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しか
[一][係助]名詞、名詞的な語、動詞の連体形、形容詞・形容動詞の連用形、一部の助詞・助動詞などに付く。打消しの語を伴って、特定の事柄以外のものを全く否定する意を表す。「この道を行く―ない」→きり →だけ◆近世以降用いられ、限定の助詞に付けて「きりしか」「だけしか」「ほかしか」「よりしか」の形で、「しか」を強めていう場合もある。
【大辞泉】

辞書の「しか」の説明は上記のようですが、「100円しかない。」の形容詞「ない」が表す「特定の事柄(以外のものを全く否定する)」とは何でしょうか。

他の辞書の説明も大同小異で、諸賢はどのようにお考えでしょうか?

私見では、現在の形式主義的な言語論、日本語論とそれを反映する辞書の限界、欠陥を露呈しているものと考えています。■

質問者からの補足コメント

  • なお、【大辞泉】は「しか」を<係助詞>としていますが、他に<副助詞>とするものも散見されます。この辺も検討の余地があります。■

      補足日時:2021/12/31 21:29
  • 「ない」に<助動詞>と<形容詞>があり、両者が立項されているのは御理解されているのでしょうか?
    ただし、補助形容詞という誤った品詞区分もされていますが。■

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/01/01 11:38
  • プンプン

    「よくはわからんけど。」という以上のお答えは無いと判断するしかありませんが?

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/01/01 18:44
  • つらい・・・

    No.22 で、

    それらの観念的なものが現実によってくつがえされ、現実によって否定されているところから、それを認める話し手の「ない」が生まれたものです。//

    と指摘の通り、「ない」で否定しているのは「それらの観念的なもの」、つまり話者の主観であり、客体などではないのじゃ!

    この、主観/客観、主体的/客体的の本質的な相違が全く理解できずにチャランポランな解釈を得々としてぶちまけているということなのじゃ。

    本質問は、諸賢がこの点をどの程度理解しているのかを確認する意味で提起したものだが、残念ながら君と同レベルの応答しか得ることができなかったということじゃ。

    この結果を踏まえ、別途「しか~ない」論を展開しよう。

    人間だから間違い勘違いは必ずある、しかし、それを反省、自覚することこそが重要なのじゃ!

    知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり

    No.29の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/01/04 11:19
  • へこむわー

    追伸

    >>「先生以外の他者すべて」という客体を主観的に前提するために「しか」という係助詞を使うのだろ?

    「客体を主観的に前提する」って日本語?
    それが問題です。

    「先生以外の他者すべて」という客体を主観的に前提するために「しか」という係助詞を使うのではないことはNo.22 のお礼で記述した通りです。これでは、「ない」が何を否定しているのかを明らかにすることはできません。

    論理的な思考ができないことを露出していますね!

    No.33の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/01/05 12:25
  • で、No.43 のお礼の指摘にはぐうの音もでずに、白旗を挙げて豚ずらということじゃな!■

    No.44の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/01/07 18:46
  • へこむわー

    この誤りを最初から指摘しているが、漸く矛盾に気付いたのかな?

    主体的表現の語である辞と客体的表現である詞の区別ができん以上、この矛盾を克復することはできんのじゃ!!

    格助詞「に」の意義とは何か-機能主義言語論の混迷
    https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9186 …

    No.46の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/01/07 21:47
  • >>【個別的動作の主格】とでも表現するほうが

    全くピント外れのナンセンスじゃ!

    3.
    >>本質から整理する作業が果たしてどこまで可能か、

    本質の理解なしに、形式/機能を本質と取り違えていては真実、真理には到達できないということじゃ!。

    4.
    >>副助詞にしろ係助詞にしろ「限定」という本質

    「限定」は機能でしかない。過程的構造が理解できていないために、すぐに脱線するのじゃ。

    >>呼応の要素を持つものは係助詞とするのがわかりやすいのではないだろうか。

    呼応という現象が認識論的に何を意味するかじゃ!

    >>言語過程説に準拠していないのではないだろうか。

    だから<係助詞>といいたいのかな?

    >>「ライオン以外のすべて」という対象を

    どこから「ライオン以外のすべて」などという前提が出てくるのじゃ?
    話者が認識しているのは「ライオンは肉を食べる」という事実じゃ?

