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共に京都で執筆された枕草紙にも徒然草にも、私には関西弁の味わいが感じられません。
関西弁は室町・江戸時代に成立したのでしょうか?

A 回答 (9件)

そもそも「関西弁」という概念自体が、比較的新しいものです。


江戸時代には、京都や大阪は「上方」(かみがた)と呼ばれ、江戸は政治の中心、上方は文化の中心という位置づけでした。幕府も将軍も江戸ですが、都は京都ですから、あくまでも京都が「上(かみ)」であり、そこの言葉が文化的な中心の立場にあります。
室町時代はもっと明確で、都(京都)の言葉が規範でした。江戸は田舎扱いで、関東(愛知県東部より東は全部「関東」扱い)の言葉は方言扱いです。
だから京都や大阪の言葉を「関西弁」という方言扱いする概念そのものが、室町・江戸時代にはまだありません。
明治時代になって、東京に実質的に首都が移って、東京の中流階級の言葉をベースに「標準語」を決めたために、それ以外の言葉が「方言」となったのです。このときに、かつては「中央語」だった京都や大阪の言葉が「方言」扱いになったのです。

平安時代の「枕草子」や鎌倉時代の「徒然草」の言葉は、現在の京都方言の「遠いご先祖」です。さすがに1000年近い時代の開きがあり、その間に日本語そのものが大きく変化したので、直接繋がっているようには思えないかもしれません。
ですが、例えば古典文法での打消の「ず」は、連体形が「ぬ」であり、やがて連体形の「ぬ」は終止形に使われるようになり、「ぬ」は「ん」と発音されるように成って、現代の西日本で広く使われる形になります。
例、行かず(現代語は「行かない」)→行かぬ→行かん(→「行かへん」などに変化)。
日本語の「古代語」が、現代語に直結する「近代語」に大きく変化したのは、室町末期~江戸初期の頃と言われています。ただし、書き言葉は古い時代の文法で書かれているので、文字で読むだけではそう思えないかもしれません。狂言台本などの口語資料の日本語は、現代の京都方言に近いものを感じられるでしょう。
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この回答へのお礼

早速のご解答ありがとうございます。
<日本語の「古代語」が、現代語に直結する「近代語」に大きく変化したのは、室町末期~江戸初期の頃>なのですね。


気になる点です。
関西だけは近代語として特有の変化・方言(いわゆる関西弁)が生じたのか、不思議です。(標準語対関西弁ととらえることができそうですが?)

お礼日時:2025/03/16 12:25

No.7です。

お礼コメントを読みました。

>、明治期に、江戸時代のほぼ共通語である侍言葉をもとにし、言文一致体運動も働き、文語・口語の融合した近代日本語が制定されました。各地の方言はこの時期で消滅しました。

「各地の方言はこの時期(明治期)に消滅しました。」という認識に、事実誤認があります。関西方言以外の各地方の方言は、現在も存在します。
ただし、東北地方や九州南部のように、特に方言がきついとされている地方の人は、他の地方の人と話すときには意識的に方言を使わず、共通語に近い言葉を使うことが多いかと思います。方言が通じにくいので聞き返されるのがイヤだとか、方言を話すことで田舎者だと思われることがイヤだとか、理由はいろいろでしょう。そんな人でも地元出身者同士だと方言で話します。
たまたま、質問者さんが「関西方言以外の方言を聞いたことがない、だから関西方言以外の方言は消滅した」と思っているだけで、それは勘違いです。
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この回答へのお礼

再三のご回答ありがとうございます。
各地の方言は実質上消滅したと考えてよい、と思います。(私の投稿にはほとんど無関係で、どうでもよいのですが)

お礼日時:2025/03/21 15:17

No.7です。

変換ミスを修正する前に、間違えて投稿してしまいました。訂正します。

(誤)資料が豊富にあってその歴史や変化が終える状態にあり、
(正)資料が豊富にあってその歴史や変化が追える状態にあり、
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この回答へのお礼

ご丁寧にありがとうございます。

お礼日時:2025/03/18 17:18

No.3です。

お礼コメントを読みました。

>関西だけは近代語として特有の変化・方言(いわゆる関西弁)が生じたのか、不思議です。(標準語対関西弁ととらえることができそうですが?)

