである、と考える派のように見えますが、私の読み違えですかね?
単語が観察者の外側にあるように振舞うほうが、これらが未論証の概念であると強調するよりも効果が上がる。

というより、効果などというのはプラグマテイックな発想で、ヘーゲルのカント批判がいっているように、「すべての規定性を捨象した空虚な抽象物(leere Abstraction )」にしてしまうヘーゲル以前の発想でしかないと言えます。

この論文は、先に紹介しました『「国語学」の形成と水脈』に収録されており、他では、

我々は、日常生活者として外在的なモノの存在を前提にして生活しているが、モノを理性的に認識しているのではなく、経験による諸感覚を統合してその存在を直観しているに過ぎない。モノの存在の認知とは、複数からなる感覚の複合であるに過ぎず、直観的心理作用が諸感覚を統一し(総合synthesisi あるいは統覚apperception して)、モノとして知覚することができるのである。大抵の場合、その直観が誤りでないが故に、我々は安全に日常生活を送ることができる。

などと非科学的な言辞を弄していますので、一度じっくり検討下さい。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>などと非科学的な言辞を弄していますので、一度じっくり検討下さい。

アスナロウさんは、カントのカテゴリー説には反論ありのようですね。

お礼日時:2019/05/08 19:08

NO.10


>>接尾語ですか・・。
色々な解釈があるものなのですね。助動詞連体形と思っていましたが間違いですかね。

接尾語の「た」は動詞の「たり」から「り」が脱落して接尾語化したものと考えられ、相手の行動をうながすための「聞い≪たり≫聞い≪たり≫」に相当するものが「サアサア景気良く張っ≪た≫張っ≪た≫。」のように変形した。「もっと早く歩い≪た≫。」と言うかたちのうながしかたは、「待っ≪た≫」の系列である。これは終止形であるが、連体形として「尖った山」「曲がった道」「錆びたナイフ」など、そうなっているという意味で使われる場合もある。(三浦つとむ『日本語の文法』262P)

で、助動詞の「た」は「たり」から「り」が脱落して意味が過去と完了」になったと考えられます。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「壊れた時計」の場合、「壊れ≪たり≫壊れ≪たり≫」という促しからの変形よりは、連体形としての「錆びたナイフ」の系列のほうがしっくりきますね、個人的には。

お礼日時:2019/05/08 19:03

NO.3


>>例文を掲げて解説してくださると多少は理解の一助になりそうな気もしますが、

下記の、「2 山田孝雄とカントの哲学」を参照下さい。

「日本語研究の近代化仮定と西洋哲学」

https://www.gcoe.lit.nagoya-u.ac.jp/result/pdf/1 …

この最終段はカント哲学の肯定に終っており、「なぜなら、現代文法学においても文の存在は未だ論証されていないからである。山田は、モノ自体の論証不可能性を理解した上で、客観的な論証不可能な文成立条件として統覚の概念を類推的に適用したのではないか。」と述べています。

筆者の釘貫氏はスマホを使用していると推測されますが、「モノ自体は捉えらえないとするカント哲学の要点」を肯定し、「文の存在は未だ論証されていない」と文を解読しながら論じています。文もまた、モノ自体と同じく不可知と信じ込んでいることになります。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

カントには興味持ってますので、その意味でも非常に興味深いのですが、もう少し気持ちにゆとりができてからでないと、頭に入ってきそうもありません。
いつか、じっくりと拝見させていただきます。
貴重な資料をお示しいただき有難いです。

・・・と言いつつ気になり、最終段だけチラッ見てみたのですが、西田幾太郎も善の研究で、物自体という概念について言っているんですね。
カントの専売特許と言うわけじゃなかったのか、と思って調べてみたら、純粋理性批判の100年以上も後の著作でした・・。
彼もカントの影響を受けていたということですかね。
「示唆されたとしても、決してこれに由来するものではない」といった弟子の供述?もあるにはあるようですが。
末尾の文を読むかぎり、この釘貫氏は、言語は物自体などを気にせずに考察すべきである、と考える派のように見えますが、私の読み違えですかね?

