「平成」を感じるもの

警告: 長文が嫌いな方は、最初から読まないでください。

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昔からずっと、日本でも外国でも同じことなのかもしれませんが、(外国語で盛んにしゃべったり書いたりした経験が浅いので、外国語のことはさておき)たとえば日本語を母国語としている人たち同士でも、日本語が通じなくなっていると感じませんか?ただ昔はネットがなかったので、赤の他人同士で気楽に話をしたり物を書いて発表することが少なく、出会ったこともないたくさんの人の前で発言するときには、よほど普段から本をたくさん読んでいて日本語の達者な人だけが物を言ったり書いたりしていたように思います。

したがって、公衆の面前で物を言ったり書いたりする人は、自(おの)ずから日本語の比較的上手な人だけが話したり書いたりするのが主流だったと思います。あまり日本語ができない日本人が何か言いたいときには、「おい、お前の方がしゃべるの(書くの)うまいから、俺の言いたいことを代わりに言ってくれ」と依頼する場面も多かったと思います。そもそもそういう人は黙っていれば、日本語の上手な人が周囲の雰囲気を察して、自然に、日本語のあまり上手でない人は無言のままでいることが多かったです。

しかしネット社会の到来とともに、状況は一変しました。これが民主主義の極致なんだという肯定的な見方もできるでしょうけど、日本語を母国語とする者同士でも、話が通じにくくて、正直を言って気持ちが悪くて堪りません。

人間同士で心が通じ合わないだけでなく、言葉さえ通じなくなっているのです。日本語に限っても、無数の言葉が互いに通じなくなっています。わかりやすい例を挙げるために、単純な例を挙げます。

(1) 号泣:
「号」は「大声を出す」という意味なので、「怒号を張り上げる」などという迫力のある言葉があるので、自然と「号泣する」と言えば大声で泣き喚く情景を思い起こすのがかつての日本人の普通の感覚だったと思いますが、今ではネット上で「映画館で映画を見てたくさんの人が号泣し」とか「街頭ピアノ演奏を聴いて、通りがかりの人たちが号泣」なんていう言葉遣いがまかり通っています。そういう台詞の書いてある YouTube 動画を見ていると、誰も大声で泣き叫んだりはしていません。あくまで涙を流しているだけです。現代のたくさんの人たちが、単に涙を流しているだけのときでも、こぞって「号泣」という言葉を必ずと言っていいほど使います。

(2) 奇特:
「奇特な人」はもちろん、「滅多に見かけないような立派な人」という意味でみんなが使っていましたが、現代では「変な人」という意味で使う人が増えているそうです。

(3) 衒学的:
「衒学的」とは「自分の知識や教養を無暗にひけらかすような」という意味です。しかし現代では、知識をひけらかしているのかどうかわからないのに、単に高度な知識を土台とした話を誰かがしているだけなのに、いきなり「衒学的」と言ってしまう人がやたらに多いです。その話し手が知識をひけらかしているかどうかは、すぐにはわかりません。「衒学的」というのは、あくまで悪い意味で使う言葉であるはずです。何もかも「あいつは知識をひけらかしている」というふうな非難を込めて「衒学的」と言ってしまうと、世の中の人は、少しでも高度な知識を土台とするような話がまったくできなくなります。どうやらたくさんの人は、「俺はそんなことを知らなかったし、そんな難しいことを知りたくもない。俺が知りたいこと、触れたいことは、楽しいこと、気持ちのいいことだけだ。ややこしい話をすんなよな」という意味合いを込めて、何でもかんでも、自分の知らない分野の話が出てくると、いきなり「衒学的」と片付けてしまっている人が多いように思います。

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以上は、無数の変な用例のごく一部でしかありません。ここまで無数の言葉の使い方が激変してしまって、むしろ意味が反対になってしまうと、私たちはもう意思疎通ができなくなってしまいます。それぞれの言葉の本来の意味に基づいて話をしようとしている人と、そうではなく30年くらい前からの別の(間違った)使い方でその言葉を使っている人との間で、互いに理解し合うことが難しくなっているだけでなく、常に喧嘩に近い状態になることさえよくあります。私などは、常に喧嘩を売られているように感じます。だから私はネット上で話をするのも嫌なのです。変な言葉の使い方で話しかけているように見える人とは、もう話をする気になれず、返事もしないことが増えました。

