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国語で羅生門のレポートを
書かなければいけないのですが

私は芥川龍之介が伝えたかったのは
人間の本質だと思いました

今昔物語集では、盗人としているのを
芥川龍之介は下人としていて、死ぬか生きるかの2つの選択で迷っていて、良心と利己心の入り交じったことで、人間の本質が見えてくると思ったのと(実際はもう少し詳しく)


なにか他にありますか、?

あと約300字書かなければ行けません

上手く自分の中で整理がつきません、、

お願いします!力を貸してください、、

A 回答 (9件)

黒澤明が監督した映画「羅生門」(1950)について少し述べたら300字なんてすぐ超えるでしょう。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E7%94%9F …
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なにか他にありますか、?


 ↑
道徳でしょうね。

悪って何よ?

作者は答えを出していません。

それは読者が考えろ、ということです。
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貴方の、死ぬか生きるかで迷った事を、


書けば良いと思いますッ!
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『羅生門では人間の本質を描いている』なんて書いては駄目です。

古代ギリシア悲劇やシェークスピアや芥川など、優れた小説ならば、どんな小説であっても人間の本質を描いているのです。

それでは『羅生門』では何を描いているのか?
下人が老婆と出会う事で、どう変わったのか?
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あなたが質問文で書いていることは、芥川龍之介だから…ではなく、「説話と小説の違い」だと思います。


今昔物語集は「説話」で、「羅生門」は近代小説。そもそもが文学のジャンルとして、性格が全然違うのです。
近代小説はすべて「人間」を描こうとしていますから、芥川が伝えたかったのは人間の本質である、という結論は、当たり前すぎることであり、近代小説の性格を述べたに過ぎません。
もちろん、今昔物語集という古い説話を題材に、それをどのように近代小説に改編したかという芥川の創作姿勢については考察の価値がありますが、説話を小説にするというのは「人間を描く」ためであり、むしろレポートで考察するべきは「芥川は人間の本質を描くために、説話の何をどのように改編したのか」ということじゃないでしょうか。
まあ、高校の国語のレポートなら、そういう「近代小説の性格」に気づくというレベルまででも良いのかもしれませんが。
そういう方向に持っていくならば、今昔物語集と「羅生門」での設定および描写の違いを徹底的に分析して、「芥川が人間の本質を描くために、設定や描写をどのように改編したか」を論じた方が、書きやすいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

そうなんです!!
その通りなんです!!
私はひとつ違いを述べたのですが
もうひとつ違いありますかね?
結論が人間の本質を伝えようとしているような違いがもうひとつほしいです

お礼日時:2021/05/03 09:56

最後の老婆とのやりとりに自分の感想を書き入れましょう

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芥川龍之介さんが言いたいことがあったら、直接言うでしょう?



直接言わずに「小説」にしているのは、芥川龍之介さんが自分の言いたいことを説明したいのではなく、それを読んだ読者がひとりひとり自分で考えてもらいたいからでしょう。
「自分と同じ考えを持ってくれ」といいたいのではなく、「読者それぞれが、自分だったらどうかと考えてくれ」ということでしょう。

文学にせよ音楽にせよ美術にせよ、「芸術」とはそのようなものです。
「みんなが同じように受け取る、感じる」必要などないのです。それぞれが違って構わないのです。
「あなたはどう受け取りましたか? 何を考えましたか?」を正直に書きましょう。他人の手を借りては意味がありません。
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No.5です。

お礼コメントを読みました。

>私はひとつ違いを述べたのですが
>もうひとつ違いありますかね?
>結論が人間の本質を伝えようとしているような違いがもうひとつほしいです

あなたが述べたひとつの違いって、「今昔物語集では、盗人としているのを
芥川龍之介は下人としていて」という点ですか?
他にもいっぱいあるでしょう?
作品を読むときに、「芥川は人間の本質を伝えようとしている」という結論ありきで違いを探してはいけません。先入観で失敗します。今昔物語集と「羅生門」の違いを、中立的な目で、徹底的に書き出してください。箇条書きで良いです。
それらを全部眺めてみて、「なぜ芥川はこのように改変したのか」を考えるのです。
仮に「人間の本質を描こうとした」のだとしても、「どんな本質」を「どのように」描こうとしたのかが、見えてくるはずです。

小説で描かれる「人間の本質」と言っても、いろいろあるんですよ。そういう、抽象的できれいなうわべの言葉でまとめようとするから、レポートで行き詰まるんです。
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特に注目したいのは「勇気」という感情です。


どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない。選んでいれば、築土の下か、道ばたの土の上で、饑死をするばかりである。

(中略)

下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来るべき「盗人になるよりほかに仕方がない」という事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
次に下人の感情が大きく動くのは、老婆の行為を目撃した場面です。
その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。

――いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。
この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、饑死をするか盗人になるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。

それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のように、勢いよく燃え上り出していたのである。
確かに死体の毛を抜くのは悪かもしれないが、ここにいる死体はそれくらいのことをされて当然の者たちだ。

例えば、この死体の女は生前、蛇を魚だと偽って売っていた。

嘘をついて売らなければ飢え死にしてしまうから、女のしたことを悪いとは思わない。

同じように自分が死体の髪を抜きカツラを作るのも生きていくためだから、悪くはない。
「飢え死になんて絶対にしない。この老婆のように俺も奪えばいいんだ。」

そうして、老婆から着物を奪い、闇に消えていくのです。

芥川龍之介の羅生門は、ドストエフスキーの罪と罰に似ています。
金貸しの老婆を殺して、金を奪い取って行く主人公の心の葛藤と同じと思い
ます。
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