単語が観察者の外側にあるように振舞うほうが、これらが未論証の概念であると強調するよりも効果が上がる。

と書いてますが、この意味するところは、

『「モノ自体は捉えらえないとするカント哲学の要点」を肯定』しているようには見えないので。

斜め読みなので、おそらく私が読解しきれていないだけのかもしれないですが。

お礼日時:2019/05/08 00:07

3.>1つの動詞が複数の項目にまたがる例があるとも言っている。


: 『例がある』のではなく、「ほとんどだ」と思うのですがいかがですか。
つまり、
>実用上の役に立つこともある
: というよりは、実用上の害になることが多い、と言うべきではなかろうか、という問いです。

それはそうなのでしょう。 通常、動詞を3,4種に分類して、その分類を記憶して、接続に使い分けるなどということは、できないでしょう。
実際の会話場面、文書を作成する場面に限れば、動詞の主要な意味も判然としないし、知っている動詞も多くはないヒトに、日本語の動詞の区分を意識させることの方が無理です。 ハンディな英和辞典、あるいは国語辞典にも、動詞の区分についてのコメントは普通はないですから、実用を、日常の生活の便という範囲で考えるなら、もともと、実用性はないです。

実用というのは、場面や目的などによって変わります。
日本語を母語にしないヒトに、とりあえず日本語を教えるという範囲では、たぶん、相、アスペクト、ヴォイスなどは関係がないのでしょう。 
また、「片付けます、片付いています」「書きます、書いています」「振ります、振っています」「付きます、付けます、付いています、付いてきます」「売れます、売ります、売れています、売っています」「住みます、住んでいます」「無くなります、無くなっています」「疑いは(が)ない、疑いが(は)晴れる、疑いは(が)晴れています」などを、どう考えるのかなどの場合には、文法論にも触れることが、被教授者の母語が何かによっては、被教授者になんとなく納得させるという効果を考えると、実用的になるのだと思います。
しかし、日本語研究をするような場面を考えれば、動詞を分類したり、助動詞との組み合わせでなにが生じやすいのかを検討するという面で実用性はあるのだと思います。

ボーっと生きてんじゃねーよ!、芸に生きる、野に生きる、この隠し味が生きてくる、まだ生きてやがる
同じ動詞でも、使われ形で意味が違えば、状態、変化、いろいろあるので、一つの動詞を1つのスタイルに固定できないことはあっても当然です。 「そうだから、分類には実用性がない」というような言い方はできないでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>ボーっと生きてんじゃねーよ!、芸に生きる、野に生きる、この隠し味が生きてくる、まだ生きてやがる
同じ動詞でも、使われ形で意味が違えば、状態、変化、いろいろあるので、一つの動詞を1つのスタイルに固定できないことはあっても当然です。 「そうだから、分類には実用性がない」というような言い方はできないでしょう。

ここの因果関係がよく理解できませんでした。
『一つの動詞を1つのスタイルに固定できないことはあっても当然』だから、「そうだから、分類には実用性がない」というような言い方ができると思うのですが。
つまり、日本語学習者の方が、後になってから疑問が湧かざるを得ないような教え方はどうなのよ?
ということなんですけどね。

お礼日時:2019/05/07 23:42

継続動詞、瞬間動詞・・何んて表現は形式主義の人が好んで使っているだけ、そう決めつける?ことで、自身の判断で解釈する必要を回避できるからです(当然それに対する批判を受けることもありません)、言われたことしかやらない・・・に通じるのかも?、そんなタイプの人では大歓迎でしょうね。


「東京に住んでいる」「そうですか、それなら浅草の・・・」と続けられます。
「東京に住む」「あっ、はあー、そうですか(それで?、何がどうした?)」となるだけです。
住む、は動作、行動を表す動詞を言い切る形で表現しただけのため、「住む」だけでは具体的な意味は何も持たないと考える方が、従って時制も継続の意味も、持たない、だから基本形?。
ギターを弾いている少年をカメラでパチリ
静止画ですね、タイトルは「ギターを弾く少年」。
同じく、動画で撮影、動画で再生、タイトルは「ギターを弾いている少年」。
静止画では、顔の表情で楽しいのか、緊張してコチコチなのかは想像はできても・・・。
動画では、顔の表情はもちろん他の動きでも容易に感じます、「いる」がついていると、これを想像しようとします、なければ事実関係の伝達を了承するだけになります。
形容詞と形容動詞では何が違うのか?に似たようなものを感じます
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>住む、は動作、行動を表す動詞を言い切る形で表現しただけのため、「住む」だけでは具体的な意味は何も持たないと考える方が、従って時制も継続の意味も、持たない、だから基本形?。