このあたりについて、皆さんはどう感じておられるでしょうか?言葉の意味が時代と共に激変している他の例を紹介して下さっても結構ですし、ふだん皆さんが感じておられることについて披歴して下さっても結構です。長くなりまして済みません。しかし大事なことでもあると思いますので、出来るだけ詳しく述べたかったので、長文になりました。

現代の人は attention span がどんどん短くなっていき、3行以上の文章さえ読まない、10行以上となると、読む必要もない下らない内容に違いないと断定する人さえ増えてきたので、どうせ私の文章を読もうと思う人と言えば、古い世代で、しかも文章を読みなれている人たちに限られているかもしれませんが、あえてこの長文のまま投稿します。

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A 回答 (8件)

特にネット社会では、最近の誤用や新しい言葉遣いに関しておかしいなどと言うと、「言語は進化して当たり前」「古代語に戻りたいのか」「あなた自身の言葉遣いだって間違っている」などと攻撃されるのが常です。



たしかに自然言語は変化し進化するものですが、新しい言葉遣いの全てが取り入れられてきたわけではありません。長い言語の歴史の中で新しく出てきた言葉は批判されたり嫌われたりもして、それでも力強く残った言葉で現在の日本語が形作られてきました。もし新しい言葉だからといって全て取り入れていたら、今の日本語はなかったでしょう。

新しい言葉遣いへの批判は、望ましい変化とのそうでない変化を区別するフィードバックを与えるということでむしろ進化に寄与しますし、それはこれまでの日本語話者がやってきたことです。ですから良くないと思う言葉は遠慮なく批判しましょう。ひとつひとつの新語や新しい言葉遣いに対し、次の世代の日本語として受け渡すのにふさわしいだろうかという観点で各自が受け入れたり批判したりすればいいと思います。
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この回答へのお礼

納得のいく建設的なご意見をくださいまして、ありがとうございます。

お礼日時:2024/11/16 22:47

うーん。

こういうむずかしい質問になると、どうしても回答も長くなります。
 先日、下記の質問をなさった方ですよね。それなりに時間をかけて書いた回答を「今は情報に溺れてしまって、アップアップしている状態です」と片づけられると、ガッカリしてしまいます。
【「~していただいた」と「~してくださった」】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13948259.html

 今回も非常に長い回答になりそうです。必要に応じてリンクを張るので、適宜ご参照ください。

「号泣」の話は有名な気がします。ネットニュースでは「号泣シーン」が多出します。「涙を浮かべた」ぐらいでも「号泣」になります(笑)。
「奇特」の話も読んだことがある気がします。
「衒学的」の話は初めて見聞しました。情報をありがとうございます。
 実はこういう話はウンザリするほどあります。
 下記は私的なリストです。
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2266. …
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-3099. …
 ちょっと詳しい説明は下記ですか。
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12281405565.html

 こういう話になると、「ことばはかわっていくものだから……」という意見が出てきます。それを否定する気はありませんが、それにしてもこの崩れ方の速度は異常でしょう。
 よく引き合いに出されるのは、「山茶花」と「新しい」だと思います。下記が詳しいようです。
【山茶花は、文字で読むと「さんちゃか」か「さんさか」になるのですが、なぜ、山茶を「さざん」と読むのです】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13926757.html