    No.52の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/01/09 18:48
  • ムッ

    表現としての言語という言語過程説の基本が理解できていないため、言語実体観の発想で認識そのもの、物理的実体そのものを言語と捉えようとするために毎回議論がすれ違うということです。■

    No.75の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/01/13 10:37
  • 「百円【しかない】。」と表現するのは、「千円あると思った」というような表現されない認識と関係づけて始めて理解できるということです。

    この文の「ない」は表現されている「百円」がないのではなく、表現されない認識の「千円」まではないことを表しています。

    このような表現されない認識を前提とした関係認識の表現は副助詞ですが、「しか」という特殊性の認識の場合は否定判断「ない」と結び付き呼応するために係助詞とするのが適切ということです。■

    No.103の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/01/20 21:29

A 回答 (111件中41~50件)

#69です。



>>のように2つのシチュエーションを示してますよね?

で、それぞれの「は」の意義を明らかにする必要があります。
単に形式からは決まらないと言うところが重要です。

《ならば、それぞれのシチュエーションを示し、どのような内容なのかを議論しなければ無意味じゃ。》と言ってましたが、それぞれのシチュエーションを示していることは理解できたということですね。
《それができない故に不毛などと不可知論的な遁辞に終始している》わけじゃないことも理解してもらえましたか?
《単に形式からは決まらないと言うところが重要です。》とのことですが、そんなことを誰が言っているのですか?

>シチュエーションは示されておるが??

どこに???
示されている複数のシチュエーションを示している箇所を教えてください。
「ライオンは肉を食べる」というひとつのシチュエーションについて特殊性か普遍性かと論じているだけですよね?

>>どんな内容であっても曲解すれば《珍妙な解釈》

元々が曲解なのじゃ!!

アス坊のことを言ってる箇所なのですが・・。(笑)

>否定の要素など含んではおらぬ。
否定と無美付くということじゃ!!

否定の要素無しに「しか」という助詞を認識することはできませんよね?
否定の要素を含んでいるからに決まってるでしょうよ。

>判らん奴じゃな!
どこに、「日本語以外のすべて」を話者が認識しておるのじゃ!!
話者が認識している、うわさ、評判の類である観念的な前提で、否定的な内容ではない。否定しているのは「ない」で、どこから「以外のすべて」などという眞逆の発想が出てくるのじゃ!!

ま、言いたいことは十分わかってますが、見解の相違ということですから、これ以上言い合っても無意味でしょうね。

>呆け!!
話者は「日本語が話せる」のじゃ。
前提は、日本語以外にも話せる語があるという認識じゃ!!
「ない」が否定しているのがこの前提ということなのじゃ!!!
判るかな???????

ということは、
「日本語しか話せない」で、

・「ない」が否定しているのがこの日本語以外にも話せる語があるという認識(=前提)ということなのじゃ!!!

ということですな。
ただ、「しか」が係助詞という点からも明らかであるように、この「ない」は「しか」に呼応している否定語なわけよ。
つまり、「ない」によるこうした否定の前提を認識しているからこそ、話者は「しか」を用いるわけだ。
「日本語しか・・」と言った時点で、すでに「日本語以外のすべて」が前提されてないわけが無かろうて。
同じ意味になるところの「日本語だけ話せる」という表現を使わないのは、そういった意図の違いがあるから、ということ。
判るかな???????

>「三浦を語る資格は無いでしょう」とは傲慢にも程があるのじゃ!!!

言われたくなければ、ちったあ筋の通った論理的な会話をできるようになりたまえよ。(笑)
まずは慌てずに他人の書いた内容をよく読み返すことから始めるとよろしい。
ま、自戒も込めてな。(笑)
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この回答へのお礼

>>すでに「日本語以外のすべて」が前提されてないわけが無かろうて。

本当に分からん奴じゃな!!!

「すべて」などという認識はどこにもないのじゃ!!!
「すべての言語」を私が話すなどとは本人も回りも誰も考えんじゃろうが!!!

