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当か否か。 どうでしょう?

A 回答 (158件中21~30件)

ムカリンさん。



ブラジュロンヌさんは、お望みならばと云って、閉めるかも知れませんよ。
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質問者さんへ


この不毛な受け答えを終了させる条件それは
「ムカリンが存在している世界においては普遍神を含め如何なる神も完全に存在しない」と
返答する事です
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この回答へのお礼

未知数を x とおくかのように――ただし神は 未知ではなく《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》である《非知》なのですが―― 神を X なら X として 代理するシルシでまづ――想定じょう――しめせばよいのです。


そして 属性をまで――《真理》なり《愛》なり《全知全能》なりといった属性をまで――示すこともおこなわれますが 《かみ》やそれに相応する各言語の言葉はそれらも シルシだと言えます。その発音も文字もみな シルシなのです。

シルシで代理させたあと 《人知を超えたもの》を人知でどれだけ明らかにしてせまれるか。それが 哲学(このばあい 形而上学)の腕の見せ所です。




人知を超えたところのナゾは この経験世界としての相対性を超えており つまりは絶対性であるとまづ明らかにできます。あるいは 無限。

しかも絶対性というのは その相対世界を言わば包み込むと推し測られるのです。無限は 有限を難なくみづからの内におさめ得ます。

端的に言って 神は 人間なるわれを 覆っている。あるいは 突き抜けている。あるいは つねに・どこでも――言わば霊性(つまり ナゾ)として――われに・なれに・かれにやどっているとその推測は 伸びます。――論理的な瑕疵はありません。神は そのような可能性をまちがいなく持ちます。


ゆえに 人知を超えた神が 人知(感性の原野ないし思考の緑野)にあたかもハタラキカケて そのチカラや存在をおしえてくれる・・・かも知れないのです。おしえないかも知れないし そもそも神は いくらシルシでしめしたと言っても けっきょく《無い》ということかも知れない。――しかも これら推測したありさまのすべてで 同時に あり得ます。

これが――無限であり絶対性であり―― 認識じょう非知だという所以です。《知り得ないかも知れないが 同時に 知り得るかも知れない》のです。

しかも 《知り得たと思ったことが――それは やはりシルシをとおしてなのだから―― 神そのものであるとは言い難い》し 《知り得ないとさとったと言っても その〈神の不在〉を知り得たことが 神本体なる姿を見せたとも言い難い》。これら両側面は しかも同時に成り立つのです。同時に成り立つのでなくては 神の代理認識ではありません。

――このように神について 人知がせまってゆけるのです。

お礼日時:2020/10/27 12:57

質問者さんへ


この不問な受け答えを続けてるのか?やめるのか?私は貴方に委ねています
ですのでどうするのか?
それは貴方が決めてください
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この回答へのお礼

未知数を x とおくかのように――ただし神は 未知ではなく《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》である《非知》なのですが―― 神を X なら X として 代理するシルシでまづ――想定じょう――しめせばよいのです。


そして 属性をまで――《真理》なり《愛》なり《全知全能》なりといった属性をまで――示すこともおこなわれますが 《かみ》やそれに相応する各言語の言葉はそれらも シルシだと言えます。その発音も文字もみな シルシなのです。

シルシで代理させたあと 《人知を超えたもの》を人知でどれだけ明らかにしてせまれるか。それが 哲学(このばあい 形而上学)の腕の見せ所です。




人知を超えたところのナゾは この経験世界としての相対性を超えており つまりは絶対性であるとまづ明らかにできます。あるいは 無限。

しかも絶対性というのは その相対世界を言わば包み込むと推し測られるのです。無限は 有限を難なくみづからの内におさめ得ます。

端的に言って 神は 人間なるわれを 覆っている。あるいは 突き抜けている。あるいは つねに・どこでも――言わば霊性(つまり ナゾ)として――われに・なれに・かれにやどっているとその推測は 伸びます。――論理的な瑕疵はありません。神は そのような可能性をまちがいなく持ちます。


ゆえに 人知を超えた神が 人知(感性の原野ないし思考の緑野)にあたかもハタラキカケて そのチカラや存在をおしえてくれる・・・かも知れないのです。おしえないかも知れないし そもそも神は いくらシルシでしめしたと言っても けっきょく《無い》ということかも知れない。――しかも これら推測したありさまのすべてで 同時に あり得ます。