 たしかに平安時代と現代ではことばの使い方が大きくかわっています。
 ただ、それは非常に長いスパンの間に徐々にかわっていくものでしょう。
 近年の急激な変化の大きな原因のひとつは、ご指摘のとおり「ネット社会の到来」です。
 簡単なことです。
 それまで一般の人が目にする文章のほとんどは、出版されたものでした。知識のある著者が書いたものが、最低でも一人の編集者のチェックを経て世に出ました。ところが現代では、ど素人が書いた文章がなんのチェックもなしに垂れ流されています。これでは文章の品質が落ちるのは当然です。
 たとえ誤用であっても、ちょっと格好いい表現はあっというまに広がります。ことばに関するもっともらしいデマも拡散されます。とても「ことばはかわっていくものだから……」などと悠長に構えてはいられません。
 ただ、どんな対策が考えられるのか、検討もつきません。

 下記は2008年に書いたものです。状況はこのときより確実に悪くなっているでしょうね。
【世に誤用の種は尽きまじ──2】mixi日記2008年08月10日から
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-195.h …

 下記は2012年に書いたものです。当方の考え方は基本的にかわっていません。
【日本語の誤用について】
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12073745070.html
━━━━━━━━━━━引用開始
 インターネット時代の本質は「バカが意見を言うようになった」ことという説があります。
 詳しくは下記をご参照ください。
【『同期の桜―お言葉ですが…8』──バカが意見を言うようになった】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-925.h …
 以下は一部の抜粋(重言)。

================================引用開始
(前略)池田先生によれば、インターネットというのは意見をのべることのできる装置なのであるらしい。これが普及したため、「小谷野敦の表現を借りれば、バカが意見を言うようになったのである」とあります。

 先生の文中「バカ」はたびたび出てくるが、この「バカが意見を言うようになったのである」が一番すごい、と小生感銘した。迫力がある。

 言われてみれば小生も、新聞の投書欄なんか見ていて、「なんでこんなのをのせるのかなあ」とけげんに思うことがよくあるのであるが、「そうか、バカが意見を言うようになっているのか」と、何やら納得したことでありました。(P.28~29)

 こういう意見に同調するのは限りなく自爆に近いとは思いながら、自戒の念を込めて。

 たしかに新聞の投書欄はバカの見本市。「正論」と「説教くさい話」が並んでいるからどうにもならない。新聞以外の雑誌でも、「意見」を言っているものはだいたい話にならない。ギャグとしては嫌いじゃないから、けっこう楽しませてもらってるけど。

 それでも、雑誌や新聞の投書欄は制作者側の配慮があるから抑制がきいているし、量的にも限りがある。ところがインターネットの場合は、野放しのうえにほぼ無制限だからとんでもない。いったいこの闇の中でどれだけの情報がタレ流されているのか怖いものがある。一応ある程度の制御装置を備えているSNSなんかでも、相当バカな情報がタレ流されている。ブログや個人のウェブサイトに至っては、書いたもん勝ちだもんな。当方の乏しい知識の範囲でも、「それはいくらなんでも……」ってことが多々ある。間違いを指摘されて素直に認める人間はまだマシ(このあたりを逃げ口上にしておこうか)。バカが逆ギレして言い争いが始まると、際限のない泥沼状態になる。バカや勘違い野郎はどこまでも増殖&増長していく。防ぐ方策は……ないだろうな。
================================引用終了
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この回答へのお礼

>>時間をかけて書いた回答を「今は情報に溺れてしまって、アップアップしている状態です」と片づけられると、ガッカリ

大変、失礼いたしました。決して簡単に片づけるつもりはございませんでしたが、博覧強記のみなさん(特に tobi さんご自身)に圧倒され、茫然としてしまっていたのです。

日本語を初めとして言語一般について tobi さんのようにとことん取り組んでおられる方がこのサイトで盛んにコメントを書いておられるので、私としてはいつもよい刺激を受けて、自分がいかに無知であるかを思い知らされております。