まずは慌てずに他人の書いた内容をよく読み返すことから始めるとよろしい。
ま、自戒も込めてな。(笑)

お礼日時:2022/01/11 23:33

#68です。



1.
>>・言語過程説で時枝は、
《~という過程そのものを言語の本質とした》として、これを否定した。

これは、「時枝は」ではなく三浦が、時枝の「過程そのものを言語の本質とした」誤りを指摘しておるのじゃ。

「時枝は」でいいんですよ。

・言語過程説で時枝は、
《~という過程そのものを言語の本質とした》と(持論を展開)して、これ(言語道具説)を否定した。

という意味であることは一目瞭然のはずですが、この文が読解できないようではお話にならないのでは???

2.
>時枝氏が言語を過程において取り上げようとしたこと、そのことは正しかった。

と言っている通りじゃ。しかし、

結果と過程は区別しなければならない。表現活動が物理的存在に【対象化されて】そこに表現が成立するのであるから、両者は不可分関係にあるとはいえ別のものであって、混同するのは誤りである。時枝は過程に目を奪われて、この区別を正しくつかめなかったものと思われる。

ですから、そう書いてますよね???

《さらに三浦は、
時枝言うところの「過程そのもの」という捉え方を否定し、》

という字が目に入らないのかな?
しかも、上から順に、言語道具説・言語過程説・三浦説について、段落を分けてわかりやすく記述しているのに、それすら読解できないのですか???
三浦の書物を正しく理解しているとは到底信じられませんね。

3.
>「表出したところの文字自体が言語」だなどという、そんな馬鹿げたことは言ってはおらん。

「(抽象的な認識として)表出したところの文字自体が言語」

これが《馬鹿げたこと》なのですか???

>>その過程との関係性が言語の本質である

これは意味の説明と君の誤読のアマルガムじゃ。

《<対象→認識→表現>という過程の結果として(抽象的な認識として)表出したところの文字自体が言語であり、その過程との関係性が言語の本質である、》

が誤読である、ということですか?

4.
>ことほど左様に、『日本語は~』を正しく理解するには余程の理解力がないと簡単には理解できないものなのじゃ。

《ことほど左様に》と言っていますが、その《左様に》の根拠が、自身の読解力不足による曲解である点が致命的ですなあ。
無学の徒を罵倒するのも楽しいかもしれませんが、せめて論理的な批判を身に着けてからにしてもらうと助かりますな。
わずかながらでも得るものがあればこそ、たとえ罵倒であっても甘受できるわけですが、アス坊の場合は、読解力不足による曲解を根拠にしているため、単なる言い掛かりにしかなっておらんわけですよ。
そういうことだから他の回答でも呆れられてしまう。
少しは自覚し、もう少し他人の文を丁寧に読む習慣をつけたほうがよろしいですぞ?
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この回答へのお礼

1.
>>「時枝は」でいいんですよ。

まあ、判りました。
非常に稚拙な展開で、最初の、

《概念と聴覚映像とが固く結びついて構成された精神的実体》

というソシュール説のシニフィアン(聴覚映像)とシニフィエ(概念)の奇妙な説明で頭がクラクラしてしまった面があるのじゃ。

それに言っていることが微妙にずれているので余計に混乱するのじゃ!!!!

>>一目瞭然のはずですが、

そう思う君の表現力が問題じゃ!!

2.
>>ですから、そう書いてますよね???

うんにゃ!!
全く誤っているのじゃ。
そう言いたいのであれば、

時枝は言語過程説により、
《<対象→認識→表現>という過程そのものを言語の本質》としてソシュールの言語観を否定した。


とすべきじゃ。一知半解の理解を曝け出しておるのじゃ!!

そして、

・さらに三浦は、
時枝言うところの「過程そのもの」という捉え方を否定し、
<対象→認識→表現>という過程的構造を止揚し、表出された文字、音声などに結びついた表現》そのものを言語と規定した。

としなければ誤りじゃ。
全く、一知半解の理解を曝け出しておるのじゃ!!

3.
>>「(抽象的な認識として)表出したところの文字自体が言語」
これが《馬鹿げたこと》なのですか???

全く馬鹿げた寝言じゃ。
「(抽象的な認識として)表出」などしておらん。

「対象の概念認識として表出された言語音声や文字」自体が言語ではない。

>>誤読である、ということですか?