この考え方そのものが、「関西の言葉は方言だ」という現代の感覚に基づく偏見であり、誤った思い込みです。
近代までは、京都周辺の言葉が「中央語」であり、それが書き言葉における規範でした。日本全国の各地方で、話し言葉では各地域の「方言」を話していても、文字で書くときには(京都周辺の言葉を規範とする)書き言葉で書いていたのです。
したがって、言文一致が行われるようになった近代より以前は、文字で書かれたものは基本的に「京都周辺の言葉」を規範として書かれていたのです。方言で書かれた文字資料は、近代以前はごく限られた資料にしか残っていません。
文字資料で知ることができる、日本語の古代から近現代までの歴史が、ずっと「京都周辺の言葉」なのですから、古代語から近代語への変化は、京都周辺の言葉(質問者さんの言うところの「関西弁」)を対象に考えるしかないのです。
現代の共通語(標準語)の元になっている東京方言(江戸方言)は、江戸時代より前の文字資料がほとんど残っていません。資料がほとんどないので、東京など関東地方の古代語から近現代語までの歴史を十分に知ることができないのです。
京都周辺の言葉(=関西弁の一部)は大昔から中央語だったので資料が豊富にあってその歴史や変化が終える状態にあり、それ以外の方言は資料が残っていないので歴史や変化を知るのが難しいという状況であるものを、質問者さんが「わかるもの」だけに注目して、「関西弁だけが近代語として特有の変化をした」と勘違いしているだけです。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。


今の時点での、私の愚考は次のようです。
文語は変化に対する抵抗量が強く、枕徒然時代の言葉は、共通語とした近代までも維持されてきてきました。
口語の方は、各地で各々発達しました。
ところで、明治期に、江戸時代のほぼ共通語である侍言葉をもとにし、言文一致体運動も働き、文語・口語の融合した近代日本語が制定されました。各地の方言はこの時期で消滅しました。しかし関西系だけでは、文化の中心地だったという自信からか、口語では関西弁が今日まで隆盛を誇っています。
よって、口語の関西弁には枕徒然の言葉は感じられない、のだと思います。一般の日本語は、文語を通して枕徒然に繋がっている、と思います。

ご退屈さまでした。

お礼日時:2025/03/19 17:44

「関西弁」って関西各地の方言を一緒くたにして呼ぶ言葉自体、できたのは昭和に入ってとか最近じゃないのかなぁ



江戸時代は今は隣の市の茨木と高槻は別の国だし。
日本橋と浅草と品川でもそれぞれの方言があったし。
今は同じ東京だけど。
そもそも関西って呼ばなかったでしょ。
せいぜいあって関東人から見ての上方ことばじゃない?

現代でも「そこ右に曲がってまっすぐ行った突き当たり」って文章は読み手のイントネーション次第で標準語にも関西風にもなる。
あなたの定義する「関西弁の味わい」がどんなものかわからないけど、明治時代までは書き言葉と話し言葉は全く別だったから、文章だけでお国風を表現するのは今よりもっと難しいと思います。
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この回答へのお礼

御尤も

お礼日時:2025/03/14 14:15

「関西弁の味わい」云々なんて当たり前の話です。

平安時代の京都ことばを「関西弁」とは言わないでしょう。「関西弁=関西で話されている言葉」と言う意味ではないわけですから。
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この回答へのお礼

御尤も

お礼日時:2025/03/14 14:15

むかし青山繁晴が枕草紙は関西弁で読むとしっくりくる説を唱えてましたよ。

あなたも意識して関西弁で読んで見れば味わいを感じることができるかもしれません
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この回答へのお礼

御尤も

お礼日時:2025/03/14 14:16

関西弁という言葉は存在していません


その土地土地の集落が話す言葉です
枕草子や徒然草は平安時代
執筆された書簡は 御所の女房や貴族がたしなみとして読むものです
御所言葉として書かれています
京都には他に町方言葉として
なにわから来た商人たちが作った中京言葉
田舎の子供のことばなまりをなくすために使われた花街の言葉
田舎の人の農家言葉とわかれます
さきの戦争 応仁の乱で街中が大きく燃えて再興したときから
区分けがはっきりとしたようです
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この回答へのお礼

いつも衒学的

お礼日時:2025/03/13 15:45

関西弁と言っても範囲が広く、厳密にはそれぞれ違います。



大阪弁と京都弁は違います。
奈良平安時代は奈良京都が都、今でいう首都だったので、京都弁はそのころに成立しています。

大阪に人が集まったのは豊臣の大阪城ができたあたりですが、長くは続きません。
その後の江戸時代に商業都市として大阪に人が集まり、現代につながる大阪弁が成立したと思われます。
京都奈良に比べたら大阪弁の歴史は浅いです。

その中にも摂津弁や河内弁などの違いはあって、昭和中期に大阪へ転居した親戚は、テレビの関西芸人の「関西弁」に驚いたといいます。
親戚が住んでいたあたりの大阪弁とは違っていたからです。
「あれは河内弁やろ」と親戚は言っていました。

枕草紙は平安、徒然草は鎌倉初期ですから、現代の大阪弁を含むいわゆる関西弁と違うのは当然です。
現代でも京都弁は大阪弁とはやや違います。
京都人は大阪と一緒に「関西弁」とくくられるのを嫌がる人が多いです。
兵庫あたりの人も、関西弁だけど大阪弁じゃない、といったりします。

他地域でも方言は、地方名で一括りにできないことが多いです。
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この回答へのお礼

早速のご解答ありがとうございました。
<江戸時代に商業都市として大阪に人が集まり、現代につながる大阪弁が成立した>のですね。

お礼日時:2025/03/13 15:44

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