これが――無限であり絶対性であり―― 認識じょう非知だという所以です。《知り得ないかも知れないが 同時に 知り得るかも知れない》のです。

しかも 《知り得たと思ったことが――それは やはりシルシをとおしてなのだから―― 神そのものであるとは言い難い》し 《知り得ないとさとったと言っても その〈神の不在〉を知り得たことが 神本体なる姿を見せたとも言い難い》。これら両側面は しかも同時に成り立つのです。同時に成り立つのでなくては 神の代理認識ではありません。

――このように神について 人知がせまってゆけるのです。

お礼日時:2020/10/27 12:57

ホント君は他人の迷惑考えない自己中な人だね


自己愛性人格障害者なら仕方が無いか
まぁそれはともかく普遍神を含め如何なる神も存在していない私が存在している世界において君の神論なんて廃棄物に変わりがないからね
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この回答へのお礼

未知数を x とおくかのように――ただし神は 未知ではなく《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》である《非知》なのですが―― 神を X なら X として 代理するシルシでまづ――想定じょう――しめせばよいのです。


そして 属性をまで――《真理》なり《愛》なり《全知全能》なりといった属性をまで――示すこともおこなわれますが 《かみ》やそれに相応する各言語の言葉はそれらも シルシだと言えます。その発音も文字もみな シルシなのです。

シルシで代理させたあと 《人知を超えたもの》を人知でどれだけ明らかにしてせまれるか。それが 哲学(このばあい 形而上学)の腕の見せ所です。




人知を超えたところのナゾは この経験世界としての相対性を超えており つまりは絶対性であるとまづ明らかにできます。あるいは 無限。

しかも絶対性というのは その相対世界を言わば包み込むと推し測られるのです。無限は 有限を難なくみづからの内におさめ得ます。

端的に言って 神は 人間なるわれを 覆っている。あるいは 突き抜けている。あるいは つねに・どこでも――言わば霊性(つまり ナゾ)として――われに・なれに・かれにやどっているとその推測は 伸びます。――論理的な瑕疵はありません。神は そのような可能性をまちがいなく持ちます。


ゆえに 人知を超えた神が 人知(感性の原野ないし思考の緑野)にあたかもハタラキカケて そのチカラや存在をおしえてくれる・・・かも知れないのです。おしえないかも知れないし そもそも神は いくらシルシでしめしたと言っても けっきょく《無い》ということかも知れない。――しかも これら推測したありさまのすべてで 同時に あり得ます。

これが――無限であり絶対性であり―― 認識じょう非知だという所以です。《知り得ないかも知れないが 同時に 知り得るかも知れない》のです。

しかも 《知り得たと思ったことが――それは やはりシルシをとおしてなのだから―― 神そのものであるとは言い難い》し 《知り得ないとさとったと言っても その〈神の不在〉を知り得たことが 神本体なる姿を見せたとも言い難い》。これら両側面は しかも同時に成り立つのです。同時に成り立つのでなくては 神の代理認識ではありません。

――このように神について 人知がせまってゆけるのです。

お礼日時:2020/10/27 12:57

ホント君は他人の迷惑考えない自己中な人だね


自己愛性人格障害者なら仕方が無いか
まぁそれはともかく普遍神を含め如何なる神も存在していない私が存在している世界において君の神論なんて廃棄物に変わりがないからね
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この回答へのお礼

未知数を x とおくかのように――ただし神は 未知ではなく《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》である《非知》なのですが―― 神を X なら X として 代理するシルシでまづ――想定じょう――しめせばよいのです。


そして 属性をまで――《真理》なり《愛》なり《全知全能》なりといった属性をまで――示すこともおこなわれますが 《かみ》やそれに相応する各言語の言葉はそれらも シルシだと言えます。その発音も文字もみな シルシなのです。

シルシで代理させたあと 《人知を超えたもの》を人知でどれだけ明らかにしてせまれるか。それが 哲学(このばあい 形而上学)の腕の見せ所です。




人知を超えたところのナゾは この経験世界としての相対性を超えており つまりは絶対性であるとまづ明らかにできます。あるいは 無限。

しかも絶対性というのは その相対世界を言わば包み込むと推し測られるのです。無限は 有限を難なくみづからの内におさめ得ます。

端的に言って 神は 人間なるわれを 覆っている。あるいは 突き抜けている。あるいは つねに・どこでも――言わば霊性(つまり ナゾ)として――われに・なれに・かれにやどっているとその推測は 伸びます。――論理的な瑕疵はありません。神は そのような可能性をまちがいなく持ちます。