そうなんでしょうね。
ただ、飛ぶ と 住む では明らかに違うというのも確かですしね。
何かしら分類したくなる気持ちはわかるのですよ。
しかし、それ以外の用法はない、的に決めつけてしまうと、様々な齟齬が生じてくるのではないか、ということを申し上げているところ。

>ギターを弾いている少年をカメラでパチリ
静止画ですね、タイトルは「ギターを弾く少年」。
同じく、動画で撮影、動画で再生、タイトルは「ギターを弾いている少年」。

なるほど。
静止画で「ギターを弾いている少年」は、(間違いではないにせよ)たしかに不自然ですね。
[ 静止(画) ] だけに進行形はそぐわないという無意識が働く、ということなんですかね。
先の回答で、

「近所に住んでいる子供」の場合、「近所に住み続けている子供(継続・進行形)」や「近所に住んだ状態が存続している子供(結果の存続)」という意味ではない。
「近所に住む、という状態でいる子供」という意味です。

と述べさせていただいたのですが、
「ギターを弾く少年」の場合は、
「ギターを弾いている少年」のように言い換えができるとしても、
「ギターを弾いた状態が存続している少年」
「ギターを弾くという状態でいる少年」
という意味では不自然でしょうね。
どう考えても、
「ギターを弾き続けている少年(継続・進行形)」なのでしょう。

逆に、動画の「ギターを弾く少年」は特に不自然にはならなそう。
基本形なので、進行形の可能性を温存しており、汎用性が高いということなのかも。

お礼日時:2019/05/07 23:37

No.8の回答は、現在の日本語教育文法の混迷を象徴する誤った理解と言えます。



>>「ている形」は名詞を修飾するとき、動詞のル形(俗に言う現在形)になるときと、タ形になるときがあります。
動作の継続の状態をあらわす「継続動詞+ている」はル形(俗に言う現在形)になります。
(例1)少女は、ギターを弾いている少年をじっと見つめた。
→少女は、ギターを弾く少年をじっと見つめた。

「弾く」はル形ではなく連体形です。「ている形」というのが、そもそも誤りで、「て」は確認の助動詞、「いる」は継続・進行を表す形式動詞です。

結果の残存をあらわす「瞬間動詞+ている」はタ形になります。
(例2)壊れている時計を修理してもらった。
→壊れた時計を修理してもらった。

この「壊れた」は動詞のタ形ではなく、そうなっていると云う意味を表す接尾語の「た」が、動詞の連用形「壊れ」に付いたものです。「曲がった道」「尖った帽子」などの「た」と同じです。

「タ形」というのは品詞区分、語の意義を無視した形式主義的な誤った分類です。

継続動詞/瞬間動詞という動詞の意義とは無関係な誤った区分から、さらに形式主義的な混乱した解釈が生まれ混迷を深めることになります。

これが、現在の日本語教育文法の現状で、箱の中の一つのリンゴが腐っていると他のリンゴも腐っていくように、文法論も一部が踏み外すと、これまで正しかった説明まで歪んだものになります。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>この「壊れた」は動詞のタ形ではなく、そうなっていると云う意味を表す接尾語の「た」が、動詞の連用形「壊れ」に付いたものです。「曲がった道」「尖った帽子」などの「た」と同じです。

接尾語ですか・・。
色々な解釈があるものなのですね。
助動詞連体形と思っていましたが間違いですかね。

お礼日時:2019/05/07 23:17

たぶん、立つ、座る、等の動きはその場で直接観察できますね。


住む、は・・・そこにいる、たとえ家のなかであっても、一瞬の観察だけでは何の判断もできませんね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

さらにわかりやすい解説で参考になります。

お礼日時:2019/05/06 19:26

No.5です。


>「近所に住む子供は年々少なくなっている」などは状態を表わすのではないかと。

「ている形」は名詞を修飾するとき、動詞のル形(俗に言う現在形)になるときと、タ形になるときがあります。

動作の継続の状態をあらわす「継続動詞+ている」はル形(俗に言う現在形)になります。
(例1)少女は、ギターを弾いている少年をじっと見つめた。
→少女は、ギターを弾く少年をじっと見つめた。