全くの誤読なのじゃ!!

表現としての言語ということが理解できていないため、何かを云うたびに本質を逸れたピント外れの誤った表現が出てくるということじゃ!!!

《ことほど左様に》自身の読解力不足による曲解と稚拙な表現が露呈する点が致命的ですなあ。

無学の徒を罵倒するのは心苦しいが、全くその点が理解できずに踏ん反り変えっている点が全く見苦しく、呆れかえるしかない惨状を呈しておるのじゃ!!!

もう少し、素直に教えを乞うという態度であれば対応のしようもあるがの!!!

少しはこの辺を自覚し、もう少し自分のレベルを自覚する習慣をつけたほうがよろしいですぞ?

お礼日時:2022/01/11 19:11

#66です。



1.
>ならば、それぞれのシチュエーションを示し、どのような内容なのかを議論しなければ無意味じゃ。それができない故に不毛などと不可知論的な遁辞に終始しているのじゃぞ!!!

係助詞「ライオンは肉を食べる」
副助詞「兎は草を食べる。ライオンは肉を食べる」
のように2つのシチュエーションを示してますよね?

2.
>不毛などという遁辞のどこが同意なのじゃ!!

批判に対して《同意できる》と申し上げているはずですが?
同意できるので不毛だと判断しているわけです。
シチュエーションを示さずに係助詞か副助詞かを論ずるのは不毛じゃないんですか?

3.
>できておらんのは珍妙な解釈を他で披歴しているのでも明らかじゃ!

今回の批判を見てもわかりますが、他人の文章に対する基本的な読解力にもう少し注力してもらいたいと思いますね。
どんな内容であっても曲解すれば《珍妙な解釈》としか捉えられなくなるのは当然のことですから。
議論として成立しなくなります。

4.
>下記に取り敢えず<「しか」という助詞を使う場合の話者の認識について>詳しく説明しておいた

こういう短絡的な解釈をまき散らしてはいけませんなあ。

《「しか」はこの話者の観念的な前提に結びついており、この前提を「ない」で否定しているもので、事実、現実は「私は日本語は話せる。」ということです。》
と言ってますが、ということは、「しか」は否定の要素を含む助詞だと言っているのと同じことですよ。

1)私は日本語しか話せません。

という文は、「日本語以外のすべて」を話者が(まず前提として最初に)認識するからこそ「しか」という助詞を使っている。
という本質的構造を見抜けないようでは、三浦を語る資格は無いでしょうな。

5.
>表現としての言語という時枝の言語観を実感

しているとまで言うほどの傲慢さは、さすがにね。(笑)
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この回答へのお礼

1.
>>のように2つのシチュエーションを示してますよね?

で、それぞれの「は」の意義を明らかにする必要があります。
単に形式からは決まらないと言うところが重要です。

2.
シチュエーションを示さずに係助詞か副助詞かを論ずるのは不毛じゃないんですか?

シチュエーションは示されておるが??

3.
>>どんな内容であっても曲解すれば《珍妙な解釈》

元々が曲解なのじゃ!!

>>「しか」は否定の要素を含む助詞だと言っているのと同じことですよ。

否定の要素など含んではおらぬ。
否定と無美付くということじゃ!!

>>「日本語以外のすべて」を話者が(まず前提として最初に)認識するからこそ「しか」という助詞を使っている。

判らん奴じゃな!
どこに、「日本語以外のすべて」を話者が認識しておるのじゃ!!
話者が認識している、うわさ、評判の類である観念的な前提で、否定的な内容ではない。否定しているのは「ない」で、どこから「以外のすべて」などという眞逆の発想が出てくるのじゃ!!

呆け!!
話者は「日本語が話せる」のじゃ。
前提は、日本語以外にも話せる語があるという認識じゃ!!
「ない」が否定しているのがこの前提ということなのじゃ!!!
判るかな???????

>>という本質的構造を見抜けないようでは、三浦を語る資格は無いでしょうな

君な、「三浦」という度に口が裂けているのではないかな????
勝手な本質的構造が聞いて呆れるは!!

5.
>しているとまで言うほどの傲慢さは、さすがにね。(笑)

それな!!!
「三浦を語る資格は無いでしょう」とは傲慢にも程があるのじゃ!!!