ゆえに 人知を超えた神が 人知(感性の原野ないし思考の緑野)にあたかもハタラキカケて そのチカラや存在をおしえてくれる・・・かも知れないのです。おしえないかも知れないし そもそも神は いくらシルシでしめしたと言っても けっきょく《無い》ということかも知れない。――しかも これら推測したありさまのすべてで 同時に あり得ます。

これが――無限であり絶対性であり―― 認識じょう非知だという所以です。《知り得ないかも知れないが 同時に 知り得るかも知れない》のです。

しかも 《知り得たと思ったことが――それは やはりシルシをとおしてなのだから―― 神そのものであるとは言い難い》し 《知り得ないとさとったと言っても その〈神の不在〉を知り得たことが 神本体なる姿を見せたとも言い難い》。これら両側面は しかも同時に成り立つのです。同時に成り立つのでなくては 神の代理認識ではありません。

――このように神について 人知がせまってゆけるのです。

お礼日時:2020/10/27 12:56

汽笛さんへ


汽笛さんの仰っていることはごもっとですが私はあえて引かないことにしてるのです
それは質問者さんがこの不毛な受け答えをどこまで続けるきがあるのか?
それに興味があるからです
質問者さんが繰り返してくる限り死ぬまで続けるつもりです
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お二方。

もうここでやめましょう。

先に手を引くのはムカリンさんですよ。
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この回答へのお礼

やっぱ 汽笛さんだ。たのもしい。

お礼日時:2020/10/27 09:52

ホント君は他人の迷惑考えない自己中な人だね


自己愛性人格障害者なら仕方が無いか
まぁそれはともかく普遍神を含め如何なる神も存在していない私が存在している世界において君の神論なんて廃棄物に変わりがないからね
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この回答へのお礼

未知数を x とおくかのように――ただし神は 未知ではなく《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》である《非知》なのですが―― 神を X なら X として 代理するシルシでまづ――想定じょう――しめせばよいのです。


そして 属性をまで――《真理》なり《愛》なり《全知全能》なりといった属性をまで――示すこともおこなわれますが 《かみ》やそれに相応する各言語の言葉はそれらも シルシだと言えます。その発音も文字もみな シルシなのです。

シルシで代理させたあと 《人知を超えたもの》を人知でどれだけ明らかにしてせまれるか。それが 哲学(このばあい 形而上学)の腕の見せ所です。




人知を超えたところのナゾは この経験世界としての相対性を超えており つまりは絶対性であるとまづ明らかにできます。あるいは 無限。

しかも絶対性というのは その相対世界を言わば包み込むと推し測られるのです。無限は 有限を難なくみづからの内におさめ得ます。

端的に言って 神は 人間なるわれを 覆っている。あるいは 突き抜けている。あるいは つねに・どこでも――言わば霊性(つまり ナゾ)として――われに・なれに・かれにやどっているとその推測は 伸びます。――論理的な瑕疵はありません。神は そのような可能性をまちがいなく持ちます。


ゆえに 人知を超えた神が 人知(感性の原野ないし思考の緑野)にあたかもハタラキカケて そのチカラや存在をおしえてくれる・・・かも知れないのです。おしえないかも知れないし そもそも神は いくらシルシでしめしたと言っても けっきょく《無い》ということかも知れない。――しかも これら推測したありさまのすべてで 同時に あり得ます。

これが――無限であり絶対性であり―― 認識じょう非知だという所以です。《知り得ないかも知れないが 同時に 知り得るかも知れない》のです。

しかも 《知り得たと思ったことが――それは やはりシルシをとおしてなのだから―― 神そのものであるとは言い難い》し 《知り得ないとさとったと言っても その〈神の不在〉を知り得たことが 神本体なる姿を見せたとも言い難い》。これら両側面は しかも同時に成り立つのです。同時に成り立つのでなくては 神の代理認識ではありません。

――このように神について 人知がせまってゆけるのです。

お礼日時:2020/10/27 08:10

病気だよきっとね。


専門医の診察受けたら 
とは言え君の神論は普遍神を含め如何なる神も完全に存在しない私の世界では廃棄物でしか無いのは確かだけどね
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この回答へのお礼

未知数を x とおくかのように――ただし神は 未知ではなく《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》である《非知》なのですが―― 神を X なら X として 代理するシルシでまづ――想定じょう――しめせばよいのです。