お礼日時:2024/11/16 22:46

うん、確かになげーw


で、仰る通り、近年の、特に若者は、3行以上の文章は読めなくなってきていますね
ただ、思えば某巨大掲示板で「今北産業」って表現があったように、
ある意味は「簡潔に説明しろ」ということでもあるような気もします
そりゃあ校長の話を「長い」と思うくらいですから
でも大人になって気付いたんですけど、「意味があるけど言いたいこと」をそのまま言うと、どう短縮させても結局5分10分話しちゃう、
けど当の生徒たちからすれば「いや、興味無いし」っていう齟齬があるように思います
じゃあこれが、仮にイチローとか本田圭佑が喋ってるなら?
有名な芸能人が喋ってるなら?
恐らくいつまでもその話を黙って喜んで聞くでしょう
一方でアナタが違和感を感じるような文章とぶち当たるのは、単純に、劣化した日本人が気軽に発言できるようになっているからじゃないかと思います
20年も前は、所謂受験戦争で、今で云うFランですらも死に物狂い勉強しない合格が難しかったですよね
なので大したことない大学を出ているのに案外教養はあった
でも今は、元女子校が共学化するくらいにどんどん人口が減っている
そこに足しこんで、やはりスマホの普及が一番の原因じゃないですかね
実際、今や若者たちは、LINEが普及し過ぎたせいで句読点があるだけで「冷たい」「怒ってる?」と思うようになっています
もう、意味がわからんw
つまり、アナタが仰る「日本語が通じない」人間が簡単に自分の意見を言えるようになってしまいました
また、仰る通り、言葉そのものも、多数の人が誤用することで逆に一般通用化してしまった言葉もありますよね
剰え、言葉の意味をきちんと理解してなくても大学に合格することができるようになった為に、必然的に全体のレベルがどんどん下がっていくことになります
況や、最早大学を出てないとなるとその質の低さたるや最早火を見るよりも明らかでしょう
蓋し、これらの足し算掛け算の結果がアナタが思うことに繋がっているのではないでしょうか
唯一の対策はそういう人間と極力関わらなないことじゃないかと思います
勿論、仕事などの理由でそういう人間と関わらざるを得ないことはあるでしょうけど、その辺りとどう割り切って付き合っていくか、ですね
あ、そこまで重たい主張でもなかったですか?

ちなみに私はそう古い世代とも思えませんが、仰る通り長文には慣れてます
大学受験ではセンター試験も受けましたし、何なら運転免許以外の国家資格の勉強経験も複数回あります
なので長文を読み慣れてるのかも知れませんし、上記でも少し難しめの表現も一部に心持ち敢えて入れましたが、
一方で私は「先ず要点を捕まえてから」「全体を読み直して補足」という読み方をしてるので長文を読むことが苦ではないのかも知れません
また、アナタと似た意見として、専門用語ですら用語の意味を間違えてる人がこのサイトでも結構見受けられるのはどうかなぁと思います
専門用語を使うんだから意味や定義をわかってると思いきや全然違っていて、なんやねんコイツ… ってのは平常のことです
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この回答へのお礼

詳しくいろんな話をしてくださいまして、ありがとうございます。特に、

>>今や若者たちは、LINEが普及し過ぎたせいで句読点があるだけで「冷たい」「怒ってる?」と思うようになっています

このお話には、びっくりしました。そこまで来てしまっているのですね。

お礼日時:2024/11/16 22:30

最初から最後まで読みました。



さて回答。それが時代の流れ。どうしようもない。気にしても仕方がない。
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この回答へのお礼

どうしようもないことは分かっております。時代の流れだということも承知しております。ただそれでも、その流れの中で、このようなぼやきめいた所感を述べないではいられなかったということです。そして、たとえば60年前にもやはり、同じ世代間でも言葉が通じなくて、その故に心も通じなかったんだろうと思います。時代と共に言葉が変わっていくから言葉も心も通じないだけではなく、そもそも人間と人間とが、たとえ母国語だけで話し合うとしても、大昔から今までずっと、それからこのあと悠久の遠い未来においても、やはり言葉も心も通じないんだろうなと思っています。

お礼日時:2024/11/16 11:41

当方古い世代なので、つい最後まで読ませてもらいましたし、ご投稿の趣旨はよく理解できます。


このサイトでもよくあることですが単語の理解のみを取り上げる方は多いように思います。しかし単語は文の空間の中で初めて意味をなしうる存在ですからそのお嘆きは必ずしも当たるとは限らないのではないでしょうか。
ただ、こんなことは昔からあり、そういう積み重ねの果てに日本語が熟成してきたのだと感じます。
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この回答へのお礼