お礼日時:2022/01/11 18:10

何回か読み返しましたが、


ムズ~~~!ですな。
非常に大雑把にという条件付きで、以下のように言えるのか否か・・・?
こりゃ先が長そうですわ。(笑)

・言語道具説では、言語を
《概念と聴覚映像とが固く結びついて構成された精神的実体》
と規定しているようですが、

・言語過程説で時枝は、
《<対象→認識→表現>という過程そのものを言語の本質とした》
として、これを否定した。

・さらに三浦は、
時枝言うところの「過程そのもの」という捉え方を否定し、
《<対象→認識→表現>という過程の結果として表出したところの文字自体が言語であり、その過程との関係性が言語の本質である、》
と批判している。
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この回答へのお礼

>>・言語過程説で時枝は、
《~という過程そのものを言語の本質とした》として、これを否定した。

これは、「時枝は」ではなく三浦が、時枝の「過程そのものを言語の本質とした」誤りを指摘しておるのじゃ。

時枝氏が言語を過程において取り上げようとしたこと、そのことは正しかった。

と言っている通りじゃ。しかし、

結果と過程は区別しなければならない。表現活動が物理的存在に【対象化されて】そこに表現が成立するのであるから、両者は不可分関係にあるとはいえ別のものであって、混同するのは誤りである。時枝は過程に目を奪われて、この区別を正しくつかめなかったものと思われる。さらに、それに加えて、表現内容についての機能主義的な解釈は、観賞者の活動すなわち、「理解過程」をも言語にふくめるところに逸脱してしまった。
(『言語過程説の展開 三浦つとむ選集3』p374)

ということじゃ。ましてや、君には過程そのものも理解できていないのだから単に結果の解釈しかできないのは論理適必然ということなのじゃ!!

>>《~という過程~が言語の本質である、》と批判している。

「表出したところの文字自体が言語」だなどという、そんな馬鹿げたことは言ってはおらん。

言語は表現の一種をさすことばであって、表現以外に言語とよぶべきものはありえない。絵画が表現の一種で表現以外に絵画とよぶべきものはありえないのと、同じことである。言語は音声あるいは文字として存在するが、山田孝雄もいうように物理的な存在としての音声あるいは文字それ自体が言語なのではない。
(同、p373)

ということじゃ。

>>その過程との関係性が言語の本質である

これは意味の説明と君の誤読のアマルガムじゃ。

ことほど左様に、『日本語は~』を正しく理解するには余程の理解力がないと簡単には理解できないものなのじゃ。粗雑な言語観が勝手な誤読に結び付くことになるのは必定じゃ。それゆえ、詳細な理論展開をした上記の書や弁証法の論理を説いた書を参照するようにシツコク、再三指摘しているが馬耳東風なのでは如何ともしがたいのが理解できるかな???

『日本語は~』の解説を書いている吉本隆明レベルであれば、

「この著書は啓蒙的なスタイルをとった小冊子だったが、内容はきわめて高度で、画期的なものであった。」

とその本質を喝破できるのじゃがのう!!!

お礼日時:2022/01/11 16:07

#61です。



>こんな出鱈目を並べて、どこが「私の感想や批判も論理的になっている」のじゃ。阿呆くさい!!

ほらほら、また~。(笑)
ですから、

・どの箇所が《出鱈目》なのか?

・出鱈目でない内容とは、どういうものか?

ということを併記してもらわないと論議になりませんよね、と度々申し上げているのですが。

>どう理解すれば、「先生」「氷」が広義の場所になるのじゃ???
阿呆か!!

では、「時間的な場所」「心理的な場所」という概念は理解できますか?それともできませんか?
「場所」は「地点」「静止点」などと表現を変えても構いませんよ。

また、下記学国の語釈は全く理解できないでしょうか?
「に」
動作・作用が存在し、成立し、由来し、おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定し、連用修飾句を作るのに用いる。(学国)
https://sakura-paris.org/dict/%E5%AD%A6%E7%A0%94 …

>>主観的客体表現や主体的客観表現というものだってあるわけですしね。

ある訳がない。こういう寝言が出るのが、「私の感想や批判も論理的になっている」のではない証拠じゃ!
それこそ具体的に挙げてみなさい。

たとえば、「主観=対象について認識・行為・評価などを行う意識のはたらき」といった、文法論とはまた別の解釈を混在させてしまったために《寝言》になってしまったかもしれませんね。

>>「辞」とは人間の主観(観念)を表わす働きをするもの

なら、詞は人間の主観(観念)を表わす働きをしないのか???