そして 属性をまで――《真理》なり《愛》なり《全知全能》なりといった属性をまで――示すこともおこなわれますが 《かみ》やそれに相応する各言語の言葉はそれらも シルシだと言えます。その発音も文字もみな シルシなのです。

シルシで代理させたあと 《人知を超えたもの》を人知でどれだけ明らかにしてせまれるか。それが 哲学(このばあい 形而上学)の腕の見せ所です。




人知を超えたところのナゾは この経験世界としての相対性を超えており つまりは絶対性であるとまづ明らかにできます。あるいは 無限。

しかも絶対性というのは その相対世界を言わば包み込むと推し測られるのです。無限は 有限を難なくみづからの内におさめ得ます。

端的に言って 神は 人間なるわれを 覆っている。あるいは 突き抜けている。あるいは つねに・どこでも――言わば霊性(つまり ナゾ)として――われに・なれに・かれにやどっているとその推測は 伸びます。――論理的な瑕疵はありません。神は そのような可能性をまちがいなく持ちます。


ゆえに 人知を超えた神が 人知(感性の原野ないし思考の緑野)にあたかもハタラキカケて そのチカラや存在をおしえてくれる・・・かも知れないのです。おしえないかも知れないし そもそも神は いくらシルシでしめしたと言っても けっきょく《無い》ということかも知れない。――しかも これら推測したありさまのすべてで 同時に あり得ます。

これが――無限であり絶対性であり―― 認識じょう非知だという所以です。《知り得ないかも知れないが 同時に 知り得るかも知れない》のです。

しかも 《知り得たと思ったことが――それは やはりシルシをとおしてなのだから―― 神そのものであるとは言い難い》し 《知り得ないとさとったと言っても その〈神の不在〉を知り得たことが 神本体なる姿を見せたとも言い難い》。これら両側面は しかも同時に成り立つのです。同時に成り立つのでなくては 神の代理認識ではありません。

――このように神について 人知がせまってゆけるのです。

お礼日時:2020/10/26 22:07

ホント君は異常だよ。

専門医の診察を受けるようお勧めしますよ
君がどうするかなんて私には関係ないけどね
どのみち私が存在している普遍神を含め如何なる神も完全に存在していない世界において君の神論なんて全く役に立たないからね
私にとっても同様だからね
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この回答へのお礼

未知数を x とおくかのように――ただし神は 未知ではなく《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》である《非知》なのですが―― 神を X なら X として 代理するシルシでまづ――想定じょう――しめせばよいのです。


そして 属性をまで――《真理》なり《愛》なり《全知全能》なりといった属性をまで――示すこともおこなわれますが 《かみ》やそれに相応する各言語の言葉はそれらも シルシだと言えます。その発音も文字もみな シルシなのです。

シルシで代理させたあと 《人知を超えたもの》を人知でどれだけ明らかにしてせまれるか。それが 哲学(このばあい 形而上学)の腕の見せ所です。




人知を超えたところのナゾは この経験世界としての相対性を超えており つまりは絶対性であるとまづ明らかにできます。あるいは 無限。

しかも絶対性というのは その相対世界を言わば包み込むと推し測られるのです。無限は 有限を難なくみづからの内におさめ得ます。

端的に言って 神は 人間なるわれを 覆っている。あるいは 突き抜けている。あるいは つねに・どこでも――言わば霊性(つまり ナゾ)として――われに・なれに・かれにやどっているとその推測は 伸びます。――論理的な瑕疵はありません。神は そのような可能性をまちがいなく持ちます。


ゆえに 人知を超えた神が 人知(感性の原野ないし思考の緑野)にあたかもハタラキカケて そのチカラや存在をおしえてくれる・・・かも知れないのです。おしえないかも知れないし そもそも神は いくらシルシでしめしたと言っても けっきょく《無い》ということかも知れない。――しかも これら推測したありさまのすべてで 同時に あり得ます。

これが――無限であり絶対性であり―― 認識じょう非知だという所以です。《知り得ないかも知れないが 同時に 知り得るかも知れない》のです。

しかも 《知り得たと思ったことが――それは やはりシルシをとおしてなのだから―― 神そのものであるとは言い難い》し 《知り得ないとさとったと言っても その〈神の不在〉を知り得たことが 神本体なる姿を見せたとも言い難い》。これら両側面は しかも同時に成り立つのです。同時に成り立つのでなくては 神の代理認識ではありません。

――このように神について 人知がせまってゆけるのです。

お礼日時:2020/10/26 21:22
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