確かに、それはその通りだと思います。それから、私は分かりやすい例として単語の理解についてのみ指摘したような印象を与えてしまったように思いますが、私はそれだけではなくて、言葉の全体のことを言いたかったのでした。言葉が通じないと感じるのです。そのゆえに、心も通じないのです。

お礼日時:2024/11/16 11:38

初見で多少驚くことはあっても、たいていは文脈で「今はこう言うんだな」「今でも誤用だな」のように判断できるので齟齬についてはあまり気にしませんね。


あいての知性や教育程度、また自分と近い言語体験をしているか、を計る目安にはしますが、誤用しているからバカと決めつけもしませんけど。

私が気になるのは自動詞と他動詞の混同です。
説得させる、なんて言い方があったときに
A.説得するよう指示した
B,誰かに説得された
のAかと思いきやBの場合が実に多い。
納得させられた、との混同なのかどうか。

あと、読みづらいを読みずらいのように書かれると「すらいだて何だ?スライ&ファミリーストーンか」みたいに心の中で突っ込みます。

Web上だとよく見かける「◯◯するなや」「◯◯なのよな」みたいな語尾はどこの方言なんだろう、と多少違和感はあります。私の話し言葉だと「◯◯するなよ」「◯◯なのよね」なので。
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この回答へのお礼

詳しいコメントをありがとうございます。なお、

「◯◯するなや」
これは、大阪市内および大阪府北部において人生の大部分を過ごしてきた私にとっては、日常的に耳にしますし、私自身も意識せずに自然に使ってしまったことが何度もあります。

「◯◯なのよな」
大阪で暮らしてきた私にとっては、「~なんよな」ならよく耳にするような気がします。

お礼日時:2024/11/16 11:36

言葉は変化します。


あなたが何を言っても流れには逆らえませんよ。
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この回答へのお礼

別に逆らおうとは思っていません。ただ違和感を感じているだけです。

お礼日時:2024/11/16 11:31

質問者様の懸念は理解しますが、しかし別に目新しいものではありません。



ネットができる前の1980年代にも同じように「言葉が通じない」という人たちは存在しましたし、明治時代にも江戸時代にも存在しました。

そもそも「言葉」はどんどん変化するのです。
質問者様が「それぞれの言葉の本来の意味に基づいて話をしようとしている」としても、それは「時代のどこかで生まれた新しい言葉」にすぎません。

その極端な例は明治の西洋文明用語を日本語に翻訳し大量の造語を作ったときです。「経済・市民・国家」のような新しい言葉はそれ以前に生まれて日本語を使ってきた人たちからみれば「私たちには通じない言葉」です。

実は、質問者様の文章にもそういう言葉が含まれています。
例えば「大事」
これは元々語源からいえば「仏さまに近づく決心をすること」を意味していました。
例:徒然草59段「大事を思ひ立たん人は、去り難く、心にかゝらん事の本意を遂とげずして、さながら捨つべきなり」

それが700年の時を経て、言葉としては生き残りましたが、意味はだいぶ変わってしまったわけです

「喧嘩」も同じでこちらは元々漢籍が原点で、平安時代には「大声で騒がしくすること」を意味していました。それがいつの間にか対立して口論や殴り合いなどの意味に変わったわけです。



なので、質問者様のようなご主張の方に私が聞いてみたいのは「では、どの時代までさかのぼれば、納得がいくのでしょうか?」です。

現実的には不可能だと思います。私は「言葉は時代時代によって意味がちがっていい」と思っています。どの時代でも年寄と若者は言葉が通じないのが普通です。
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この回答へのお礼

あらゆる時代に同じことが言えたのだ、ということは意識しております。ただ、言葉が通じないがゆえの違和感を述べただけです。

お礼日時:2024/11/16 11:32

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