そのため、こうした誤解につながってしまうわけで、申し訳ないことでした。
過程説における「詞」が表すのはあくまで客体であって、主観(観念)を表わす働きを指してはいないと思います。
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この回答へのお礼

>>・出鱈目でない内容とは、どういうものか?

p77参照。
引用しようかと思ったが確か、過去にも引用した記憶があり阿呆らしくなったわ!!

>>「場所」は「地点」「静止点」などと表現を変えても構いませんよ。

点はあくまで客体でしかないのじゃ!!

>>下記学国の語釈は全く理解できないでしょうか?

出来る訳がなかろう。
君のと世迷い言と同じれレベルじゃ!!
それゆえ、君には最もらしく思えるだけじゃ!!

>>過程説における「詞」が表すのはあくまで客体であって、主観(観念)を表わす働きを指してはいないと思います。

君な!!!
こういうところで、「表わす【働き】」などという機能を表す語を持ち出す粗忽さに呆れ果てるのじゃ!!

p77の説明を穴があく程、読み抜きなさい!!!

お礼日時:2022/01/11 15:00

#63です。



>ライオンの認識なしに、いきなり「ライオン以外のすべて」などという無限定な認識が最初に生まれる訳がなかろう!!!

鋭いご指摘で。(笑)
しかし、私が申し上げているのは、あくまで「しか」という助詞を使う場合の話者の認識についてです。
「ライオン以外のすべて」を対象として認識せずに「しか」を持ち出すことはあり得ないですよね。
「無限定な認識」ではなく「観念的な認識」と考えていただければよろしいかと。

>君はいつも怪しげな用語を乱発するが、準拠とは一体なんなのじゃ!

ある事をよりどころとして,それにしたがうこと。また,よりどころとなる事柄
https://sakura-paris.org/dict/%E5%A4%A7%E8%BE%9E …
のことです。
「ライオン以外のすべて」がまず前提される(と仮定する)のであれば、それを対象として最初に認識しなければ、<対象⇒認識⇒表現>という言語過程説に従った解釈にはならないのではないか、と申し上げたわけです。

>言語過程説とは何かが全く理解できていない君がつべこべ言っても戯れ事にしかならんのじゃ!

時枝の言っている範囲では理解できたと思うのですがね。
三浦の批判内容は、110~114を読んでいる途中ですが、かなり難しいですね。
3回ほど読み返していますが、もう少しかかりそうです。
そのときはまたよろしく頼みます。

>曖昧な比喩や誤解を正すために本質的な論理を明らかにしたいということじゃ!!

はいはい、了解。
であれば、どこが誤解かをわかるように明示した上で解説していただければ非常に助かります。
いきなり本質的な論理に飛ばれても、何しろ単細胞なので、せっかくの指摘も無に帰してしまいますので。
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この回答へのお礼

>>あくまで「しか」という助詞を使う場合の話者の認識についてです。

君と同じレベルの曖昧な質問を飽きもせずに繰り返している下記に取り敢えず<「しか」という助詞を使う場合の話者の認識について>詳しく説明しておいたので、拳々服膺しなさい!!!

「私は日本語しか話せません」「私は日本語だけ話せます」「私は日本語だけしか話せません」の違い
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12741454.html

こういう明快な説明ができんようでは、「<対象⇒認識⇒表現>という言語過程説に従った解釈」などという世迷い言を慎みなさい!!!

>>時枝の言っている範囲では理解できたと思うのですがね。

これがとんだ勘違いじゃ!
表現としての言語という時枝の言語観を実感できるにはその限界も含めしっかり理解せんとな!

>>3回ほど読み返していますが、もう少しかかりそうです。
そのときはまたよろしく頼みます。

ピントを外さない質問を期待しておるぞ!!