結果の残存をあらわす「瞬間動詞+ている」はタ形になります。
(例2)壊れている時計を修理してもらった。
→壊れた時計を修理してもらった。

近所に住んでいる子供は年々少なくなっている。
→近所に住む子供は年々少なくなっている。
「住む」というル形(俗に言う現在形)を使っている以上、この「住む」は継続動詞であり、「住んでいる」は動作の継続の状態をあらわすことになります。

したがって、「住む」は継続動詞、瞬間動詞どちらの場合もあり得ることになり、No.5の記述は修正しなければなりません。

ところで、継続動詞にも瞬間動詞にもなる動詞として有名なものに「着る」があります。

(例3)彼は今、更衣室で服を着ている。
この「着る」は継続動詞であり、「着ている」は動作の継続の状態をあらわします。
だから、下記の順序になります。
(これから)着る→(今)着ている→(もう)着た

(例4)彼は今日、青い服を着ている。
この「着る」は瞬間動詞であり、「着ている」は結果の残存をあらわします。
だから、下記の順序になります。
(これから)着る→(もう)着た→(今)着ている

以上です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>したがって、「住む」は継続動詞、瞬間動詞どちらの場合もあり得ることになり、No.5の記述は修正しなければなりません。

了解いたしました。
真摯にご対応いただき感謝申し上げます。

>動作の継続の状態をあらわす「継続動詞+ている」はル形(俗に言う現在形)になります。
>結果の残存をあらわす「瞬間動詞+ている」はタ形になります。

(例3)彼は今、更衣室で服を着ている。
⇒基本動作を「(今)着る」という現在形で表すことができる場合は継続用法。
(例4)彼は今日、青い服を着ている。
⇒基本動作を「(もう)着た」という過去形で表すことができる場合は結果の存続用法。
ということですね。
この2つの用法を使うシチュエーションは多いので、この区別の仕方は、たしかにわかりやすそうです。

個人的には下記大辞林を参照することが多いです。
二ー③ 動詞の連用形に助詞「て(で)」の付いた形を受ける。
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%85%E3%82%8B-4365 …
(例3)と(例4)のメソッドを、以下のように対応させることができそうですね。
整理しながら思ったのですが、㋓と㋔を特殊な用法として押さえてしまうと良いのかもしれません。
そうすれば、他の用例は、教えていただいたメソッドでピッタリと判断しやすくなるかも。
いずれにせよ、非常に参考になりました。
ありがとうございます。

㋐継続・進行形。(例3)
㋑結果の存続。(例4)
㋒状態。(例3)とも(例4)とも言えない。
㋓習慣的反復。(例4)
㋔過去完了・経験。(例4)

お礼日時:2019/05/06 19:18

No.5の方に。


 動詞の後ろに「始める」「続ける」「終わる(終える)」を付けて複合動詞が成り立つ場合、その動詞は継続動詞と考えていいのではありませんか。
住み始める 住み続ける 住み終える  言い始める 言い続ける 言い終わる
食べ始める 食べ続ける 食べ終える  たち始める たち続ける たち終わる
すわり始める すわり続ける すわり終わる  走り始める 走り続ける 走り終わる
歩き始める 歩き続ける 歩き終わる
 少なくとも、「続ける」が付けられる語は「瞬間動詞」とは呼びにくい。参考までに。

死に始める 死に続ける 死に終わる  終わり始める 終わり続ける 終わり(終わる)
決まり始める 決まり続ける 決まり終わる
  これらはない。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>少なくとも、「続ける」が付けられる語は「瞬間動詞」とは呼びにくい。

なるほど。
そういう分け方もあるのですね。
分かるような気もします。
ただ、住む・言う・食べる・立つ・座る・走る・歩く、などが瞬間動作として使われても、さほど不自然ではないシチュエーションは、案外あるのでは。

「路上生活から抜け出して明日からは家に住む」
「その件に関しては、わたしから彼に言う」
などは瞬間動詞として機能していると思うのですが、そんなこともありませんか。

お礼日時:2019/05/06 19:41

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