>>いきなり本質的な論理に飛ばれても、何しろ単細胞なので、せっかくの指摘も無に帰してしまいますので。

はいはい、了解じゃ!
物には限度というものがあるがの!!

お礼日時:2022/01/11 14:48

#62です。



>個別の文脈、つまりシチュエーション次第で判断するしかないだろう、と申し上げていますが。

君は不毛だと判断を放棄しているではないか???

いや、そうではなく、
「シチュエーション次第で判断するしかない」のに、シチュエーションが示されてない時点で「どちらなのか?」と論議するのは不毛ですよね、と申し上げた箇所です。

>其の安易な同意が誤りです。主題という意味不明な概念を持ち出している点が批判されなければなりません。

町田氏は、《主題になっている名詞が表すモノは、ほかの同じ種類のモノとは区別される、特定のモノなのが普通です。》と述べており、それに対する批判を川島氏が述べている箇所ですよね。
その批判に対して《同意できる》と申し上げているわけで、反論されるような箇所ではないはずですがね?

>我々は対象を概念としてとらえて言語で表現するとはいうものの、その概念がまず個別的概念か、特殊的概念か、普遍的概念かに区別できるし、これらの概念の自己自身による規定作用としての判断も、個別的判断か、特殊的判断か、普遍的判断かに区別することができる。そして、これらの判断は、当然に肯定判断や否定判断と認識構造においてむすびついているものと見なければならない。
>用言そのものが「力を持つ」わけでもなければ、係助詞そのものが支配する」わけでもない。

これもよくわかりますよ。

>川島論考は当然この理解を背景にして論じているが、君の単細胞的な発想ではとても理解が及ばないということに過ぎんのじゃ!

「君の単細胞的な発想」はあえて否定しませんが、【機能主義的文法論の吟味】の大略は何とか理解できていると思います。

>この辺が先に指摘した、ヘーゲルの概念論が展開していることなのじゃ!

一度、『大論理学』の概念論を覗いてみなさい。

その段階に辿り着けるかどうか、はなはだ疑問ですな。
何しろ単細胞なもので。(笑)
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この回答へのお礼

>>シチュエーションが示されてない時点で「どちらなのか?」と論議するのは不毛ですよね、と申し上げた箇所です。

ならば、それぞれのシチュエーションを示し、どのような内容なのかを議論しなければ無意味じゃ。それができない故に不毛などと不可知論的な遁辞に終始しているのじゃぞ!!!

>>《同意できる》と申し上げている

不毛などという遁辞のどこが同意なのじゃ!!

>>【機能主義的文法論の吟味】の大略は何とか理解できていると思います。

できておらんのは珍妙な解釈を他で披歴しているのでも明らかじゃ!

>>【機能主義的文法論の吟味】の大略は何とか理解できていると思います。
何しろ単細胞なもので。(笑)

御意。(笑)

お礼日時:2022/01/11 13:13

#60です。



>言語過程説に基づく批判であることが全く理解できておらんのじゃ!

とりあえず、p110~114 読んでみます。
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この回答へのお礼

まずは、言語過程説とは何かを理解し、時枝の提起の意義と限界を理解することが重要です。

この点を理解せずにが我田引水の迷妄を吹聴してはいけません。■

お礼日時:2022/01/10 21:11

#59です。



>何がどう違うと言うのじゃ!!!

それほど難しいことを言ってるわけではないのですが。

「ライオンしか肉を食べない」で話者が(まず前提として最初に)認識するのは「ライオン以外のすべて」ではないか、ということ。
なので、言語過程説に準拠するなら最初に対象として認識されるのは「ライオン以外のすべて」になるのではないか、と申し上げた次第。
そこに「しか」の意義もあるわけでしょう。
ライオンを認識するのは、「ライオンは肉を食べる」や「ライオンだけ肉を食べる」の場合じゃないですかね。

因みに、ただ難しそうな用語を並べれば良いというものではなく、現在の論点に占めるその用語の意味(意図)をきちんと述べた上で使わないと議論が嚙み合わなくなります。
噛み合わなくするために使うわけではないですよね?
川島氏に倣って、そのあたりにも若干の留意を払っていただければ助かります。
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この回答へのお礼

>>(まず前提として最初に)認識するのは「ライオン以外のすべて」ではないか、ということ。

ライオンの認識なしに、いきなり「ライオン以外のすべて」などという無限定な認識が最初に生まれる訳がなかろう!!!

>>「ライオンしか肉を食べない」で話者が(まず前提として最初に)認識するのは「ライオン以外のすべて」ではないか、ということ。

だから、誤りだということ。

>>言語過程説に準拠するなら

君はいつも怪しげな用語を乱発するが、準拠とは一体なんなのじゃ!
言語過程説とは何かが全く理解できていない君がつべこべ言っても戯れ事にしかならんのじゃ!

>>ライオンを認識するのは、「ライオンは肉を食べる」や「ライオンだけ肉を食べる」の場合じゃないですかね。

?????

>>ただ難しそうな用語を並べれば良いというものではなく、現在の論点に占めるその用語の意味(意図)をきちんと述べた上で使わないと議論が嚙み合わなくなります。

日本語かい?
もう少し、論理的な思考をしなさい!!

>>噛み合わなくするために使うわけではないですよね?

曖昧な比喩や誤解を正すために本質的な論理を明らかにしたいということじゃ!!

>>川島氏に倣って、そのあたりにも若干の留意を払っていただければ助かります。

残念ながら、先にも指摘の通り我田引水の恣意的な誤解を招く半面があるということじゃ!

まず、基本的なパラダイムを共有していないとそうなりがちなのじゃ!!

お礼日時:2022/01/10 21:45

#58です。



>では、どこから、どうやって、何を判断するのかね????

ですから、個別の文脈、つまりシチュエーション次第で判断するしかないだろう、と申し上げていますが。

>それ(係助詞)以外に何だというのですか???

川島氏は以下のように言って、町田氏を批判しています。

※ 「ライオンは肉を食べる」という表現は、明らかにライオンという対象の普遍性をとりあげたところの表現である。町田氏は、自らの理論の論理的強制から、この「ライオン」も文の先頭にきて「は」がついており、「主題」であるから、これも「特定のモノ」を表現したものであるという。そしてその根拠は、この「ライオン」は、「トラ」でも「ゾウ」でもない、「ライオンという種類」というある特定の種類の動物だからである、というのである。※

この点にはまったく同意できます。
ただ、

「兎は草を食べる。ライオンは肉を食べる」

という文の場合は違うのではないか、というのが私の川島氏に対する批判内容です。つまり、この文の場合は、

「兎」ではない「ライオンという種類」というある特定の種類の動物という意図で使われている意味で特殊性と捉えるべきであり副助詞になるのではないか、と申し上げたわけです。
ここに普遍性を求めるのは無理があるような印象は受けますね。
ま、このあたりは感覚の相違ということになるのかもしれませんが。
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この回答へのお礼

>>個別の文脈、つまりシチュエーション次第で判断するしかないだろう、と申し上げていますが。

君は不毛だと判断を放棄しているではないか???

>>この点にはまったく同意できます。

其の安易な同意が誤りです。主題という意味不明な概念を持ち出している点が批判されなければなりません。

兎、ライオンの普遍性の側面を捉えているということで、三浦は、

我々は対象を概念としてとらえて言語で表現するとはいうものの、その概念がまず個別的概念か、特殊的概念か、普遍的概念かに区別できるし、これらの概念の自己自身による規定作用としての判断も、個別的判断か、特殊的判断か、普遍的判断かに区別することができる。そして、これらの判断は、当然に肯定判断や否定判断と認識構造においてむすびついているものと見なければならない。宣長は直感的に、【てにをは】における係と結とのつながりをとらえたのだが、この表現構造における現象の背後にはいろいろな判断のからみ合いという認識構造がかくれていたのである。用言そのものが「力を持つ」わけでもなければ、係助詞そのものが支配する」わけでもない。

と概念と判断の立体的な絡み合いを指摘しているのじゃ。川島論考は当然この理解を背景にして論じているが、君の単細胞的な発想ではとても理解が及ばないということに過ぎんのじゃ!

この辺が先に指摘した、ヘーゲルの概念論が展開していることなのじゃ!

一度、『大論理学』の概念論を覗いてみなさい。■

お礼日時:2022/01/10 21:44
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